2.宝の持ち腐れ─1
「あぁ、翆湅様よ。お綺麗よねえ、女でも勝てる気がしないもの」
水委の言葉に芙蓉は愕然とする。間違いではない。
確かに芙蓉の目の前を通り過ぎて行ったのは、芙蓉の同僚官吏で今は御史台にいるはずの碧 翆湅だ。
「かっ、宦官なんですか?今の方」
「そうよ、女官でも懸想してる子が多いけど宦官なのよねぇ。残念」
驚きながらも芙蓉の中で納得がいったこともある。高い声も、低い背も、そして花の顔も普通の男では為せないことだったのだ。
西の国では少年の高い歌声を保つために去勢を行うという話を聞いたことがある。
そして彼の甘ったるい香もまた宦官であることを隠すためのものだったのだと気が付く。
その不完全な身体故に排泄をうまく行えない宦官は半里先(300メートル)から臭うと言われるのだ。
宦官が官吏に、そんなことが可能なのだろうか。
宦官はいくら殿上人の近くに仕えようが人間として扱われない場合が多い。それは芙蓉でも知っていることである。
そんな彼らが貴族の蔓延る朝廷に出仕しているというのは妙な話であった。
明らかに高官の息がかかっているとしか思えない。
「翆湅様も槿花と同じで最近龐玉様の教鞭をとってらっしゃるの。宦官長様の推薦なんですって。とっても賢い方なのよ」
「それは……すごい話ですね」
これ以上突っ込むのは野暮だと思ったが、きっと慶朝が気にしているのは彼のことだとすぐに気が付いた。
宦官、もとい翆湅のような美少年を好む高官は多い。彼が誰の指示で動いているのかは分からないがそれを暴くのが芙蓉の役目なのだ。
そんなことを考えているうちに、水委が立ち止まって芙蓉に紹介する。
「さぁ、槿花。ここが龐玉様の住まわれる崑崙宮よ」
崑崙に蓬莱、神仙の住処を模しているあたりここは本当に地上の楽園のような機能を持っているのだろう。
水委が都の近くにいた宦官に話しかけると、中に話を通してくれる。
そうしてからやっと入室が許可されると、龍や花が刻まれた豪奢な椅子に腰かけた少年の前に水委に倣って平伏した。
「顔を上げなさい」
椅子に鎮座する彼こそ慶朝の息子にして時期皇帝である桜 龐玉である。
部屋には宦官が三人と女官が五人、たいそうな大所帯である。
顔を上げてやっと見えた今年十四になるという少年の顔は、慶朝によく似ていた。
つまりはきっと、月英に会った頃の慶朝はこんな風だったのだろうと思った。今は冠もなく髪を流しているがその黄金の姿はまさしく王の素質である。
「水委、君のことは母上から聞いているよ。君は賢いから共に励んでくれたらうれしい」
「ありがとうございます。この度の計らい、恐悦至極にございます」
にこりと、邪気のない笑顔を向けてくるあたりは父親にあまり似ていない。その口ぶりからして水委のことを以前から知っているのだろう。
それにしても女性が学ぶことに対して偏見がない当たり、流石家柄より実力を重視する慶朝の息子である。芙蓉も素直に感心した。
「君が槿花だね。雀藍から女性にしておくにはもったいないほど賢いと聞いている。余のために女官試験を受けてくれたのだろう。ありがとう」
「とんでもないお言葉でございます」
芙蓉がそう言うと龐玉は面白そうに目を細めた。
まずいと直感的に思う。
慶朝が芙蓉に初めて彼が変装していることがバレたときと同じ表情に見えたからだ。
「君に聞けばなんでも解決してくれるというので一つ相談してもいいかな」
「私に分かることであればお答えいたします」
子雀は何をこの少年に吹き込んでいるのだろうと思いながら、なるべく動揺のないように答える。
「今年の俸禄を平均してみると皆上がっているという話を父上から聞いたのだが、女官や宦官に聞くとむしろ下がっているという声が多い。これはどういうことか説明できるか?」
その言葉に女官たちは興味深そうに芙蓉を見つめた。彼女たちも気になっていた話題なのだろう。
芙蓉はいくつかの解を思い浮かべながら、頬をなぞった。
「失礼ながら、二つほどお聞きしてもよろしいですか?」
「良いだろう」
「位の高い、例えば龐玉様のお傍に控える方々は俸禄が上がっているとおっしゃいましたか?」
「いや、同じく下がっていると言っていたな」
なるほど、と芙蓉は頷く。
位の高い人間の俸禄だけが上がっているのならばすぐに理解できるが、そうでないならば芙蓉に想定できる可能性は一つだ。
「ではもう一つ。その計算をする際に,階級を分けていらっしゃいますか?」
「どういうことだ?」
「そうですね、紙と筆を貸していただけますか?」
不思議そうな顔をする龐玉の前に白い紙を貰ってすらすらと図を描き上げていく。
当たり前だがおよそ計算用になるべきではない質の良い紙に驚きながら、芙蓉は図を書いて線を引いた。
「例えば俸禄が銀十五両以上の人間を上、銀十五両未満の人間を下とおいた場合を考えます。上下に分けた場合それぞれの平均はこのようになります。これが昨年の俸禄としますね」
そう言ってから芙蓉はもう一つ、隣に図を描く。
「そしてこちらが今年の俸禄です。皆が下がっているので二番目の階層がずれると、上の人間は減り逆に下の人間は増えます。これを上下それぞれ分けて平均するとむしろ増えているという結果になるのです」
芙蓉がそう言ったところで女官や宦官たちは皆覗き込んでよく分からないという顔をしている。
唯一算術に興味があるらしい水委が熱心に手元の帳面に芙蓉の書いた図を書き留めていた。
龐玉は自分でも紙の上の数字を足し合わせてみて暫くしてからほう、と息を吐きだす。
「……なるほど、本当に君は賢いようだね。明日、確認してみよう。面白い話ができた。今日は下がっていい」
その言葉にほっとして、芙蓉は頭を下げる。どうやら彼の機嫌を損ねることはなかったらしい。
「勿体ないお言葉でございます。では本日はこれにて失礼いたします」
芙蓉と水委の前に大きな扉が閉まり、中の明かりだけが見えるようになってから顔を上げると水委が興奮気味に芙蓉に迫ってきた。
吊った金の目で芙蓉をじろじろと眺めている。
「すごいわ!なんであんなこと知ってるの!」
「よく使われる手なんですよ。まあ、計算間違いかもしれませんし、合っているかはわかりませんが」
その尋常ではない様子に驚いて一歩下がると、彼女は水を得た魚のようにその場で跳ねている。
「だとしてもすごいわよ。ああ、楽しみだわ!早くあなたの授業が受けられたらいいのに!」
そう騒ぐ彼女に、芙蓉は彼もこんな風に意欲的になってくれたらいいのにと密かに溜息を吐いた。
※
彼、芙蓉が水委を見て思い出した青年のことを語るには彼女が女官になるための修行を開始した頃に時を遡らねばならない。
六部長官である礼部尚書付きの副官、礼部侍郎となった鈴扇は実質芙蓉の直属の上司ではなくなった。
そして同時に郎中という役職に付いた芙蓉には一人の直属の部下ができた。
位としては六士、雑事を担当する芙蓉の副官のような存在である。
「ろっ烺 崔星と申します!」
そう、かしこまって芙蓉に挨拶した青年こそが芙蓉の悩みの種であった。
彼は芙蓉と顔を合わせるや顔を赤くして下を向きながら恥ずかしそうに言う。
「きっきっ、莢官吏のことはですね!自分も、貴方様が進士として配属された当初から美しい方がいらっしゃるなと知っていたのですがっ……」
「あの、少し肩の力を抜いてはどうですか?」
「すっ!すいません!」
彼は頭を掻きながら何度も謝罪する。
崔星という青年は桜國の貴族の出身らしく、そして文官である。
文官とはこの国では算術を要さない試験によって職を得た存在で、その官位は四士を超えることはない。その分専門性に長けている者も多く、稀に特例で出世するものもいると聞く。
この制度を考えた人間こそ芙蓉の父親であり、天才官吏の誉れ高い月英なのだ。
しかし崔星は、芙蓉の想像をはるかに超えて仕事ができなかったのである。
書簡の整理を任せると欄を全てずらして記入する、他の官吏に仕事を押し付けられても断れない、挙句の果てには焦って池に祭祀のことを記した書類を落とす。
彼が一歩進むと、五歩も十歩も下がっている気がするのだ。
「すっ、すいません!すいません!」
「しょうがないです、私も手伝いますので本日中に終わらせましょう」
自分がやったほうが早いなと思いながらそれでは彼が伸びないのだと言い聞かせる。
責任感はあるが向上心のない青年なので、非常にやりにくいのだ。
しかし、芙蓉も彼の上司をしていて気が付いたことがある。
どんなに汚しても、落としても、失くしても、彼の手元には翌日全く同じ書簡が帰ってきているのだ。
彼が写しをあらかじめ用意しているのかと思ったが違う。
そんなものは彼に必要がないのだと気が付いたのはその不思議な現象を目撃して三日目であった。
「……烺官吏、あなたこれ全部覚えているんですね」
芙蓉が指摘したとき、彼はこの世の終わりのような顔で彼女の顔を見返した。
礼部の隅の、埃がかぶった彼の机まで書類を確認しに来るものはいないから誰も知らないのだろう。
彼の手元にある書きかけの、前任者の細かい書き込みまで再現された書類はもはや不気味だ。
それを取り上げて見るとやはり昨日見た書類のままだ。
芙蓉の記憶力がいくら良いとはいえ、これほどまで子細な祭祀の記録を書き起こすことは出来ない。
これは記憶力がいいという次元ではない。もはやそういう能力だ。
書き違えた書類も妙にきれいにずらしていると思ったらこういうことだからなのだろう。
見なくても写せるから、一度間違えるとそのまま進んでしまうのだ。
崔星は周りに誰もいないことを確認してから、芙蓉に懇願するように地に頭をつけた。
「こっ、このことは見なかったことにしてください!」
「……なぜですか?」
その反応はおよそ芙蓉が想像していたものとは違い、思わず驚いて尋ねる。
これは彼にとって武器だ。きっとどんなことにも応用することができるだろうと芙蓉は思った。
しかし彼の主張は違うのである。
「……自分は覚えることしかできないんです。父は自分を官吏にしたかったのに、算術がさっぱりで文官にしかなれなかったんです」
それを聞いた芙蓉は彼の生い立ちをすぐに理解した。
国試で出題される算術は暗記だけでは解くことが出来ない。きっと父の期待通りにいかない、出来の悪い息子だという札を貼られたのだろう。
さらに、全て覚えているということは失敗経験もすべて瞬時に思い出せるということだ。
彼が仕事に対しても人間に対しても意欲的でないのはこういう理由があったのだ。
彼は期待されることを何より恐れている。
「けれど、この才能があれば何にだって応用が利くはずです」
芙蓉がなおも食い下がると彼は周りを気にしながら年下の芙蓉に怯えるように言う。
「ああ……莢官吏、それは才能を持つものだけが言える言葉です。剣術では左利きの子供は早いうちに右利きに直されるでしょう。それと同じように学徒は皆覚えることと学ぶことの違いに気付くんです。自分は気付いてもそれが直せなかった、淘汰されるべき人間なんです」
「けれどっ……!」
「こっ、この話は終わりにしましょう」
芙蓉が何かを言う前に、彼は強引にその言葉を遮った。
震える彼を見ていると、芙蓉ももう何も言えなくなっていた。
その日はその話題には触れないままに過ごしたが、やはり気がかりで子雀にこのことを相談した。
鈴扇に相談するのは告げ口のようで気が引けたのだ。
すると、子雀は驚きもせずにそれが普通だろうと言った。
「芙蓉、もし腕が三本あったらどうする?目が三つあったらどうする?胸を張って自慢できるか?」
私なら、と言ってから芙蓉は考えた。
自分ならもう一本の腕も目も使えると思う。そういう自信がある。
けれど、能力のないままにぶら下がった三本目の腕を他人がどう見るかまでは想像できていなかった。
彼は好奇の目に晒されることを何よりも恐れている。
芙蓉が言葉を切ったのが分かった子雀は手を止めて言う。
「普通の人間は切り落とすか潰すんだ」
その言葉は無情にも真実を突き付けていた。
思わず黙って下を向く芙蓉に子雀は辛そうな顔をした。
彼だって芙蓉や月英の、才能を持っている人間の傲慢を理解しているのであろう。
「もしそれを認めてくれる人間がいれば、きっとそいつも新しい道を開ける。だけどその道を、他人が開こうとするのは傲慢だ」
子雀が言うことも理解できる。けれど、芙蓉にはやはり勿体ないという気持ちの方が強い。
どうやったら彼の能力をうまく使うことが出来るのか、これが芙蓉の最近のもっぱらの悩みの種であった。
※
芙蓉が悩んでいてもいなくても、仕事は毎日彼女を追ってくる。
今日も終業後に訪れた崑崙宮には龐玉が水委と話しながら彼女を待っていた。昨日も思ったことだが、水委とは仲が良いらしい。
勉強用になのか金の髪を後ろで一つに束ねた龐玉は昨日より凛々しい少年に見えた。
彼は芙蓉を見つけると、嬉しそうに昨日の問いの答え合わせをし始める。
「俸禄の件だが、官吏たちに問いただすとどうして知っているのかと驚いていた。余の疑問を解決してくれてありがとう。父上にも報告しておいたよ」
最後の一言はあまり嬉しくないが芙蓉は一応恭しく感謝を述べた。
慶朝を喜ばせることは彼の好奇心を刺激するようで怖いのだ。
「今日は余の友も招いたんだ。入っていい、白燐」
龐玉は立ち上がると、人を呼ぶ。
その言葉とともに入ってきたのは天女のような美少女だった。
白銀の羽衣を纏ったような光り輝く銀糸の髪、こちらを見つめる銀灰色の瞳を囲う睫毛は日を浴びた雪のように煌めいている。
思わず口が開きそうになって堪えると、周りの女官たちも溜息を吐いている。
名前など聞かなくても、彼女が蓮家の少女であることはすぐに分かった。彼女たちはそういう、人に有無を言わせなくする魅力を持つのだ。
龐玉と並んだ姿はまさに金と銀の絵巻物のようである。
「こんにちは、槿花様。蓮 白燐と申します」
鈴が転がるような声はしかし凛とした強さも持っている。
彼女がただ贅を尽くしにこの宮に入るわけではないということが十分に分かった。
「白燐は余の友人で、賢い女官がいると言ったら興味があると言ったので呼んだんだ」
笑いあう二人は夫婦となるという話だったが、気安い友人のようだ。
「初めまして白燐様、槿花と申します」
そう言うと、白燐は槿花と反芻するように口に出す。
「そう、あなた姓は何と言いますの?」
「莢と申します」
後宮に来てからというもの聞かれたことのなかった問いに戸惑いながら答えると彼女は目を細める。
「あら、草の字が使われているの。珍しいわ」
「えっ、ええ……まぁ」
ぎくりとする。確かに六大家及び薺家に関係のある人間はその苗字に草花に関係のある文字を持つことが多いのだ。汀眞の生家である蔦家がその良い例である。
白燐の表情を見ると彼女の目は細められているだけで笑っていない。
思えば彼らにとって芙蓉の持つ黒色の髪は不吉そのものだ。龐玉の隣に立つ女として芙蓉を見極めようとしているのだろう。
同じ女性でも隣で好奇心で猫のように目を輝かせる水委とは対照的である。
「よろしくお願いいたしますわね、槿花様」
美人の笑顔は怖い。
芙蓉はこれからこの美少女に監視されながらの仕事になるのかと思うと悩みの種が増えるばかりであった。
※
白燐は毎日訪れるわけではない。
三日に一度ほど来ては芙蓉の様子を観察し、自身もその講義を受ける。
白燐が賢い少女なのはその言動で分かるが、才気を見せびらかす気もないらしく静かに話を聞いているのみだ。
今日も彼女の何もかも見透かしたような瞳に怯えながら勤めを終えた芙蓉は水委とともに廊下を歩いていた。一時(2時間)の講義の後はだいたい水委と門で別れて官吏の官舎に向かうのだが、今日は彼女が芙蓉の手を引いた。
「槿花、質問があるの。昨日の講義の途中に言ってたことなんだけどね」
「ここではなんなので部屋を借りましょうか」
「それなら私の部屋に来て!散らかってるけど美味しいお菓子もあるのよ」
そう言う水委に手を引かれて案内されたのは女官たちの官舎の一室であった。後宮に入って長い彼女は狭いが一室を与えられているらしい。
男の部屋ばかり見てきた芙蓉にしてみれば、色とりどりの上衣や髪飾りが転がっている部屋はそれだけで物珍しい。
それ以上に珍しかったのは彼女が壁際に所狭しと並べた帳面の数だ。どうやら手製のものらしく卓の上には製本されていない紙の束が置かれている。
「狭いけどどうぞ!」
「ありがとうございます」
水委はそれらを強引に押しのけてから、芙蓉の前に揚げ菓子を置き、それと並べるようにいくつか帳面を取り出して卓の上に置いた。
椅子は一つしかないらしく彼女は腰かけた芙蓉の方に上体を寄せる。
「それで槿花、ここの部分なんだけどね」
水委は優秀な生徒だ。蘭國で商人相手に教師をしていたが、日常的に数字を扱っている彼らと比べても呑み込みが早い。
そう思いながら水委の帳面を覗き見た芙蓉は思わずぎょっとする。
彼女が授業中に取っていると思っていた帳面には、芙蓉と龐玉、そればかりか白燐の会話さえ全てが所狭しと書き留められていた。
「……あなた、もしかして全て会話を記録しているのですか!?」
「うん、だってこんな面白くて勉強になる話なんてないもの。寝る前に清書しているのよ」
何でもないことのように言っているが恐ろしい能力だ。
芙蓉が見た限りでは帳面上に一言の書き漏らしもない。
ともすれば機密文書にもなりかねない文書である。皇帝の書記官だってここまで詳細には記録していないだろう。
「龐玉様はお許しになっているんですか?」
「誰も気がついていないわ、私にしか分からない文字だもの」
そう言って彼女は今日の分の帳面を取り出す。
そこにはびっしりと、芙蓉の見たことがない文字が並んでいる。
おそらく彼女が作り出した速記用の文字なのだろう。これを毎日清書していれば、確かに彼女の後ろにあれだけの帳面が溜まってもおかしくない。
「これは、立派な発明ですよ」
芙蓉が驚いて言っても、彼女は何でもないような顔をしている。
「発明なんて大それたものじゃないわよ。早く書けるように改良しただけ」
そう言ってから水委は懐かしむように自らが記した文字をなぞる。その指は、懸命に記した文字のせいで黒く汚れている。
「私ね、太学で教鞭を取ってらっしゃる先生の話を聞いたことがあるの。それでね、そこで聞いた話を一言一句漏らさず書いた文を送ったのよ。一言一句よ、これだけは絶対の自信があるわ───!」
彼女の瞳は手燭の火に揺れていた。
「それでも何の返信もなかったわ、だって女は官吏になれないんだもの」
彼女の全てを諦めたような表情に芙蓉は胸を締め付けられるようだった。
きっとその教師も彼女の才覚を見て驚いたはずだ。
ただそれでも、彼女が女性というだけで弟子とすることも官吏として推挙することもできないのだ。
「……あなたならなれます、なれるんです」
思わず彼女の目を見つめて言っても、虚しいだけだ。
「ありがとう、嬉しいわ。けして適わない夢だとしてもね」
そう言って笑う彼女の顔はあまりにも寂しかった。
宝の持ち腐れだ。
彼女の算術に関する問いに答えながら、芙蓉は漠然と思う。
水委も崔星も、その真価を発揮できないままに王宮に埋もれて消えていくしかないのかもしれないと思うとあまりにも勿体ない人材だ。
どうしようもない自分の無力さに、その夜芙蓉はろくに眠れないままに過ごすこととなった。
崔星は汀眞のプロトタイプなのでやっと登場させられて嬉しいです。




