4.海を填む─1
『かつて女娃という女神がいた』
「……っ!?」
突然父の声が聞こえたような気がして飛び起きると、そこは静まり切った茜家の書庫だった。
芙蓉は仮眠をとっている最中だったので汀眞や鈴扇の筆を走らせる音が聞こえる。
二人に悟られないように荒くなった呼吸を正していても芙蓉、とあの優しい父の声が聞こえるようだ。
女娃。
それは昔父がよく話してくれた物語に登場する、可哀そうな女神の名だ。
精衛海を填む、という故事の由来にもなっている彼女は炎帝を父に持つ少女だった。
ある日、父親がいない間に勝手に遊びに出た彼女は海に飲まれ、命を落とした。
小鳥に生まれ変わった彼女は小石や枝を運び、自らを溺れさせた海を埋めようとした。
けれどそのすべてが無駄だった。
海は、小鳥一羽の力では到底埋めることなど出来やしなかったという話だ。
父はこれを、芙蓉が勝手に物事を進めようとしたときいつも言って聞かせた。
何事も知らない雛のうちは、親鳥の言うことを聞くべきだと。
たとえ芙蓉がどれだけ賢い少女であろうとそれだけは忘れてはいけないよと。
だからなのだろうか、芙蓉は今父の言いつけを破っている気がしてならないのだ。
雑念を振り払おうと首を振ると、長椅子の近くで作業をしていた汀眞の肩越しに声をかける。
「汀眞殿、半分私に分けてください」
「芙蓉!?もうちょっと休んでないと体がもたないよ」
心配する彼の忠告にかぶりを振って、芙蓉は汀眞の隣に腰かけて「いいから」と短く呟いた。
何かしていないと心が持ちそうになかったのだ。
※
「芙蓉、しっかりしろ。きっとうまくいくよ」
関所の記録を見ながら何度も深い溜息をついた同僚の少女に、汀眞は静かに声をかけた。
驚くべき頭脳を持つ彼女はここのところ寝る間も惜しんで本と資料に囲まれて生活している。
まるで取りつかれたようなその姿に、汀眞だけではなく当然医師である子雀も彼女を休ませようとしたがその気迫に誰も勝てなかったのだ。
いま自分が止まれば、国が変わってしまうと彼女はそう言った。
それは汀眞にとっても芙蓉にとっても、その場にいる全員にとって悪い方向に。
賢い彼女だからこそ最悪の未来が見えてしまい、いてもたってもいられないのだろうが消極的になりすぎてはうまくいくものもいかない。
そう思って汀眞は声をかけるが彼女はやはり上の空である。
灰銀色の美しい瞳も、今は靄がかかったように何を考えているのか分からない。
「……汀眞殿」
やっと、こちらを見た彼女の瞳は可哀そうなほど虚ろだ。明らかにいつもの勢いがない。
いつもは薔薇色に色づいている唇も今は色を失い、紫色をしている。
「俺たちがやれることは全てしただろう。……そんなに怖いのか」
汀眞にはその様子があまりにも不思議だった。
賊相手に啖呵を切り、囚人ですら口だけでやり込める彼女が葵家から滅多に出ない存在感の薄い叔父を恐れている。
汀眞の耳に入ったことすらない月樺をだ。
「正直言うと怖いですよ、叔父上は長い間葵家を裏で牛耳っている人間なので」
芙蓉は関所の記録を写しながら一時も筆を止めずに言う。
「……それ本当なのか?だって俺たちでさえ聞いたことない話だぞ」
俺たち、そう言ったのは蔦家のことを指している。朝廷のことであればどこからともなく情報を仕入れてきた姉妹兄弟たちによって汀眞はほとんどのことを把握している。
その彼が何も知らないとなると、芙蓉の怯える様は辻褄が合わないように感じた。
よりによって一番上の兄である陶月ではなく、その弟を彼女は震えるほどに恐れている。
「一時でも葵家にいた人間の話なんですから信じてくださいよ」
「朝廷にこんな長い間顔を出してない人間がそんな用意周到にことを運べるか?」
朝廷と言うのはいくら煌びやかで、華やかに見えても実際には蛇のように無数の思惑が取り巻いている。
それをあの山の上からすべて掌握するなど、とても人間業には思えなかった。
「逆ですよ。朝廷にこんなに長い間顔を出していない人間が既にこれだけの布石を打てているんです。二年前に当主が倒れたことを知ると同時に茜家の兄弟の実力を量り、すぐに計画を実行に移せる人間です。普通じゃありません」
「芙蓉だって普通じゃないと思うけどな」
「……私は頭のおかしい人間じゃありませんからね」
その言葉に込められた意味を、汀眞はこの時まだ知らなかった。
※
とうとう、芙蓉たちが作戦を決行する当主継承の日。それも儀式の始まる直前のことである。
芙蓉と汀眞の立てた計画を実行するには、月樺が動く時間を与えないために当主継承の儀式ぎりぎりに動く必要があった。
それは同時に自分たちをも追い込む作戦であり、芙蓉もそれに同意した面々も緊張した面持ちのまま珍しく他國に滞在しているという葵 月樺のもとを訪れていた。
子雀は慶朝に会う用事があるらしく、同席していない。そもそも、彼がここにいることもあまりバレたくないのだろう。
丁度月樺は紅鳶達に話をつけに行こうとしていた途中だったらしく、道を塞いだ芙蓉たちを見て驚いたような、懐かしいような表情を浮かべている。
「芙蓉様であろうと月樺様の御前を塞ごうなど言語道断ですぞ」
芙蓉たちが主人の邪魔をしようとしていると思ったのか、従者の一人が芙蓉を睨みつけた。
葵家直系三男の娘である芙蓉が通常では絶対にされないような扱いを受けているのを見た汀眞と鈴扇は戸惑いながらも察する。
この子は今までこういう不当な扱いと戦ってきたのだと。
「いいんだ、どいてやりなさい」
従者を後ろに控えさせた月樺は恍惚とした表情で姪の顔を見た。
「月樺叔父上、お久しぶりでございます」
芙蓉のその言葉に、今回の事件の首謀者である男は喜んだように相貌を崩した。
宮中の行事にはほとんど参加している鈴扇でも久しぶりに見るその男はやはり芙蓉とよく似ている。
濡れたように艶めいた黒い髪、澱んだような黒い瞳。
よく見ると整った風貌をしているが、ぱっと見ただけでは普通の人間にしか見えない。
彼女の父親と瓜二つだったという月樺は、鈴扇や汀眞と比べるとこの場においてあまりに目立たない容姿の持ち主だ。従者の中に埋もれるほどなのだからよっぽどだろう。
独特の濡れ烏色の黒衣に身を包んだ彼は周りの従者たちを跪かせて、こちらにもう一度声をかける。
「芙蓉、父上と呼んでいいと言っているのに」
変に耳障りのいい声が、芙蓉は昔から嫌いだ。
かつておかしな薬で芙蓉をやりこもうとしていた時と同じことを、彼は未だに目論んでいるようだ。
自分をモノとしか扱わなかった、最低の叔父。
鈴扇や紅鳶の手前耐えているが、芙蓉は彼が嫌いで仕方ない。
相変わらず顔だけは父である月英にそっくりであることが、さらに憎らしくて仕方がなかった。
「変わらないね、相変わらずお前は僕に好戦的な目を向けてくる。嫌いじゃないよ、月英は何をしても無反応だったからね」
そう言われて芙蓉の身体が強張る。変わらないのはお互いで、背を這うような嫌な感覚を思い出して身震いした。
それでも芙蓉は呼吸を整えると、目の前の怪物然とした男に話しかける。
「叔父上、私はあなたと取引がしたくてここに来ました」
「ほう。取引か。お前がすぐにでも僕の息子になってくれるなら何でも応じてあげてもいいけどね」
「それは陶月叔父上が許しませんでしょう」
そうだね、と分かり切ったことを言う彼を芙蓉は睨みつけた。自分の息子よりも賢い娘を月樺の娘として認めるなど、一番上の叔父がしそうにもない話だった。
そうやって時間稼ぎをする目の前の男に、芙蓉は苛立ちながら答える。
「お前が言いたいことは分かっているよ、芙蓉。震え足の件だろう」
芙蓉の様子に観念したのか、月樺は思ったよりも早く本題に触れてきた。
「……分かっていらっしゃるなら話が早い。あなたが全て手引きしましたね」
芙蓉が端的にそう言うと、月樺は両手を広げてとぼけて見せる。
「証拠はどこにもない」
「では、貴方がこの病の原因を持ち込んだという証明があれば納得して頂けますね」
そう言われるのを待っていたかのように、芙蓉は懐から関所で苦労して見つけた写しを取り出した。
「なんだい、それは?」
「茜國の関所に保管されていた証文です。関所では新しい薬や飼料が持ち込まれた際に最低三年は秘密裏に保管されているらしくその時に持ち込まれたものについてもこちらで確保しています」
そこには確かに二年前、葵家の息のかかった人間が肉骨粉を持ち込んだという証明が為されていた。
月樺はそれを見ながらくつくつと笑った。
「……ほう、考えたね。確かに、お前たちが関所まで手を回すとは考えていなかったな」
「それだけではありません」
芙蓉はどこか焦った様子で畳みかけるように言う。
月樺が驚きながら少しも動揺していないのが恐ろしかった。
「私たちは何もわざわざ肉骨粉の製造元だけを探しに葵國に伝令を寄越したわけじゃありません。そちらはあなたに抑えられると思っていましたし、内通者がいることも汀眞殿が勘付いてくださいました。そして私たちが手に入れた報告書がこちらです」
そう言って芙蓉は今度は別の書簡を取り出す。
それは芙蓉と子雀が茜で腑分けを行った罪人と同じく、震え足と同じ症状を持った葵國の人間に関する診断書であった。
あらかじめそういった症状を持った人間がいるか、驟雨に頼んで探してもらったところ幸いにも以前芙蓉が震え足を見つけた近くの民が同じ症状に苦しんでいたらしい。
彼らはみな実験を終え死んだ牛の死骸を口にしていた。
診断書には男の詳しい容体と居住地までも正確に記述されている。そこには驟雨の印が押されており、公的な文書として申し分のない威力を発するはずだ。
「この男は牛舎で育てられた牛の死骸を食べて同じような症状を発症しました。そしてそれがちょうど三年前です。この牛舎が取り扱っていた飼料には私が以前関わった、震え足が発生した山羊が使われていました。飼料の出所については驟雨様の調査が及んでおります。飢えた人間は捨てられた獣であっても口にする。あなたはそれを知らなかった」
「ふふっ……、あはははははははは!」
芙蓉が証拠を突き付けると、すぐに堪えきれないように笑い出した。その反応に、芙蓉は嫌な予感がしてならない。
この男はまだ何かを隠している。
「何がそんなに面白いんです……?」
「面白い、いや実に面白いよ。これを仕込んだのは君かい。蔦 汀眞殿」
そういきなり話を振られた汀眞は、自己紹介もしていないのに自分の名を知っている月樺に驚きながらも答える。
「人聞きが悪いですね。僕はあくまで芙蓉を手伝っただけです」
「ああ、やっぱり。君にも芙蓉のすばらしさが伝わるんだね。いつか君たちにも鑑定してほしいと思っていたんだよ。私の甥は、いや息子は素晴らしい芸術品だろう」
「……何を言ってるんだ、あんたは?」
その興奮したような異様な様子に、汀眞は敬語を忘れて問いかける。
大犯罪の証拠を突き付けられているはずなのに、月樺は少しも焦った様子を見せないのだ。
「月英もお前も、葵家の最高傑作だ。爪を隠すことを知らないかわいそうな獣たち、それでいて権力者の庇護がなければ簡単に死ぬ弱い生き物。ああ、芙蓉。僕はつくづく弟とお前を同時に飼いたかった。そうすればお前も従順で素晴らしい飼い犬になっただろうに」
意味が分からない汀眞が芙蓉の方を見ると、彼女は恐怖のためか固まったまま目の前の怪物を凝視している。
芙蓉が怯えているのが分かったのか、思わず鈴扇が芙蓉を背に隠す。
無理もない、目の前で笑っているのは彼女を監禁していた男なのだ。
普通なら腰を抜かしていてもおかしくない状況である。
当の月樺は芙蓉の前に出てやっとその目に鈴扇をおさめたようで、腹立たしそうには鼻を鳴らす。
「君の話は聞いているよ、菫の次男坊。芙蓉を連れ去るのは驟雨くんの方かと思っていたが、君のことは全くの盲点だったなあ」
「お久しぶりですね、あなたは滅多に山から下りられませんから」
「久しぶりに降りてみたら存外面白いものが見えたよ。例えば、私のかわいそうな獣があがいている姿とかね」
そう言うと明らかに芙蓉が身震いしたのが分かり、汀眞は思わず身を乗り出して声を荒げた。
「あんたおかしいだろ…!この状況分かってんのか!?」
汀眞が先ほどから感じていた違和感はこれだ。彼には芙蓉しか見えていない。
まるで自分の所有物であるかのような言い様に腹を立てるが、やはり彼女しか見えていないらしい月樺は芙蓉を覗き込むと言う。
「お前はまだまだ鳳凰の雛だね、それだけですべてを暴いた気になっている。君、芙蓉に例のものを」
そう言うと、従者のうちの一人が月樺に書類を手渡す。
「……何をしているんです?」
「葵國で震え足を発症した男、何と言ったかな。名前を覚えるのはどうも苦手でね、彼には茜への渡航歴があるんだよ、芙蓉」
「っ!?」
そう言いながら急いで渡された文書を読むと、茜國と葵國を通ったという証明とともに手形の写しが現れる。
「読めば分かるだろう、その男は三年前に茜に渡った経歴がある。もし病が茜側から持ち込まれたのであれば、被害者は当然我々だろう」
それはすべてが覆された瞬間と言って差し支えないだろう。
あまりのことに芙蓉の視界がぐらつく。
時間軸をずらされたのだ。
病は葵國から持ち込まれたのではなく茜國から持ち込まれたものであるとされた。
この文書が偽造されたものなのか正しいものなのか今は分からないが、どちらにせよこの事実を覆すだけの論証を芙蓉たちの誰も持ち合わせていない。
立ち尽くす芙蓉に、月樺は追い打ちをかけるように言う。
「月英の本にも記されていたんだろう。山羊から山羊に感染する場合があると。当然、人から人へも感染するんじゃないか?」
「あなたは全てをっ……私が山羊の死骸を見つけた日から全てを分かっていてこれを計画したのですか!?」
芙蓉が叔父に頼まれて原因不明の病を探ったあの時からすでに叔父はこの病について知見を得ていた。
恐らく国中、いや大陸中で最も意地の悪い叔父は、病にかかった山羊の処分を終えた芙蓉に何を見たのか問いかけたときには全てを知っていたのかもしれない。
何も見ていないと、なるべく何を考えているか悟られないようにそう告げたはずだった。
そのとき目にしたものは明らかに人間が見てはいけないものだったのだ。そしてその芽を、芙蓉は確かに摘んだはずだった。
「何を言っているか分からない。この男がもし茜國から病を持ち込んだというのなら僕たちも早急に対応しなければならないな」
「……芙蓉、この病は人から人に感染しないんじゃなかったのか!?」
芙蓉が落としそうになった文書を拾い上げて目を通しながら声を荒げる汀眞に、芙蓉は泣きそうな声で言う。
「……感染したという例を聞いたことがありません。しかし、感染したという例さえあれば、その言葉は簡単に覆るんです。ないことを証明することは、あることを証明することの何倍も難しいんです」
そう言うのが精いっぱいだった。
計画は失敗したのだ。自分のふがいなさに膝をつきそうになるのを、鈴扇が寸で抱きとめる。
「芙蓉、分かるね。私がこのことを公にしたらことはもっと大きくなるだろう。今までは牛を食べないことで防ぐことができた病も、人から人へ感染するのであれば話は違う。誰がそんな汚染された地域の人間を自分たちの國へ入れたがるだろうか」
芙蓉たちがここで引き下がらなければ、彼はこの切り札を他の國に提示する気なのだ。
私は頭のおかしい人間じゃありませんから、と芙蓉が言った意味がここにきて理解できたらしい汀眞は恐ろしいものを見るように月樺を見ている。
「何が山の賢者だ……!こんなこと、人間がしていいわけない……」
目の前の人物は意図的に病をはやらせ、その病によって一つの國を終わらせようとしている。
とても人間の所業とは思えない。
思わずこぼした汀眞の言葉は月樺には届いてすらいない。
初めは普通に見えた彼の風貌も、今は彼があえてその怪物性を隠すためにしている隠れ蓑のようにしか見えない。
「賢いお前なら分かるだろう。話すことはもうないね?」
「待って……!待ってください、時間をください!私たちも話し合って……」
芙蓉が絞り出すように言うと、月樺はにこりとほほ笑む。
「もう時間がないのはお前も知っているだろう、半時もしないうちに当主襲名の儀式が行われる。お前も報告をいちいちするのは億劫だろうから既に従者に頼んで当主名代殿には伝えてもらっているよ。僕は気が利くだろう?」
ああ、本当にどこまでも芙蓉は後手に回ってしまっている。
このことを既に緋鶯も紅鳶も知っているのだ。
「なんですってっ……!あなたはこれをすべて最初から分かっていて私たちを掌の上で転がしたのですか!?」
「さすがは芙蓉だったよ。なかなかの手管だった。関所にまで話を通してあったのはびっくりしたなあ、僕が箱入りで育てたはずなのによくそこまで知恵が回るものだ。そうか、お前には月英と違って友達ごっこをする相手がいたのか」
「早くしないと……!早くあの人のところに行かないと!!」
そう言って駆け出そうとする芙蓉を鈴扇が止める前に、月樺がその細い腕を取っていた。
そのまま引き寄せると彼女の頤に指を乗せてその表情を楽しむかのように見つめる。
「僕はお前の焦った顔が一等好きだった。いや、好きだ。愛しているよ。月英とよく似た顔が歪むのを見るのはやっぱり心地がいい」
「離してください……!」
芙蓉がそう言うと同時にわざと手の力を抜かれたせいで廊下に倒れこむように膝をつく。
その耳元で、月樺はとどめのような言葉を呟く。
「せいぜいもう二度と覆らない世界の前であがきなさい。海を沈めようとした小さな小鳥のようにね」
その言葉に、芙蓉は絶句する。
紅鳶は悩んでいた。それに気が付けるのは芙蓉だけだったのに。
彼は何度も芙蓉に聞いた、優しい君主では駄目なのかと。徳で治められる国にできないのかと。
芙蓉は彼に否と答えた。
困窮した民に金を貸し、腹を空かした民に国庫を開く王は愚かだと思ったからだ。
一つ一つ彼との会話が蘇ってきては芙蓉の心を蝕んでいく。
『民がいる限り、滅んでいい国など存在しません』
芙蓉は迷う彼にそんな言葉を投げかけた。緋鶯の築く国を否定したわけではない。
ただ彼が國主になったほうが幸せになれると言いたかっただけだった。
しかしそれが茜家でどんな意味を持つかまでは理解していなかった。
月樺はそのことを芙蓉に囁いたのだ。お前は小鳥になった女神と同じだと。
何が鳳凰の雛だ、と芙蓉は唇を噛んだ。所詮小鳥には過ぎた夢だった。
この国を大きく呑み込もうとしている海に、小鳥が小石を投げただけだった。
「芙蓉!待て!」
「鈴扇様、今は悠長に考える時間はないんです!」
鈴扇の静止を聞かずに芙蓉は紅鳶のもとへと走り始める。
どうか彼が間違えないように、最後まで傍にいたかった。
芙蓉が何の考えもなしに走るのは、生まれてからこれが二度目だった。
父を失うことになったあの日に次いで、二度目だった。
※
『徳で治められる国などあるわけがないだろう』
あれは彼が宮廷を去る二年ほど前の話だった。
月英はそう慶朝の夢を一蹴した。
下戸の彼は女官たちが持ってきた花の香りのする果実水を飲みながら酒の入った主人の酔いを醒ました。
博士職についた月英は以前にもまして他の官吏たちから避けられるようになっており、それに反して彼の知性は刃のように研ぎ澄まされていった。
引き籠りの彼を引っ張り出すのは慶朝と子雀と、そして彼女くらいのものだったが月英はいつも気だるげだ。
『困窮した民に金を貸し、腹を空かした民に国庫を開く王は愚かだ。戦で右腕を失った兵士に右腕を与えるのか?馬鹿らしい、四肢を全て与えて頭だけ残ったって国を治められるわけがないよ』
お前は情緒がないな、というと月英は不思議そうな顔をした。
『人間の感情のうちで信じていいのは怒りと憎しみだけだよ、慶朝』
感情のない瞳で、月英は言う。
それは仕方のないことだった。月英の周りの人間たちは彼に取り入り、彼を裏切り、そして捨てたのだ。
博士に上がる前だって、彼は最後まで他の人間と交わることをしなかった。試しに入れてみた六部でも月英は孤立した。
慶朝は不思議とそんな月英を見て高揚感を覚えた。
ひょっとしてこの世界で彼を受け入れられるのは自分だけなのではないかと思いこんだ。
まあ、その後すぐに思い違いだったと思い知ることになるのだが。若い自分たちはつくづく愚かだったという話だ。
「其方の娘は其方とよく似ているな」
「そんなことはないだろう」
思わず、そう呟くと窓から入ってきたらしい子雀が剣呑な顔で慶朝を見つめていた。
お忍びの慶朝の供をすることもある彼は三十を超えたにも関わらず身軽だ。
「子雀、いきなり仕事を任せてすまなかったな」
そう言うと、彼は窓から飛び降りて主人に忠告するように言う。
「また月英先生のこと考えてただろ。いい加減先生の影を追うのはやめた方がいいって何度も言ったはずだ」
「月英は死んでなどいないよ。あの娘の中に生きている。月英は約束を守ってくれた。姿を変えても余のもとに戻ってきたんだ」
『慶朝、必ず僕は戻ってくるよ。僕たちの国のために』
最後に会った十七年前、まだ生まれたばかりの娘を抱えて王宮を出た月英を慶朝は昨日のことのように思い出すことができる。
そしてその娘は父と同じ賢く、そしてかわいそうな運命の渦中にいる。
はやく、彼女がこの手に舞い戻るのを待っている。
「あんたそれ本気で言ってんのか……!?芙蓉は……」
「慶朝様、支度が整われましたら茜家の使いが参っております」
子雀が怪訝な顔をしてなにやら言うのを遮るように、従者たちが慶朝を迎えに現れる。
今日は、新しい茜國の長を見届けるために茜にはるばる足を延ばしたのだ。
「ああ、すぐに行くと伝えてくれ。子雀、行ってくるよ」
そう告げると、子雀は苦々しい顔をしたまま早くいけというような素振りを見せた。
まもなく、血の宴が始まろうとしていた。




