4.海を填む─2
「茜國への渡航歴があっただと……!?そんな記録はこちらに残っていないはずだ!」
紅鳶は葵國の黒衣の従者たちに告げられた言葉を聞いて激高した。
葵國での病の発生も、こちらの責任であると彼らは言ってきたのだ。
そして茜國がすべて悪いのだと、公にするつもりだとも。
冗談ではない。そんなことをしたら他の國との交易を全て閉ざされるようなものだ。
彼らは皆、紅鳶の怒声に恐れをなした様子もなく報告を終えると「お返事を」とだけ告げる。
月樺の要求通り、紅鳶が当主となればこの事実を公にすることを見逃すということだ。
茜に通常の國力があればこんな要求はねのけられるのに、それさえも彼らの手の上だと思うと腹立たしいことこの上ない。
紅鳶の計画は失敗した。
鴻鵠の雛は、その羽を無残にも折られたのだ。
芙蓉に怒りを抱いても仕方のないことだと思いながら、心のどこかで失望した。
そしてそれが見当はずれな怒りであることも、心のどこかで冷静に理解している自分がいた。
「月樺様のことを侮っていたようですね。そんなものはすでに偽造済みですよ」
手渡された文書を握り潰すと、それを見ていたのか廊下には細い目の男が立っている。
先日地下牢に入れたはずだが、彼ならすぐに脱獄できるだろうとも思っていたので紅鳶も驚きはしない。
「李美、君はどこまで分かっていてあいつに加担したんだ。あいつは救世主なんかじゃない。その行為がいずれ僕自身の首を絞めると分からなかったのか?」
そう、紅鳶が言ったところで莫の眼差しは揺るがない。
彼は自分の主人が王となるための玉座を用意したに過ぎないのだ。
「最初から狂ってしまっているなら、俺は俺が納得する世界にしたいだけです。そしてその世界の王はあなたでなければ駄目なんです」
「君は……!!」
「紅鳶、もういいんだ。受け入れるしかないだろう」
紅鳶が今にも莫にとびかかりそうになった所で、後ろから耳慣れた声がかかった。
「兄上……?なぜここにいらっしゃるんですか!?儀式が始まるまでは自室にいらっしゃらないと……!」
「すべて聞いたよ。君が次の当主になるしかないようだね」
そう言う兄の顔は、何故か憑き物がとれたような顔をしていた。
それが何故か、すぐにわかる程度には賢い自分のことが紅鳶は嫌いで仕方がない。
やはり兄にとって一番の重荷は紅鳶だったのだ。
ああ、やはり自分などいないほうが良かったのだと思った。そうでなければ、もう少し馬鹿に生んで欲しかった。
そうすれば何も分からないまま、この國と一緒に滅んでいけたのに。
緋鶯はその気持ちを知ってか知らずか絶望に目を見開く紅鳶の手を取って言う。
「君がわたしのために差し出してくれた全てを、君が汚した手を、わたしは見ていなかったんだね」
「兄上、違うんです……!一時的に僕が当主につけばいい。それから貴方に家督を譲ればいいんです!再興の機会はいくらでもあります!だから……!」
そう言いながら、なんと荒唐無稽な計画だろうと紅鳶は顔を歪ませた。
そんな国がうまくいくはずがないのだ。
何よりその行為が兄の自尊心をどれだけ傷付けるのか、分かりながらも話していた。
紅鳶は緋鶯の手を握って懇願するように言う。
「僕の手は汚れてなんかない!見てください……!剣の鍛錬だってろくにしていないし、筆だって持っていません……!僕みたいな放蕩息子にいったい何ができるっていうんだ!!」
「それでもわたしは君に剣で勝てないし、君に囲碁で勝てないんだよ」
その言葉が全てを物語っていた。
紅鳶はもう何も言えない。
その言葉の通り、紅鳶は手を汚して苦労をせずとも全てを手に入れるだけの才を持っているのだ。
緋鶯が一日の半分を剣の稽古に費やしても一週間に数度稽古するだけの紅鳶に勝てない。
緋鶯がいくら碁について学ぼうが九歳の紅鳶にすら勝てない。
「紅鳶、君はいつもわたしを愛していると言ってくれたね。たとえそれが君の逃げ道であろうとも,わたしも君を愛していたよ」
「愛しています!たとえ兄上であろうとそのことを否定することだけは許さない!!」
性懲りもなく縋るように言うと兄は静かに微笑む。
そして袂から取り出した小瓶を一気にあおった。
「兄上!!!」
毒だ。
紅鳶は血を吐いて倒れる兄を必死で抱き起こす。
こんなことがしたかったわけじゃないと叫ぶが、言葉にならないまま嗚咽だけが口から洩れた。
兄上、兄上と譫言のように呟く。
愛している。
その言葉に嘘などなかった。間違いなく、この世で一番愛する人だ。
虫一匹かわいそうだからと殺せなくて、紅鳶の狩った兎に墓を作ってやって、花を摘み取ることすらしない兄。
愚かな弟の振りは楽しかった。
それが舞台の上で自分に割り振られた役だとずっと信じていた。
紅鳶は本当に兄のために優しいだけの国を誂えるつもりだった。時が違っていればそれで良かったのだ。
次代に繋ぐだけの國主であれば紅鳶もここまで悩みはしなかった。
国は今、変革期を迎えようとしている。
優しい兄は大きな波に耐えられない。
民のために涙を流してやることはできても、それだけしかできない人だ。
そんなこと、初めから分かっていたからなお苦しかった。
だから、危ない橋を渡って葵家と通じた。鴻鵠の雛を連れて帰った。
最後まで葵家と茜家の間を渡り歩いて足搔いてやろうと思った。
それらは全て水の泡となって消えた。
「何を……!何を飲んだんです!?」
そう問うても、緋鶯は何も答えない。
ただ彼らの髪よりも、瞳よりももっとずっと赤い血が口から零れては紅鳶の服を汚す。
茜家の髪と瞳が赤いのは人の血を浴びたからだというが、その赤は紅鳶の心までも真っ赤に染め上げていくようだった。
「君がすべてを背負うことはないんだよ……もとはと……言えばわたしの失敗じゃないか、なぜ君がそんな全部失ったみたいな顔をするんだい……」
「僕です、僕が兄上をこんなことに追い込んでしまった…!兄上は僕の全てなんです……!早くしろ!!兄上に水を!」
そう叫ぶと同時に緋鶯の従者たちが水差しを持ってこようとするが、わずかに残った力で紅鶯自身が制止する。
「……動くな。死ぬまではわたしが当主名代だ。最後くらい、わたしに背負わせてくれ」
兄に逆らうことなど、紅鳶にできるはずもなかった。
なにより、もう間に合わないのだとその場にいた誰もが気付いていたのだ。
もう紅鳶に残された道は一つしかなかった。
都合悪く廊下に軽い足音が響くと、紅鳶は決意を固めたように兄の身体から身を引く。
これから駆け込んでくるのは鴻鵠の雛だ。
あの怪物になぶられた可哀そうな小鳥が、よたよたとした足取りで駆けている。
そうと分かると紅鳶は腰にある剣を一瞬の判断で振り下ろした。
最後に兄の尊厳を守れるのは自分しかいないのだから。
※
「紅鳶様!!」
紅鳶の部屋に駆け込んだところで何をすべきか、芙蓉には何も分からなかった。
目の間に飛び込んだ光景に少しだけ残った思考もまっさらになる。
「……芙蓉」
衣服に緋鶯の血を受けて、全身真っ赤に染まった男はかつて兄のために優しい國を作ろうとした紅鳶だった。
けれど今芙蓉の前にいるのは兄の心臓に剣を突き立てた獣だ。
その瞳は何かを悟ったように揺らがず、闖入者を邪魔者のように見ている。その傍らには芙蓉たちが牢屋に入れたはずの彼のかつての従者が立っていた。
「緋鶯様…っ…!」
駆け寄ろうとした芙蓉に、触るなと腹の底から這うような声が浴びせられる。
兄の身体から剣を抜いた紅鳶は芙蓉に近づいてその頬に触れた。血で濡れた感覚に、芙蓉は蛇に睨まれた蛙のように身震いする。
「芙蓉、君の一族のおかげで僕たちはぼろぼろだ。もう、どうにかする手立てさえなくなった。意趣返しに君を殺してやってもいいけど,そうしたら僕たちは本当に滅ぶしかなくなってしまう」
「違う、こんなこと……!こんなことして、欲しかったんじゃ……!」
そう叫ぶ自分が情けなくて、芙蓉は思わず紅鳶に縋りつく。服に染み付いた血の感触がまだ温かくて、自分が来るのがもう少し早ければこの悲劇を止められたのではないかと一瞬だけ思った。
「違わないよ。良かったね、君の筋書き通りだ。僕が当主の席に座るしかなくなった」
「駄目です、叔父上に従っては駄目なんです!どうか、どうか考え直してください!」
何を考え直せって言うの、という声があまりにも虚しい。
何もかも手遅れだ。
そんなこと芙蓉自身が一番分かっていた。
「君は月英と違うんだ。何もできない、ただの人間だね」
「っ……!」
その言葉が、芙蓉の心を深く抉った。
そうだ、自分が月英ではないから悪いのだ。
父なら全てうまく収めることができたはずだ。
自分は鴻鵠の雛などではない。鴻鵠のなりそこないだ。
父と死別したことで完成することのなかった未完成品なのだ。
「芙蓉、ごめんね。君には少しだけ黙ってもらう必要があるみたいだ」
「えっ……?」
そう言って紅鳶はもう一度血の付いた剣を振り下ろす。
それが芙蓉の、紅鳶と対峙した最後の記憶だった。
※
時刻を過ぎても現れない緋鶯に慶朝が気を揉んでいると、駆け込んできた従者は子雀のもとに芙蓉が運ばれたことを告げた。
傷を負った彼女は意識が朦朧としているため子雀の治療を受けている、と。その報せに席を立とうとした時である。
慶朝は目の前の光景に目を見開いたまま数瞬、動くことができなかった。
ずるり、とあまりにも似つかわしくない音とともに入室した紅鳶に、初め誰もが手負いの獣が入ってきたのだと勘違いした。
家臣たちですらそれが放蕩ものの次男だとは気が付いてはいないようだった。
各國主たちの間をぬって、紅鳶は自らも怪我を負ったかのような足取りで歩いていく。
血で重くなった衣を引きずりながらやっと中央に座った慶朝の前に出ると、恭しく頭を下げた。
「随分と待たせてしまい、申し訳ありません。茜 紅鳶、新國主として慶朝様にお目にかかりたく参上いたしました」
彼の歩いた跡についた血の跡が、惨劇がつい先ほど起きたばかりであることを物語っている。
慶朝は嫌な予感とともに、問いかける。
「……紅鳶、緋鶯はどうした?」
「兄上は僕が殺しました」
その言葉に周囲の人間たちが一斉にざわつき始める。母などは、気を失って倒れるのではないかという程狼狽しているのが視界の端に映った。
それでも紅鳶はこれで良かったのだと、心の底から思う。
でなければ兄は当主という座に怯えて自害した臆病な男だと思われてしまう。
葵家の策略なのだと訴えたところで、この場にいる誰が信じてくれようか。
ならば自分が討ち取ったという筋書きの方が幾分もマシだ。
自分なら、何度でも汚名を被って良い。この世で唯一緋鶯は、紅鳶にそれを許された人間だ。
「紅鳶……?あっ、貴方は一体何を言っているのです?」
そう、消え入りそうな声で家臣たちに支えられながら問う母親に夫を亡くしてすぐに長男まで亡くすとは気の毒だ、と他人のようなことを思った。
「母上、母上も気が付いていたでしょう。兄上に國主の器がないことくらい。知っていて黙っていたのなら、貴方も僕も同罪です」
そう言うが早いか母親は失神してその場に崩れたが、紅鳶には兄以外の親族のことなどどうでも良かった。
「つまり、其方は國主の器のない緋鶯を廃して自分が当主に就くつもりだということか」
「その通りでございます」
その言葉に今度はあたりがしんと静まり返って張りつめたような空気が流れた。
國で最も位の高い葵蓮両家の当主たちは睨み合うように互いを見ているが、茜家より格下の薊・蘭・菫の國主たちはその様子を伺っている。
気の弱い藍の國主は今すぐにでも逃げ出したいような顔をしているが、鈴扇の兄でもある菫の國主は微動だにせず紅鳶を見ていた。薊の國主は葵と蓮どちらの派閥にでもすぐにつけるように、機会を伺っているように見える。
しばらく続いた沈黙を裂いたのは、慶朝には思いがけない人物であった。
「陛下、発言をお許しください」
そう、葵 月樺である。
たいして通りもしない声なのにやけによく聞こえたのは、それだけその場が静まり返っていたからだ。
本当に目立たない男だ。今日だっているのかいないのか、慶朝も気にしてすらいなかった。今も陶月の従者の一人かと思った何人かが驚いて彼を見ている。
陶月のように威厳があるわけでもなければ、月英のように特別賢いわけでもない。
けれど彼は滅法鼻が利くのだ。
それが葵家の次男、月樺という男である。
慶朝もあまり相手にしたくない男に眉を寄せるが、ここで拒む理由もない。
許そう、と言うと彼は紅鳶の横に立ち滔々と語り始める。
「私も紅鳶殿の就任には賛成でございます。緋鶯様が当主名代としてつかれている間に起こったことを、陛下もご存じでしょう。家畜の疫病に國庫の枯渇、先代の時には起きていなかった問題がいくつも起こり、その一つも解決に向かっていなかったのです」
その言葉に慶朝は唇を噛んだ。
慶朝がそれを聞かされたのは葵家が援助を申し出てから、もっとずっと後だ。子雀を派遣した時には既に病は茜國を蝕んでいたのだ。
かつての友とよく似た顔でとても普通の人間が考えつかないような所業をやってのけるこの男が、慶朝は心底憎らしくて仕方ない。
「その点、紅鳶様は私たちに助けを求めてくださった。この病は弟が研究していたこともあって私たちもぜひ解明したいと思っている次第なのでございます。喜んで援助をしようと考えておりますよ」
「罪人を國主として迎え入れると言うのか」
そう声を上げたのは國主のうちでも最も高齢である蓮國國主、蓮 梓睿である。
兄を殺した弟を迎え入れる気などないという明確な意思表示にはさすがの月樺も引くかと思ったが、すぐにくるりと梓睿に体を向けると不思議そうに首を捻る。
「罪人、はておかしな話ですな。貴方と同時期に國主になられた先々代の茜國國主は同じく兄を討ってその座に就いたのです。そもそも茜國では武に長けたものが國主となるのが常、何も問題はありません」
そうだ、と思いついたように月樺は手を打った。
「彼を倒して我こそが茜國の当主にと望むものがいれば今ここで名乗りを上げればいい。さぁ、どなたか紅鳶殿に勝とうというものがいればここで決着をつけましょう」
そう言って見渡すと、茜國ゆかりの者たちは皆委縮して下を向くか目を泳がせるばかりである。
勿論紅鳶に勝てるものなどいないのだと、月樺は最初から知っていて言うのだから意地が悪い。
「決まりではありませんか、陛下」
投了、そう言いたくて仕方がないような月樺を慶朝は不快そうに睨んだ。
「……口が達者だな、控えよ。月樺」
「申し訳ありません。長々とお喋りをしてしまい、陛下をご不快にしてしまいましたならお詫び申し上げます」
ちっとも悪びれる様子もなく月樺がそう言って兄の後ろに控えると同時に陶月が紅鳶の方を向いた。
「葵國は、紅鳶殿を新しい國主として喜んで迎え入れよう」
待っていたかのようにそう告げると、蘭國主と薊國主が従ってそれに賛同する。いくら皇帝と言えども、慶朝に今それに抗う正当な理由が思いつかなかった。
慶朝は勝負に負けたのだ。
苦々しい表情を浮かべながらも、慶朝は紅鳶に告げなければならなかった。
「茜 紅鳶、其方を新しい國主として迎える。その身尽きようとも余のために尽くすと誓え」
「皇帝陛下の仰せのままに」
平伏する紅鳶を、その場にいた誰もが固唾をのんで見守った。
抗いようがない。新しい時代の始まりだった。
※
「芙蓉!!芙蓉!!しっかりしろ!!あんたがここで死んでいいわけないだろ!」
寝台にうつ伏せに横たわった芙蓉を揺さぶる汀眞に清潔な布を煮沸してくるよう頼みながら、子雀はその手を彼女から剥いだ。
「こら、揺さぶったら駄目だ。傷口が広がったらどうする」
いくら蔦家の者と言えど、汀眞はやはりまだ世間知らずの子供だ。
すでに結構な量の血を出してしまっている病人を、焦って殺されたらたまったものではない。
着衣を剥いで上半身を露にした芙蓉の肌はあまりに白く、赤い血は花が咲いたように彼女の肩口に広がっていた。
血相を変えた汀眞と鈴扇が芙蓉を部屋に運び入れてから、そう時間は経っていない。
子雀だって芙蓉が紅鳶に斬られたと聞いたときは驚いたが目の前で焦燥する男二人を落ち着けるためにできるだけ冷静でいる。
鈴扇は芙蓉を下ろすとすぐにことの次第を見守りに向かったが、後ろ髪を引かれるようなその顔は今まで彼が一度も見せたことのないものであった。
二人が紅鳶の部屋に駆け込んだ時には既に緋鶯はこと切れ、芙蓉はそれに覆いかぶさるように倒れこんでいたらしい。
あまりにも最悪の終幕だ。
それを目の当たりにした若者たちのことを思うと子雀は不憫で仕方なくなる。
「あんた、なんでそんな冷静なんだよ!月英の娘が死にかけてんだぞ!っ痛!!」
吠える汀眞にすかさず子雀は手刀を食らわせた。
「患者が不安なのに、医者がそれ煽ってどうするんだ」
その言葉に黙り込む汀眞を安心させるように、子雀は芙蓉の傷口を縫い合わせながら言う。
芙蓉の傷は肩に五寸ばかりにわたってぱっくりと開いてはいるが、刃こぼれもなかったらしく錆が付着していなかったのが幸いだ。
「案外傷は浅いよ。あの野郎、綺麗に斬ってやがるから縫えばそれなりに綺麗にくっつくだろう」
「それなりって……」
「ああ、綺麗さっぱりってのは無理な話だよ。一生残る傷を残していくとはあいつもやるね」
その言葉が聞こえたのか、芙蓉の灰色の瞳が僅かに開く。
「……子雀さん」
「芙蓉、取り合えず今は喋るな」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいんだ、芙蓉。お前に全てを任せたあの坊ちゃんが悪いに決まってるだろ」
そう言っても芙蓉は何度も、ごめんなさいと謝り続ける。
子雀はすぐに、その謝罪の対象が自分たちではないことに気が付いて口をつぐんだ。
焦点のあわない彼女の瞳は朦朧としながら虚空を見つめている。
その顔には、彼女の汗で黒髪がぺたりと張り付いてしまっていた。
「私が……私が父上じゃないから……!!」
その言葉に、汀眞がハッとして隣を見ると子雀もまた複雑な顔のまま処置を行っていた。
葵 月英の娘、それが少女の抱えている運命であり強烈な呪いだ。
彼女の父親は神仙のような扱いを受けてきた男である。
何の見返りも求めず、口を開けて餌を待つ人間たちに知識という最高級の餌を与えながら生きた男だった。
汀眞はそれをこの娘にも求めてしまう人間たちの浅ましさを、残酷さをこの時初めて痛感した。
彼女を真に傷つけたのはその背にぱっくりと開いた傷口ではない。
彼女が葵家を前にして無力だったという事実なのだ。
そしてその傷は人々が彼女に期待した分だけ深く彼女の心を抉るのだ。
「芙蓉、誰にだって無理だった。これは避けられないことだったんだよ」
子雀が至極真っ当なことを言っても芙蓉は焦点の定まらない目で呟く。
「私が父上なら、全てうまくいったのに。叔父上の計画にだって気が付けたのに。私が全てを手に入れようとしたから。この手は二つしかないのに。父上との約束をやぶったから……!」
背にぱっくりと開いた傷口のせいもあって、今の芙蓉は翼を手折られた鳥のようだ。
押し寄せる大きな波に、必死で抗って小枝を運び続けた哀れな小鳥だ。
そのあまりの痛ましさに、汀眞は思わず目を背けたくなった。
慶朝は芙蓉を博士として迎えたいと言った。
その行為の意味するところを、初めて汀眞は理解した。
今見ているものは彼女の抱えてきたものの一端でしかないのだろうと思うと途方もない気持ちになる。
これが一国の王のやろうとしていることなのかもしれないと思うと目が当てられない。
「芙蓉、お前は月英先生じゃないんだよ。誰がなんと言おうと、お前はお前なんだって気が付いてくれ」
祈るように言う子雀の声など、今の彼女にはまるで届いていなかった。
「ごめんなさい、父上。ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
譫言のように呟きながら、芙蓉はその痛みに耐えきれず眠りにつくようにもう一度意識を失った。




