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鴻鵠の娘  作者: 納戸
蘭芷 滫に漸す【桜國編】
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45/50

1.王都へ─1

「綺麗な蓮の花が咲いていても、池には近づいてはだめよ。泥の中に落ちてしまったら、ゆっくり沈んでいってもう二度と元の体には戻れないの」


 蓮家の子供は皆そう教えられて育つ。

 自分たちと同じ名を持つ美しい花を遠巻きにしか見ることを許されない。

 それは白燐も同じであり、親族の中でも飛びぬけて美しかった彼女は余計に蓮に近づくことを許されていなかった。

 後になってそれは傷口に泥が入ると発症する病から子供を守るために大人が作った迷信だと気が付いた。


 幼い頃の白燐(はくりん)の思い出は薔薇色に彩られている。


 蝶よ花よと育てられるのは自分が美しいからだと思っていたし、皇帝に嫁いだ叔母のように美しい人は幸せになれるのだと思っていた。

 銀の皇后と呼ばれる叔母は幸せの象徴のように輝いて見えた。自分の前にもきっと、運命の人が現れるのだと信じていた。


 自分が飾り立てられるのは、蝶よ花よと誉めそやされるのは、皇帝に奉納する玉を磨いているのと大差ないと気付いたのはいつのことだっただろうか。

 祖父も父も無理やり自分を後宮に送るような人間ではないことは知っていたが、それでも運命は変わらない。蓮家の女に生まれるというのはそういうことなのだ。


 あぁ、恋も知らずに死んでいくのだろうか。


 そう思うとたまらなくなって、十三の白燐は夜の池に身を投げた。


 冷たいはずの泥の中は不思議と温かくて、ゆっくり沈んでいくのは存外心地よかった。


「お嬢様!お気を確かに持ってください!」


「……蒼郭(そうかく)


 気がつくと彼女は死にきれず、従者の腕の中に抱き上げられていた。


 彼は何度も自分の体を抱きしめて死んでは駄目だと言って聞かせた。

 幸運にも傷一つなかった白燐は事なきを得たが、自分を抱き上げた彼の腕の中の心地だけは忘れることがなかった。

 彼の腕の中は、泥の中のような心地だと気が付いたときにはもう遅かった。

 ゆっくり沈んでいってもう二度と同じ体には戻れなくなってしまうとは、本当に言い得て妙だ。


 白燐はあの日確かに病にかかってしまったのだ。

 それは恋という、この世で一番美しい病。


 子どもの擦りこみのような拙い恋だと言われても、白燐には最初で最後の恋だった。

 つい先日まで恋も知らずに死ぬのかと思っていたのに、それが時には死に至る病だと気が付いたのは(かか)ってからであった。

 けれど白燐はその幼い初恋を誰にも見えない場所にしまっておくことにした。

 この恋は始まらない代わりに終わることがない。そうすればきっと、王宮の幾重にも連なった城壁の中にあっても時折宝物のようにこの恋を思い出すことができる。

 思い出の中の彼を、誰も白燐から取り上げることはできないのだから。


「白燐、もうじき大きな波がやってきます。そのために覚悟を決めなさい」


 国母である叔母はそう、姪である白燐に文をくれたことがある。

 それが王家に嫁ぐことを意味しているのを白燐は既に理解していた。

 そして嫌な顔一つせず頷いて、一つだけ我が儘を言った。


「わたくしの最後の外遊をお許しくださいませ。王の妃になる女として、この国を見て回りたいのです」


 その言葉に戸惑いはしたが、可哀そうにも思ったのか当主である祖父は泣く泣く許可を下ろしてくれた。

 これは疑似的な彼との逃避行、自分に許された最後の我が儘だ。


 白燐は王都に向かう車の中で蒼郭がくれた簪を弄んでつい数日前まで二人きりだったことを思い出す。

 今だって車の外の馬に彼が乗っているが、ずっと遠くに感じた。

 ありきたりな簪が何より綺麗に見えるのは病が進行しているからだと彼女は知っている。


 あぁ、彼が手を引いてくれる旅のどんなに楽しく、そしてどんなに心躍ったことだろうか。


 きっとその思い出は、白燐をいつだって幸福の中に連れ出してくれる。

 喪失の苦しみも得る喜びもないままに永遠にあり続ける、そんな形の幸福があるということを白燐は知っているから。


「わたくしはこの大陸で一番幸せな花嫁になるのよ」


 その言葉は決意だ。


 さぁ、行こう。

 白燐はこれから幸せになりに行くのだ。



 ※



「芙蓉、お前は女なのか?」


 その問いに芙蓉はしばし固まった後、頬をつねって夢ではないことを確認した。

 やはり夢ではない。

 あの鈴扇が、芙蓉の女装姿を見ても眉一つ動かさなかった鈴扇が、いつ気が付いたというのだろうか。


「い……いつそれに気が付かれたんです……?」


 そう聞くと、鈴扇は急に気まずそうに目線を下に逸らした。


「お前が倒れて運んでいるときに、その……さらしのようなものがはだけて、男にはないものがあったから」


 その言葉に芙蓉は顔を赤くして思わず叫ぶ。


「胸を見たんですか!?」


 その驚き方に焦った鈴扇が思わず芙蓉に駆け寄って口を塞ぐ。

 ここは他の官吏たちも使う寮なのだ。しかも壁はすこぶる薄い。

 芙蓉の身体を気遣ったのか彼女に跪くような姿勢でそうしているので体勢がきつそうだ。


「見てはいない!ただ……」


「……触ったんですね」


 芙蓉が鈴扇の手をどけて今度は静かにそう言うと、鈴扇は気まずそうに頷く。

 自分でもあるかどうか疑うほどのささやかなものなのによく分かったものだと逆に感心した。


「とりあえず座ってください、このままでは話しずらいので」


 鈴扇の手を取って寝台に座らせると彼は申し訳なさそうな視線を向けてきた。

 明らかに芙蓉が頭の中に思い描いていた鈴扇の姿とはかけ離れており、思わずもう一度頬をつねる。

 かつての汀眞のように今すぐに官位を返納しろとでも言われるかと思ったのに、今の鈴扇は芙蓉のことを慈しむように見守っている。


「何故、男装してまで官吏になったんだ?」


 芙蓉が手を放そうとすると彼はなおも芙蓉の手をきつく握った。

 仕方なく、怒られるのと分かっていながら話始める。


「私が官吏を目指したきっかけは驟雨様に勧められたからなのですが。驟雨様に私なら少年として国試を受けられると言われまして」

「……ということは驟雨も知っているということか」

「というか、実は嬰翔様や汀眞殿にもバレています」


 やけに眉を顰める鈴扇に芙蓉は早く吐いてしまおうと言葉を続けた。

 けれど芙蓉の言葉によって、鈴扇の眉間に寄った皺がさらに増えた。


「慶朝様や子雀殿も……?」

「はい、知ってらっしゃいます」

「……本当に私だけが知らなかったというわけか」


 そう言ってしまうと鈴扇は何とも悲しそうな顔をした。それは普段の彼らしくない、一人だけ置き去りにされた子供や犬のような顔である。


「私が迂闊すぎるだけです。それに汀眞殿や子雀さんは職業柄仕方ないですし」

「それにしても気付ける機会は嫌というほどあったというのに」


 それは確かにそうだ。

 鈴扇は芙蓉を蘭國府に連れ帰った時も芙蓉を抱いていたし、本来の女性姿も見ている。

 一度芙蓉を庇って抱き留めただけで気が付いた嬰翔とは大違いだ。

 隣を見るとやはり意気消沈している様子の鈴扇に、芙蓉は恐る恐る尋ねる。


「あの、それで鈴扇様は私を御史台につきだしますか」

「それは……」


 鈴扇は複雑な顔をするが、芙蓉は彼の葛藤を理解している。彼は冷徹官吏と言われるが、仲間内には情の厚い人間で芙蓉を簡単に切ることなどできないと知っている。

 けれど彼は一國の長なのだ。


「あなたが規範に則った人間であることは私も承知しております。もし私への同情でやめるとおっしゃるなら、それは私の本意でもありません」


 そう言うと彼はすぐに違う、と否定する。


「お前に同情などしたことがあるわけないだろう。私はただ自分が情けない。お前が女だと気が付ける場面なら何度もあったはずなのに、お前を庇ってやることができなかった」

「それは、同情じゃないんですか……?」


 訝しむ顔をすると鈴扇は芙蓉の肩を掴んで自分の方へ向ける。


「違う、私はお前を……」


「お前を?」


「お前を失うのが怖いだけなんだ」


 そう言う彼の顔が必死に見えて、芙蓉は勘違いしそうになる。

 それは決して自分が持ってはいけない感情だと蓋をしてきたはずなのに、思わず胸が高鳴ってしまうのだ。


「お前は私と同じ夢を見ようと言ってくれた。嬰翔でも最初は馬鹿にした私の夢を、お前はすんなりと受け入れてくれた。私は知性や知識より、その真っすぐな心根を気に入っている。そんなお前を失うことの怖さを先日思い知ったのだ」


「鈴扇様……」


 鈴扇の深い紫の瞳に、情けなく泣きそうな顔の自分が映っているのを見て芙蓉は思わず逃げ出したくなった。

 彼にこれ以上深入りしてはいけない。

 きっと彼に関われば関わるほど、葵家はその牙を彼に向けるだろう。

 月樺が尋常ではないほど芙蓉に執心であることは分かっていたし、彼が気に入らない人間をどのような方法を使っても排除するということを嫌という程味わったばかりだ。


 そう思っていると彼は思わぬことを言い始める。


「芙蓉、私はお前を王都に連れて行こうかと悩んでいるのだ」


 いきなりの提案に思わず涙も引っ込んだ。


「辞令が出ているのはお二人だけでしょう?」

「侍郎位であればそれくらいの融通はきく」

「そういうものなのですか」


 そういうものだと彼は言うが、鈴扇には有能な官吏であればところかまわず引き抜いてくるという悪癖があったためすぐには信用できなかった。

 このことについては後で嬰翔に確認するべきである。

 鈴扇は芙蓉から目を逸らし、苦しそうに瞳を閉じる。


「しかし、王都に行けばお前を傷つける人間も多くなる。慶朝様に近いということはそれだけお前を望む声を大きくなるし、嫉妬心を抱く者も増えるだろう。子雀殿から、月英殿は有能すぎる故に官吏だったころ他の官吏からひどい仕打ちを受けたという話を聞いた。お前がそうなるのを、私は見たくないんだ」


「……失礼ながら、それは違います」


 数日前なら同意していた言葉を、今の芙蓉はすぐに否定することができた。

 芙蓉は自分でも認めたくはないが、決して月英ではない。

 父のように山の上から紙一枚で蝗害を止められるわけでもないし、王宮から動かずして隣国の侵攻を止められるわけでもない。

 ただその足を地につけて歩きまわるしかできなくても、芙蓉には芙蓉にしかできないこともあるのだろうと今は信じている。


「鈴扇様、私は父上ではありません。そう、あなたが教えてくださったのですよ」


「私が?」


 鈴扇はきょとんとしているが芙蓉は鈴扇に死の淵から救い出されたあの時、この感情を知るために生まれてきたのだというはっきりとした確信があった。

 思えば彼は出会ったときから、月英の子であると知っても芙蓉自身に語りかけ続けてくれている。

 芙蓉はその真摯さを信頼して、ここまで彼についてきたのだ。それが間違っていると思ったことは一度もない。


「私にはともに戦ってくれる方々がいます。私自身を必要としてくれる人がいます。私は父上ではありません。ですから、そういうご心配をするのはおやめください」


 それは遠い昔、父が芙蓉に言って聞かせた言葉の通りだ。


『僕は目の前の人間を助けるなと言っているわけじゃない。信頼できる人間を作りなさいと言っているんだ。そうすると助けられる手は四つに増える。君が動けばともに動いてくれる友を、仲間を作りなさい』


 芙蓉はもうそれが分からなかった子供ではない。

 彼女は既に自分の手を四つにも八つにも増やす方法を知っているのだ。そしてきっとそれは父が持てずして、娘に抱いた希望のようなものであるということも理解していた。


 芙蓉がそう言うのを聞いた鈴扇はしばらく悩むような顔をして分かった、と頷く。

 芙蓉自身朝廷に戻ることとなれば好機だと考えていたのでそれでは、と顔を輝かせると鈴扇はもう一度その顔を心配そうに見た。


「だが、お前は本当にその調子で今まで大丈夫だったのか?あまりに迂闊すぎるだろう」


 芙蓉はその問いに、ないですよと乾いた笑いを交えながら手を振る。

 稀にそういった目で見られることはあっても大事に至ったことはない。芙蓉には男を惹きつける華がないという自覚があった。


「私の代は私よりも碧進士の方に皆目がいっていましたので。あ、でも……」


「でも……?何かあったのか?」


「さすがに紅鳶様に組み敷かれたときは驚きましたが、貧相な体で助かりました」


 茜國で紅鳶に組み敷かれたときはさすがに身の危険を感じたことは確かだ。

 あれ以降彼とは距離を取るようにはしていたが、女だとバレていることもあって身の危険はいつもより感じていた。

 そう言った途端、鈴扇の眉が吊り上がるのを見て芙蓉は言うべきではなかったと反省した。

 だが既に時は遅い。既に鈴扇は尋問するように芙蓉の頬に手を置いて逃げられないようにしてしまった。


「……組み敷かれた?ちょっと待て、紅鳶も気が付いていたのか」


「……まあ、成り行きで」


 目を逸らそうとしても彼は許してくれないので仕方なく顔を正面から見た。

 相変わらず美しい顔がこちらを訝しく睨んでいるが、それが彼の心配故ということも芙蓉はもちろん理解している。

 そういえばそのきっかけとなった慶朝から貰った簪を返してもらっていないと思っていると、ふいに鈴扇の顔が迫ってきて芙蓉の額にぶつかった。


「痛っ!?」


 火花が散るような疼痛に芙蓉が額を抑えると、鈴扇は自身も痛いであろうにいつもの無表情に戻ってその頬から手を離した。


「お前はもう少し危機感を持つべきだ。今だって避けられたのになぜ逃げなかった?やはり、この話はもう一度考え直す」


「はいっ!?」


 話の急展開についていけずに驚いていると鈴扇は立ち上がって剣呑な顔で芙蓉を見つめていた。

 芙蓉だって下手を打ったことくらい分かるが、それとこれとは話が違うのではないかと思ってしまう。


「それと、私であってもすぐに男を部屋に入れるのはどうかと思うぞ。だから隙を作るんだ。改めた方がいい」


 どうやら上官は芙蓉が女だと分かった瞬間に小姑になってしまったようだ。

 彼はそれだけ言うと生暖かい夏の風とともに去っていったのであった。



 ※



『あなたの夢はなんですか、嬰翔様。その夢に一番近い道筋を探せばいいと思いますわ。そして、そこから遡るように考えることで新しい答えが出てくるのではないでしょうか』


 あの日、嬰翔に芙蓉と名乗った少女はそう言い残して去った。

 何も彼女の言葉を全て真に受けたわけではないが、嬰翔は國令職を受けようと決めた。その全てを見通すような瞳の中に、嬰翔も自分の未来を描いたのだ。


 そして目の前でこの世の終わりのような顔をしている少女を見てやはり二人はどことなく似ていると思う。


「どうしたんです、そんな深刻な顔をして」


 そう問うと少女は子犬のように嬰翔を上目遣いに見る。

 暮れ方にやってきた芙蓉は、怪我のせいか足取りが重く侍女たちに心配されながら嬰翔の前に姿を現した。

 心労のためなのか分からないが、少しだけ顔がすっきりした気がする。そのせいか蘭國を立つ時よりも儚く見える彼女がさらに深刻な顔をしているのでとりあえず座らせて茶を与えた。


「鈴扇様に女だとバレたんです」


「っぶ!」


 嬰翔は思わず飲んでいた茶を拭きこぼしそうになった。

 芙蓉はその反応に山猫のような瞳を尖らせる。


「面白がるのはやめてください!大変なことなんですから」


 すいませんと言ってから、思ったよりも事が深刻ではないことに力が抜けた。

 今回の騒ぎで、慶朝に博士としてすぐに王都に向かうよう言われでもしたかと思ったのだ。

 そう言えば昼間鈴扇の機嫌が妙に悪かったから芙蓉と何かあったのかと思っていたがこのことだろう。

 そして機嫌が悪かったということを鑑みて二人の間に艶っぽい何かがあったとは考えにくい。


「鈴扇、別にあなたを御史台に突き出そうなんてしないでしょう」

「どうしてわかったんですか!?」

「まあ、僕も彼とは長い付き合いですからね」


 その反応に芙蓉は幽霊でも見るような顔をしているが、嬰翔にしてみれば芙蓉の方がよっぽど人間離れして見えるのだから面白い。

 この少女は目が良いくせに肝心なところで人の心が理解できないときがある。


「そればかりか、鈴扇様は私を朝廷に伴うことを考えてくださっているらしいのですが、その……私が紅鳶様に組み敷かれた話をしたところ取り消すと言われてしまいまして」

「組み敷かれたんですか……?」

「みっ、未遂ですよ。まあ、私を手籠めにしてしまえば手っ取り早いですからね」


 言い訳する声が徐々に声が小さくなっているあたり、自分でも迂闊だったという自覚があるのだろう。

 どうだか、と嬰翔は心の中で毒づく。

 紅鳶は芙蓉のことをやけに気に入っていたと鈴扇も言っていたので、打算的な行為だったかどうか怪しいところだ。

 この少女は特殊な男を惹きつける魅力でもあるのだろう。

 鈴扇のことが気の毒になった嬰翔は芙蓉を半目で見ながら説教するように言う。


「芙蓉殿、それはあなたが悪いです。女性なんですから危機感を持った方がいいんですよ、本当に」


「……すいません」


 やっと反省する気になったらしい少女は肩を小さくして謝罪する。それは本来ならあれだけ焦って茜國まで駆け付けた上司にこそ言ってほしい言葉だ。

 失礼だと思いながら嬰翔は芙蓉の顔や体を見て気が付いたことがあった。

 痩せたせいか顔に幼さが抜けている。


「あー……なんとなく、鈴扇が悩む理由が分かる気がします」


「そんなに私は隙がありますか?」


 心配そうに言う芙蓉に嬰翔は苦笑する。


「いえ、それだけではなく。芙蓉殿、以前より美人になられましたね。頬がすっきりして、体つきが少し丸くなりました。まずあの男だらけの職場でやっていくのは不安ですね」

「えっ、そんなにですか?割と中性的な方かと思っていたんですが」


 普通の女性であれば喜ばしいことなのだろうが、芙蓉にとってはむしろ不利でしかない。

 嬰翔は以前からさらしの代わりに使える硬い素材の下着などを見繕うなどできるだけの手助けをしてきたが、そういう小細工が通用しなくなってきた。

 これでは疑う者も増えるのではないかという懸念は確かにあった。


「もちろん朝廷には宦官もいますからそういった意味で分かりにくくはあると思うんですよ。ただあなたを放っておかない輩もいるのではないかとは思いますね」

「私のこの貧相な身体でもですか……?」

「美少年趣味の方は多いですからね」


 事実、芙蓉も嬰翔や鈴扇と出会ったときは他の官吏に襲われそうになっていたのだ。他人ごとではない。

 六大家の人間というのは美しい人間が多い上に芙蓉にはおそらく蓮家の血が混じっている。

 それは天女の血を引くとも言われる特別高貴な血統だ。

 きっと誰もが振り向くような美人になるのだろうと思うと益々鈴扇が気の毒になった。


「まぁ、そういう状況を鑑みたとして僕は行くべきだと思いますよ。あなたは地方に収まる人間ではありませんから」


「嬰翔様……!」


 その言葉に目を輝かせる芙蓉に、嬰翔は苦笑を浮かべる。

 王は芙蓉に二年以内に博士になるかどうか選べと言ったが、おそらくその時が来るまでに彼女が官吏として別の道を示さなければその席に強制的に座らせるということだ。

 芙蓉は慶朝にたった二年の猶予しか与えられていないのだ。その間に彼女が官吏として成し遂げるべきことはきっとこの片田舎ではできない。

 慶朝に恨みがあるわけではないが、彼女を月英のように王宮に閉じ込めておくには惜しい存在であることを嬰翔は知っている。


「博士の件をお忘れになったわけではないでしょう。二年です、芙蓉殿。あなたはその間に博士ではない一官吏という地位で王を認めさせなければならないんです。及び腰になっていては物事は進みませんよ」


「私が決めることじゃないんですよ、嬰翔様。どうか鈴扇様を説得してください!」


 そう、必死に訴えかける少女が嬰翔には妹のように思えてきて、彼女の頭を数度撫でると微笑んで言う。


「しょうがないですねぇ。多分じきにやってくるはずなので、あなたはとりあえずお帰りなさい」


 その言葉に一応は納得したのか芙蓉は頷いて見せる。


「分かりました、失礼致します」


 門まで見送ると、彼女は何度も振り返って「お願いしますよ」と念を押しながら帰っていった。


 はいはいと頷きながら嬰翔がきっとやってくるだろう親友を待っていると、芙蓉を送り出して四半時も経たないうちに再び呼び鈴が鳴った。


「で、どうしたんですか、鈴扇」


 分かっていながら嬰翔は青い顔をした目の前の上官であり親友を見て言う。

 もはやこの家は相談所か何かだと皆に思われているのだろうか。

 侍女たちも立て続けにやってくる具合の悪そうな客人たちに薬湯でも煎じようかと嬰翔に尋ねるがいいから冷やした茶と甘味でも持ってきてほしいと嬰翔は笑った。


 彼らはまず頭を冷やすほうが先だ。


「嬰翔、お前は芙蓉が女だと知っていたのだろう」


 彼は重い口を開くと一番にそう言った。


「まぁ、そうですね」

「私が男色の気があるのではないかと言ったときはさぞ面白かっただろうな」


 鈴扇は怒っているというよりむしろ拗ねているような顔をする。こういう彼の表情を引き出すことができるのはこの世で芙蓉だけなのかもしれないと思うと面白かった。


「ええ、まあ正直。昔散々高官たちに可愛がられたせいで芙蓉殿にも踏み込んで聞けなかったんでしょうね」


 嬰翔は運ばれてきた茶器を指で弾きながら言う。陶磁の茶器の中で花が舞う。

 鈴扇が女性顔負けの美貌の持ち主だったせいで気が付くのが遅れたと言っても良いのは彼にとって屈辱でしかないのだろう。


「……分かっていて、どうして芙蓉の茜國行きを止めなかったんだ?」


 低い声で、鈴扇はそう尋ねる。

 今度は少しだけ怒っている。きっと、他の人間には分からないが嬰翔には分かるのだ。

 彼が言いたいのは芙蓉が女性だと分かっていて、茜 紅鳶という危険な男のもとに行かせたかということだ。


「今頃気が付きましたか。芙蓉殿を茜國に行かせたことの恐ろしさに」


 鈴扇が何か言おうとするのを遮って嬰翔は言葉を続ける。


「けれど鈴扇、そんなことで迷っては駄目ですよ。これは男女の問題ではありません。彼女はどれだけ心が折れようが、茜國で学んだことがあります。それをあなただって分かっているはずです」


「芙蓉が、あれだけ傷ついていてもか」


 ええ、と嬰翔は感情の乗らない声で言った。鈴扇が凄んでも、嬰翔にはまるで効かない。

 嬰翔はただ、芙蓉への感情で目の前が少しばかり見えなくなっている親友を諫めるだけだ。


苑華(えんか)姉上は僕に言いました。女だから男だからという、それだけのことで生き方やその目的が変化するなんて馬鹿げた話だと。僕もそれに同意します。彼女が女だからといってその使命に違いはありません。何より彼女自身がとうに覚悟を決めているのに、今更周りがどうこう言うことでしょうか」


 嬰翔の幼馴染であり、今は薺家の当主を務める(せい) 苑華(えんか)は芙蓉と同じく普通の女性とは違う道を歩んだ女性である。

 そしてそうなることを決めたのは、他でもない彼女たちなのだ。


「鈴扇、()()()()()()()女性は男よりよっぽど肝の座った女性です。あなたが早く覚悟しなければ、彼女はもっと遠くに行ってしまいますよ」


 そう言うと取り乱すかと思った鈴扇は思ったより冷静に、そして苦い顔でそっぽを向いた。

 ああ、好きだという自覚はあるのかと少しだけ安心する。

 ここで変な風にこじれたら厄介だと思っていたが、案外素直だ。


「……分かっている」


 少し虐めすぎた自覚のある嬰翔はすぐに侍女たちに酒を持ってくるように頼んだ。

 酒でも入れなければ素直に思いを口にすることができない友人の話を今日は夜更けまで聞く気になったのだ。



 もうじき彼とも頻繁には酒が飲めなくなるのだと思うと、嬰翔は少しだけ寂しくなった。



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