2.三度目の偶然─1
「……で、なんでこいついるんだよ!?」
汀眞は二人の前に座って平然と作業を進める紅鳶に思わず声を大きくして言う。
なんでと言われても突然僕も手伝うよと言って入ってきたのだから仕方ない。それを止められるだけの権力も、または体力も芙蓉には残っていない。
朝から動きっぱなしで体力も限界なのだ。
「汀眞殿、こいつはさすがに失礼です」
「本当だよ、君はおまけであって僕は芙蓉さえいればいいんだから。ねっ?」
芙蓉はそうやって肩を組もうとしてくる紅鳶の手を身をかがめて躱すと「あれ」と彼はたいして残念でもなさそうに手を引っ込めた。
「ね、じゃありません。汀眞殿をないがしろにすれば薺家を敵に回しますよ」
そう言うと口を尖らせながら芙蓉から身を離すが、相変わらず本気かどうかわからない言動の男だ。
「芙蓉はもう少し可愛げがないと女の子としてどうかと思うけど」
「私は戸籍上は男だって言ってるでしょう」
初めて会ったときとは随分と印象が違う気もするが、それは中身だけではない。
最も驚くのはそのいで立ちで、蘭國にいた頃の姿は見る影もなく簡素なのである。長い赤髪は低い位置に簪一つでまとめられ、落ち着いた赤の上衣を纏ったその姿は言われなければ同一人物だと分からないかもしれない。
そしてその手が算盤を弾く速さと言ったら芙蓉や汀眞に負けていないのだ。あまりのことに汀眞はしばし見入っている。
「あんた本当に貴族の坊ちゃんなのかよ……」
「芙蓉の言った通り、それほど難しい式ではないよ」
彼は涼しい顔をして言うが、十分並ではない吸収力と順応力である。本人は武官になりたいと考えているらしいが、それが勿体ないほどの手腕を彼は充分持っている。
芙蓉からしてみれば、あの月樺と交渉を一か月近く長引かせたというだけでも十分すごい。
「いえ、本当にすごいです。私の教えていた算術くらい余裕でできていましたもんね」
「あれは、僕が個人的に芙蓉と話したかったからいいんだよ。有意義な時間の使い方もできたしね。鈴扇殿をからかうのも面白かったし」
彼は疲れなどないように、芙蓉を見てにっこり微笑む。芙蓉と汀眞も忙しかったが、莫から聞いた話によれば紅鳶こそ寝ずにずっと働いているはずなのに一向にその素振りを見せない。
「面白くないでしょ……あれのせいでどれだけ菫國令が悩んでたことか」
そのおかげで汀眞も嬰翔宅での居場所を失っていたのだと言いたかったが心の中に留めた。
汀眞の言葉に、紅鳶は微笑んで全てを分かったような顔で小首をかしげる。その仕草が妙に色っぽいのは彼の美貌のなせる技なのだろうが、生憎彼の本性を知っている芙蓉と汀眞は訝しむのみである。
芙蓉はすっかり疲弊しきった鈴扇を思い出して、渋い顔をした。
「私ばかりか嬰翔様までいなかったので鈴扇様本当にしんどそうでしたもんね」
「いや、そういう意味じゃないんだけど……まあいいや」
「何がまあいいんです?」
「芙蓉は知らなくていいよ。今は余計なことは考えるのやめよう」
はぁ、と言うとまた沈黙に戻ってしまい芙蓉は慌てて気になっていたことを紅鳶に尋ねる。
「紅鳶様、そういう格好もなさるんですね」
「赤は好きだよ。でも華美なものは好まない。髪も本当は李美みたいに短くしておきたいんだけどね」
李美、そういえばこの不愛想な男はそんな可愛らしい名前だった。
莫はそう言われても、何食わぬ顔で窓の隣で外を見ている。会話に加わる気などないのだろう。
紅鳶はそれを見ると面白そうに笑うが、彼に四六時中監視されている芙蓉と汀眞は笑い事ではない。
「李美は何も話さないから退屈だろう。つまらない男で申し訳ないね」
「ってか、紅鳶……様。本当にこんなところにいていいんですか」
「ああ、僕ぼんくら息子だから逆にちゃんとしてたらおかしいんだよ。便利だろう」
汀眞が聞くと、紅鳶は当たり前のことのように言う。紅鳶は汀眞に対して直接見下した態度を取ったわけではないが、彼らの相性は最悪だと思う。
それは茜薊交わらず、という言葉以前に彼ら自身の相性な気もするが。
しかし、汀眞をこころよく受け入れた緋鶯の方がやはり異色であり、屋敷内を歩くと何人かが汀眞を見て薊國の人間だと後ろ指を指しているのを見た。こんな場所では彼の苛立ちも尚のことだろう。
芙蓉の嫌な予感に追い打ちをかけるように汀眞は紅鳶に毒づき始める。
「にしても緋鶯様はびっくりするくらい俺に偏見がないみたいでしたね。あんたと違って」
「その節はすまなかった。だって君が来たらすぐにバレそうで面倒だったからね。僕も本当はあまり気にしたことがない、一番美しい赤の家系など分かり切っているのだから今更目くじらを立てなくてもいい」
紅鳶は茜家の誇りそのもののような男である。剣と馬を愛し、誇り高い一族の末裔である彼が好むのは血のように美しい赤のみ。それ以外は目に入らないとでも言いたげな言いぶりだ。
「別に、怒ってもないし許しもしないですけど」
「変な言い回しだね、君たち一族を懐柔しようなんて思ってないから安心したらいいよ」
今にでも喧嘩が始まりそうな雰囲気に芙蓉は急いで話題を変えにかかる。
この、官吏の割にけんかっ早い商人気質の男といるとすっかりそれが堂に入ってしまった。
「てっ、汀眞殿、牛の相って見えたりしないですよね……なんちゃって……」
汀眞は少し顔を歪めるが、すぐに思案顔で答えてくれる。
「見えるかもしれないよ」
「えっ!?」
冗談で言ったことに、まさかと思ったが彼に限って嘘はないだろう。
汀眞は芙蓉の顔をじっと見ると目を伏せる。
「でも、俺のは芙蓉の目と違って後天的に鍛えたものだから期待しないほうがいいよ。あとあの牛舎にそのために長居するのは臭い的に無理だからね」
「……ですよね」
口元に感染を防止するための巾を巻いてはいたが、洒落者で身なりに気を遣う彼には厳しい環境だったのだろう。事実、帰ってきてから三度も湯浴みに席を立っている。
汀眞はそう言いながら、芙蓉の手元に肘をつけると乗り出すように彼女が読んでいた書物を覗き込んだ。
計算をしながら、芙蓉が先ほどから何度も読んでいるので気になったのだろう。
「芙蓉、さっきから熱心にその章を読んでるけど何か分かったの?」
「うーん……正直に言うと分かりませんでした。昔父上から教えられた病に似ていたので同じようなものがあるかと思ったのですが、やはり茜國でも同じような扱いでしたね」
「月英が言ってた話なら、信憑性高いんじゃないの?見せてよ」
慣れてきたとはいえ汀眞が父の名を呼び捨てにするのはやはり違和感がある。
ここです、と芙蓉は該当する部分を汀眞に見せる。
それは芙蓉が幼い頃父親に教えられた家畜の病の一つであり、中でも稀に発生する感染病であった。ここの書庫に文献があっただけでも有難いことだった。
「父上もこの病の原因を突き止めたわけではないんです。何十年かに一度発生しては自然に収まるのであまり研究する人がいないんですよ」
芙蓉の指さした先にはかつて月英が芙蓉に描いて見せてくれたように柱に足をこすりつける山羊の絵が描かれていた。農民たちは皆牛が杭に足を乗せるのは足が悪いせいだと言ったが芙蓉には違うように見えたのだ。彼らは皆、掻痒を逃がしているようだった。
「どんな病気なの?」
「震え足という病です。山羊や羊に起こる病で、脳味噌が海綿のようになります。そのため西の国では海綿症とも呼ばれるらしいです。人間の場合はいわゆる加齢による物忘れや知的障害に似た症状が出ます」
そこまで言ってしまってから芙蓉がしまったという顔をすると、思った通りに二人が驚いた顔でこちらを見ていた。
「ちょっと待って、人間の場合……?!」
「人間に感染るのかい?」
「……いえ、そういった話はありません」
「今の間は絶対嘘だろ!」
「嘘じゃありませんよ!父上も言っていました!」
急いで訂正するが、二人とも気が気ではない顔で芙蓉を見つめ返してくる。汀眞など、半日も病の疑いのある牛舎と過ごしてしまったからなおさらだろう。
「ではなぜ人間の場合という話が出てくるんだい」
今度は紅鳶が神妙な顔で言うので一瞬黙ってから、思わず唸った。
「えっと……ですね」
「芙蓉、どうしたの?ちょっと今回歯切れ悪くない?」
確かに以前汀眞に詰め寄った芙蓉には信じられないほど、先ほどから考え事やためらいが多い。芙蓉自身も感じているのだろう、汀眞の顔を見返しては唸る。
『絶対に人に話してはいけないよ』
この話を教えてくれた父が言った言葉が思い出され、芙蓉は口を引き結んでから気まずそうに言う。
「この話は人が聞いてけして気持ちがいいものではありません。確信が持てるまで話すのは保留にさせてください」
そう言うと、意外にも汀眞よりも先に紅鳶が折れた。
「……そうか、君がそこまで言うんなら従ったほうがいいのかもね」
「えっ!?意外に聞き分けいいじゃん」
「僕はこの問題を早く解決して葵家と手が切りたいだけで、知らなくていいことまで知るつもりはないよ」
「本当に知らなくていいことなのかなぁ」
「私が葵國にいた頃、一度この病に遭遇したことがあります。そのとき私の行動権を握っていたのが月樺叔父上だったのですが……気持ち悪いのは重々承知なのでとりあえず聞いてください」
話の途中で既に吐き気でも覚えたかのような顔をする汀眞を、芙蓉自身嫌いな叔父を思い出しながら諫める。
「呆れた独占欲だね」
「まあ、それは今はいいんです。叔父上は私に外出許可を出して、感染した山羊の世話を任せました。その時に見られた症状と今回の病は似ています」
「それは収まったのかい?」
「山羊同士で感染するので、泣く泣く何頭も殺処分になりましたが収まりましたよ」
「ここにも同族間では感染するって書かれてるけど、牛に感染したっていう例はないね」
汀眞は芙蓉から示された箇所を見て言う通り、芙蓉も山羊や羊同士の感染を聞いたことはあるが、牛の話は聞いたことがなく、同様に茜でも確認はされていなかった。
「そうなんですよ、もしかしたらと思ったんですが、あの近くで山羊や羊は飼っていませんでしたし。とりあえず今は記録を確認して前例がないか遡ってみるしかありませんね」
芙蓉の言葉にまだ納得はしていないのであろう汀眞はしかし、紅鳶がすぐに作業に戻ったのを見て渋々算盤を弾き始めた。
※
芙蓉がそれを目にしたのは久しぶりに出ることを許された外界でのことであった。自分の目の前に広がる光景に、思わず目を背けてから父の言葉を思い出していた。
『絶対に人に話してはいけないよ』
そう言ったからにはそれ相応の意味があると、芙蓉も月英の言葉を理解していた。
人間には踏み入ってはいけない領域がある。
これは、この行為は人間が踏み入ってはいけないものだと本能が警鐘を鳴らした。
自然の猛威はやすやすとその領域に踏み入って、こちらに来ないかと手招きをしているようだった。
それでもその領域との境を、芙蓉は誰にも見られないように丁寧に塞いだはずだった。
「芙蓉、何を見たんだい?」
恐らく国中、いや大陸中で最も性格の悪い叔父は、病にかかった山羊の処分を終えた芙蓉にそう問いかけた。
何を考えているのか分からない、顔だけは父親によく似た月樺に芙蓉は思わず身震いした。
「…何も見ていません」
なるべく何を考えているか悟られないようにそう告げた。
そのとき目にしたものは明らかに人間が見てはいけないものだったのだ。そしてその芽を、芙蓉は確かに摘んだはずだった。
それでも父が残した言葉が気がかりだった。
『いいかい芙蓉、一回きりならそれは珍事。二回なら偶然の一致。そして三回なら立派な問題だ』
父から聞かされた病が一つ、芙蓉が葵國で見た病が一つ、そして今回の件がもう一つ。
三度目の偶然はあり得ない、そうなれば違和感を抱くべきだ。
「父上ならどうしますか?」
そう問いかければ、なんでも知っている父はきっと答えをくれたのだろう。
あの時も、そして今も、父ならばもっと良い答えを導き出していた気がしてならないのだ。
そして何より大きな問題の前で小さな問題に視界を阻まれているような違和感がしてならない。
大きな海は小石を集めて埋めようとしたところでどうにもなりはしないのだと暗に言われているような気がしてならなかった。
※
気が付くと眠っていた芙蓉は、側頭部に感じる温もりに思わず寝ぼけた頭で擦り寄った。
夜通し考え事をする父に、こうやって寄り添っていたなとまだ半ば夢の中だったのだ。そうしていると、頭を撫でる手が父よりも硬くて骨ばっていることに気が付いて一気に目が冴えた。
「紅鳶様!?」
芙蓉がうっかりもたれかかっていたのは未だ算盤と睨み合ったままの紅鳶だった。蘭國にいた頃もここまで身体が密着したことはない。彼は、反射的に離れた芙蓉の頭をもう一度自らの肩に預けさせるとまるで年の離れた妹にするかのように微笑んだ。
「まだ寝ていていいよ」
急に恥ずかしくなって汀眞を探すが、姿が見えないあたりまた湯浴みにでも行ったのかもしれない。芙蓉はと言えば軽く髪をすすいだ位だったので臭いが残っていないかと心配になるが紅鳶は気にしていないようだ。
「そんなわけにはいきません。引き受けたからには最後まで全うします!」
そう言っても紅鳶は芙蓉の頭を離さずにその黒髪を梳くように撫でた。その触り方はやはり鈴扇とは違っていて違和感があった。
「もう終わるから、よしよし」
「……馬鹿にしてます?」
「いや、よく考えたら僕より六個も下の女の子だったなぁと思って」
「その六個も下の女の子を、あなたは脅してこんなところにまで連れて来たんですけど」
そう言うと彼は面白そうに笑うが、やはり少し憂いを帯びた表情をしている。彼に力で抵抗できないことは分かっているため、芙蓉は仕方なく彼の肩を借りたまま悪態をついた。
「ごめんごめん。父親の夢でも見てたの?」
「えっ?」
「父上って呼んでたよ」
考え事をしているつもりがそのまま眠りについてしまったらしいと気が付いた芙蓉は先程の夢の中でのことを思い出して苦い表情になった。
自分は夢に見るほど、叔父を恐れているのだ。自分の弱さが恥ずかしくなる。
ふと、芙蓉は彼女の頭を肩にのせたままの紅鳶に問いかけた。
「紅鳶様は人間が得て良い知識に限りはあると思いますか」
「僕は人間の知恵が及ぶ限り学問に限りはないと思うけど」
「理想論ですね」
顔を歪ませてそう言うと、紅鳶は筆をおいて芙蓉の顔を覗き込んだ。間近に近づいた顔はやはり腹立たしいほど整っている。
「意外だな、君は違うの?」
「昔この国がまだ動乱の時代にあった頃、多くの兵士を討ち取った人間に褒賞を与えるとお触れが出たことがあります。でも討ち取ったからと言って証拠を持ってこなければ分からないでしょう。そうしたら、何人かの知恵者がこう言ったんです。────左耳を削ぎ取って集めればいい、と」
それを言い出した者は、元は普通の知識人だったのだと父は言っていた。
極限状態となれば人間は思考を簡素化し、いかに目的を達するかにのみ集中してしまう。けれど人間の矜持を、誇りを失えば人は狂い始める。父から聞いたその話を芙蓉は忘れることができなかった。
紅鳶は芙蓉を覗き込んだまま、その赤い瞳を僅かに細めた。
「例です。人間とはそこまで残酷になれるということです。けれど、人間は人間である限り、その矜持を持って学問に向かい合うべきだと私は思います」
「そして今回のことは君の矜持に反する行いである可能性があるということか」
「そういうことです」
物分かりがいいのはやはり彼が優秀である証拠だろう。やはり、ただの放蕩人として終わらせるには勿体なさすぎる人間だ。
まあ、それだからと言って彼を信用しているわけでもなくそろそろいいだろうと身を起こそうとしたところで体が宙に浮いていた。
驚いているとすぐに近くの長椅子に体を横たえられ起き上がる暇もなく組み敷かれていた。
以前に一度見たはずの光景だが、あの時ほど殺気を感じない分違う身の危険を感じて身を捩る。
「何するんですか?」
「月樺殿は君のことを人間そっくりの獣だと言っていたけれど、ますます人間らしくて可愛くなってきたな。これなら僕でも飼えるかもしれない」
飼える、その言葉に芙蓉は激しく眉を顰めた。
「私は人間ですけど」
「僕は仕事と割り切ればどんな下手物でも抱けるんだろう」
「悪かったですね、下手物で……ってその話、莫さんから聞いたんですね」
『ああいうやつはどんな下手物であろうが目的のためなら抱けるんだよ』
昨日、汀眞と二人きりになったとき聞かれていないと思って話していたことが莫によって彼に伝えられていたようで部屋の外にいるはずの莫を思わず睨んだ。
「ふふ、別に君のことを下手物だって言ってるわけじゃない。むしろ好みだよ」
「社交辞令をどうも。どうせ、叔父上が思った以上に私に肩入れしていたので既成事実でも作っておくかとでも思ったんでしょう」
「ご名答。あの時も思ったけど、君男に組み敷かれてるんだから少しくらい照れた方が可愛いよ」
「あの時、既に女だってわかってたんですね。殺されるのかと思った自分が馬鹿みたいですよ」
彼は芙蓉の腕を片手で縫い付けたまま、その顔を自分に向かせた。芙蓉に欲情などしていない、その瞳の中にあるのは目的を達するための強い意志だ。
「芙蓉って顔は可愛いのに何故かやる気が起きないんだよね。なんでだろう」
「そう思うならそこをどいてもらえますか?」
「こういうのは顔の好みもあるが体の相性が大事だ。初めては青臭い鈴扇殿より僕に任せたほうがいい」
「なっ…!」
そう言われたところで何故か鈴扇に抱きしめられたときの記憶が蘇り、顔が熱くなった。自分でも分からないがどんどん熱くなる顔に芙蓉が戸惑っていると、その変化が紅鳶にも分かったのか彼はいやに顔を綻ばせた。
「あっ、その顔はいいね。うん、僕もこれなら大丈夫そう」
「な、なにがなんですか。ちょっと変なところに手入れないでくださいっ!」
そう言うと紅鳶は嬉々として、芙蓉の太腿をなぞった。身を捩りながら、芙蓉は彼の肩越しにあるものを見つけて思わず声を上げる。
「待ってください!」
「大丈夫、すぐ済ませるから」
「そういう問題じゃないんですよ!あっ、あれ見てください!」
「……何?」
一向に芙蓉の前からどこうとしない紅鳶が後ろを振り返った隙に、芙蓉は渾身の力を振り絞って彼の下から転がりでる。
芙蓉が駆け寄ったのは扉の前で倒れた緋鶯の愛猫のもとであった。とはいっても芙蓉が、部屋の中に入ってくるのを見た時には既に足元がふらついており、倒れてしまってからは動こうとしない。
「……死んでます」
芙蓉は猫の心臓部に手を置くが、既にそこに脈打つものはなかった。気に隠れた足元には擦ったような跡が無数にあり、痛々しい。まさか緋鶯がしたわけでもないと思っていると芙蓉に逃げられて苦い顔をしたままの紅鳶が彼女の横に膝をついた。
思わず距離を取るが、もうその気もないのか彼は猫ばかり見ていた。
「……まさか猫に邪魔されるとはね」
彼はそう言いながらも、猫を撫でてやりすぐに懐から出した手拭いで体を包んでやっていた。この男は汀眞の言う通り本当に行動の予想が付かない。
「かわいそうに、最近やたらと音と光に反応すると思ってたけど。変なものでも食べたのかな」
「えっ、今なんて言いました?」
「音と光にやたらと反応するんだ。僕が明かりをつけたら威嚇するから外に出していたんだけど、どうにも足元も覚束なくてね」
「もしかしてこの猫、牛肉や豚肉を餌代わりに与えられたりしていませんでしたか」
「言われて見ればそうだね。やたら足元で泣くから兄上があげているのを見たことがあったかな」
その言葉に芙蓉の頭の中でやっと三度目の偶然が意味を持ち始めた。
この病は山羊や羊の同族では空気を通じて感染する。
そして確信の持てなかったもう一つの感染経路が今目の前で証明された。
芙蓉は風呂敷に包まれてしまった猫の身体を見ていると、やはりあちらこちらに擦過傷のようなものが見られる。
間違いなく同じ病の兆候だった。
「お願いがあるんですけど」
そう言うと、紅鳶は真剣なまなざしで芙蓉を見つめ返してくる。
「何か分かったのかい?」
はい、と言いながら芙蓉はその瞳を見つめ返す。
「緋鶯様にバレないようにこの死体を私に譲ってください」




