5.変わり目─1
茜家の邸宅は、大きな火事でもあったのかという程の人間で溢れていた。
あちらこちらで噂が大きくなって広がっていくのを、汀眞は走りながらも必死に耳を傾けて聞いた。
曰く、緋鶯は紅鳶に殺されたと。曰く、紅鳶の他に國主に名乗りを上げるような豪気なものはいなかったのだと。
しばらく芙蓉に付き添っていたせいで見ていない顛末も、そのせいですぐに分かった。
自分たちは葵家との勝負に負けたのだ。そしてこの敗北は後々の花興という国を大きく揺るがすかもしれない。
その事実だけが重くのしかかるようだ。
汀眞は人の波をぬいながら、走っていると同じくこちらに向けて亜麻色の髪を靡かせた男が走ってくる。
「菫國令!」
「蔦官吏!芙蓉は……!?」
彼は芙蓉のもとに走っている最中だったらしく、珍しく汗ばんだ額に手を置いて汀眞に話しかけた。
「とりあえず持ち直しましたよ。劉先生が見てくれてるから容体は安定してますし、しばらくは任せて大丈夫みたいでした」
「そうか、本当に良かった。……やはり、傷は残りそうなのか」
「それはしょうがないって話でしたね。あれだけ血が出て生きてるだけ良かったとは思いますけどね。あんた、大丈夫なんですか?顔色悪いですよ」
汀眞の言葉に全身の力が抜けたかのようにほっとした様子を見せる鈴扇に、こんな男だったかと驚きながらその顔色の悪さが心配になった。自分たちも芙蓉ほどではないがここ一週間ろくに睡眠も食事もとっていない。
「それを言うならお前もだ。私たちは思った以上に芙蓉に左右されているな」
自嘲気味に答える彼に汀眞は分かっていながら問いかける。
「國令は、紅鳶を最後まで見届けたんですか?」
「……ああ、月樺殿がうまく丸め込んで紅鳶を國主だと認めさせた」
その表情は彼の顔色と美貌もあって、鳥肌が立つような恐ろしさを含んでいた。
鈴扇が駆け込んだ時には既に全てが終わっていたのだ。やはり何をしても無駄だったのだというやりきれなさが、胸の中に広がっていく。
これは芙蓉の頭脳の問題ではない。
全員、葵 月樺という人間への傾向と対策の分析を怠ったのだ。
そしてそれは彼が花額山からほとんど出てこない人間である限り不可能だったのだ。
「鈴扇」
そう呼ぶ声がして二人が振り返ると、鈴扇と同じく亜麻色の髪の麗人がこちらに向かって歩いてくる。
汀眞自身彼に会うのは初めてであったが、今は結って横に流した前髪を見て鈴扇の兄だとすぐに気が付いた。
何よりその顔を見ればすぐに兄弟だと分かる美麗な二人を、近くを走る下女たちも珍しそうに見ている。
「兄上、もうよろしいのですか」
彼は國主同士の会談を終えたのか、襟元を緩めながら面倒そうな顔をしている。
「これからのことは次の朝廷での会談で話し合うらしい。今は全員頭に血が上っているだろうし賢明な判断だろうね」
その彼に、汀眞は軽く礼をする。普通ならこんな気軽な礼では済まされない相手のはずだが、緊急事態なうえ汀眞が日頃から付き合っている人間のせいもあって誰も不思議に思う人間はいない。
「お初にお目にかかります、菫國主。蔦 汀眞と申します」
「ああ、苑華の懐刀か。噂には聞いているよ」
「それはどうも」
「鈴扇、君たちがここにいるということは何かあったんだね」
柳扇は二人を見ると全てを察したように問いかける。
そうでなければ、國令職にある鈴扇や薺家の懐刀である汀眞がこんなところまでのこのこ来るはずがないのだ。
「はい、兄上もすでに知っておられると思いますが、現在茜國を騒がしている家畜の病は葵家によって持ち込まれたものだと。……証拠は全て隠滅されてしまいましたが」
「やりかねないね。そうか、やはり葵家が関わっていたんだ」
「今となっては誰もそれを証明できません」
柳扇はそこまで感慨もないような言い方をするが、その瞳は鈴扇にはなかった愁いを帯びている。
「緋鶯は、死んだんだね」
「……はい、残念ながら。私が紅鳶の部屋に到着した時には既に殺された後で」
汀眞と鈴扇が芙蓉を追って部屋に到着したとき既に緋鶯は息絶えており、背を負傷した芙蓉を連れ出すのが精いっぱいだった。
床に落ちた血を見る限り抵抗した様子もない彼はどこまでを知って死んでいったのか二人には分からない。それでも優しい彼が向える最期にしては、それはあまりにもむごすぎた。
「彼はね、普通に優秀な男だったんだよ。私が突飛なことを言うたびに笑ってくれて、発明品について意見を寄せてくれたこともあった。唯一六大家で話が合う人間だったのにな」
柳扇と緋鶯の関係はおそらく友人だったのだろう。
鈴扇も兄と緋鶯が話しているところを行事の折に見たことがあるが、兄が義姉意外に珍しく話を弾ませているのを見て奇特な人間もいるものだなと思った覚えがある。
ただ底なしに優しい人間だった。
「……申し訳ありません」
思わず鈴扇が謝ると、柳扇は首を振って汀眞の方を見た。
「君が謝ることはない。それより、葵家と茜家が手を組めば当然家柄重視の政治になるだろうね。そうするとやりにくいのは薺家だ。今のままだと自分の國に薺家が居を構えているのが邪魔な薊國も葵國につくだろうしね」
「そうだ、俺早く苑華様にこのこと伝えないと。菫國令、薺商連の茜國支部に行ってくるから芙蓉のこと頼んでいいですか?」
それを聞いた汀眞は自分の役割を思い出したように踵を返した。
商連を通せば苑華に会わずとも話を繋いでもらえる。この緊急事態をより早く主に伝えるのが苑華の耳役として朝廷に遣わされている汀眞の役割であった。
「ああ、行って来い。私も今から芙蓉のもとに戻ろうとしていたところだ」
そう言って走っていく汀眞を見送ると隣にいた興味深そうに鈴扇に問いかける。
「鈴扇、芙蓉とは誰だい?」
「私の副官です。紅鳶に斬りつけられてひどい傷を負っていまして、今は劉医官に看病を頼んでいるのです」
そう言ってしまってから鈴扇は後悔する。
兄には春に芙蓉のことを自分の婚約者だと言って会わせたことがあるのだ。
『私の兄が鈴扇様の副官職にありまして、そのご縁で何度かお会いしたところ、鈴扇様と気が合いまして』
芙蓉は自分のことを、そうやって柳扇に紹介した。あの時は自身の婚約を避けるための一時的な嘘だったが、今すぐに辻褄を合わせると言うのは難しい。
鈴扇の頬を冷や汗が流れる。
好奇心が強い上に記憶力の良い兄は会いたいと言いかねない。
「ああ、副官というと槿花殿の兄上か。じゃあ、私も挨拶がてらついていっていいかい?」
「え……!?」
槿花、芙蓉と同種の花の名は汀眞がそのとき仮に付けた名であった。
案の定そう言いだした兄からは何を言ってもうまく言い逃れられないことを鈴扇は知っている。
「ほら、早くいかないとだろう。それとも、何か不都合があるのかな」
「……はい、そうですね」
そう言って鈴扇の後を楽しそうについてくる兄に、反論できるほど鈴扇は菫家での地位を確保できていなかった。
※
芙蓉のもとに駆け付けたのは、何も鈴扇だけではなかった。
「子雀、芙蓉の様子はどうだ」
「落ち着いた。たまに譫言みたいに父親のこと呼んでるけど、熱が引けば取りあえずは大丈夫だろう」
鈴扇より一足早く子雀の部屋にたどり着いた慶朝は豪奢な衣装をそのままに侍医に問いかける。
子雀は芙蓉から目を離さずに答える。容体が落ち着いたとはいえ鈴扇や汀眞が見つけた時には貧血で気を失っており、一時は危ない状態であった。
さらに本人の精神状態を考えても今は大人がついていなければ心配だ。
そうか、とだけ言って芙蓉の頬に触れようとしした慶朝の手を子雀が掴んで止める。
「今は触らないようにしてくれ」
その言葉に慶朝は訝しむような顔をするが、すぐに医者の言葉だと思って信じたようだった。
子雀は触れれば壊れてしまうような今の芙蓉を、誰にも触れさせたくなかった。
芙蓉は子雀にとって娘のような存在だ。
本当を言えば、目の前の少女を何の不安もない場所に連れ出してやりたいと思う。
今思えば月英も表に出すのが苦手なだけで、芙蓉と同じくらい不安定な状態であったのだろう。それに気付けなかった罪滅ぼしと言っては大仰だが、今も苦しそうな表情を浮かべている少女をできるだけ不安のない状態で休ませたかった。
「そっちはどうだった?まあ、葵家が本気で動いたならこっちに勝ち目はないかな」
芙蓉の顔の見える場所に腰かけた慶朝に子雀は問いかける。
「其方、どちらの味方なんだ」
「生憎と俺は葵國の出身なんでね、あいつらの恐ろしさは一番分かってるんだよ」
なにしろ月英と芙蓉をあの歳になるまで隠していた家だ。
今更どんな隠し玉を使ってこようが驚きはしないとは思っていたが、今回のことはあまりに非人間的だ。
子雀は月樺という人間に会ったことはないが厄介な人間ということは間違いないのだろう。
「頭が痛いことだ。いざとなれば芙蓉を博士に戻すのも急がなければならないかもしれないな」
その言葉に子雀は思わず慶朝に鋭い視線を向ける。
「……戻す?芙蓉は一度だって博士の席になんて座ったことがない。慶朝様、この子は月英先生じゃないんだって何回言えばわかるんだよ」
『月英は死んでなどいないよ。あの娘の中に生きている。月英は約束を守ってくれた。姿を変えても余のもとに戻ってきたんだ』
彼を送り出した時も思ったが、主は芙蓉が朝廷に入ったころからどんどんとおかしくなっている気がしてならない。
これでは芙蓉をものとして欲した葵家と変わらない。そういう言い方をする慶朝が子雀は嫌で仕方ないのだ。
子雀の言葉に慶朝がかぶりを振る。
「余には分かる。月英はこの娘に全ての知識を与えた。それは余のもとに自らが戻れなくても、この娘が戻ることを予期していたからだ。そういう意味で芙蓉は月英であり、余の軍師だ」
「……本気で言ってるのか?」
そう言いながら、慶朝が冗談を言っているわけではないということが子雀には分かっていた。
「本気だ。月英と余の間には誰にも理解されない絆があった。其方には分からないよ」
その言葉に拳を固く握りしめた子雀が声を上げる。
「白明様が何度も言ってたのを覚えていないのか。博士なんて大仰な椅子、月英先生だって似合っていなかったんだよ。あんなのは人と交われない人間のための特別で孤独な椅子だ。あんな場所にこの子を座らせる気なのか」
白明、思わず子雀が出したその名に慶朝も渋い顔になる。
「白明の名をここで出すんじゃない、子雀」
思わず二人が互いに剣呑な空気になりそうだった時、部屋の扉が開いた。
一人はよく見る顔だったが、もう一人顔を出す青年に思わず子雀も驚いた顔をする。
「こんにちは、劉医官。鈴扇の副官が治療を受けていると言ったのはここかな」
そう言って入ってきたのは何故か項垂れた顔の鈴扇と、その兄柳扇である。
柳扇は月樺ほどではないが引き籠り体質であり、子雀も会ったのは二年ぶりである。
「あれ、お取り込み中でしたかね」
「いや、いいよ。おかげで頭が冷やせそうだ」
相変わらず二人そろうと女が殺到しそうな兄弟に子雀がそう漏らすと柳扇は興味深そうに芙蓉の寝台の方を見て言う。
「陛下もいらっしゃるとは随分とこの子は人気なのですね」
「慶朝様は俺に会いに来ただけだよ。ほらあんた他にもすることあるだろ、ここは俺が見てるから自分の部屋に帰って」
鈴扇が後ろで面倒そうな顔をしているかぎり、芙蓉について詳しいことを話しているわけではないのだろう。どうみても野次馬だ。察した子雀はすぐに誤魔化すように笑った。
「……ああ、そうしよう。いま其方と話しても埒が明かないだろうしな」
どうやら熱くなりすぎたと自らも思ったらしい慶朝はそう言って席を立って部屋を出て行く。
その後ろ姿に手を払うようにしている子雀に、菫兄弟は二人とも珍しく申し訳なさそうにしていた。
「よろしかったんですか?」
「ん~、まあ。鈴扇たちが来てくれて助かったよ。……ちょっとあの人最近おかしいからさ」
「それにしても鈴扇のお嫁さんの兄上に会えると思って来たのに、今は挨拶どころか認識してもらうことも無理そうだね」
「……鈴扇のお嫁さん?」
その言葉に子雀が驚いた顔をすると、柳扇は嬉しそうに頷いた。
「実は先日鈴扇が嫁にするんだといって莢 槿花殿という女性を連れてきたのですが、その兄上がこちらで休んでおられると聞いて来てみたんです。それにしてもよく似ているね、女の子みたいに綺麗な子だ」
槿の花、その名前になにやら察したらしい子雀が鈴扇を顧みるとその頬にじとりと汗がにじんでいる。
おそらく、この案外押しの強い兄に勝てなくて渋々連れてきたのだろう。
「そう、槿花ね。お前ら兄弟に言われたら芙蓉も光栄なんじゃないか。それにしても鈴扇結婚するのか、女官たちが泣くだろうなぁ」
「あなた、わかっていて言っているでしょう」
若者をからかうのが面白くて、珍しく感情を顔に出している鈴扇に笑いかける。
「何のことだか分かんないなぁ。まあ、芙蓉もこれだけ美少年なら妹も美少女なんだろうな」
「……子雀殿」
鈴扇を揶揄いすぎると聡い柳扇が芙蓉と槿花が同一人物だと気付きかねないので、子雀は鈴扇に芙蓉の寝顔が一番見える席を譲ると席を立った。
「さてと、芙蓉もしばらく起きないだろうから茶でも入れるよ。どうせお前らそろそろ國に帰らないといけないんだろう。少し休んだ方がいい」
一人は一國の國主、一人は一國の國令。考えてみればすごい兄弟である。
恐らくだが芙蓉と汀眞は既に用済みで部屋も用意されていないだろう。それを考えても少し休ませたら鈴扇は芙蓉を連れて蘭國に帰るべきなのである。
それに、子雀としても今の芙蓉と慶朝は長い間同じ空間に置いておきたくはなかった。
「ありがとうございます」
忙しそうな女中に湯と茶器を借りて帰ってくると、相変わらず鈴扇が柳扇の質問攻めにあっている。
そうしながらも芙蓉から目を離していないのを見るに、やはり鈴扇にとって芙蓉は特別な存在なのだろう。
それにしても障害が多そうな相手を選んだものだと子雀は苦笑いをしてしまった。
「柳扇はどうなんだ。紅鳶の國主就任については」
かわいそうな鈴扇に助け舟を出そうと兄に声をかけると、彼はやっと子雀の方を見て答える。
「菫國主としては特に何もありませんね。うちは他の國に頼らないようにしていこうと國令殿とも話していますし。……ただ緋鶯は、貴族らしくない男だったので失ったのは残念です。ああいう人間が家族に看取られずにいく国だとは思いたくなかったです」
憂いを帯びた彼の声を聞いていると、茜家にしては随分と人の良さそうな青年の顔が思い出される。
確かに彼はこの國に生まれなければ違う道を進めたかもしれないと思うと心苦しかった。
鈴扇も子雀の淹れた茶を啜りながら、居心地の悪そうな顔をしている。
「緋鶯は、茜國に生まれなければいい学者になったと思うよ。氏より育ちって言葉を知ってるか?」
「生まれ持った性質や家柄より、育った環境の方がその人間の形成に影響を与えるという話ですね」
「そうだ。俺なんか髪と目の色見てくれたら分かると思うけど貧民も貧民の出だ。それが月英先生や慶朝様のおかげで環境も変えることができて今に至ってるわけ。この国は氏と育ちがあまりに近いところにあるから俺みたいな人間が稀なんだよ」
事実、今ここにいる者も先ほどまでここにいた汀眞も貴族かその庇護下にある一族の出である。
月英や芙蓉もその家名がなければ慶朝の目に止まっていなかった可能性もあるのだ。
「言われて見ればそうですね。貧民であっても貴族であっても、よっぽどのことがない限りその育ちも氏も変えることができない。おかげでいつまで経っても国の上層部は動かないまま倦んでいく」
「今回の件でそれを助長するかもしれないっていうのが俺の懸念だ」
そう言ったところで、鈴扇が跳ねるように反応したので驚いて見ると芙蓉が薄い目を開けたところだった。
鈴扇がほっとしたように覗き込むが、彼女の目が相変わらず虚空を見つめているのが分かった子雀はすぐに芙蓉の隣に立つ。
傷口を塞いだばかりなのに立ち上がって走り出しでもしたらどうしようと思ったがそんな元気もないらしく首を回しただけで痛そうに顔を歪めている。
「ん……あれ、ここ……って」
「芙蓉、まだ起きたら駄目だ。血が足りてないうちは無理に起き上がるな」
意識を取り戻した芙蓉の額の布を取り換えながら、子雀は急激に今の状況を理解したらしい彼女の肩を抑える。
興奮して傷が広がっては元も子もない。
「鈴扇様、私は……また、間に合わなかったんですか……?父上の時と同じで、私はまた大事なものを取りこぼしてしまったのですか……?」
芙蓉は鈴扇の袖に縋るように言葉を絞り出す。
これでは先ほどと同じだ。こうなった患者は落ち着けるのには苦労する。
子雀は静かに芙蓉を諭そうとするが、先に動いたのは鈴扇だった。
「駄目だ!鈴扇!」
子雀の制止を遮って鈴扇は上体を起こそうとする芙蓉を抱き締めた。
その行動に彼女は驚いた顔をするがすぐにくしゃりと表情を崩すと、動き出そうとするのをやめて子供のように泣き出した。
「芙蓉、すまなかった。私がもっと早く駆けつけていればこんなことにはならなかったのに」
「うぅ……うっ……私は、私はまた……」
「お前は悪くない。悪くないんだ」
芙蓉は鈴扇の胸の中で意識を朦朧とさせながら初めて涙を流した。
彼女がどれだけ辛かろうが人前でけして流さなかった涙を鈴扇の前では流したのだ。
「……あーあ、適わないな」
その様子に、子雀はついある光景を思い出していた。
『月英、あなたが泣かないから私が泣くの!あなたが感情の出し方も分からない子供だから私が代わりに泣いてあげるのよ!』
そう、この国で一番賢い少年に何度も食って掛かった女性のことを。
白明、月英が唯一愛した女性だった。
月英には白明がいたように、芙蓉には鈴扇がいるのかもしれない。
子雀は二人の様子に僅かな希望を感じた。
子雀の横で完全に蚊帳の外の柳扇だけが「どういうことなんです?」と興味深そうに彼に問いかけるのであった。
※
「お久しゅうございます、お爺様」
そう言って蓮家の当主の前に膝をついたのは、天女が舞い降りたかのような美しい少女だ。
白銀の羽衣を纏ったような光り輝く銀糸の髪は今は丁寧に梳られて、床すれすれまで垂れている。
「お爺様、わたくしは最後の外遊の途中でしたのよ。こんなところに急に呼び出されても困りますわ」
「すまない、白燐。お前にはすぐに金陵に入ってもらわなければならない事情になったんだ」
蓮 白燐、それがかつて嬰翔に『芙蓉』と名乗った少女の実の名前であった。
年は十五、現皇后を叔母に持つ彼女は、その美貌を叔母と並び称される蓮家の至宝である。
その美しさゆえに女官としての後宮入りを断念した彼女はしかし、女官どころか官吏顔負けの聡い少女であった。
彼女はその薔薇色の美しい唇を僅かに開いて告げる。
「星が落ちましたの」
「……なんだって?」
「南の星が落ちましたのよ、お爺様。だから蒼郭とそろそろ戻らねばならないかもと話していたのですわ」
南の星、それはきっと茜家の人間を指しているのだろう。
昔から彼女は妙に聡いところがある少女だった。
「お前は叔母上にそっくりだな。あの子もよくそんなことを言っていた。その分だとお前がやるべきことは、言わなくても分かっているな」
「はい、お爺様。東宮との婚姻、正式に進めていただいて構いませんわ」
葵家と茜家が結託した以上、蓮家は王家との繋がりを少しでも早く確実なものにしておきたかった。
東宮、すなわち慶朝と蓬樹の子との婚姻を取り付けるために白燐は金陵に単身赴くのだ。
「かわいい白燐、お前をこんなに早く送り出すことになろうとは思っていなかった」
そう、憔悴したように言う祖父に彼女は口元に手を当てて微笑む。
早く、とは言っても貴族間で十五、六での結婚というのは平均的な話なのである。
「お爺様、そうやって叔母上の婚期も逃しかけたではありませんの。おかげで伯母上も慶朝様に娶って頂かなければ行き遅れるところでしたのよ」
「だってお前はあの子に瓜二つなんだ。顔も、才気も、そしてその類まれなる目の良さも」
項垂れる祖父のもとに近づくと、白燐は強い意志を持った白銀色の瞳を煌めかせた。
「お爺様、きっとわたくしをこの大陸で一番幸せな花嫁にしてくださいましね」
「もちろんわかっているよ、白燐」
それを聞いて白燐はもう一度にっこりと、微笑む。
この国中の男を虜にしてしまうような笑顔で。
この国で叔母の次に美しいと讃えられる笑顔で。
芙蓉が柳扇に出会った回です。( https://ncode.syosetu.com/n4400gg/22/)




