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鴻鵠の娘  作者: 納戸
精衛 海を填む 【茜國編】
34/50

1.赤と黒─2

 獣の爪は手入れをしなければ自らを傷つけるというが、月英はその痛みに鈍いために伸びきった爪に気付けないでいるような子供であった。

 おかげで母親は、()()()()()()の化け物を生んでしまったと死ぬまで悔やんでいた。


『月英、お馬鹿さん。能ある鷹は爪を隠すのに、お前の爪は剥き出しで人を傷つけてばかりかお前自身にも傷をつけるじゃないか』


 母親に書物を破り捨てられた月英にそう言うと、彼は月樺(げっか)を見つめ返すだけで何も言わなかった。

 一族中に疎まれて下男の家に移されたときも、花額山の上に隔離されたときも彼は何も言わなかった。

 全てを諦めたような瞳は、知識以外何も求めていなかった。誰のためでもなく知性という名の爪を研ぎ澄ましていた弟が慶朝についたときは驚いたが、朝廷で見た彼が何も変わっていなかったことに何故か安心した。


 権力や知性の代わりに手に入るものがあると、頭ばかり良かった弟は知らなかったのかもしれない。


 自分たちは双子のように似ていたのにまるで正反対の道を進むことになったが、互いに後悔はしていないのだろう。血が繋がっているからか、それだけは確かに分かる。

 弟のたった一つ残した形見である芙蓉という娘は不思議な色の瞳をしていた。野性の獣のような凛とした瞳は明らかに弟の、自分のそれと違う光を湛えていた。

 何も求めなかった弟が誰と子を成したのか。

 それを見事に隠したのが皇帝であったことが気がかりで当時は母親を必死で探しもしたが、芙蓉が人形になるのが嫌だと小刀を自らの太腿に突きたてた時からそんなことはどうでもよくなった。


『全てあなたの思い通りになると思わないでください』


 そう言ったまま気を失った彼女を見て、月英は面白いものを残したと痛感した。

 生き人形にするのは勿体ない。芙蓉は芙蓉であるというだけで価値がある。父親と同じで知に飢えた、かわいそうな人間の紛い物。


 ああ、この手の中に舞い戻ってくる日が待ち遠しくて仕方ない。


 けれど、その前に片付けなければならないことは案外たくさんあるのだ。


「貴方のところの次男坊がうちの息子を(さら)って行ってしまったようです。いやはや、いつもより情報が遅くて困ります。最近は國境の警備が強化されたようで」


 月樺は目の前で酒杯を傾ける老人に人のよさそうな笑みを浮かべて語りかける。顔だけは人畜無害なのが、弟と自分の唯一の共通点だ。

 菫國主が薺玉手形(せいぎょくてがた)の偽造防止について慶朝に進言したからだというが本当にやりにくい。芙蓉を最初に見つけ出して連れて帰った次男といい、厄介な兄弟である。


「甥ではなかったのかね?」


 老人、茜 牙鴇(せん がほう)は月樺に尋ねる。眉根を顰める壮年の男は彼の甥が死んだという話が嘘ではないかと思う程未だ若々しい。


「ああ、少し気が(はや)ってしまいました。僕は独身ですし、養子に入れようと思っていたのに兄上がなかなか頷いてくれなくて困っています。より良い種を残すため、葵の家格を上げるための道具なので僕の手元に置きたいと思っているのですがね」


 月樺は兄が月英を殺してしまったことにも心底がっかりした。親子など、両方生かして互いの人質にしたほうが扱いやすいのに。自分が少し家を空けた間ばかりに、芙蓉と月英という二匹の獣の手綱を握る機会を失くした。


「牛や馬のように言いますな」

「同じです。その点に関しては、月英も良いものを残してくれました」

「ほほう。うちは直系には姫がいないのですが、分家にはなかなか美しい娘もいるのです。そのときにはぜひ良しなに」


 牙鴇がそう言うと、月樺は申し訳なさそうな顔をしながら苦笑する。


「御冗談を、あの子には他の血が混ざっているのでそちらのご令嬢には釣り合いませんよ」


 芙蓉の血の濃さなど正直どうでもよかった。それよりも葵 月英と葵 芙蓉という二人の獣の血が人間に近づいてしまうのが勿体なくて仕方ない。

 他の血を混ぜるなど言語道断だ。あの子は自分の選んだ相手と、理想の子供を成してもらわないと困る。

 牙鴇の方もどうせ社交辞令だったのだろう、すぐに侍女を呼んで酒を注がせている。


「ところで大丈夫なのですかな、()()()()殿()の息子が介入すれば月樺殿の計画を覆されてしまうのでは?」


 あはは、と月樺はこの時ばかりは善人面を忘れて高笑いをした。

 芙蓉は、()()()()()()()きっと止められない。



「いくらあの子でもできないこととできることがあります。必ず、全て僕の手に落ちてきますよ。────可哀そうな僕の小鳥、全部遅すぎるんだよ」




 ※



 汀眞と芙蓉は書庫に運ばれた食事を簡単に済ませた後、緋鶯(ひおう)の私室へと向かっていた。両方の足取りが重いが、振り返ると何故か迎えに来た紅鳶が微笑んでおり逃げられそうにもない。先程から汀眞が何度も道を逸れようとしては莫に無表情のまま修正されている。

 茜家の邸宅はさすがは六大家と言うこともあり、葵家に匹敵するほどの広さがあった。室内に獣の絨毯を敷いている部屋が多く、獣が彼らの生活に近い場所にあることが伺えた。

 室内は赤を基調としているようだったが、慶事の色であるためか常時よりは控えられているのだろう。蘭國に紅鳶が持ち込んだほどの派手さは無い。


「兄上、二人を連れて参りました」

「っ!?」


 紅鳶が緋鶯の部屋の扉を開けた途端に転がり出た毬は、よく見ると肥えた猫だった。


「こら、瑤姫(ようき)


 芙蓉の前に太った猫が横たわって撫でて欲しいと言わんばかりに腹を広げる。腰を落として見ると、太っている上になかなかふてぶてしい顔をしている。隣で小さく汀眞が「金持ちの猫だ」と呟くのが聞こえた。


「瑤姫というのはこの猫の名前ですか?」


 瑤姫、炎帝の三番目の娘と知られる武術に長ける神女の名前だ。大層な名前が猫を釣り合っているようには見えず、思わず笑いそうになってから我に返る。おそらく、名付けたのは緋鶯であり、それを莫迦にすれば紅鳶が黙っていない。


「ああ、葬式の間は檻に繋いでいたんだけどやっと出せたんだよ」


 汀眞が言っていた猫の話かと思って聞いていると緋鶯は硯に筆をおいて、侍女たちに茶器を運ばせた。

 芙蓉と汀眞は猫に気を取られて挨拶を忘れていたことを思い出し緋鶯に向き直ると、各々が名を名乗った。彼が汀眞の姓を聞いて興味を示したのを見る限り、紅鳶からは何も聞いていなかったらしい。


「汀眞くんは()()蔦の名を持っているのだからすごいなぁ。噂によれば鑑定士にならなければ名を捨てる決まりなんだろう」

「はい、そうですが。よくご存じですね」


 汀眞はよく挨拶代わりに鑑定を頼まれているのを見かけるが、彼はそう言った無理強いをするでもなく感心して彼の出自を褒めた。

 気取ったところのない、つまりは紅鳶とは全く似ていない青年である。その優しい物腰は、むしろ鈴扇の兄である柳扇を思い出させた。

 彼は汀眞と芙蓉に席に着くように促すと、手ずから淹れた茶を二人の前に差し出した。

 透明感のある翡翠色の茶からは芙蓉が慣れ親しんだ香料の代わりにつけられた花の香りはしない。自然の茶葉の香りが上品に香ってくるあたり高級な一品のようだ。


「紅鳶も座りなさい」

「お言葉に甘えさせて頂きます」


 紅鳶は緋鶯の隣に腰かけて背筋を伸ばしている。とてもいつもの彼の、のんべんだらりとした様子とは思えない。

 次いで後ろで突っ立った莫にも声をかけるが、彼は従者の矜持もあってか一礼してそれを断った。


「良い香りですね、蘭や葵の茶葉は花で香り付けしたものが多いのでこのように茶本来の香りが立っているものは少ないんです」


 添えられた月餅も皮の質感が異なり何層もの皮が重なっている。ところ変われば品変わるというが、冬の長い葵と蘭でしかほとんど生活したことのない芙蓉にとってはどれも新鮮だ。


「お口にあったなら良かったよ。蔦家の方には物足りないかもしれないけどね」

「いえ、良い香りです。茜の茶葉は人気が高いんですよ」


 汀眞は感心したように舌で味わっているがこうやって彼は知識を得ているのかと感心した。芙蓉も同じように味わおうとするがおいしいということ以外何も分からない。こういう点でもおそらく感性が優れていないのだろう。


「それは良かった。それにしても、芙蓉くんは珍しいくらい綺麗な黒髪だね」


 汀眞のことを話していないということは芙蓉のことも話していないだろうとは思ったが言葉に詰まっていると、さらに緋鶯は質問を重ねてくる。


「葵家に所縁のある家の出身なのかい?」


 その問いで察した芙蓉は苦笑して答える。


「……いえ、平民なのですが稀にこういう髪色の人間もいるらしいですね」


 事実、髪の色など稀ではあるが突然変異で濃くも薄くもなるのだと汀眞も言っていた。不思議そうな顔をするがさほど興味もないのか、芙蓉の足元をよたよたと歩いていた愛猫を膝にのせて撫でながら憂い顔になる。よく太った猫は体が重いのか酒にでも酔ったかのように足元がおぼつかない。


「わたしの管理がいたらないばかりにこのようなことになってしまって申し訳ないね」


 一瞬猫のことかと思ったが、家畜の流行り病のことだ。急に張りつめた空気に、芙蓉も茶器を置いて尋ねる。


「失礼ですが、以前にもこのようなことはありませんでしたか」

「わたしも君ほどではないが家畜について学んでいるんだよ。似たような事例はあったが全く同じ症状はなかった」

「それは虫を媒介にして感染する病でしたか?」

「良く知っているね。もう数十年は前の話だけど、その時は虫を殺す薬を炊いてどうにか収めたんだけど今回はそううまくもいかなくてね」


 芙蓉が言うと、緋鶯は顔を上げて驚く。本当に彼は、驚くほど普通の反応ばかりするので拍子抜けしそうになる。

 その後も芙蓉は感染した牛の隔離方法や、死んだ牛の処理について聞いたが彼はなかなか詳しく説明してくれた。紅鳶の言う通り、彼が勤勉で民を思う人間なのだということはすぐに分かった。


 しかし問題は、彼がそれらを終えて発した言葉だ。


陶月(とうげつ)殿が力になってくれると言っているんだよ。父上が死んで、困っていたところを助けていただいて助かったよ」


 前言撤回、柳扇とは全く違う人種だ。

 本当に見返りもなく葵國が手を貸すとでも思っているのだろうか。その言葉を聞いて弟が僅かに顔を歪ませたことにも、彼は気が付いていないようだった。


 愚かなわけではない。ただ少しだけ勘が弱いのだろう。それが葵家と対峙するうえでどれだけの足枷となるか分かっていない。命取りになるともきっと彼には分からない。


 芙蓉は、歯がゆい思いをしながらもそれ以上を話すことが出来るわけでもなく、重苦しい空気の中会話を進めるしかなかった。


 ただ一人緋鶯だけが、その空気が実父の喪中のためだと勘違いしているようだったのがいたたまれなかった。




 ※




 不毛、という言葉がここまで似合う時間の過ごし方もないと芙蓉と汀眞のどちらもがおそらく思っていた。

 緋鶯との話し合いは要領を得なかった訳ではない。聞きたいことも聞けたし、それなりに興味深い話し合いもできた。

 しかしそんなことは半時もあればすむ話であり、二時も芙蓉たちの時間を奪うはずのものではない。紅鳶はずっと笑って頷いていたが、彼だって何も思わなかったはずがない。


「俺あの人が本当にこのまま國主になるのが良いのか分からなくなってきたんだけど……」

「汀眞殿、滅多なこと言わないでください!」


 汀眞が思わず呟いたのを、芙蓉は急いで叱咤する。芙蓉だけではなく前を歩く莫だって聞いてるのだ。

 しかし、彼は聞いているのかいないのか書庫の前まで歩くと何事もなかったかのように踵を返した。


「では、こちらで失礼いたします。後ほど夜食を持って行くように紅鳶様に言われたので訪ねると思いますが気になさらず作業を続けてください」

「……どうも」


 汀眞が警戒しながら言うと、彼はそれを気にした様子もなく芙蓉の方を見て事務的に確認する。


「それと、芙蓉さん。ご入浴の際は侍女を付けますか。ここにいる人間はあなたが女性だと知っている人間ばかりなので気にしなくてもいいですよ」

「……そんな余裕はないのでお湯を持ってきていただくだけで結構です」

「そうですか。では、一度失礼いたします」


 相変わらず腹は立つが、割り切ってしまうと楽なのかもしれない。隣の汀眞が彼が去っていくのを確認して耳打ちしてくる。


「あれ、素でやってるんだよ。それがかえって嫌味なんだけどね」


 芙蓉が引き攣った顔のまま彼を諫めようとすると廊下を曲がるときに莫が振り返っていた。


「それと」

「ひっ……!」


 何を言われるのかと汀眞と身を寄せ合ったまま身構えると彼はその細い目を少しだけ開いて、いつも通り無表情のまま言う。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 それだけを告げると、音もなく彼は去っていった。

 芙蓉と汀眞は互いに顔を合わせると、大きく息を吐いてから話し始める。


「えっ?どういうこと?あいつも緋鶯様に國主になってほしくないってこと?」


 そういうことだろう。彼は紅鳶を盲目的に尊敬しているようだし、彼以外に仕える気もなさそうだった。どういうつもりなのか、まるで分からないのが恐ろしい。


「嘘を言っている感じではなかったですよね。……というかもうこんな時間なんですけど明日には視察に行くのにどうしろというんです……?」


 芙蓉は僅かに逡巡するがすぐに我に返って、書庫の中に置きっぱなしにしていた資料と報告書の山を見た。今は莫の身の振り方など考えている暇はない。とにかく彼に芙蓉たちを殺すような理由はなさそうだし、今は自分たちの身の振り方を考えたほうがよさそうだった。

 意外にも汀眞は覚悟が決まっているらしく、芙蓉の前に座るとすぐに帳面を開いた。


「やるしかないでしょ、ほら芙蓉は俺に報告書と資料割り振って」


 言われた通り、作業を始めると彼は着実に芙蓉から受け取った資料を読み込んでは処理済みの紙の山を築いている。さすがは官吏に登用されてすぐに出世株である御史台に配属された汀眞である。


「紅鳶はともかく妙に危機感がないんだよな、あの若様。見たあの猫?太っててうまく歩けてなかったよね」


 瑤姫、と名付けられた猫のことだ。確かに、体が重すぎてふらふらとしていたが主人に甘える姿は可愛いと思った。緋鶯が主人として管理ができているかと言われたら疑問だが、別に目くじらを立てるような点ではない。


「太ってましたけど、可愛かったですよ」

「明らかに餌のやりすぎ。どんだけいいもん食ってんだよ。自分の國の民は困窮してんのにさ」


 もっともな意見ではあるが、汀眞にはある人を憎むあまりそれに関係する別のものまで全て憎む節がある。

 それを世間一般では偏見という。


「緋鶯様は少し、柳扇様に似ているかと思ったんですが」


 兄というものは皆優しいものなのかと思ったが違う。

 一度だけ桜國で会った鈴扇の兄である柳扇は物腰は柔らかいながらも抜け目のない策士に見えた。野心家という訳でもなかったが、彼を敵に回すと面倒そうだ。


「あの苑華様に寄ってくる変人か。似てないね、あの人は國主としてちゃんと狡猾だもん」

「確かにそうですが、ひどい言いようですね」

「菫の兄弟は俺の大切な人たちのお気に入りだから気に入らないだけ」


 子供のように言う彼はしかし、芙蓉と同様に柳扇のことを認めているようではあった。


「汀眞殿の、そういう裏表のないところは良いと思います」


 それでも少し拗ねたような顔が面白くて素直に言うと、彼はすぐに表情を戻し芙蓉の方を見た。


「芙蓉、最初にも言ったけど紅鳶には気を付けたほうがいい。あいつは素で二面性がある。自分でも気が付いていない本当の顔があって、それがいつ俺たちに牙を剥くか分からない」

「そんなこと分かってますよ」


 むっとして言うと、汀眞は芙蓉に筆を突き付けて言う。


「分かってない。芙蓉、なんで今自分が生きていられると思ってんの?茜家と葵家の手を切るためでしょ。それができないと分かったら紅鳶は芙蓉を手籠めにしてでも手に入れようとするだろうよ」


「てっ……!?何を言い出すんですか!?そもそも私、紅鳶様に全く食指が動かないって言われましたしそんな危険はないと思いますが……」

「ああいうやつはどんな下手物(げてもの)であろうが目的のためなら抱けるんだよ」

「ちょっと、誰が下手物(げてもの)ですか」


 さりげなく失礼なことを言われた気がしたが、汀眞はなお真剣な顔で芙蓉に諭すように言う。


「とにかく、芙蓉は王様が望んだ人間だってことくらいここにいるやつらはみんな分かってる。無傷で帰れるなんて甘い考えはよした方がいいってこと」


 冗談を言っているわけではないと、流石に理解はしている。それでも紅鳶が自分をどうこうしようというきがあるかというとそんなことは考えられなかった。


「……そんなことになるくらいなら、あの人の舌を噛み切って逃げますよ」


 うんうん、と頷いてから汀眞は苦笑いを浮かべた。


「自分の舌を噛み切って死のうとしないあたりは芙蓉らしくていいけど、そんなことにならないように単独行動は避けること、いいね」

「はい。今のちょっと嬰翔様みたいでした」


 汀眞は、彼が兄のように慕う嬰翔に似ていると言われたのが嬉しかったのか少し顔を赤らめるがすぐに咳払いをして芙蓉に向き直る。


「とにかく、ここにいる間は俺のことを頼るしかないし俺も芙蓉を頼るしかない。俺たちは運命共同体だ」




 芙蓉はそれに力強く頷くと、二人はまた目の前の書類の海に身を沈めた。




 ※



 翌日、帳面に顔を付けたまま眠ったせいか顔に妙な跡が付いた芙蓉と汀眞は農家が穀物を運ぶ車に揺られて農地へと向かった。

 さすがに牛の引くゆっくりとした車では芙蓉も酔わないらしく、昨夜取れなかった睡眠を貪った。

 昨日はあの後莫が持ってきた湯で一応身体を清めはしたが、季節が夏に足をかけているせいか汗ばんで少しだけ気持ち悪い。

 それは汀眞も同じだったようでしきりに匂いを気にしていた。綺麗好きで洒落者の彼にはこの生活は厳しいのだろう。

 早く帰りたい、と切実に思う。芙蓉にとって葵家との直接対決が怖くないわけがないのだ。

 特に月樺という薄気味悪い叔父は芙蓉でさえ量り知れない男だ。いっそ逃げてやろうかとも思ったが、今日も莫が芙蓉と汀眞を護衛と称して見張っているため無理そうであった。


「そのために、はやくあいつが元凶だって証拠を見つけなきゃ駄目なんですよ!」


 気合を入れてそう言うと、汀眞が奇妙なものでも見るようにこちらを見ていた。

 今は二人とも、感染を避けるために簡易的な白衣に身を包んで口元には巾を撒いているため声がくぐもって汀眞にしか芙蓉の意気込みは聞こえなかったらしい。


「芙蓉?……寝てないから頭おかしくなった?」

「……いえ、元気です。ちゃっちゃと診察していきますよ」


 そう言いながら芙蓉がパンと手を叩くと、何匹かの牛は興奮したように身を捩る。全てではない。

 感染力が弱いのか、空気を辿って感染するわけでもないのか全ての牛に報告された奇行が見られるわけではなかった。

 芙蓉の周りに集まった農民の男たちはその行動を不思議そうに見て、隣で帳面に記録をつけていた汀眞に尋ねる。


「あの、このお坊ちゃんは何をしてるんで?」

「診察だよ。気にしないで。芙蓉、どう?」

「運動障害と音への敏感な反応が見受けられます。おじさん、このあたりで山羊や羊は飼っていますか」

「いや、ここらへんでは飼ってないね」


 急に芙蓉に話を振られた男たちは驚いているのか彼らは戸惑いながら答える。


「心当たりあんの?」

「山羊や羊の病なら心当たりがあります。山羊や羊から感染したのかと思ったんですが、その線もなさそうですね」


 うーんと汀眞は首を捻る。彼は彼で農家の男たちに渡された牛の記録を読み込んでおり、その中の資料の項を睨んでいた。


「芙蓉に言われて毒でも盛られてるんじゃないかと思ったけど試料を結構厳重に管理されてる上に病が発生した時期に変わってるわけじゃないらしい。毒が盛られたわけでもないっぽいね」

「……そうですか」


 流石は遊牧民族とでもいうべきか、彼らは葵國や蘭國の人間よりも数倍牧畜に対して知見を持ち、観察と記録を続けていたようで報告書より精細な記録を見せてもらうことができた。

 気になったのは罹患した牛たちが取る柱や策にやたらと足を持たれ掛けさせる行為だ。まるで自らの身体を支えきれないような行動をいぶかしんで芙蓉は尋ねる。


「足が不自由なんですか?」

「ああ、ここのところやたら柵にもたれかかるんだよ」

「近親交配の可能性もありますが、成長してから症状が出たというのはやはりひっかかるものがありますね。茜國では定期的に雌を丸ごと他の農家と入れ替えてしまうんですよね?」

「ああ、そうだけど。良く知ってるなぁ」


 こういった話も全て月英が芙蓉に教えたことだった。芙蓉は誇らしげに微笑みながら質問を続ける。


「詳しい知り合いがいまして、このあたりの牛の血統図はありますか?」


「ああ、うん。全部じゃないと思うけど。今持ってくるよ」

「血統図?」

「何代か前に同じような症状の牛がいれば遺伝している可能性があります。血の濃さには計算式がありまして、それを紐解くと交配関係が見えてくるんです」


 芙蓉がそう言って懐から取り出して差し出した本を汀眞がめくると、中には月英の名前があった。芙蓉は父親の本を見つけてここまで後生大事に持ってきたらしい。


「これまた、あんたの父親の作品なわけね…」

「むしろ農業こそ父上の専門です。兵法書なんか書かせた人間はバチが当たればいいんですよ」


 兄を盲目的に崇拝する紅鳶もどうかと思うが、芙蓉も負けないくらい盲目的に父を思っている。それが彼女の判断を鈍らせることはないが、そろそろ縛られなくても良いのにと汀眞は心の中でだけ思う。


「それ王様なんじゃないの?」


 そう苦い顔をする汀眞に芙蓉はどうだか、と目を伏せる。権力に興味を持たず、知を追い求める親子の前では慶朝もまたその平穏を奪った蛮族の一味なのかもしれない。


「坊ちゃんざっと千頭はいるんだけどいいのかい?」


 二人の前に再び現れた農民たちは二人でも抱えきれないほどの帳面を持っている。芙蓉はそれを、乗ってきた車に移すように言うが、汀眞は気が気ではない。

 ただでさえ昨日詰め込んだ知識のせいで頭が破裂しそうなのに、これ以上詰め込まれると彼の本業がおろそかになる。


「芙蓉」


 戒めるように、というよりかは願うように彼は芙蓉に言うが彼女の顔は既に肝を据えたようににっこりと微笑んでいた。



「はい、計算しますよ。安心してください、さほど難しくはありませんから」



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