5.変わり目─2
「やっと落ち着いたか」
子雀はやたら興味深そうに鈴扇と芙蓉を気にしていた柳扇にどうにか帰ってもらうと振り返って当の二人を見た。
芙蓉はどうやら泣き疲れたのと貧血で未だに意識が朦朧としているらしく、鈴扇の袖を掴んだまま昏睡している。
その額に浮き出た汗を鈴扇が拭うのを見て子雀は思わず頬を緩める。
あの堅物で有名な鈴扇が先ほどから驚くほど芙蓉の世話を焼いている。さらに、彼の袖を持ったまま眠るかつての師の娘は先ほどよりずっと安らかな顔をしている。
「ありがとう、鈴扇」
「何がです?私は自分の部下に対して普通の対応をしているだけです」
そう子雀が芙蓉の近くに自らも腰かけて言うと、鈴扇は何事もないように言うがその瞳は依然芙蓉を慈しむように見つめている。
「はいはい。結構献身的だよな、俺は良いと思うぜ」
その様子がなんともむず痒い子雀は芙蓉の頭を撫でながら言った。まだ熱は高いが先ほどより顔色が良くなっている。もしかしたら愛の力かもしれないな、などとしょうもないことを考えてしまうのはどう考えても歳を取ったからだろう。
「前から思ってたんですが、何なんです?その生ぬるい視線は」
「いいや、なんでもない。それより今の状態で芙蓉を移動させるのは危険だが、ここにいるのはもっと危険だぞ」
芙蓉は紅鳶にとってすでに用済みの存在だ。それどころか、葵家は彼らにとって自分たちの國を蝕んだ病を持ち込んだ憎き敵だ。ここまで弱っている状態の芙蓉を人質にでも取られたらたまったものではない。
「そう、ですよね」
鈴扇はもそれに同意しながら、芙蓉の今の状態をみて判断しかねるような顔をする。
その疑念を晴らすように子雀は鈴扇の肩を叩いた。
「よし、俺も付いて行くから明後日にはここ出るぞ」
えっ、と思わず鈴扇は声を出す。目の前で横たわる少女にとてもその元気があるようには思えないのだろう。
「大丈夫なんですか?芙蓉はこんな状態で車に乗せられるとはとても……」
「傷は俺がついてるから処置しながら動けるよ。精神的なもんはお前が横についてくれたら、芙蓉も多分大丈夫だろう」
芙蓉を見ているに、彼女の傷は身体的なものより精神的なものの方が大きい気がする。
何を言われたか分からないが芙蓉は紅鳶との間に確実に何かがあったのだろう。おそらくそれは芙蓉の心の柔らかい部分に触れるような何かだ。
それが解決されない限りは、治るものも治らない。
「……どうしてそんなことが言い切れるんですか?」
鈴扇は自分が妙に自信満々で言うのを不審がるのを見て、子雀は思ってもいなかった言葉を口にしていた。
「鈴扇、お前にだけこの子の両親の話をしてやるよ」
「……月英殿とその奥方の話ですか?」
「そう、月英先生の最初で最後の思い人の話だ」
「なんだか嘘のような話です。神仙のような方なので、そんな方でも誰かを思っていたのかとどこか不思議で」
慶朝にけして話すなと言われていたから誰にも話したことはなかったが、鈴扇であれば大丈夫だという確信があった。何より芙蓉の隣に立つ人間には知っていてほしい話でもあったのだ。
月英は鈴扇と会ったことがないはずだが、案外二人は六大家の弟という近い立場にあったはずなのに鈴扇が妙に神妙な顔をするから面白かった。
「月英先生はぼんやりした人でさ、官吏になりたての頃配属された六部で仕事の手加減ができなくて孤立したんだ。孤立しただけならまだしも、ひどい仕打ちを受けたんだよ。俺は後で見て知ったけど服の下だけ打撲痕だらけでびっくりしたよ」
「そんなことがあったのですか……?」
鈴扇が驚くのも当たり前だ。
何しろ慶朝や子雀だって言われるまで気が付かなかったし、王の寵愛を受けている上に葵の名を持つ月英がそんな仕打ちを受けているとは誰も思っていなかったのだ。
なにより本人が波風を立てるのが嫌いな人間で、そういったことを隠すのがうまかった。
「それに最初に気が付いたのが当時女官として宮仕えしていた芙蓉の母親だったんだ」
子雀は今でもその日のことを思い出せる。
恐ろしく美しい少女が、医局で修行中だった子雀のもとに月英を担ぎ込むようにして現れたのだ。しかも彼女が葵家と対立する蓮家の名を持っていたからなお驚いたものだ。
『月英、あなたは一つも悪くなんてないのよ』
彼女はそう何度も言い聞かせるように、困った顔をした月英に説き続けた。
それはなんとも奇妙な風景で、それでいて子雀はこんなことができるのはこの世にこの女性しかいないのだろうと幼心に確信した。
事実人間を信じようとしなかった月英が、それ以来彼女の前でだけは観念したように静かにその言葉に耳を傾けていた。
「……彼の母親は、やはり後宮の女官なのですね」
訝しむように言う鈴扇に子雀は喋りすぎたかと、苦笑する。
彼らが全てを知るのはまだ先で良い。
「ああ、芙蓉によく似た人だよ。彼女は唯一月英先生の心に触れられる人間だった。いつも隣にいて月英先生の代わりに笑ったり泣いたりしてた。月英先生にとっての彼女が多分芙蓉にとってはお前なんだよ、鈴扇」
「私は芙蓉の代わりに笑ったり泣いたりできませんが」
その言葉に思わず肩を落としそうになるが、鈴扇は不思議そうにこちらを見ている。
鈴扇のこういうところはむしろ朴念仁の月英に似ている。
芙蓉の母親に対しても本当に月英で良かったのかと思う節があったが、まさか娘にも同じことを思うとは思わなかった。
苦笑いを浮かべながら子雀は否定する。
「くそ真面目だな。お前が唯一芙蓉のことを支えられる人間だって言ってるんだよ」
そう言うと、鈴扇は感慨深そうに芙蓉を見つめる。
「……おかしな話です、私の方が彼を必要としていたはずなのに」
「いい関係なんじゃないか、支えあっていけばいい」
そしてできれば、二人が愛し合うような関係になればいいのにと思って子雀は口をつぐむ。
これ以上口を出すのは他人の人生を変えかねないことだ。
鈴扇は子雀が言葉を切ったのが分かったのか、話を終えようとして思い出したように問いかけた。
「ひとつだけお尋ねしたいことがあります。もしかして、芙蓉の母親はまだ後宮にいらっしゃるのですか」
その言葉に、子雀は悲しむような何かに耐えるような表情になる。
「……いや、彼女は死んだんだよ。月英先生と別れたその日に」
そう言う子雀は、なぜか目線を落として鈴扇とは目を合わせようとしなかった。
※
「紅鳶殿、見事だったよ。これで僕たちがこの国を手に入れる日に一歩近づける」
緋鶯の血に怯える侍女たちに体を清められた鈴扇を待っていたのは満足そうに、そして底意地が悪そうに微笑む葵家の次男であった。
当主である陶月は既に帰國したらしく身軽な月樺のみが話をつけるために紅鳶を待っていたらしい。
茜家当主の部屋には兄が名代を務めた時に置いていった彼の愛猫の檻があり、その扉が所在なく揺れている。
もはやその檻に入る猫もいなければ、その扉を閉める人間もいない。
ここには紅鳶が望んでもいなかった全てのものがあり、そして紅鳶が唯一望んでいたものがない。
でもこれでいいのだ。
これからきっと大きな波がやってくる。
暗い意志を持ったその波はきっと遠からず兄を飲み込んでいたのだろう。
それにしても体が重かった。
まるで兄の死体が自分にのしかかるような重さを、きっと紅鳶は一生抱えていく。
今はもうその重さしか心の拠り所がない。
どうか自ら息絶えるのを止めるために、その重さには足を踏んでいて欲しかった。
紅鳶にはもう、兄が残したこの國を守っていくしか生きる意味がないのだ。
なんとか月樺の前に顔を向けるとできるだけ落ち着いた声で言う。
「お見事はそちらでしょう、こちらの従者まで丸め込まれているとは思いませんでしたよ」
「君だってうちの甥を連れ去っただろう。かわいそうな僕の獣を」
そういう彼は言葉に反して嬉しそうに微笑んでいる。
月樺の関心事と言えばどうやって盤上の駒を操作して国を手に入れるかと、お気に入りの駒をどうやって育てるかぐらいなのだろう。
そして紅鳶も彼の駒のうちだったというだけだ。
「僕はあなたの獣に傷をつけてしまったのですが、それについては許していただけるのでしょうか?」
そう言われた月樺は僅かに眉根を顰める。
「劉医官がいてくれて助かったよ。でも、これ以上芙蓉の周りに面倒な人間が増えるのは困るなぁ」
その濁るような目の色を、紅鳶は知っている。執着の色だ。
きっと兄を見る自分の瞳も同じように濁っていたのだろう。
歪んだ鏡を見ているような気持ち悪さを抱きながら、紅鳶はこれが好機だとも思った。
「女性でしょう、傷ものになっては嫁に出せなくなるのではありませんか?」
芙蓉が女性であるという事実は、彼らにとって如何様に働くかは分からない。
けれどそれを知っているということは、月樺への牽制になる。
案の定、彼は少しだけ表情を動かした。
「おや、気づいてらっしゃるとは驚いた。あの子も案外詰めが甘いところがある。……まさかあれを嫁に欲しいとでも?」
紅鳶の真意をすぐに察したらしい月樺は紅鳶を舐め回すように見た。まるで品定めするような目つきに屈せず、紅鳶はさらに月樺に言う。
「僕が傷をつけてしまったものを僕が引き取るのが道理ではありませんか?」
それもまたいいと思ったのだ。
芙蓉は見ていて飽きない少女だ。
合理的で冷たい顔を持ちながら、倒れた緋鶯を見たときの顔はかわいそうなほど人間そっくりだった。
そして彼女の感情が揺れ動く様を見たとき、紅鳶は暗い感情を持ってしまった。
このかわいそうな獣を御すことができるのが自分であればよかったのに、と。
あの野生の獣のような灰色の目が自分のせいで揺れ動くのを見て、そんなことを思った。
これが恋だというならあまりにも異常だが、獲物を前にした獣のような高揚感がそうだとすれば紅鳶にとってはそういうことなのかもしれない。
月樺はその主張を鼻で笑う。
「とんでもない、御冗談を!あの子は混ざりものだ。ああいう子が好みなら貴方にはこちらで葵家直系の姫君をご用意するよ」
「あの子の代わりなどいるわけがないことをあなただって知っているくせに。ずいぶん出し惜しみするんですね」
「いますよ、僕も次兄も容姿にはそこまで恵まれていません。芙蓉は美人ですが、六大家中では目を見張るほどではない」
そう笑い飛ばしながらも月樺の瞳は一つも笑っていなかった。
そして紅鳶がもう一度声を出そうとしたとき、彼は牽制するように言う。
「紅鳶殿、僕が冗談と受け取っている間にその話は終わりにしよう」
その言葉に紅鳶は押し黙りながらも、心中では諦める気などなかった。
まだ時間はある。
彼女の肩に刻み付けた傷が消えない限り紅鳶と芙蓉の運命はまた交錯するのだろう。
何の確証もないが、それだけは確かな気がした。
※
ここはどこだろう、と混沌とした意識の中で芙蓉は問うた。
あたりを見渡すと夜でもないのに暗い。
いや、もしかしたら芙蓉が気がついていないだけで夜なのかもしれないがそれにしてもこんな暗闇は久しぶりだった。
父と葵家から逃げたあの日以来かもしれない。
そんなことを考えていると水が足元に侵入してきて、身動きができなくなりやがてそれが血の色をしていることに気が付く。
袂を何度も絞っては陸地に上がろうとするのだがなぜか一向に岸辺に近づけない。
「私が父上だったらこんなところすぐに出られるのに」
そう言ってしまってから口を閉じる。
芙蓉は月英ではないのだ。
先程それをいやという程味わったばかりではないか。
大海を包むような翼を持つ鴻鵠だと思っていたら、迫りくる波に小枝一本で立ち向かう小鳥だったとはとんだ間抜けだ。
そう思うとともに父が昔、芙蓉に蚕の繭を割って見せてくれた光景が鮮明によみがえった。
蚕の幼虫というのは繭に入っている間はまるで鋳型に入れる前の金属のようにどろどろとしていて形を持たない。
自分は成虫になる前に繭を失った幼虫なのだ。
そして父親という繭を失った今、絶対に完成しない中途半端な動物だ。人間にもなれない、獣にもなれない哀れな動物なのだ。
『自信と誇りを持って言うがいい、お前は立派な人間であると』
ああ、そういえば鈴扇だけが芙蓉にそんな言葉をくれた。
芙蓉を引き込むための嘘だとしても、あの時は涙が出るほど嬉しかった。
彼に会うために生まれてきたのかもしれないと本気で思った。
血はどんどんと芙蓉の首元まで迫ってきては嫌な鉄の臭いを発して思考回路を邪魔する。
その匂いは、芙蓉に嫌な思い出しか運んでこないのだ。
とうとう口元まで迫ってきた血の海に芙蓉は死を覚悟した。
『芙蓉!』
そう呼ぶのは誰だろう。
自分を呼ぶ人間はいつも見返りを要求してくる。自分に月英のようであれと強いてくる。
だから嫌いというわけではないが、少々疲れてしまったのだ。
それでもその声は何度も芙蓉を呼ぶ。
『芙蓉!しっかりしろ!』
何なんだと思っていると、手を取られてあっという間に身体が引き上げられる。
暖かな手を探っていくうちに、意識が遠のいていく。
それが本当は意識が戻っていく瞬間なのだと気が付いたのは目の前に妙に焦った鈴扇の顔を確認したからだ。
「……鈴扇様」
見ると芙蓉の手を、鈴扇の大きい手が包み込んでいる。どれくらいそうしていたのか、互いの指の皮がふやけてしまっていた。
彼は芙蓉の顔を何度も触るとその体温を確認して顔を歪める。
「芙蓉、心配させるな。お前が死んだらと思うと私は……!」
そう言って彼は意識を取り戻したばかりの芙蓉をその胸に抱きこんだ。細身の体に似合わず案外力が強い。
その温かさに安心したのも束の間、肩に感じる激痛に芙蓉は大きな声を上げた。
肩の傷が開いたようで、突然激しい痛みが襲ってきたのだ。
「痛っ!!いったい!ちょっと鈴扇様!今はやめてください!」
「……すまない、お前がやっと意識を取り戻したかと思うといても経ってもいられなくて」
鈴扇は芙蓉から身体を離しつつ、申し訳なさそうに謝る。こんなしおらしい姿は珍しいと思って芙蓉はもう一度体を横たえながら彼の手をもう一度握った。
「そんな落ち込まないでくださいよ、私鈴扇様のおかげで帰って来れたんですから」
「……死の淵にでも立っていたのか?」
「血の海の中にいて、沈んでいくところでした。あなたが引き上げてくれたんですよ」
実際先ほどは本当に死ぬところだったのかもしれないと思うと鈴扇は命の恩人である。
彼には救われてばかりだと思うと照れ臭いような、それでいて安心できるような気持ちになって思わず笑みがこぼれる。
「……本当に危ないところだったんだな」
その顔は心底芙蓉を心配していたようで、芙蓉は嬉しくなった。
自分には月英のような才が、ひょっとしたらないのかもしれない。
けれど自分には暗闇から引き上げてくれる人がいる。
そう思うともう少し、生きてみる価値もあるのかもしれないと思った。
「夢の中で、あなたの声だけがよすがでした。鈴扇様、私はあなたに人間だと認めてもらった時初めて生まれてきてよかったと思えたのです。ひょっとしたらあなたに会うために生まれてきたのかもしれませんね」
言葉の最後は芙蓉もまた意識が朦朧としてきてしっかりと言えたのかどうかまで分からない。
それだけを伝えると、芙蓉は静かにもう一度眠りについた。
※
「で、鈴扇。その赤い顔は帰るまでにどうにかしたほうがいいと思うぞ」
もう一度眠った芙蓉の顔を血色のいい顔で呆けたように見つめている鈴扇に、実は先程からずっと一部始終を見ていた子雀は言う。
芙蓉が意識を朦朧とさせていた五日ほどで車は既に蘭國に入っていた。もう一日も駆ければ、國都である青漣に着くだろう。その間ずっと二人が芙蓉を見ていたのだ。
特に鈴扇は芙蓉が苦しむたびに寝ずにその顔を見続けていた。
子雀は芙蓉の頬に触れて体温が正常であることを確認すると、依然手を離さない鈴扇を見る。
彼は先ほどとは打って変わって鬼のような形相で子雀を見ていた。
「……見ていたなら何か言ってくれればよかったのにどうして黙っていたんですかあなたは?」
「いや、若い二人の邪魔したら駄目だしなぁ」
子雀がにやにやと笑うと、鈴扇もその意味が分かってきたのか押し黙る。
それから心配そうに子雀に問うた。
「眠ってしまったのですが、大丈夫なのですか?」
「さっきと違って呼吸も安定してるし大丈夫だろう」
「……そもそもあなたが大丈夫だからと言ってあちらを出たのに芙蓉が苦しんだんですよ」
「まあまあ、結果的に大丈夫だったんだから怒るなよ」
そう言うとむすっとした顔をする鈴扇はしかし、先ほどの切迫した顔と違い穏やかだ。
それは少なからず彼が芙蓉を思っているということなのだろう。
どうか大きな波が彼らを引き裂かないことを子雀は願う。
かつての月英と白明のように、二人の運命が分かれてもう二度と交わらないようなことには絶対になってほしくないのだ。
※
蘭國府に着いた途端に駆けてきた嬰翔に芙蓉はぎこちないながらも大丈夫だと伝えると彼は何度も芙蓉に「無理はしないように」と釘を刺した。
それにしても自分が寝ている間に紅鳶が当主の席に就いてから七日以上が経過していたのは驚いた。
「お久しぶりです、嬰翔様」
「芙蓉殿、怪我をされたと聞いたときは僕も震えあがりましたよ。汀眞は僕のところに寄ったあと一時的に薊國に帰っています。苑華様に呼び出されたみたいでちょっと嬉しそうなのが癪でしたが」
「……ああ、容易に想像できます」
汀眞の姿がないと思ったが、そういうことなら納得できる。下心の一つもないかと言われたら難しいだろうが、彼も仕事のために帰っているのだ。
そう言われて事態の深刻さを思い出した芙蓉は自分が動けない現状にもどかしさを感じた。こうしている間にも、葵家は駒を動かしているのだ。
嬰翔は芙蓉の無事を確認するとすぐに子雀に向き直って拱手して礼を取る。
「初めまして劉医官。蘭國國令副官の陸 嬰翔にございます」
「初めまして、陸副官。俺は芙蓉の世話をあとちょっとしたら数日でここを経つよ。一応慶朝様も心配してるだろうしな」
「ではそのように部屋を手配いたします」
蘭國府は貧乏なので、皇帝の侍医である子雀を泊めるほどの部屋があるかと心配したところ、子雀は眠れたらどこでもいいと言ってくれた。
嬰翔はその答えに苦笑しながら芙蓉が下りるのを手伝うと、妙にかしこまって鈴扇と芙蓉の顔を交互に見た。
「帰って早々に申し訳ありませんが、僕たちに辞令が下っています。僕は蘭國の國令に、そしてあなたは礼部の侍郎にと、吏部から書状が届きました。まだ正式なものではなく打診されたまでですが」
芙蓉が驚いているのを尻目に、嬰翔は固い意志を持った声で次の言葉を告げた。
「僕は受けようと、そう考えています。鈴扇」
その言葉に、芙蓉は一層愕然とするが鈴扇は静かに頷くのみだ。
以前までは鈴扇のことばかり考えていた嬰翔らしからぬ決断である故に、芙蓉はその理由が気になったがなんと聞けばいいか分からず口を閉じる。
何より自分だけが置いていかれてしまうような気がして、何故か動悸が逸った。
「……そうか、少しだけ考える時間をくれ」
それだけを言うとその話はなかったかのように二人は事務的な報告を始めたので、芙蓉は黙るしかない。
本格的な夏の匂いが鼻を掠めると、季節の終わりとともに自分たちの関係性にも節目のようなものが訪れたのではないかと怖くなった。
※
その夜、芙蓉が久しぶりに戻った部屋で休んでいると鈴扇が訪ねてきた。
芙蓉がどうぞと言って招き入れようとすると休んでいて大丈夫だと手で制される。
「辞令の件でしたら、私のことは気にせずお受けください」
何となく居心地が悪くて思っていたことをすぐに口に出すと、鈴扇もその話をしに来たのか妙に神妙な顔つきをしている。
「その件でお前に確かめたいことがある」
はい、と何事か分からず頷いてから、その次に出た言葉に芙蓉は思わず絶句することとなる。
「芙蓉、お前は女なのか?」
お付き合いありがとうございます。次回から舞台は朝廷にうつります。




