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鴻鵠の娘  作者: 納戸
籠鳥 雲を恋う
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2.この國のしくみ

 芙蓉(ふよう)、と懐かしい声が聞こえた。

 見ると隣で父が書物を開いて自分の顔を覗き込んでいる。

 これは八歳のときの思い出だ。こうやっていつも父に勉強を教えて貰っていたのだ。


「昔、皇帝が一人の臣下には皇帝が眠ったら衣をかけるように、もう一人の臣下には皇帝が眠ったら冠を外すように指示をした。あるとき、皇帝が眠ってしまったが衣をかけるはずの臣下は気が付かなかったため、冠を外せと言われていた臣下が代わりに皇帝に衣をかけた。さて皇帝はどちらを罰したと思う?」


 優しい声はいつだって芙蓉を正しい道へと導いてくれた。


「職務を怠った衣をかけるはずだった官吏ではないでしょうか」


 芙蓉が答えると父はいたずらっ子のような笑顔で話し始める。


「正解はどちらも罰したんだ。一人は君が言う通り、職務を怠ったから、もう一人は職務を超えたからだ。これは一人の人物への権力の集中を戒める俗話だが、君にはもう一つこの話から学んでほしい。君は何でも自分ひとりでできてしまうけど、たまにそれを過信するね」


「うぅっ…」


 痛いところを突かれて思わず唸る。父は芙蓉が何でも引き受けて気まずそうな顔をして、彼に助けを求めにくることを言っているのだ。


「他人の仕事を奪ってしまえばその人間の成長は止まる。さらに、君の本来の仕事も疎かになるということを忘れてはいけない。

 芙蓉、君の手は二つしかないんだ。すべてをその手で救おうなど傲慢だよ」


 はいと不満そうな自分の声が聞こえる。

 ああ、まったく父には適わない。



 ※



「……蓉殿、芙蓉殿」


 自らの名を呼ばれ、芙蓉はいきなり現実に連れ戻された。

 父の顔が見えた気がしたのは夢だったようだ。呆れた顔で芙蓉を覗き込んでいるのは昨日初めて会った蘭國府の國令副官、陸 嬰翔(りく えいしょう)であった。


「っ!?嬰翔様!……痛っ…ここは?」


 嬰翔の顔を見て起き上がろうとした芙蓉だったが、体の重さと腰の痛さに耐えきれず一度は上げた体をもう一度寝かせることになる。慣れない馬の背に一晩中乗っていたせいですっかり腰を痛めていた。

 芙蓉が半ば気絶するように眠っていたのは布一枚敷かれただけの質素な長椅子である。どうやらここは官吏が使用する仮眠室のようだった。


「蘭國の國都(こくと)青漣(せいれん)にある蘭國府です。鈴扇(れいせん)の馬の上で気絶されていたので驚きました。もう少しお身体を鍛えられたほうがいいですね」


 嬰翔は呆れたように芙蓉がようやっと体を起こすのを見ている。


「おっ、思い出しました……私、蘭國府に異動に……」

「お若いのに情けない。僕がここまで背負って運んできたのですよ」

「……申し訳ありません」


 そんなことを言っても芙蓉は六年間、ほとんど運動もせず暗い地下にいたのだ。会試に通ったことも褒めてほしいくらいである。そもそもが女なのだ。彼らとは体のつくりが違う。


「落ち着かれましたら、どうぞ。お茶を淹れてきました」

「ありがとうございます。嬰翔様、随分手慣れてらっしゃいますね」


 嬰翔はその身のこなし、華美ではないが物の良い服装や装飾品を見るに相当の名家の出であることは確かなのだが、どうも昨日から見ていると雑事に慣れている節がある。芙蓉の目の前に置かれたお茶も口にすると丁度良い温度で、彼の苦労が滲み出ているような気がした。


「鈴扇が経費の無駄使いだと言って給仕もほとんどいませんからね」

「國令が雇用機会を自ら減らしているのですか?」

「まあ、前いた女官は鈴扇に色目を使うばかりで使い物にならない者も多かったので」


 ああ、と芙蓉は昨日見た鈴扇の美しい顔を思い出して苦笑いする。美人は職場環境まで変えてしまうのか。


「それは、なんというか…しょうがないですね」

「おかげで僕も炊事洗濯等、一通りの家事ができるようになってしまいました」


 遠い目をする嬰翔を見るにやはりそれが本意ではないのだろう。八つは年が離れているであろうこの男が、芙蓉はどんどん可哀そうに見えてきた。


「芙蓉殿は一國の保有する官吏の数を知っていますか」


 芙蓉の向かいに座りながら嬰翔は問う。

 芙蓉はすぐに姿勢を正してその問いに答える。


「私たちのような長吏(ちょうり)を含めて、約五百人と聞いたことがありますが」


 長吏、国試を通り国に勅任されて地方に派遣させる官吏を意味する言葉である。地方で採用される官吏はこれと区別して小吏(しょうり)と呼ばれ、課される試験も比較的平易なものとなっている。


「さすが、よく知ってらっしゃいますね。

 官吏を監察する刺史(しし)、各國の治安を治める武官の長である國尉(こくい)、そして國の政治の第一責任者となる國令(こくれい)、およびこの三官の副官と各曹の長官である掾史(えんし)を合わせた十一名のみが中央から派遣された長史と呼ばれる官吏です。そして驚くべきことにわが県の小吏の数は、なんと百人です」

「百人!?……というと他の國の五分の一なのでしょうか…?」


 とても信じがたい数字に半信半疑で分かり切った答えを問い直すと、はいと暗い返事が戻ってくる。見ると嬰翔はこめかみを抑えて苦悶の表情を浮かべていた。


「上から下まで、全員が死に物狂いで働いているんです。どこかの人の気持ちを理解しようともしない一見頭のいいお馬鹿さんのせいでね」

「それって鈴扇様のことですよね……」

「ええ、もちろん。そのせいでうちの官吏は長くて一年、短くて一か月で姿を消します」

「そんな状態なんですか?」

「でもね、あの人も大馬鹿というわけではないんです。鈴扇が大幅に人員を削減してからむしろ効率は上がりました。五百人の仕事と、百人の仕事では実はほとんど速度も変わりません。國府の膿をすべて出し切ってすっきりした鈴扇は何が悪いのかと、僕に問いました」


 答えられませんでしたよ、と嬰翔は苦笑した。

 芙蓉はそう言われ昔父から受けた戒めを思い出す。


『君の手は二つしかないんだ。全てをその手で救おうなどと思うのは傲慢だ』


 父は芙蓉が「他人に任せるより自分でやったほうが早い」と言うと苦笑いした。この状況はそう言われたときの自分とよく似ていると思った。もっとも、そう言われた側の芙蓉が解決できる問題かと言われたら難しい話だが。


「嬰翔様は私に鈴扇様のやり方を変えて欲しいというわけですね」

「お話が早い」

「では早速鈴扇様のところに参りましょう」


 叔父から与えられた四士までの官位を得るという条件を満たすために引き受けた副官職だが、与えられた仕事は全うするつもりだ。そのためには現状を知る必要がある。


「その前に」


 立ち上がろうとする芙蓉を制して嬰翔は休憩室の窓を開け放つ。

 王都より数段冷たい風と共に、雑踏の音と露天商の声が部屋に入ってきた。


「芙蓉殿、蘭國へようこそ。青漣の街を案内いたします。鈴扇にはあなたを案内してから自分のところに戻れと言われていますので」


 嬰翔が開け放った窓の先、そこには芙蓉が見たこともないような見事に青色に染まった街が見えていた。





 嬰翔が芙蓉を連れ出したのは蘭國都 青漣の街であった。

 青漣はその名の通り青を基調としたものが多く、街を彩る旗や幕はほとんどが瑠璃色をしている。葵國の國都である黒佳は黒を基調としているためこちらのほうが当然、華やかに見えた。

 この國の人間は街を彩る青と同様の虹彩の色を持つものが多い。これはこの國を統べる蘭家の持つ瞳の色であり、人々の宝石のような瞳の中で芙蓉の山猫のような灰色の瞳は随分と地味に映った。


「綺麗な街ですね」


 隣に立つ嬰翔の(みどり)の瞳にも引け目を感じながら芙蓉は街をぐるりと見渡して言う。


「王都とはまた違った華やかさがあるでしょう。僕は薊國の出身なので朱を基調とした街並みで育ちましたが、慣れると青もいいものです。蘭國の主産業について聞いたことはありますか?」

「たしか窯業ですよね」

「ええ、陶器だけではなく瓦や敷石まで多岐にわたる製品が作られています」

「それで異国との塀の修理も公共事業となっているわけですね」


 蘭國はその背の西側を山に、東側を平地に囲まれた國だが薊國(けいこく)のように異国と交易があるわけではない。よってその平地の部分は高く積み上げられた塀が国を守っているのだ。


「よく知っておられますね」

「実は以前少し住んでことがあります。國のはずれの村ですけどね」


 芙蓉がそう言うと嬰翔は探るような目つきになる。


「失礼ですが、そのような地域に住んでいた方があの成績をたたき出すというのは興味深い話ではありますね。ぜひ、またの機会に勉強方法をお聞かせいただきたい」

「まっ、まあ私の話は今は置いておきましょう」


 墓穴を掘ったことに後悔しながら芙蓉は先ほどから気になっていたことを嬰翔に問いかけた。


「蘭國の陶器は頑丈ですが少し質素過ぎませんか?絵付をする職人はいないのですか?」

「質素ですがその分安価ですし、人気はありますよ。そうですね、そういった職人というのは聞いたことがありませんね」


 先ほどから見ていると、露天商が並べている陶器は特徴のないものばかりだ。確かに葵國のものと比べれば価格は抑えられているが、購買意欲は湧かない。

 さらに言うと、鮮やかな瑠璃色に目がいくせいで分かりにくいが装飾品や宝飾品を売っている店も少なかった。


「職人がいない…失礼ですが嬰翔様。蘭國ってもしかして教育機関があまり発展していないのではありませんか」

「……ご名答です」


 芙蓉の指摘に嬰翔は苦い顔をする。やはりそうだ。

 芸術も学問も発展していない街の人間は付加価値に興味がない。付加価値というものは心に余裕のある裕福な人間にのみ、その効力を発するのだと芙蓉は父に教えられた。それは宝飾品だけではなく勉学にも言えることであり、これが民に学が普及しない理由だ。つまるところ付加価値とは、人によっては無駄そのものなのだ。


「僕たちもそこまで手が回らないのです。そもそも、官吏とはそこそこの貴族の溜まり場でしょう。だれも庶民の教育に時間を割こうとはしません。庶民階級出身でもあなたのような人間がいるというのは分かってはいるのですが」


 その点において、芙蓉は父という最高の教師を生まれながらに持っていたため参考にはならないだろう。この六年、国中の本を集めた地下牢にいたためむしろ環境としては他の受験者より良かったかもしれない。

 わざとらしく咳ばらいをして話を戻す。


「朝廷で教育に関わるといえば礼部(れいぶ)ですが、國府で教育機関を司っているのはどこの部署なのですか」

「芙蓉殿は國府の仕組みについてはいくらかご存じですか」

「一応は分かりますが所詮は紙の上の話なので実情まではよく知りません」

「では少しお話ししましょう。國という名前を持つだけあり、國府には六部(りくぶ)に似た仕組みがあります。人事を担当する吏部(りぶ)は中央にしか置かれないため、地方國府は五曹で構成されます。朝廷の六部の長は尚書と呼ばれますが、地方五曹の長は掾史(えんし)と呼ばれます」

「嬰翔様はその、副々官となってしまったわけですがその場合の官位はどうなるのですか?」

「そんなの僕が聞きたいですよ。まったく、好き勝手が過ぎます」


 ふと気になって話の腰を折ると、嬰翔は苦言を呈した。

 それでも彼には降格に落ち込んでいる様子はない。ただ面倒なことが増えて困っただけという様子なのが芙蓉には不思議だった。


「ついてきた私が言うのもなんですが一國令が勝手に配置を変えることって許されているんですか?」

()()()()()許されているんです。それだけの働きはしていますし、何より六大家の出身ということはこの国では恐ろしく優遇されますからね」

「あぁ、菫家は優秀な官吏も多く輩出してますしね」


 菫家の優秀さは、書庫に籠ってばかりの芙蓉ですら知っている常識だ。

 嬰翔の呆れた顔を見ればわかるようにこれがこの国の悪いところだ。七つの国を集めてしつけ糸で縫い合わせたような一面を未だ持っているせいで、いつまでも六大家の王族気取りが抜けない。


「話を戻しますが、もちろん教育に関わる礼曹は國府にも存在します。しかし我が國では小吏試験で手一杯でして新しく教育機関を作る余裕もありません」

「つまりこの國には小吏を育てる機関もなければ、小吏を雇用する姿勢もないと」

「お恥ずかしい限りです」


 これでは民が腐ってしまうのも当然である。芙蓉にはもう一つ気になることがあった。浮浪者は少ないようだが、街に活気があまりないのだ。

 街自体が生きるために最低限に機能しているような、そんな違和感があった。

 唯一盛り上がっていると言えば街角の賭け事に興じる人々くらいのものである。


 ふとその中で芙蓉の目に留まるものがあった。


「芙蓉殿、何見てるんです?」

「あれは何ですか?」


 芙蓉が指さしたのは市場の隅で男たちが囲んでいる鮮やかな盤だ。


「あぁ、あれは賭けゴマですよ。見たことありませんか?六角形のコマを真ん中の盤に投げるんです。六つの角はそれぞれ赤・紫・青・黒・白・朱の色で塗られています。コマが止まった時に上に向いている色に賭けていたら勝ち。盤の横に机があるでしょう、あそこに賭けるんです」


「六大家の色を使うとは高貴な遊びですね」


 赤は(せん)家、紫は(きん)家、青は(らん)家、黒は()家、白は(れん)家、朱は(けい)家の色とこの国では昔から決まっている。その色を堂々と使うとはなかなか豪胆な遊びである。


「簡単な庶民の賭け事ですよ」


 嬰翔はそのまま歩いていこうとするが何故か芙蓉はその場から離れようとしない。じっと観察するようにその盤を見ている。

 芙蓉は賢くそつのない少年だがところどころ浮世離れした節があり、嬰翔はそれが少し引っかかる。そもそも、庶民の身分で百巻に及ぶ政治書を手に入れることなど不可能だ。それを少年は六年間毎日読んでいたと言った。その容姿から好事家(こうずか)に拾われでもしたのだろうかと、嬰翔は変に勘ぐってしまう。

 灰色の目が見る先を嬰翔も見つめてみるがいつもの街の光景があるのみである。


「やってみたいんですか。ああいうのは最初は勝てますが最後は根こそぎ持っていかれますよ。どういう訳かは分かりませんがね」


「嬰翔様、あの派手な女の人見ててくださいね」


 やっと口を開いたと思うと、芙蓉は賭け師の横に座っている女を指さした。


「うーん、見ようにも、ちょっと目のやり場に困るんですけど」


 おそらく妓女である女の胸元はその豊満な体を見せつけるようにざっくりと開いており、男からしてみると思わず目を背けるか目がいってしまうかのどちらかだ。嬰翔はその前者であった。


「胸を見ろと言ってるわけじゃないですよ」

「いやでも男として目が行ってしまうというか」


 悶々と自問する嬰翔を、芙蓉はちらりとも見ずコマの回る盤を見続けている。


「そこなんです、目のやり場に困ってみんな肝心なところが見えてないんです。彼女の手を見てください」


「随分大きな指輪を嵌めてますね。馴染みの客にでも貰ったんですかね」


 彼女がつけているのは、とても庶民が手に入れられるとは思えない大きな指輪だが不思議なことに宝石が嵌められていない。言われて見ると妓女が好んでつけている代物には見えない。


「あの指輪がおかしいんです。盤の周りが布で囲まれてるせいで分かりにくいですが彼女は賭け師が目配せした時だけ手を盤の下に滑り込ませています」


 ほら、と芙蓉が言うと確かに彼女は賭け師と一瞬だけ目を合わせるとその腕をするりと盤の下の布に滑り込ませた。確かに男の悲しい性ゆえに、彼女の手になど目がいっていなかった。


「本当ですね」


 それを見ていたのかと感心していると驚くことに芙蓉は賭け師の合図の意味を言い当て始める。


「まばたき一回は黒、二回は白、鼻を触った時は赤…といったところですかね。嬰翔様が言う通り一定額以上は勝てないようになっているみたいです」

「なるほど…でもどうやってあの指輪で操作してるんです?」


 嬰翔が問うと、芙蓉は鉄ですよと言う。


「コマには鉄、そして彼女の指輪には磁石が入っているんです。彼女が頬杖をついたときを見ていてくださいね。ほら、金属が磁石に反応しているでしょう」


 芙蓉の言う通り彼女が頬杖をついたとき、彼女の首飾りの装飾が逆立つように指輪に反応している。しかしそれはほんの僅か、芙蓉に言われても目を凝らさないと分からないほどのことだ。


「あなたあれをこの数分で…?」

「おそらく彼女は指輪を盤のどの部分に当てればコマがどう倒れるか知っているんです。嬰翔様、少し待っていてくださいね」


 そこまで言うと芙蓉は嬰翔を置いて人ごみに向かって大股で歩き始めてしまった。


「あ、ちょっと!芙蓉殿!着任早々揉め事は困りますってば!」


 嬰翔が言ったときにはすでに遅く、芙蓉は一際負けていそうな男の横にいくとその肩に手を置き、


「お兄さん、青に賭けてください」


 と囁いていた。いったい何をするつもりだと嬰翔だけではなく周りの人間もざわつき始める。


「はっ、はぁ?」

「いいから」


 芙蓉はその灰色の瞳を輝かせて言う。

 男はいきなり現れたやけに自信満々の少年に驚くがその勢いに気圧される。


「ええぃ!もうやけだ!全部持ってけ!」


 男が青の陣地に金貨を置いたと同時にコマが回り始め、賭け師の男が二回まばたきをするのが見えた。白だ。

 それを確認すると芙蓉は盤の横で豪快に石に躓いたふりをした。その拍子にコマを操る女の右側に財布が転げ出る。それからわざとらしく痛みに歪んだ顔に手を添えると、


「痛っ……お姐さん、すいません。それ、取ってもらっていいですか?」


 と女の方を見て問いかけた。


「え、ああ」


 男装した芙蓉は母性本能くすぐる可愛らしい美少年だ。そんな少年の痛々しい姿に女も思わず目が行きその指示に従ってしまった。


「あっ、こら!」


 賭け師がそういうのを聞いて芙蓉はしめたと口元を緩める。女が油断してとっさに右手で財布を拾った瞬間コマがコトンと止まる音がした。見るまでもない、というように立ち上がると「ありがとうございます、お姐さん」と女に声をかけた。


「すげえ!ひとり勝ちだ!」


 見事青で止まったコマにどっとあたりが歓声に沸くが、青に賭けた男は言葉を失って半信半疑で芙蓉を見つめている。


「まったく商売あがったりだ、今日はやめだよ!どいたどいた!」


 呆然とする女としたり顔の芙蓉を「ふんっ」と一瞥して賭け師は男の前に金貨を置くと、そそくさと盤とコマを持って逃げるように去っていく。残された人ごみは芙蓉を囲んでしきりになぜ分かったのか聞きたがった。

 芙蓉はその問いにはろくに答えず、男によかったですねと声をかけた。


「坊ちゃん、あんたなんで俺にだけ教えてくれたんだ?」

「あなたこれから葵國に行くんでしょう?こんな場所で負けてる場合じゃないって顔に書いてありましたよ。私も葵國出身なので放っておけなかったんです」


 芙蓉は男の荷物にかかっていた葵の手形を指して言う。男が有り金を出し切って旅に出られなくなるかもしれない、というのは彼の百面相を見ていたらすぐに分かった。


「ありがてぇなあ。そうだ坊ちゃん、飯奢らせてくれよ。今のでだいぶ浮いたからな」

「ありがとうございます」


 ぱっと顔を綻ばせて礼を言いそのまま男と歩いていきそうになる芙蓉の肩を嬰翔が「待ってください」と掴んだ。事の顛末を取り巻きの最後列から何もできずに見守っていたのだ。


「ちょっと芙蓉殿、僕のことを忘れていませんか。聞きたいことがいろいろあるんですが」

「あっ」


 振り返った芙蓉の顔にはすっかり嬰翔の存在など忘れていた、とはっきりと書かれている。


「嬰翔様もご飯にしませんか、私歩き回って疲れちゃいました」

「あなた、僕のこと完全に忘れてたでしょ」

「坊ちゃんの連れかい?俺は今気分がいいからあんたの分も奢ってやるよ」


 男に背を叩かれて細身の嬰翔は思わず咳き込む。とてもこの國の國令の副官とは思えない姿だ。


「もしかして、僕もう一人問題児を連れてきちゃったんじゃ……?」


 嬰翔は彼を置いて歩きだす芙蓉の背を見て深いため息をついた。





「っていうと、あの女がコマを操ってたのかい?」

「そうです」


 運ばれてきた料理に箸をつけながら禮沢(れいたく)と名乗った男は芙蓉に感心の声を上げた。


「嬰翔様には、コマの中の鉄を磁石で操ってることは説明しましたよね。操れるということは、鉄はどこかに偏って埋め込まれてるんです。つまり鉄の部分に重心がずれる、倒れやすくなる角があるんです。彼女が盤に触っていないときはいつも青が出ていたんですよ」


 何でもないことのように言うが芙蓉が見ていたのはたった数回の勝負だ。


 本当に恐ろしい洞察力だ。


「それをあの短時間で見抜いたんですか?あなた、本当に呆れるほど目がいいんですね」


 磁石の件と言い、嬰翔は芙蓉に少しの間で驚かされてばかりだ。


「でもよ、合図に法則性があるんだったらそれを見てたらずっと勝ち続けられるんじゃないのかい?」


 禮沢が言うと芙蓉は箸を男に突き付けてそれですよ、と言う。


「それがいやらしいところですよ。金子を賭けることができるのはコマが回り始めるまで、合図が送られるのは回り始めてからです。合図の法則性に気づいたところで勝てないんです。指輪がおかしいなんて言っても、彼女が川に投げ捨てれば証拠はなくなってしまいますしね」

「坊ちゃん小っちゃいのに知恵が回るんだなあ」


 そう言って禮沢は芙蓉の頭をがしがしと乱暴に撫でた。


「…あの、坊ちゃんって呼ぶのやめてください。私だって来年には成人の年なんです」


 ぼさぼさになった髪を整えながら芙蓉は不満そうに言う。


「簪の方が似合うんじゃないか?」

「それ以上言うならさっき勝ったお金半分要求しますよ」

「それは勘弁してくれよ、ここの料金が払えなくなっちまう」


 この国では女性なら家長から簪を、男性なら冠を拝することで成人を迎える。笄冠と呼ばれるこの儀式は女性なら十五、男性なら十八で受ける習いなので実は芙蓉は成人しているのだ。もちろん儀式は受けていないのであくまで年齢的に、というだけであるが。


「何でも見通せる目と完璧な頭脳…か、厄介な組み合わせですね」


 嬰翔は茶をすすって、二人には聞こえないようにそっと呟く。


「禮沢さんは葵國には何をしにいかれるんです?」


 芙蓉が聞くと彼は意気揚々と話し始めた。


「よくぞ聞いてくれた、俺は葵國の私塾に入りに行くんだ。ここの國と言ったら國主様も國令様も庶民は勉強しなくていいと思ってるんだ。おかげで俺たちが学ぼうと思ったら隣の國まで行かないといけない。坊ちゃんは官吏の人かい?國令さんに会うことがあったら言っといてくんねえかな」


 目の間にいるのがその副官だと言ったら彼はひっくり返るだろうなと思いながら芙蓉は何も知らない風を装う。さらに言うと彼が言う葵國の私塾というのは芙蓉が叔父に助言した政策の一つであり、遠くからも人材が集まっていると知ると嬉しくもあった。


「はい、國令殿に会うことがあればきちんとお伝えしますね」


 そう言うと隣で嬰翔が笑いを堪えているのが見えた。


「俺は蘭國が好きなんだよ。六つの國の中で一番治安もいいし空気もいい。でも、もし自分がこの國で子供を持ったらと思うと不安だ。だって、俺たちはきっと子供に農民以上の夢を見させてやることはできねえだろ」


 芙蓉は一瞬言葉を失った。

 子供は無力な生き物だということを芙蓉は嫌というほど知っている。彼らを包む身分という繭は歳をとれば、やがて抜け出せない鋼鉄の檻となるのだ。


「…とても参考になる意見です、必ずあなたのその思い國府上層部に届けましょう」

「本当かい、坊ちゃん。頼んだよ」


 はい、と神妙な面持ちで答える芙蓉を嬰翔はその碧の目でやけに厳しく見つめていた。



 ※



「芙蓉、青漣はどうだった」


 嬰翔とともに蘭國府に戻ってきた芙蓉に開口一番鈴扇はそう聞いた。

 一通り青漣の街を案内され、外はすっかり夕暮れ模様となっている。

 鈴扇が芙蓉の方を見ようともせず腰を掛けている席は、彼の政策同様何の意匠も凝らされていない簡素な椅子だ。こういう人間がこの國を治めているのだ。

 蘭國は他の國に比べ規模が小さいとはいえ、國主が國令に治世の殆どを任せていると聞く。つまり、ここは今鈴扇の國なのだ。


「とても綺麗な街でした」

「そうか、良かった」


 書類から顔を上げようともしない鈴扇に芙蓉は、ですがと付け加える。


「私はこの國に来て感じたことがあります」


 隣にいた嬰翔は先程の芙蓉の出しゃばりともいえる行動に警戒しているのか、彼女に余計なことを言うなとでもいうような視線を向ける。その口は「また今度に」と動いていた。芙蓉なら読み取れるだろうという彼の予想は正しいが従うつもりはない。

 そんなことに動じる芙蓉ではなかった。


「言ってみろ」

「恐れながら申し上げますが、上層部でのみ政治が回っているという印象を受けます。税はきつくはありませんし、生活に困窮している人間も少ない。ただ、活気がないのです。公共事業はありますが、与えられるのは国の塀を固めるという単調な作業だけ。あなたは、民に金だけ与えれば良いと思っているでしょう」

「芙蓉殿……!」


 芙蓉の物言いに嬰翔が声をかけるが、鈴扇は眉一つ動かさない。


「何か間違っているのか。仕事も与えているし、彼らは食費と家の修繕くらいにしか金を使わないのにこれ以上増やす必要もない」


 これくらいの小言は嬰翔から言われ慣れているのだろう。芙蓉は自分の声が響いていないのを確認するとさらに追い打ちをかける。


「民は何が起こってもあなたたちが何とかしてくれると良い意味でも悪い意味でも信じ切っています。信頼と怠慢が同義になってはならないのです。教育といえば読み書きと簡単な算術くらいしか教えない。

 あなたは人材が他國に流れていることを知っているのですか」


 そう言われて初めて鈴扇は顔を上げた。


「本当か、嬰翔」


 嬰翔は彼が反応したことに驚きながら、昼間に会った男について報告する。


「え……ええ、現に私が芙蓉殿を案内している最中、葵國に学びに行くのだという若者に会いました。葵國は最近教育制度と優秀な人材の教育費を補助する制度ができあがりましたからね。あれは國令ではなく葵 陶月様の案だと聞きました」


 叔父上は派手なことが好きなだけだ、と芙蓉は首元まで出かかった言葉を飲み込んだ。そもそもそれは芙蓉が提案した事業であり、教育費の捻出や学び舎の工事費の捻出まで算盤を弾いたのは芙蓉なのだ。


「だから私でさえ王都まで攫いに来なければならなくなるのです。私のような人材がこの國にだっているかもしれないのです、あなたはみすみすそれを逃すのですか?」

「実に耳に痛い意見ですね」

「私は昔父に言われました。仕事を奪ってしまえばその人間の成長は止まる。さらに、自分の本来の仕事も疎かになる。全てをたった二つしかない手で救おうなどとは傲慢だ、と。この國の政治はまさにその通りなのです」

「私は一人で行おうなどと思っていない。頼れると思った部下に仕事を回している」

「鈴扇様はそう言って何人の部下がやめていくのを見ましたか」


 鈴扇は嬰翔を睨みつける。


「嬰翔、お前何か喋ったな」

「全員一年を待たずして辞めていくのは事実でしょう」


 嬰翔は芙蓉に勝機があると思ったのか芙蓉を止めようともせず開き直った。


「それだけの信念がなかったんだ」


 芙蓉は呆れたとでも言いたげに眉をぴくりと動かす。

 もちろん精神的な信条を否定するつもりはないが、信念だけでどうにかなる問題はこの世に殆どない。


「人事において精神と肉体は切り離して考えるべきです。あなたはこのままでは民の気持ちも官の気持ちもわからぬへっぽこ官吏ですよ、鈴扇様」

「へっぽこ…」


 そう言われて鈴扇は芙蓉を見つめたまま固まってしまった。


「芙蓉殿、そのへんにしてあげてください。鈴扇、根っからの貴族育ちなのでそういった言葉に慣れていないんです」


 いくらなんでも可哀そうだと思ったのか、嬰翔は上司の肩に手を置き固まってしまった彼の目の前で手の平を振る。鈴扇ははっとしてようやく息を吐きだした。


「嬰翔様も甘やかさないでください」


 そうやって唯一注意できる立場である嬰翔が甘やかすからこの周りの見えていない國令がいつまでも腰を上げないのだ。

 芙蓉が憤ると嬰翔は厳しい顔をする。


「あなたの言う通り、僕が悪い面もあります。しかし、物事には順序があります。あなたの言葉はまるで効きすぎる薬のようだ。用量を間違えると体が驚いてしまうでしょう」


 そう言われて、芙蓉も言葉に詰まる。確かに矢継ぎ早に悪いことばかり話しすぎてしまった。

 反論するために吸い込んだ息を吐きだして、バツが悪そうに謝罪する。


「申し訳ありません、勇み足でした」

「あと、ちゃんと反省しているのでしたら不貞腐れた顔はしないほうがいいですよ」

「……はい」


 やっと落ち着いたと嬰翔が溜息を吐いたときだった。


「鈴扇様、私に少し戸曹をお預けください」


 芙蓉は顔を上げまたもや鈴扇に意見していた。


「あ、あなたはまた…!」

「もとから戸曹の官吏がやめて困っていたところだ。嬰翔、補佐してやれ。お前ならできるだろう」

「できるとやれるは違うんですよ、鈴扇」


 案外快くその提案を受け入れた鈴扇に、嬰翔は反論するがその目はすでに据わっている。


「では訂正する。お前ならやれるだろう」


 無駄なあがきだと判断したのだろう、結局嬰翔は「分かりましたよ」と了承する。


「ただし芙蓉、お前は副官だ。嬰翔に副官の業務も習え。それが両立できないならすぐに降格だということを忘れるな」

「はい、承知いたしました!」


 そう言う芙蓉の顔が晴れやかなことに、何故か嬰翔は不安を覚えるのであった。







 芙蓉が戸曹の管理を行うようになってから、十日間が立った。


「鈴扇様、おはようございます」


 早朝、廊下を歩いていた鈴扇に声をかけたのは鈴扇が着任する前から戸曹で働いている(けい)という男である。歳は五十を過ぎており、鈴扇も彼を働かせすぎることにはすこし後ろめたさを感じている。


「ああ、おはよう」


 そう言って彼と廊下で行き違ってから鈴扇はあることに驚いて振り返った。信じられないという顔で自分を見ている鈴扇に珪は苦笑する。


「あからさまに不思議そうな顔をするのはおやめください、鈴扇様」

「……随分とすっきりした顔をしているな」


 普段なら空が明らんでいるのを見ても、朝焼けか夕焼けか分からずに走り回っているはずの彼が今日は身綺麗な格好をして鈴扇に挨拶をしたのだ。


「芙蓉様がいらっしゃってから私たちも十分に睡眠が取れるようになりました。おかげでこの通り、隈もすっかりなくなりました」


 見ると本当に彼の目元に隈はない。今まで不健康そうな彼しか見たことがなかったので本当はこんな顔をしていたのかと鈴扇は素直に驚く。


「あいつは何をしたんだ?」

「それは実際に見られたほうがよろしいかと。そうですね、しいて言えば芙蓉様は私たちの顔を見て話してくださいます。宜しければご案内いたしますよ」


 合点の行かない顔をする鈴扇を珪は彼の職場に向かうよう促す。


「ああ、ご一緒させていただく」


 素直に従う鈴扇に珪は面白そうに「ほう」とつぶやく。


「彼にかかれば冷酷で融通の利かない官吏として有名なあなたが借りてきた猫のようにおとなしくなる。芙蓉様は面白い子ですね」

「貴方にしてみればあれは孫のようなものだろう」

「鈴扇様も私の息子のようなお年です。これは失礼いたしました。我が國の國令殿と副官殿に向かって」

「いや、いい。若造が貴方の職場を何度も荒らしてしまってすまない」

「若者は元気が一番です。それに芙蓉様は荒らしたわけではありません。()()()()()()()()といって過言ではない」


 どういうことだ、と問おうとすると既に戸曹の扉の前に到着していた。


「芙蓉様、鈴扇様がいらっしゃいましたよ」


 珪が声をかけても、そこには芙蓉の姿は見当たらない。

 扉を開いてみて、まず鈴扇が驚いたのはその机の数だ。鈴扇が五分の一にまで減らしたはずの机が何故か元の位置に戻っている。さらに言うと、そこに座っているのは小吏ではない。明らかに庶民層の青年たちであった。


「ああ、どうやら隣の部屋に行かれているようですな」

「隣の部屋も使っているのか?」

「はい、足りないと言われるのでお貸しいたしました。部屋だけはたくさん余っておりますので」

「一体どういうことなんだ?」

「私の塾生に戸曹の仕事の一部を手伝っていただいているのです」

「塾生?」


 後ろを振り返ると芙蓉が算盤(そろばん)と教本を持って、戸を開けて入ってくるところだった。


「お久しぶりです、鈴扇様」

「そこにおられましたか、新しく入られた方の面倒を見ておられたのですか?」

「はい、なんと商家の出身らしく簡単な計算は皆さん理解しておられます。掘り出し物ですよ、珪さん」

「それは宜しかった」


 珪は孫を見るような目で誇らしげな芙蓉に笑いかける。

 状況が呑み込めない鈴扇に、塾生と呼ばれた青年たちに面した机に座っていた嬰翔が芙蓉に説明を促す。


「芙蓉殿が簡易的な私塾を開かれたのです。その塾生ですよ。芙蓉殿、鈴扇に分かりやすく説明してあげてください」

「はい、嬰翔様。鈴扇様に戸曹を任され、手始めに私は街に算盤塾を開きました。それから彼らに勉強しながら俸禄が出るから、働いてみないかと伝えたのです。平民にとって勉学の最初の壁は頭の出来ではなくお金です。そこで私は彼らに算術を教えながら実践的に戸曹の仕事を回し、俸禄を与えました」

「俸禄はどこから出したんだ」

「あなたが小吏を雇わず貯め込んだお金です。貯めるのは結構ですが、お金は回さないと腐りますよ」


 つまり、芙蓉は國府の金を使って民を教育し、小吏への引き抜きを考えているのだ。

 鈴扇や嬰翔のような貴族出身の一般的な官吏にはとても思いつかないような方法で。


「鈴扇様、私は失礼ながら彼らを見くびっていました。中には私よりも早く計算をする者もいるのです」


 珪の言葉を聞いて鈴扇は思わず唸る。

 華興の試験は、その半分が算術を問うものである。算術は儒学や政治を問う問題とは違い、暗記よりひらめきを試すものが多い。これを苦にして国試を諦めるという者もいるが、逆に庶民では手に入らない政治書や儒学書がなくとも学ぶことができるのが算術だ。

 ここに新たな雇用機会があると芙蓉は踏んだのだ。


「中には私に積極的に律令制度や政治について聞く人もいます。

 しかし、彼らに任せたのは関所の通行料の査収などまだ一部分でしかありません。税や官吏の俸禄に関わる部分は小吏資格のないものは触ることができませんので」


 そう言ってから一呼吸おいて芙蓉ははっきりと告げる。


「端的に言いますと、私は雇用制度の見直しを考えております。鈴扇様」


「教育制度ではないのか?」

「民にとって必要なのは働きながら学べる教育の場です。雇用し、教育するのです。その過程で昇格試験を設け、正式に小吏として採用すればいいのです。彼らはその俸禄を足掛かりに、儒教や政治についても書物を買って学ぶことができます。これはきっと新たな可能性に繋がります」

「鈴扇、僕も彼に賛同します。このように塾を開くことは役人だけではなく商人の子を育てる役にも立ちます。この國の商業を発展する手助けとなるでしょう」


 嬰翔にまでそう言われては、鈴扇に反論はなかった。


『信頼と怠慢が同義になってはならないのです』


 その言葉の意味を彼はこうやって示して見せたのだ。


「大口を叩くだけはあるな。分かった、検討しよう」


 そう言うと芙蓉は両隣の嬰翔と珪を見て、笑顔になる。

 こういうところは年相応なのだ。


「ありがとうございます!」


「で、一つ聞きたいのだが。どうして仕事が減ったはずの嬰翔と芙蓉の顔にはそんなに大きな隈ができているんだ?」


 鈴扇がそう言った途端、芙蓉は先ほどまでの威勢はどこに行ったのか気まずそうに「ええと」と目をそらした。言い訳を許さないのが横にいた嬰翔だ。


「鈴扇、注意をしてください。先ほど律令制や政治について熱心な生徒がいると言いましたが、芙蓉殿はそういった人たちに付き合ってしまいには朝まで勉強を見ているのです。これでは本末転倒です。あなた、すべてをその手で救おうなんて傲慢だって僕たちに諭しませんでしたっけ!?」


 恐らくこれは鈴扇が来るまで幾度と繰り返されたやり取りなのだろう。珪は慣れきったような顔をしている。


「…それとこれとは別の話です」


 不満そうな顔になる芙蓉の顔を見て嬰翔は珍しく感情を露にする。彼の目の下の隈を見るに、おそらく付き合わされているのだろう。


「いいえ、同じです。あっ、またそんな不貞腐れた顔をして!いいから早く寝てくださいって言ってんですよ!……何を笑ってるんですか、鈴扇」


 そんな二人をみて思わず、鈴扇は笑い声をあげた。

 隣にいた芙蓉は初めて見る鈴扇の笑顔の破壊力に思わずぎょっとして凝視してしまう。


「いや、お前がこんなに感情的になっているのを久しぶりに見た。私の部下がいくらやめようが眉一つ動かさなかっただろう」

「あなたほど鉄面皮ではありません。誤解を招くようなことは言わないでください」


 嬰翔は無礼だとでも言いたげな目で鈴扇を睨んだ。

 そんなやりとりをしている間に莢先生、と部屋の隅から声が上がる。


「はい、なんでしょうか?」

「あっ、こら!」


 嬰翔が駆け寄っていく芙蓉を止めようとして手を伸ばすがそんなことを気にする彼女ではない。


「莢先生、俺たち数字は読めるんだけど字が苦手なんだ。ここの部分の読み方を教えてくれないか」

「良いですよ。そうですね、繰り返し出てくる文字だけ最初は覚えましょう。私が書き起こしたものがありますのでお渡ししますね」


 そう言って青年に文字を教える芙蓉の態度には何のてらいもない。

 あれほどの知識と観察力を持っていながら、常に人に寄り添おうとする。珪が言っていた、芙蓉様は私たちの顔を見て話してくださる、とはきっとこのことだろう。


「本当に、先生をしているのだな。あいつは」

「小吏の試験くらいなら芙蓉殿の頭の中の書物だけで充分事足りますからね。まあ、師範を雇うということを考えていないのはまだまだ詰めが甘いですね。そこはもう少し詰める必要がありますが、上出来でしょう」

「ああ、十分すぎるくらいだ」

「彼をここに連れてきたのが正しかったのか僕には分かりません。ただ何かが変わり始めているのは確かですよ、上官殿」

「私がこれをいい変化にしていかなければ、この國はいつまでも変わらないのだろうな」


「ええ、ちなみに悪い変化を一つ上げますと芙蓉殿に付き合って勉強を教えていたので僕も三日は風呂に入っていません」


 そう言われ鈴扇は静かに三歩嬰翔から距離をとった。


「…早く入ってこい、仮眠もとれ。まったく副官が二人ともこの様とは蘭國の品位が疑われる。芙蓉、お前もだ」






 芙蓉を追い出した鈴扇は少し残れと嬰翔に声をかけた。


「お前から見てあいつはどうだ」

「誰かに言い負かされているあなたを見るのは気分がいいです」

「そういうことを聞いているんじゃない」


 嬰翔は不満そうな顔をする上司を笑う。


「彼は驚くほどいい目を持っています。そして、並外れた頭脳も。しかし、この二つの相性は残念ながらあまり良くありません」

「どういうことだ?」


 あの歳であの慧眼、あの頭脳、おまけに行動力まで持っている少年をそんなにも苦々しい表情で語るのか鈴扇には不思議だった。


「鈴扇、あなたもし國中の人間の助けてほしいという声が一斉に聞こえたらどうします?その中で最も大事なものを瞬時に判断することなんかできますか?彼の世界には雑音が多すぎるんですよ」

「そういうことか」


 芙蓉が街で賭け師から男を助けたとき、嬰翔は危ういと思った。官吏は道端の草をいちいち抜いていくような仕事ではない。草が生えないように、万民に指示を与える仕事なのだ。官位は上がれば上がるほど見える世界は広くなる。その隅々までに目を届かせ、己の手で助けることなど到底できはしないのだ。


「それがきっと自分でも分かってはいるのだろうな」


 己の手ですべてを救おうなどというのは傲慢だと彼は言っていた。それは鈴扇に言うのと同時に自分に言い聞かせているようでもあった。


「なまじ助ける知恵を持っているから全てを助けようとするんです。君と真逆です。僕は君にこそ彼が必要だと思って連れてきましたが、彼にとってもまたそうかもしれないと思いましたよ」

「礼を言う、お前の言う通り彼は私には必要な存在だった」

「あなた、人にお礼なんて言えたんですね」

「私を何だと思ってるんだ」

「冗談です。各掾吏から上げられた書簡については目を通してあなたの机に並べております。僕は少し仮眠をとりますが、あとは頼みましたよ」


 この十日間、副官の仕事をしながら芙蓉の手伝いをした彼もまた恐ろしく有能であるということは鈴扇しか知らない事実だ。


「私はやはりお前をここに連れてきてよかったよ、嬰翔」

「当たり前です。この陸 嬰翔を連れてきたんですから、一旗は上げていただかないとね」



 嬰翔は上司であり、友である鈴扇の肩を鼓舞するように叩くと部屋を出ていった。





 夜、芙蓉は蘭國府の中にある庭にいた。

 ここ十日ずっと働きづめだったので一日休みを貰ったが殆どを睡眠に費やしてしまった。喉が渇いたので水を貰おうと廊下を歩いていると庭の中に芙蓉の枯れ枝を見つけて立ち止まったのだ。自分の名前と同じ、父がこの世で一番愛した花を。

 そうかここは外朝ではないから何の花が咲いていてもいいのかと、そんなことを考える。


「…父上、私に嘘をつきましたね。王宮には芙蓉の花なんて咲いていませんでした。私は官吏として登用されたその日に探し回ったのにどこを探したって見つからなかったんです」


 後から聞いた話によると、何代か前の王がある貴族に肩入れしてその花紋の花を外朝に植えたことが問題になったため、王宮には六大家ゆかりの花は一切ないらしい。芙蓉は葵科の植物だから当然あるはずもなかった。


驟雨(しゅうう)様も驟雨様です。私を唆しておいて本当に信じたのかと私を馬鹿にする始末ですよ!」


 芙蓉は自分を騙したもう一人の悪辣官吏を糾弾する。


『王宮に咲いている芙蓉という花を知りませんか?』


 久しぶりに地下牢に現れた叔父以外の人間が官吏だと聞いて興味津々で聞いた芙蓉に、


『そんなに興味があるのならご自分で見に行けばいい。そうしたら摘んでも来れるだろう』


 と、そうのたまった彼は葵國の國令である候 驟雨(こう しゅうう)である。

 彼に唆されていなければ、芙蓉は官吏になろうなど思いもしなかった。結果的にそれが葵家を離れる口実ともなったため、また憎らしいのだ。


「何をひとりで怒っている」


「鈴扇様!」


 後ろからかかった声に驚いて振り返ると髪を下ろした鈴扇が不思議そうな顔をして立っていた。


「不気味だからやめたほうがいい」

「……気を付けます」


 髪を下ろすと厳しい役人の印象が和らぎ、本当に貴族の御曹司であることを実感させられる。少し性格に難はあるかもしれないが、この輝くばかりの美青年を世の女性は放っておかないだろう。美形で、さらに国でも指折りの名家の出身、腹が立つくらいに欠点がない男だ。


「お前のおかげで戸曹一同、久しぶりによく眠れたと感謝していた」

「それはよかったです」


 芙蓉が戸曹を訪れた時彼らは仮眠室で寝たら起きられなくなってしまうと言って、誰もが机に伏せて眠っていた。それが随分改善され今では週に一度家にも帰れるようにもなった。


「私からも礼を言いたい。お前がきて確実に良い方向に向かっていると思う」


 依然としてその表情は殆ど動かないが、彼が嘘やお世辞を言っているようには見えない。

 芙蓉はそれが何故か面白く、思わず吹き出す。


「あなたがお礼を言える方で安心しました」

「嬰翔にも同じことを言われた。お前らは人を何だと思っているんだ」

「失礼ですがお二人はどういったご関係で?ただの部下と上司にしては仲がよろしいですよね」

「私たちは同じ太学(たいがく)で学んだ同門だ。まあ、私の方が早く出世した上に嬰翔はお前が来て降格させられてしまったがな」


 太学、聞いたことだけはあるその名は国試を受ける学徒が集う学び舎だ。とても庶民が通えるような学費ではないので、そこに通っていたというだけで嬰翔も相当高位の貴族であることが分かる。


「それはお気の毒に」


 嬰翔のことを考えると芙蓉は悪くないはずなのになぜか後ろめたい気持ちになる。


「言っておくがあれは口だけだぞ、あいつは降格のことなんか何一つ気にしていない」

「そんな方がいらっしゃるのですか……?」

「嬰翔は官位に興味がない。国試に受かった後も、故郷である薊國に戻って田舎官吏暮らしをするんだと言うから引き留めたんだ。薊國の官吏など小吏に等しい」


 薊國には薊家だけではなく薺家も居を構えている。実際に治世に関わるのは薊家だが、商業の盛んなあの国で薺家の助言なしに國府を動かすのは難しい。結果、長吏ですら小吏と同じ程度の権限を持たないのだ。


「それを言うなら鈴扇様も菫家として菫國の政治に携わる道は考えなかったのですか?」


「菫家の当主になったとしても、国を変えることはできない」


 紫の瞳には確かな意思が秘められていた。その意志の強さに芙蓉は少し戸惑ってしまう。


「鈴扇様ははっきりとした信念をお持ちなのですね。官吏がやめていったのは信念がなかったからだ、と鈴扇様に言われたとき実は私は焦りました。私には信念などないのですから」

「どうして官吏を目指した?お前は貴族ではないし、何か変えたいものがあったんじゃないのか?」


「私は王宮に花を探しに来たのです」


「花?懸想してる女官でもいるのか?」


「あ、いやそのままの意味です。王宮に咲いている花を探しに来たのです。…すごい顔してますよ、鈴扇様」


「すまん、あまりに言っている意味が分からなくて」


 きょとんとした顔をする鈴扇に芙蓉は急に恥ずかしくなった。


「死んだ父と約束をしたのです。父がこの世で一番綺麗だと言った王宮に咲く芙蓉の花を摘んで墓前に供えると」

「父君は官吏だったのか?」


 引くに引けなくなって正直に話すと、鈴扇は思わぬところに引っかかる。父がなぜ官吏をやめたか、芙蓉は知らなかったが言ってはまずいのではないかという気がした。


「いや、ええと、朝廷に出入りしていた商人でして」


 下手な嘘だ。ふむ、と疑わしそうな目で鈴扇はこちらを見ているが芙蓉は目を合わせられない。

 しばしの沈黙の後、鈴扇は少し笑って芙蓉の頭を撫でた。


「私には少なくともお前が信念を持っていないようには見えない。目の前の人間を助けたいと思うのは立派な信念だろう」

「…そうでしょうか」


 答える代わりにぐりぐりと強めに頭を撫でられた。それからおもむろに鈴扇の羽織っていた上着を頭にかけられる。


「うわ!…あの、何ですか?これ」

「あまり体を冷やさないほうがいい。青漣は冷える」

「…ありがとうございます」


 芙蓉には明らかに大きいその上掛けを腕まくりをして羽織ると、何故か鈴扇は満足げに頷く。見ると見事な菫の紋が入ったその服はどこからどう見ても鈴扇のものだと丸わかりだった。


「嬰翔がお前の考えた制度について聞きたいことがあるらしい。休みのところ悪いが少し戸曹に寄ってやってくれ」

「はい、では行ってまいります」


 また無表情に戻った彼はそれだけ告げるとそそくさと庭を後にした。





「おかえりなさい、芙蓉…殿……?」


 芙蓉を出迎えた嬰翔は持っていた筆を床に落とした。


「長い間席を外してすいません…どうされたんです?」

「…その上掛けってひょっとしなくても鈴扇のものですよね…?」


「はい、冷えるので掛けておけと貸してくださいましたが。何なんですか皆さん、その顔は」


 戸曹の小吏たちは顔を見合わせ、あるものは頬をつねり、あるものは目を細めて芙蓉を見る。


「鈴扇様が人にものを貸すなんて信じられない…!」


 ありえない、天変地異だと全員が口々にそう言うのでなんだか鈴扇が可哀そうになってきた。


「あなたはすごいことをしているともっと自覚をしたほうがいいです、芙蓉殿」


 嬰翔は芙蓉の肩を掴むと諭すように言う。

 この細い肩に蘭國の未来がかかっていると嬰翔は確信した。


「はぁ」



 この國はきっと変われる、思わぬところから蘭國府一同はその確信を得たのだった。




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