3.二人の芙蓉─2
久しぶりの更新ですいません。
「桜國では、人体の解剖は許されていますか?」
汀眞と二人きりで何事か話し合っていた芙蓉は帰ってくるとそう、静かに子雀に問うた。
既に紅鳶や莫などはその場を去っており、鈴扇だけが不思議そうに芙蓉を見ている。汀眞はその事情を知っているからなのか、静かに子雀の返事を待っているようだ。
彼は突然の話題に頭を掻きながら渋々と言った様子で答える。
「あぁ……その話な、やっぱりお前も知ってたか」
芙蓉の父、月英の一番弟子であったという子雀は彼女を見ながら苦笑いした。
「えぇ、父上から西では一部で講義や研究のために許されていると聞いたことがあるのですが、この国ではどういう扱いかは知らないので」
月英は人の身体にも興味を持っていたが、流石に彼の信条的にもその肌に刃を当てることはなかった。
とは言ってもやはり興味はあったようで、他の獣であれば解剖を行っているのを見たことがある。
「基本的に禁止されてるよ、腕のいい医師の何人かは許されてるけど。それも罪人だけだったり、申請には時間がかかったりで新鮮な死体を扱えることは殆どない」
「子雀様なら、当然許されていますよね」
そう言うと、少し間を置いてから子雀は答える。
「まあね」
この国最高の技術と知識を持った医者ならば許されていると踏んで正解だった。
芙蓉は息をつかずに質問を返す。
「例えば、罪人に症状が出ていた場合、その身体を切り開く権利を持っていらっしゃいますか」
その言葉に汀眞は咳ばらいを一つし、鈴扇は少しだけ目を見開いた。子雀は慎重な口ぶりでそれに答える。
「えぐいこと聞くね、この状態を鑑みれば慶朝様も許可してくれると思うよ」
「それは良いことを聞きました。実はたまたまこの病を発症した罪人が今朝方死んでいるのが発見されたのですが、あなたであれば腑分けをすることができますか」
それは芙蓉と汀眞だけが知り得た情報であった。
おそらく切り札となる大事な情報だ。
「ああ、この事態なら問題ないだろう」
大きく息を吐いたあと、子雀が静かに頷くのを見た芙蓉は僅かに睫毛を震わせながら目を伏せる。
彼女であっても、これから起こることは想像を絶するなにかであり、覚悟なしには進めないものなのだ。
※
「やっぱりだな。芙蓉、この患者は海綿症の症状を持ってる」
そう、子雀に言われた芙蓉は静かに頷きながらも眉根を厳しく顰めた。
汀眞と鈴扇は皆各々の仕事に戻り、今は芙蓉と子雀だけがここで死体を開いている。
予想はできたことだが、事態は芙蓉が思っていたよりもっと深刻だったということだ。事態は芙蓉と子雀の持っている知識だけでは収拾できないほどになっている。
まるで水面下で広がる毒のように、病はこの國を蝕み始めている。
「まさか人間にも感染するなんて……」
思わずそう言うと、子雀は遺体に布をかぶせながら手を合わせた。
彼のいた朝廷の医局ではもっと丁重に埋葬するらしいが、ここではこれが限界だ。
「稀だと思う、これだけ牛の病気が報告されている茜國中を探し回って見つかったのはたったの三件。二件は生存が確認されて、一件はこの男だ」
牛に芙蓉が昔、葵國で見た山羊と同じ症状がみられたことが確認された。
それを調査しに桜玉手形を持たせた使いをやってからも芙蓉たちはせわしなく調査を続けている。
特に力を入れたのは人間への感染の確認であり、目の前に横たわった男はどうやら牛と同じ症状を脳に持っているようであった。
動物の解剖だけでも戸惑っていた芙蓉たちにとって子雀はまさしく救世主であり、今もこうして腑分けの手伝いをしながらその技術に芙蓉は感嘆していた。
宮廷医というものは芙蓉が田舎で見ていた民間療法の指導が主である医者たちとは格が違うらしい。
身長に手先を清める子雀に手拭いを渡しながら、芙蓉は話を続ける。
「はい、しかし探し回ったのもたった二日ですからね。当分の間はやはり牛肉食は止めてもらうよう進言したほうが良さそうですね」
「そうだな。にしてもお前、見たことないにしては落ち着いてるな」
子雀は眉根を顰めながらも冷静に話を続ける芙蓉に驚いた顔をする。
「父上が猿の解剖をしているのは見たことがあるので、他の方々よりはましなだけです。普通にちょっと吐きそうですよ」
「木桶ならそっちにあるから吐いてこいよ」
そう言われて気分の悪そうな顔をするものの、芙蓉は手で制する。
ここでへばっているようではこの先精神が持ちそうにない。
「……いえ、大丈夫です」
そんな芙蓉の気持ちを知ってか知らずか、子雀は厳しい顔のまま近くの椅子に腰かけて話し始める。
「人食いの一族の話は知ってるな」
「はい、父上に聞きました。他言無用だと言われていましたが、今回は仕方なくお話しさせていただきました」
この病の感染経路の一つが共食いだ。人間の場合、それが殆どと言って良い。
信じがたい話だが、その血肉を食らうことで感染は拡大する。病自体が人間の身体に元からあるわけではないというが、詳しいことは何もわかっていない病である。
「それでいい、知識を出し惜しみするな。気をつけろよ、脳からの飛沫で感染しないとは言い切れないからな」
子雀が開いた頭部を芙蓉が覗き込もうとしているのを見てそう注意する。
その言葉はまるで父親が娘にかけるようだった。
「脳味噌が感染源なのですか?」
「分からない。この病について分かっていることはあまりに少ないんだ。人食いの一族の手記を見ても、脳味噌を多く食べていた女や子供に多く発症したことくらいしか分からない」
何も分からないということは恐ろしいことだ。
昔からの癖で、父から常人以上の知識を叩き込まれている芙蓉にとって知らない、理解ができないということはそれだけで恐怖だ。そうなると頭がうまく回らず、状況が飲み込めなくなる。
そうならないように首を振ってから、気持ちを落ち着ける。
「人から人への感染はありますか」
苦虫を潰したような顔で言うと同じく子雀は苦い顔をして答える。
「それは多分ないだろう……いや多分の話だけどな」
「そうですね、ないことを証明することはあることを証明するよりずっと難しいですから」
証拠が無いことは、無いことの証明にならない。それは芙蓉も昔から父に言い聞かされていたことだ。
「お前この結果をどうするつもりだ?」
「皇帝付き医官、劉 子雀の診断として────切り札として持っておきます」
芙蓉が告げると子雀は顔を歪ませて笑う。
「父親の弟子である俺なら好きに使っていいってか?」
「っ!そういうわけでは…!」
そう言われて芙蓉が慌てるとすぐにその頭をなでて子雀は彼女を諫めた。
「それでいいよ、それが俺ができる月英先生へのせめてもの弔いだ」
その含みのある言い方に芙蓉は何か引っかかるものを感じ、顔をしかめる。
明らかにこの男は芙蓉に言っていない何かがある。
「子雀さん、やはり貴方は父上がどうして朝廷を追われたのか知っているのでありませんか?」
「それを言うのは俺じゃない。分かっているんだろう、芙蓉」
分かり切った答えが返ってきて、芙蓉は顔を歪ませるがその様子が面白かったのか子雀は余計にその頭を撫でまわした。
彼からしたら娘のような感覚なのだ。
「……少しは溢してくれないかなと思ったのですが」
「これでも長年宮仕えだ。口は堅いぜ」
惨めたらしくそう呟くかつての師の娘に、月英も思い通りにいかないときこんな顔をしていたとふと懐かしくなる。
芙蓉の前ではきっと違っただろうが、歳の割に子供のような言動が多かった人だ。
最も月英の場合は国家を揺るがすような事態でも顔色一つ変えない男でもあったのでそこは娘とは少し違うのだが。
「子雀様、これからさらに腑分けが増えるかもしれません。その時のために方法についてご教授して頂くことはできますか」
本当に女性というものは男がびっくりするくらい強いということを、子雀は芙蓉の母親を通して知っている。
この子の意志の強い瞳は母親にそっくりなのだ。
「……しょうがないな、俺がこんなに甘いのはお前だけだからな。芙蓉」
そう言うと、目の前の少女の顔はぱっと明るくなる。
「ありがとうございます、子雀さん」
そう緊張した面持ちで呟いた彼女を安心させるかのように子雀はもう一度その頭を撫でた。
※
ところ変わってこちらは紅鳶の私室である。
その驚くほど簡素な造りに、蘭國で見せていた彼がまるきり嘘物だったのだと鈴扇は改めて感じていた。調度品は愚か、寝台と机くらいしか目立った家具はない。
「まさか君がここまで芙蓉を追いかけてくるのは意外だったな。惚れてるの?」
珍しく鈴扇を呼び出した彼は玻璃の器を揺らしながらそう問うた。
完全に面白がっている目の前の相手に鈴扇はにべもなく答える。
「私は部下として、芙蓉が心配だっただけだ。色ぼけしているお前と一緒にするな」
もう完全に敬語を取り払った話し方に紅鳶も何も言いはしない。
お互い年も離れていないから、かえって話しやすいのだろう。
ただ見えない火花が二人の間で散っているような雰囲気に従者たちはみな息をのんで見守っている。
「ああ、そうか。気が付いていないのか。面白いな、君たちはまったく」
「何がだ」
「僕は男同士に抵抗はないよ。芙蓉はあの通り、紅顔の美少年だしね」
そう言ったところで鈴扇が持っていた玻璃の茶器が割れる音がした。
近くに控えていた侍女が驚いて片付けようとするのを制して紅鳶が床に落ちた欠片を拾う。
「硝子製は良くないな、中の花びらが見えて綺麗なんだけどやっぱり脆い。そうそう、この花茶も芙蓉が僕に選んでくれてね」
「何のつもりだ?」
鎌をかけてきた紅鳶に聞くと、彼は鈴扇を鼻で笑った。
「僕は本気で芙蓉を手に入れるつもりだよ」
その思いのほか真剣なまなざしに一瞬気圧されながらも鈴扇は紅鳶を睨み返した。
「…一時的に貸しているだけだと言ったはずだ」
「貸している、ね。君も君であの子をもの扱いしてるじゃないか」
「お前が手を出そうとしているのは皇帝の花だぞ」
そう、鈴扇が凄んだところで紅鳶は目を細める。
「慶朝様が欲しいのは芙蓉?それとも、葵 月英の代用品?」
確信をついた問いに、鈴扇は咄嗟に答えることができなかった。
慶朝が芙蓉に向ける瞳は、たしかに彼女に向けられていないのではないかと思うことがある。
慶朝の月英への入れ込みようは、鈴扇が聞くだけでも異常だった。
彼を迎えるために地方都市へ出向き、彼を迎えるために法を変えた。
それは一国の国主としてあるべき姿ではきっとないのだろう。二人にはそういう噂も広まったことがあった。もっとも彼が蓬樹という絶世の美女を娶ったことですぐにその噂も立ち消えたのだが。
それでもその関係性は特別なものである。
鈴扇が言いよどんでいると紅鳶はすかさず、言い返す。
「後者なら僕は譲る気はない。僕は葵家の芙蓉も、皇帝の寵愛を受ける芙蓉もいらない。あの子があの子だから欲しいんだよ」
それはかつて、慶朝が何者でもなくなった月英に手を差し伸べたような行為だ。
一瞬、この男が芙蓉の手を取る様子を想像してしまった鈴扇はなぜかチクリと痛む胸の意味をまだ知らない。
彼の言葉を聞きながら、なぜか脳裏に蘇ったのは女装姿の芙蓉が兄に言った言葉であった。
『鈴扇様と出会うまで、私は自分の殻に閉じこもってばかりいました。鈴扇様はそんな私を外の世界に連れ出してくださいました。このご恩は一生をもって鈴扇様に返していくつもりです』
そう言って芙蓉は鈴扇の手を取ったのだ。
鳳の雛、眠れる龍。そう言われた人間が、必死に生きようとしているのを鈴扇は知っている。
自分に降りかかる不幸も、悲しみもすべてはねのけて自分に芙蓉が今更自分を庇護下においてくれるというだけでこの男のもとにつくことは考えられなかった。
この場にいなくとも、鈴扇には不思議と芙蓉のことが手に取るように分かった。
『私が紅鳶様につくとでも思ったんですか』というあきれた声さえ聞こえた気がした。
そう思うと、自然と思った言葉がそのまま声となって出ていた。
「芙蓉を侮ってくれるなよ」
そういう鈴扇の顔には先ほどのように焦った様子はなく不敵な笑みが浮かんでいる。
「芙蓉ははっきりと私を選ぶと言った。お前が今更横槍を入れたところで私たちの関係性は壊しようがないものだ」
自信ありげに自分たちは愛し合っているのだとでも告白するようなその言葉に、紅鳶はますます面白そうに声を上げた。
「…ははは!驚いた!君は本当に面白いな。意外に情熱的で好感が持てるよ」
「何がだ?私はただ芙蓉を侮ったようなお前の言動が気に食わないだけだ」
それでも何も気づいた様子のない鈴扇に紅鳶はふと笑うのをやめて言う。
「僕はね、全てがうまくいくなんて思っていない。いざとなれば君だって芙蓉だって殺す覚悟はできているんだよ君たちが今いるのは茜國であることを忘れてはいけない。戦士の血は、未だ絶えずこの身体に流れているんだよ」
「それならば官吏が戦士に、筆が剣に勝つ様を見せてやるだけだ。用が済んだのなら私は失礼する」
「……ああ、君たちの威勢がいい間は僕もなんとかやっていけそうだよ」
そう言う紅鳶の声は鈴扇に啖呵を切った割には弱弱しく、頼りないものだった。
※
「結論から言うと計画は失敗です」
そう、最初に告げたのは伝令を受け取った汀眞であった。
作戦会議と銘打った集いには鈴扇や芙蓉はもちろん、紅鳶とともに莫、また子雀を顔をつきあわせている。
「……どういうことだい?」
訝し気に紅鳶が尋ねると、汀眞は苦い顔をして話を告げる。
「確かに芙蓉が言った通り、蘭國では山羊と牛から同様の症状の病が発生していた。葵國令によれば、この牛たちは確かに肉骨粉として出荷されていたらしいです。でも、月樺様の方が行動が早かったらしくて関わった農場は軒並み家畜の焼却処分を行われてたってわけです」
芙蓉たちの顔見知りである葵國令の驟雨からは、当然この事態に気が付いていたようで記録としては残っていたが現場を押さえることはできなかったと謝罪の文が届けられた。
牛の肉と骨を砕いて作った粉を飼料に混ぜると生育が早くなるという売り文句で茜に売り込まれたこの飼料も、葵ではまず使われていなかったらしい。
つまり、この飼料がもたらす恐ろしい結果を月樺は知っていたということだ。
相変わらず、恐ろしいほど頭が切れる叔父である。以前紅鳶と蘭國で会っていた時もその影すら感じさせなかった。
「つまり、証拠隠滅が為されたということだね」
明らかに意気消沈した様子の紅鳶が言うと、汀眞は意外にも冷静にそうですねと答える。
「桜玉手形よりも早く動くことができたっていうことかい?」
その言葉に、芙蓉が申し訳なさそうに答える。
「……おそらくですが、父の桜玉手形を使ったのだと思います」
「月英先生の手形?」
「父の手形が私が葵家の地下牢にいる間、没収され月樺叔父上の手にあったのだと思います。それを使えば、私たちより早く移動することは可能です」
「にしても早くバレすぎだろう」
そう訝し気に子雀が首を傾げると、厳しい目つきの汀眞が莫を見て思わぬことを言ってのけた。
「で、主人売っといて、いつまで涼しい顔してんの?」
「……はっ……?」
その言葉にあらかじめ聞かされていた芙蓉と当事者である莫以外の人間が思わず声を上げた。
子雀などはついていた頬杖から手がはずれ、危うく椅子から転がりそうになっている。
「李美、まさか君が……?」
厳しい目つきの主人に、莫は相変わらず無表情のまま、それどころか少し安堵したようにさえ見える顔つきになった。
「なんだ、バレてたんですね」
汀眞は種明かしをするかのように彼を見ると、いつになく厳しい顔をして言う。
「あんたの顔どこかで見たことあると思ってたけど、莫官吏にそっくりだって気が付いたときはびっくりしたね。莫官吏は昔から出身国が同じ茜大師とは懇意にしてたはずだし、孫に協力させてたってわけか」
莫官吏と言うと、慶朝の起居注官を務める大御所官吏である。芙蓉もすでに聞いていた話であったが、彼が葵國と手を結びたがっているという茜大師と懇意にしているという話は官吏事情に異様に詳しい汀眞にしか分からなかったことだ。
汀眞はいち早くそれに疑いを持ったらしく、芙蓉に彼のいる前では全てを明かすべきではないと助言した。
目に見えて紅鳶に服従している莫が彼を裏切るわけがないと思ったが、だからこそだと汀眞は言った。
『誰だって自分の主人に王様になってほしいだろう』
それはもしかしたら、汀眞が彼の思い人であり主人である薺家の当主苑華に寄せた思いに似ていたのかもしれない。
今回確信を持って莫が情報の出所だと分かり、芙蓉も彼の鋭さに恐れ入った。
汀眞の前で嘘をついたり、隠し事をすることがどれだけ恐ろしいことか。
皇帝が蔦家を傍に置きたがるのももっともである。
莫は相変わらず飄々としたまま、信じられないような顔をした主人を見ている。
「爺様と俺は顔が全く違うんですが、さすが蔦家の人間ですね。早く始末しておくべきだった」
「……あんたが言うと洒落になんねえよ」
「当たり前でしょ、本気で思ってるんですから」
「俺を始末すれば薺家を敵に回すことになるってあんたも分かってるんだろ」
「それでも俺の王様は紅鳶様しかいないんですよ」
そう言った彼の顔には何かをやり遂げたような安堵が伺えた。
「……李美、君は僕を裏切っていたということかい」
「まぁ、葵家側に芙蓉さんがこのことに勘付いているというのを伝えたのは俺ですね」
紅鳶が問うと、莫は指を顎に添えながら答える。
「……どうして?」
芙蓉たちはどうすることもできないまま、今にも殺し合いでも始めそうな主従を見守っている。
万が一を思ってか鈴扇が芙蓉をその背に守ってはいるが、芙蓉も身を乗り出して二人を止めようとしている。
「俺は、あなたのためならなんだってする男ですよ。やはり、蔦家の人間などここに招き入れるべきではありませんでしたね」
またもや感情のない顔で汀眞を見る彼は淡々とした言葉の割に興奮を隠しきれないように震える手を刀を持つことで押さえている。
それを見た芙蓉は、彼の作戦がうまくいったのだと悟った。
彼は自分の王のために、緋鶯の失脚を目論見その一手を成功させた。なんとも主人思いの従者だ。
そんなこと分かり切っているくせに紅鳶はなおも彼を苦しいような表情で睨んだ。
「僕のため?僕のためかどうかは自分で決める。一介の家臣が大きな口を開くな」
「馬鹿ですね、あなただって気が付いているはずなのに。あなたの物語には綻びが生じている。本気で緋鶯様が当主に向いているとでも?」
それは紅鳶がずっと目を背け続けた事実であった。彼の兄である緋鶯は王の器ではない。芙蓉も、もっと言えば汀眞などすぐに気が付いたことであり、弟である彼は充分に知っているはずなのに目を背け続けた事実だ。
「……黙れ」
珍しく語気を荒げる紅鳶に莫はその身を投げ出すように瞳を閉じて手を胸に当てた。
まるで、斬ってくれと言わんばかりの姿勢に芙蓉は止めに入ろうとするが鈴扇と子雀に止められる。
「あなたの時代の始まりだ。俺を罵ってくれたっていいんです。あなたが王になるなるならば俺はなんだってできたんですから」
紅鳶は怒りを治めるためか、剣の鞘に暫く手を当てたまま動かなかった。
莫は自分の人生を、紅鳶に明け渡すかのように安らかに瞳を閉じている。
すぐ切り殺さなかったのは、そこまで彼の思い通りになるのが癪だったからか、温情からなのか周りで見ている人間には分からない。
芙蓉が恐る恐るその目を見ると、燃えるような赤は怒りに染まって一層綺麗である。原始の炎が生き続けているかのような瞳は、それでも怒りと焦燥で揺れていた。
彼の燃えるような髪が、逆立ったように見えたのは芙蓉の見間違いではなかったのかもしれない。
それは今までの彼が一度も芙蓉たちの前で見せたことのない表情であった。
暫くすると彼は剣を一度だけ振るい、その刃は卓を二つに切り裂いて鞘に戻った。
「……地下牢に放り込んでおけ、あとは僕が片づける」
紅鳶がそう言ったことで従者たちが莫を捕縛すると、彼は恐ろしいほど従順にそれに従った。
彼らが去っていくのを見届けると、そこに残った静寂ははっきりと絶望を表していた。
「もう一つ、報告があるはずだ。俺たちはこれを見越して布石を打った」
諦めたような空気に汀眞の言葉は湖に投げ入れられた石のように広がる。
「……布石?」
もはや、いつもの人を食ったような笑みを一つも浮かべていない紅鳶は汀眞を睨みつけている。
「俺の目を侮ってもらったら困りますよ。芙蓉、話を続けてくれ」
「……ええ、そうですね」
そう言われて芙蓉が話し始めた言葉に全員が食い入るように聞き入り始める。
ここからが芙蓉と汀眞の作戦の本番であった。




