2.三度目の偶然─2
※カニバリズム表現があります
「やっぱりそうですね」
芙蓉は緋鶯にバレないように紅鳶の部屋の一区画を借りて死んだ猫の頭部を開いていた。
まだ生暖かい身体を白い布の上に横たえて、芙蓉は紅鳶の手を借りて丁寧にその頭皮をはがした。
勿論、口元や手は簡単ではあるが巾で覆い、使った刃物は二度と他のことに使用しないように言ってある。小刀で丁寧に開いた頭部に入った脳味噌は、その容量に対して随分小さいように見えた。
汀眞はと言えば恐ろしいものでも見たかのように部屋の隅で窓に張り付いている。
やはり何度目かの湯浴みに席を立っていたらしい彼に事情を説明するのも面倒で黙っていたが、言ったら言ったで煩いだろうなとも思ってしまう。
とにかく今は突然現れた猫に感謝するしかない。猫は人気のないところで死ぬというが、普段あまり使われていないであろう書庫で死のうとでも思ったのであろうか。
「分かったの?」
遠くからその光景を見守っていた汀眞が鼻をつまんでこちらに近づいてきたので芙蓉は静かに頷いた。
「話が見えてきました。やはりこれは震え足の一種のようです。これ見てください、脳味噌が海綿のように委縮しています」
「そう言われても俺脳味噌見たことないから分からないんだけど……」
可愛らしい猫の無残な姿に顔を顰める汀眞の横で、紅鳶は何でもないことのようにその頭部を見入った。
「狩猟で取った動物を捌いたことがあるが確かにこれは随分と小さい気がするね。形も違う。李美、君も見てみて」
「……確かに、普通の獣とは違う形をしているように見えますね」
隣に座り込んだ莫も頷いているのを見るとやはりそうらしい。芙蓉は二人の証言を確認すると猫に手を合わせてその身体を大きな布に包み始める。
こんなことになってしまったことに、猫自身に罪はない。
芙蓉は猫の死体の周りに集まった面々に静かに話し始める。
「人間の場合は、と言ったのには理由があります。人間でも全く同じ症状の病が存在するんです。そしてその感染経路は人肉食です」
かなり抵抗はあったが、今はこれを話さなければ話が進まない。思った通り、汀眞と紅鳶は芙蓉を凝視したまましばし息を飲み、莫までも驚いた顔でこちらを見守っていた。
「人肉食……!?」
「人が、人を食べるのか!?」
芙蓉も初めて聞いたときは吐き気さえ覚えた話だ。この病の感染経路は空気感染に限らない。信じがたい話だが、その血肉を食らうことで感染は拡大する。病自体が人間の身体に元からあるわけではないというが、芙蓉にはそれが同族を食らうという禁忌を犯した獣への罰のように感じられた。
汀眞は今にも吐きそうなに顔を青ざめさせ、気丈な紅鳶でさえ顔を顰めていた。
『誰にも言ってはいけないよ。この病を発症した人間を食べることで感染することがあるんだ』
あの日、月英は芙蓉の好奇心の芽を摘み取るようにそう言った。
そしてこの病気が起これば、それを悪用しようとする人間がいるかもしれないということを暗に告げた。
一度目ならば珍事、二度目ならば偶然、そして三度目であれば人間の手が加わった可能性がある、と。
いったい父はどこまで見通していたのか、自らの父ながら恐ろしくなる。
「父上が西に訪れたときに聞いた話です。ある国では人食いの習慣を持つ村があり、そこでは日常的に死んだ人間を食べていたそうです」
「うげっ……芙蓉、その話翔兄様の前で絶対しないほうがいいよ」
彼の言う通り、人間の血や死体の髪だけでも腰を抜かす嬰翔が聞けば失神していただろう。ここにいなくて本当に良かった。
「分かってますってば。そこでもこれと同じような症状が出たのです。感染した人間は脳味噌が委縮し、老人のようになって死んでいきます。まさにこの猫に起こった症状と同じです」
「それが君が言っていた、人間が得て良い知識に限りがあるかという話か」
紅鳶は芙蓉の言葉を反芻するように言う。
その通りだ。芙蓉は初めてこの話を聞いたとき安易に立ち入っていい話ではないと身震いがした。
「はい、葵國で私が見たのは山羊が死んだ仲間を食べているという光景でした。そして紅鳶様、この猫は残り物の死んだ牛の肉を貰って食べていたんですよね」
山羊たちにそういった習性はないため、きっとその年彼らの餌となる穀物が凶作のため腹が減っていたからであろうが芙蓉はすぐに急速な病の広がりの原因だと気が付いた。
月樺にバレないようすぐに全て焼却処分するように指示したはずだったが、彼は気が付いていたのかもしれないと歯痒い気持ちになる。
芙蓉は全てを見届けるまでの外出を許されていたわけではなかった。
「ああ。兄上から貰った肉に味を占めて、人間の食用には使われない屑肉を貰っていたらしい。その肉の出所は死んだ牛を使っていた」
やはり、思っていた通りだ。
「この病は空気感染はしないと思われます。しかし、人肉食と同じようにこの病で死んだ動物の肉を食べれば同じ症状を引き起こす可能性があります。同族間でばかり感染すると思っていたことが盲点でした」
「こんなの誰が分かるんだよ」
汀眞は芙蓉を相変わらず人知を超えたものを見るような目で見ているが、今回は彼女も後手に回っている自覚がある。
芙蓉は紅鳶から渡されていたそれぞれの牛を管理する帳簿の一部分を指して二人に見せながら言う。
「先ほど報告書を見ていたのですが、ここを見てください。二年前に飼料が変わっています。おそらく他の牛舎でもこの飼料が使われているのではないかと。すぐにでもこの飼料の詳細を知る必要があります」
「二年も前?そんなの関係あるの?」
汀眞は疑うように芙蓉の手元を見て言うが、それこそこの病の盲点なのである。
「この病は通常二年は経ってから発症するんです。期間はまちまちですが、もっと長い場合もあると聞きました。いわゆる遅効性の毒と同じです」
「二年前だって……!?」
芙蓉の言葉に紅鳶が彼にしては大きな声を上げ、額に手を当てた。
「どうされました?」
「……父上が倒れたのと同じ時期だ」
「なっ……!?」
その言葉にその場にいた全員が体を強張らせた。月樺はこの事態を二年前から計画していた可能性がある、ということだ。
十年近く前にこの事態を予測した月英も恐ろしいが、それを利用しようとした月樺も十分恐ろしい。
「仕組まれた可能性が高いですね。叔父上がこのことを知っていれば、まず間違いなく利用してくると思います」
「山の賢者なんて本当よく言ったものだよね……おっそろしい一族だよ本当に」
「芙蓉、すぐに症状をできるだけ細かく記してくれ。僕は他の地方を調べて回るから、君たちはもう一度農場をあたってほしい。李美、君も付いて行ってくれ」
芙蓉と汀眞の言葉に紅鳶は深い溜息をついてから指示を出す。
「了解しました」
芙蓉と汀眞はお互いを見ると、頷いて準備のために帳簿の解読を始める。
「紅鳶様」
「なんだい?」
芙蓉はその場から立ち去ろうとする紅鳶を呼び止めると、苦い顔をして言う。
「あなたの自暴自棄に私を巻き込むのはもうやめてくださいね」
先程までの彼の言動は明らかに諦めて次の手を打とうとしていたのだろう。芙蓉とて、猫の件がなければ完全にお手上げであった。
しかし、短絡的な思考の犠牲で抱かれるなど御免である。
「すまなかったね」
彼はその言葉に苦笑して頷くと書庫を後にした。
※
農場につくなり死んだ牛の頭部に小刀を入れ始めた芙蓉を、農民たちは恐ろしいものを見るように見守っていた。彼らにしてみれば家畜とはいえ、家族であり神様のような存在なのだろう。
芙蓉は簡単に作られた白衣を纏って作業をしているが、やはり猫と比べれば血の量も多くもはや足元も血の海のようになってしまっている。
芙蓉が慣れていないせいもあり、ひどい有様になっていて余計に恐ろしい。
「坊ちゃん?なんでわざわざ牛の脳味噌なんか見たがるんだい?」
「ここに病気の兆候が出るんです」
「っていうと、なんの病気か分かったのかい?」
嬉々とした声に芙蓉が頷くと俄かに農民たちが「おお」と声を上げた。
芙蓉は腑分けの終わった牛の死体を片付けるように指示を出すと、汀眞と農民たちの前に来て言う。
「思った通りでした。汀眞殿、ここの牛も、猫同様に脳味噌が委縮しています」
「……本当かよ、じゃあ毒でも仕込まれたってこと?おじさん、二年前に飼料を変えたんだよね?」
芙蓉から少し離れたところで見守っていた汀眞が隣の農民たちに問いかけると彼らはそろって首を傾げた。
「飼料?ああ、変えたけど二年も前の話だ。しかもこの飼料のおかげで生育が早くなったんだ。これが原因なわけない」
そう言って彼らが試料を汀眞と芙蓉の前に柄杓ですくって持ってくるので、芙蓉は顔を近づけるとすぐに嫌な顔をした。
「匂ってみてください」
そう言われて汀眞が同じようにすると、彼も穀物の香りに混じった動物くさい臭いに驚いて顔を背けた。
「なにこれ?なんか生臭い臭いがする」
「穀物だけではありません、これは動物の死骸の匂いです」
「どういうこと?」
「この飼料の原料は死んだ動物なんですよ」
牛か山羊か、そこまでは芙蓉には分からない。しかしこの飼料に動物の死骸が含まれていることは確かだろう。そう言うと農民たちは何故か、全員それがどうしたんだという反応をした。
「ああ、そうだよ。よく知っているね、これは動物の死骸を使ってるんだ」
「……知っていたんですか!?」
「それは肉骨粉と言って、牛の肉と骨を砕いて作った粉を飼料に混ぜたら生育が早くなるって葵國の商人が売りに来たんだよ。言った通り牛の生育が早くなったんだからこれのせいじゃねえよ」
「そうなの?」
汀眞は不思議そうに尋ねるが芙蓉もそこまでは分からない。月樺は嘘に少しの真実を混ぜればバレにくいのだと知っている男なので、もしかしたら本当かもしれないが絶大な効果が出るとも思い難かった。
「……いえ試したことはないのでそこまでは分かりませんが、これで葵國から試料を買っているという言質は取れましたね」
「まあね、にしてもこんな非人道的なことする?もしかしたら人間も食べてるかもしれないんでしょ、この肉」
汀眞の言うことはもっともだ。もし牛が病を発症していなくても、その肉体を通して肉骨粉は人間の体内に取り込まれている可能性がある。
芙蓉たちが出された食事は离鴇の喪中であることもあって肉は含まれていなかったのが不幸中の幸いだ。
「あり得ますね、その線でも探ったほうがいいかもしれません。おじさん、この飼料を使用するのを即刻中止してください。この飼料を食べた猫が同じような死に方をしているんです」
「本当かい!?でっ、でもこの飼料を使い始めたのは二年前で……」
慌て始める彼らに芙蓉は躊躇なく首を振った。
「この飼料は使い始めてから二年ほどで影響が出てくるんです。このまま使い続ければ被害は広がるばかりですよ」
そう言っても首を傾げる彼らの前に、芙蓉と汀眞の後ろで事を見守っていた莫が名乗り出た。
「失礼ですが、俺は茜家の家臣でありこの者たちは茜家の客人です。嘘は言っていないと、紅鳶様が保証してくれますよ」
「莫さん……!?」
「これくらい言わないと、分かってくれませんからね。紅鳶様も責任くらいとってくれると思いますよ」
彼に恩を売られるのも癪だったので「どうも」と心無い言葉が口をついて出たが正直それはありがたいことであり、農民たちも紅鳶の名前に急に事の深刻さを知ったようだった。
彼らはみな顔を見合わせてから芙蓉と汀眞の方を向き直る。
「……参ったな。商人の中にひどく口がうまい男がいてね。貴族風だったからみんなすっかり信じちまったんだ」
「……っ!?その男の顔は覚えていますか!?」
芙蓉がその言葉に身を乗り出すように聞くと、彼らは皆一様に困り顔になった。
「それが……あまり印象に残っていなくてね。たしか綺麗なお貴族様だったのは覚えているんだが」
それが答えなのだ。芙蓉は唇を噛んだ。
月樺は極端に目立たない男である。当主である兄の影に隠れて動くのが得意な姑息な男だ。
一見大胆不敵に見えるが、誰も彼の顔を思い出せないあたり既に彼の巧妙な罠に嵌ってしまっている。
あの男は自分の存在感の無さがどう武器になるか知っているのだ。
むしろ彼ならこんな非人道的なことでも平気でやってのけるだろう。
「十中八九、月樺叔父上です。おじさん、その粉はまだ葵國から買っていますか」
「あ、ああ。確かまた売りに来るって言っていたはずだけどね」
芙蓉は汀眞の方を振り向くと、深刻な顔で告げる。
「急ぎましょう、今なら出所を突き止められるかもしれません」
※
「お客様?こんな時に誰でしょう?」
茜家の邸宅に戻った芙蓉に使用人が駆け寄ってきて告げたのは彼女と汀眞に来客があるという話であった。
芙蓉は首を傾げるが、隣の汀眞は苦い顔をして身を引いた。莫は同じく身を引きながら、そんな二人を見守っている。
「……俺分かる気がする。ねえ芙蓉、俺先に書庫に戻るからさ。一人で会ってきなよ」
「はぁ?何言ってるんですか、二人にって言われたでしょう」
「分かったよ、どうなっても知らないからな」
そういう汀眞を引きずって庭の中にある四阿に通されると、そこで待っていたのは二人の男であった。
「鈴扇様!?」
「やっぱり……あんた暇なのかよ」
二人のうちよく知った顔の方に驚いて声を上げると、汀眞は苦い顔でやはり後ずさる。
彼は既に分かっていたようだったが、ここには現れるはずもないと思っていた人間に驚いていないわけではない。
鈴扇は芙蓉を見て安心したのか少し相貌を崩したが、すぐに汀眞に鋭い眼光を向けた。
「向こう一月分は仕事をしてきたから問題ない。嬰翔も喜んで送り出してくれた。芙蓉、元気そうで何よりだ。あの男に変なことをされてはいないか?」
ほんの十日ほど会っていないだけのはずなのに、久しぶりに見た彼は相変わらず美しく、何より紅鳶に組み敷かれた際に言われた言葉が蘇ってきてまともに彼の顔を見れそうになかった。
「いえ、そんな。滅相もないです」
色々あったことはあったが、こうして貞操も守れているわけでと思ってそう笑顔で返すと鈴扇は柔らかく微笑む。
「そうか、良かった」
こんなにも表情が動く人だっただろうかと思っていると、隣にいた男が豪快な笑い声をあげた。
「慶朝様が言ってた通りだな、鈴扇のこんな表情が見れるとはここまで来た甲斐もあったかもなぁ」
見ると三十を少し過ぎた頃だろうか、芙蓉と同じく葵國出身らしく淡い黒髪に茶に近い瞳の細身の男だ。
鈴扇の隣に立つことで分かりにくいが彼もまた整った顔立ちの美丈夫である。人懐っこい表情をしているせいで分かりづらいが鈴扇とは一回りは歳が離れているようであった。
「……冗談はおやめください」
急に顔を強張らせた鈴扇の肩を組んで言う男に芙蓉が不思議そうにしていると、彼は悲しそうに肩を落とした。
「この前会ったばっかりなのに、俺のこと忘れちゃったのか。芙蓉」
その言葉に芙蓉は急に一月ほど前に朝廷で顔を合わせた男を思い出し、目を大きく見開いた。
「しっ、子雀様!?なっ、なんでここにいらっしゃるんです!?」
劉 子雀、皇帝の侍医であり月英の弟子であった彼だと、その言葉を聞いてやっと気が付いた。
以前会った時と装いが違いすぎて分からなかったが、確かに崩した喋り方や瞳の色はあの時見たままである。あったはずの泣き黒子がないのは化粧のせいだろうか。
彼は再び笑いながら芙蓉の顔を面白そうに覗き込んだ。
「様はよせよ。月英先生が慌ててるみたいで面白いなあ、芙蓉は」
「私が要請を出していたんだがここまで早く、しかも皇帝の侍医たる方がいらっしゃるとは思っていなかった」
「なっ、なんで子雀さ……んがここに?」
様と言いかけて、子雀がまた悲しそうな顔をするので言い直す。前までと比べてましになったとはいえ表情の乏しい鈴扇といるせいで余計に彼の顔が表情豊かに見える。
「俺は月英先生の一番弟子だから、獣医学関係もそこら辺の学者には負けない自信がある。とは言っても、芙蓉には勝てないかもだけどね」
彼はそう言って芙蓉の頭をガシガシと撫でた。おかげで簡単にまとめていた髪がはらはらと落ちてしまう。
鈴扇はそれが見ていられなかったのか芙蓉の肩を自分の方に引き寄せてその髪を整えた。
「さっきから妙にべたべたしすぎではありませんか?」
「叔父さんが甥っ子に会ったみたいなもんなんだから許してよ」
「あなた達に血縁関係はありませんよね?」
子雀が言うと鈴扇は尚も怪訝な顔で反論する。
子雀は眉を顰めると不思議そうな顔をしている芙蓉に尋ねた。
「俺が言うことじゃないけど、このくそ真面目男で本当にいいのか?芙蓉」
「何がです?」
「……そういうことです、劉先生」
芙蓉が小首を傾げるのに、汀眞が口を添えると子雀は納得がいったように溜息をついた。
「あー、結構女に好かれる割に月英先生もそれ関係疎かったからなぁ」
「……なんなんです、その生ぬるい視線は?」
目を細めて鈴扇を見ながら彼の言葉を黙って無視すると、子雀は汀眞に向き直る。
彼の前では鈴扇が子供のように見えるのが不思議だ。芙蓉や嬰翔にもできないことに驚くが、彼もよく考えたら芙蓉のような下っ端官吏がお目にかかることなど出来ない身分の人間なのだ。
「蔦官吏は初めましてか。医局に勤めている劉 子雀だ」
「存じております、劉先生。そのお姿は初めてですよね」
その言葉に、子雀は肩を落とした。汀眞はとっくに子雀が雀藍という名で女装して後宮に出入りしていることなど見破っているようであった。
「なんだ、やっぱり気が付いてたのか。面白くないなぁ」
「他言はしませんのでご安心ください」
汀眞は薺家と蔦家の名を背負う官吏らしく真面目な顔になると子雀に礼を取った。
「分かってる、お前らはそういう家系だよな。殊寧と汀寛も俺見た瞬間笑い堪えだして腹立たしいったらないわ」
「あー……。申し訳ありません、あの二人には多少礼節が欠けておりまして」
汀眞の兄と姉、双子で薺家当主の側近として仕えている殊寧と汀寛は確かに面白いことが好きそうな愉快な二人であった。
彼らに玩具にされてしまえば一生笑われることだろう。
子雀はそう言いながら今度は三人を見渡すと、真面目な顔で話し始める。
「にしても、ちょっと報告が遅いんじゃないか?病が出てから半年は経ってるだろう。俺たちは何も聞かされてないからびっくりしたよ」
「王都にも牛を提供してるって聞いてるんで、商品価値を下げたくなかったんでしょうね」
汀眞が言うと、鈴扇と子雀は揃って顔を顰めた。これも、おそらく月樺が緋鶯にした入知恵なのだろう。
「それで、二人はどういう状況なわけ?俺たちも、遊びに来たわけじゃないから聞かせて欲しいな」
さんざん鈴扇で遊んでいた子雀が言うのもどうかと思ったが、知識のある彼に情報共有をしたくて芙蓉は持っている情報を端的に伝える。
「震え足が、おそらく牛の飼料に病の獣の肉を混ぜることで葵國から意図的に流入していることが分かりました」
「そうか、あの病は共食いで広まるっていうのは知ってたけど、そんな風に悪用する奴がいるとはなぁ」
驚いてはいるようだが、共食いという言葉に驚かないあたり彼はこの病について知識があるようだった。
鈴扇は何のことか分からないという顔をしているが、今は彼に説明する暇もないのでまず子雀に伝えるべきだと思った。
「知っていたんですか!?」
「月英先生と一緒に西に行ったの俺だからね、あの人が一人で行って帰って来れるわけないだろ」
「まぁ、確かに……」
芙蓉と暮らしていた時も徹夜で何日も寝ないせいで倒れたり、考え事をして水路にはまっていたりと何かと抜けていた彼がひとりで旅できるとは到底思えなかった。
「芙蓉はどういう手を打とうとしてる?月樺殿は、蛇みたいに気味が悪い男だろう」
「葵國に伝令を、驟雨様に最近起こった家畜の疫病についての報告が上がっていないか伺おうと思っておりました」
葵國の國主であり、芙蓉の国試後見人でもある驟雨は葵家に逆らうことができないとはいえ、情報提供を呼びかければ答えてくれるはずだ。
そこからは芙蓉たちが答えを導いていくしかない。
「そうか、驟雨殿は芙蓉の後見人だったし、情報をくれるだろうね。それで俺に何か言いたいことがあるんじゃない?」
「────子雀さんは、桜玉手形を持っていますか」
芙蓉がそう言うと、まるで子供が予想通りの答えを出したのを喜ぶようにほくそ笑む。
「持ってる。いいよ、貸してあげる。そういう意味でも慶朝様は俺を派遣したんだろうしね」
桜玉手形、薺家に下賜された薺玉手形とは違い、個人に与えれるその手形はどの関所であってもすぐに通り抜けることができるという代物である。
皇帝の侍医である彼であれば当然持っているであろうと思ったが、予想通りの答えに芙蓉は思わず肩の力を抜いた。
それを借りれば、葵國への伝令をすぐに飛ばすことができる。それを使ってなお、往復でも六日近くはかかるはずであり、当主選定までにはかなりギリギリであるが間に合わないこともないだろう。
そうと決まれば芙蓉は驟雨に送る伝令を書かねばなるまいと奮起して拳を握った。
「芙蓉、ちょっと待ってもらっていい?」
芙蓉を隣で見ていた汀眞が、深刻な顔をして彼女の方を見る。
「汀眞殿?」
思わず呟くと汀眞は恐々口を開く。
「俺に考えがあるんだ」
『一件だけなら珍事、二件なら偶然の一致、三件となれば問題だ』は狂牛病研究者であるマーティン・ジェフリーの言葉を使用しています。




