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鴻鵠の娘  作者: 納戸
精衛 海を填む 【茜國編】
33/50

1.赤と黒─1

「足の震えている山羊を見かけたらすぐに父上に言うんだよ」


 昔、あれはいつだっただろう。

 父は芙蓉にそう言ったことがある。


「足がうまく立たない山羊は血が濃いからではないのですか」


 不思議そうに言うと、父は芙蓉に帳面を貸すように言った。そこにさらさらと描かれていく山羊の絵を芙蓉は覗き込んで見ていた。

 近親間での交配によって生まれた山羊は立つこともままならず、早くにその命を終えると聞いたことがあった。

 月英は何でも知っていたが、中でも動物や植物についての造詣が深かった。きっと官吏にならなければ学者としてその名を残していたのだろうと芙蓉は今でも父のことを考えることがある。


「厄介な病にかかっている可能性がある。そうなってしまったらもう手遅れなんだ」

「どんな病なんですか」


()()()()()()()()()()()()()()()()()


 芙蓉の頭を、扉を叩くように指で軽く弾く父に彼女は嫌がって頭を押さえる。折角月英からの知識を吸収した脳味噌を病なんかに奪われてしまうのは癪だった。


「人間にもそのような病気があったら困ります」


 そう言うと、父は笑って何も答えなかった。

 芙蓉は途端に不安になって父の顔を覗き込んで尋ねる。


「え、あるんですか?」


 そうすると月英はそのまま芙蓉を抱き込んでこらえきれないように笑い始めた。騙したのかと怒った顔をしても父は面白そうにその頭を何回も撫でるばかりだった。

 そうして落ち着いてから、言い聞かせるように言ったのだ。


「いいかい芙蓉、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 帳面の中に父が書いた山羊は足を木に擦りつけるようにして、苦悶の表情を浮かべていた。



 ※



 茜國(せんこく)に向かう車の中、芙蓉(ふよう)汀眞(ていしん)の真向かいには茜家の次男である紅鳶(こうえん)が座っていた。


 紅鳶は相変わらず派手な装いだが、その髪は簡単に一つに結われていた。

 蘭國から離れた途端少しだけ愁いを帯びた紅玉の瞳は芙蓉を逃がさないためか、じっと彼女を見つめている。

 こうなったのにはいろいろと事情があった。

 兄を当主に据えるべく幼い頃自分を偽っていた紅鳶は芙蓉を月英の娘だと知り、茜に同行するよう要請してきた。

 その発端となった芙蓉の髪飾りが今も彼の手の中で(きら)めいている。間違えようもない、皇帝桜 慶朝(おう けいちょう)が芙蓉に下賜した花の簪である。それが彼の手にある以上芙蓉は従うしかない。

 彼は苦い笑みを浮かべながら話し始める。


「その分だと僕の取引相手が誰か分かっているね」

「……こんな回りくどいやり方をするのはあの人しかいません。葵 月樺(き げっか)、私の二番目の叔父上ですね」


 同じく芙蓉が滅多にないほど眉を顰めて言うと、「あの」と一人状況が分かっていない汀眞が手を上げて発言する。


「俺全然知らないんだけど、葵家の次男って殆ど表舞台に出ないんじゃなかったの」


 葵家は長男以外をその代用品にも思っていない家系である。よって妹も弟も、たとえ姉であろうが殆ど山の上から降りてくることはない。彼らの血はそうやって脈々と汚れなきままに受け継がれてきた。

 大貴族である六大家を除いてはその姿すら知らないのが殆どである。

 芙蓉は額を手で押さえながら深い溜息をつく。


「はい、ほとんど出てきません。目立たない男なので紅鳶様も会うまで存在すら忘れていたのではありませんか」


「よく分かったね。僕も人のことは言えないけど、殆ど山の上から降りてこない御仁でこちらも情報収集に戸惑ったよ」


「あの男の情報なんか眉唾物ですから信じないほうがいいと思われます。どうせ肺を患ってるだとか、使用人を通さないと喋れもしない臆病者だとか、そういった類の話でしょう」


 芙蓉の前に出るときも彼は同じようなことを言っていた。その狡猾な笑みだけはどうしても忘れることができない。

 そう言うと紅鳶は苦笑する。


「さすが、良く知ってるね」

「あの男がよく使う方便ですから」

「なに、変な人なの?」


 汀眞の問いに芙蓉は淡々と答える。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 兄の影に隠れて後ろから全ての糸を握っている月樺は芙蓉の天敵であり、絶対に敵には回したくない相手だった。


「でも顔は芙蓉にちょっと似てるよね」


 そう言われて芙蓉の顔が一気に引きつったので、紅鳶も少し気まずそうだ。しかしそんなことは関係ないほど、芙蓉は月樺という存在が不得意で何より嫌悪している。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……あの人すごい父上に似てるんですよ。()()()は」


「僕は月英殿に会ったことがないから分からないけどね」


「とにかく顔が似ているので十歳の私は最初父上が会いに来たと勘違いしたんです」


 えっ、と隣の汀眞が思わず声を上げたのを聞いて芙蓉は無表情のまま話し続ける。


「想像通り正気の私ならあり得ない話です。まあ、怪しい香が焚かれていたらしく、まんまと父上だと思い込まされてあやうく生き人形にされるところでした」


 思い出したくもない記憶を話しているせいか妙に淡々とした語り口調の芙蓉に恐る恐る汀眞が問いかける。


「……大丈夫だったの?」


「大丈夫じゃなければここにいません。とにかく相当性格が悪くて薄気味が悪い男です。……私の話はやめましょう。話を戻してください」


 それ以上話したくもないのか芙蓉は首を振って紅鳶の話に戻すよう促した。紅鳶も気まずかったのかすぐに自分たちの話題に戻す。

 その顔は芙蓉同様に浮かないものである。


「君たちが察している通り、今茜國は國として弱っている。そして、僕たちが弱ってるときに声をかけてきたのが月樺殿だった」


 そう言うと一層芙蓉の眉間の皺が濃くなった。


「二年前から、体が弱り当主としての職務を全うすることが難しくなった父上は兄上に國主の権利の一部を譲った。兄上は、まあ優秀だったので当面はうまくいっていたけど少し問題が起こった。西の地区の貴族たちが凶作で立ちいかなくなったんだ。来年には返せる当てがあると信じた兄上は金を貸したが、そこで家畜の流行り病が出た。彼らは茜家に金を返す当てがなくなってしまった」


 容易に想像できる話だ。病が出た家畜は当然商品にならない。食品、口に入るものとなるとその信頼の回復は難しく、数年単位で収入は見込めない。

 何より紅鳶と鈴扇の話を聞いた限りでは病の発生源を特定できないまま、感染が拡大しているようであった。


「牛が田や畑を耕す道具となり、しかも上等の商品になる國ですものね」


「僕が見ていなかったのも悪かったんだけど、兄上はちょっと國政もうまくいかなくなるくらいの金を貸してしまっていてね……」


 紅鳶はそう言って目を伏せ、溜息をつく。


「ば……」


 馬鹿なんじゃないかと言いそうになる汀眞の口を、芙蓉は必死で押さえて止めた。この男が兄を馬鹿にされてどんな反応をするか芙蓉には手に取るようにわかる。


「何か言ったかい?」


 当然耳ざとく汀眞の失言を聞き逃さない紅鳶に、芙蓉はすぐに答える。


「いえ何も。税を増やせば良かったのではないですか。他でも病が広がっているわけではないでしょう」


「それが今年になって他の地域でも同じような病が出た。特に牛が多くて、乳牛も食用の牛も全てやられてしまっている」


「……そんなに一気に?」


 感染症がそんなにも各所で広がることは珍しい。牛や山羊は人間と違って殆ど往来がないからである。鳥などに感染源があることを考えるとあり得るかもしれないが、芙蓉には人の手が加わったような気がしてならなかった。


「そんな折だった、葵家が手を貸そうかと申し入れてきたのは」


 それを聞いて疑念が一種確信めいたものに変わっていく。間違いなくこの一件には最初から月樺が噛んでいるような気がしてならなかった。

 すぐに口に出すことはしないが、頭の片隅に疑問を置きながら会話を続ける。


「……あの男がしそうなことです、驚くほど耳が早いんですよ」


「月樺殿が僕たちに提案してきたことを、兄上はまだ知らない。あの男が出してきた条件は、()()()()()()()()()()()()()()()()()


「性格悪っ……」


 率直に顔を顰めて言う汀眞の感想はもっともである。そもそも彼の兄である緋鶯が当主になることは六大家中も知る決定事項であり、國主の権利の一部も既に譲渡されている。そんな中で紅鳶が名乗りを上げれば貴族間でどのような目で見られるか月樺は知っているのだ。

 そしてそれが葵家の一押しでどのように変化するかも。


「ええ。性格悪いんですよ、最低なんです」


 人が嫌がることを眉一つ動かさずやってのける男だ。芙蓉が言うと紅鳶も同様に苦い顔で溜息をつく。


「君が言った通り、僕たちは何度も密談を交わした。茜國の権利の一部を譲るだとか、葵家の派閥につくだとかいろいろな条件を出したんだ。それでも月樺殿は頑として僕が当主になることを望んだ。それもそのはず、僕たちの大叔父上は僕が当主になることを望んで月樺殿と組んだんだ」


 その言葉に芙蓉と汀眞のどちらもが声を上げた。彼の大叔父は言わずと知れたこの国の三大要職の一つ、大師職にある茜 牙鴇(せん がほう)である。


「茜大師が……まさかそんな……!」


 月樺にも呆れたが、彼に加担しているのが一国の大師だと考えるとぞっとして身構える。


「大叔父上は欲しいものが手に入れば茜國なんかどうでもいい野心家だ」

「欲しい物ってもしかしなくても」


 汀眞がおそるおそる言うと、嬉しくない答えが返ってくる。


「───ああ、()だよ」


 ここに来て、以前鈴扇に言われたことがまざまざと思い出された。

 六大家のうちには菫家のように権力以外の強みを持ち、既に貴族位に意味はないと考える貴族がいる一方で、蘭家のようにその家名に縋り続けている貴族もいる。

 その二つに亀裂が入り始めていると言われても不思議はない。

 葵家や茜家は力を持っている上に、貴族意識が強い。そんな家が彼らとなって声を上げれば、それにつこうとする貴族も多数現れることは目に見えている。


「兄を廃して当主に成り上がった男がどのような目で見られるか、僕はこのままだと月樺殿と大叔父上の操り人形に成り下がるんだよ」


 でも、と紅鳶は俯きかかった顔を上げた。


「僕はまだこの話に頷いていない。おまけに今、僕が侍女に襲われたせいであちらも僕に手出しができなくなった」

「今が好機というわけですね」

「というか、多分今しかない。君たちは葬儀に参加することはない。僕の方でうまくやっておくから、どうすれば僕たちが手を組まなくて済むか考えて欲しい」


「期限は何日ですか」


「通常葬式の後十日は喪に服してから次の当主が選出される。葬式が終わってから十日だから、今からだと三週間かな」

「たった三週間で、あの男を出し抜けというんですか……!」


 月樺の用意周到さを芙蓉は嫌という程知っている。勝てる相手にしか勝負を挑まない狡猾な男だ。


「出来なければ、この国のかたちは大きく変わるきっかけとなるだろう」


 そう言われれば頷くしかない。ここまで着いてきてしまった時点で芙蓉と汀眞のやるべきことは決まっていたのだろう。


「……分かりました。善処しましょう」


「ああ、あともう一つ君たちに言わなければならないことがある。ここからは馬で向かうから降りてくれるかい?」


「はい?」


 にっこり笑った紅鳶に芙蓉はそれまで正気を保っていた顔を思い切り歪ませることになった。



 ※



 それから約一週間、芙蓉は大層悲痛な日々を送ることになった。

 紅鳶は緊急の事態ということでおそらく一日を待たずして関所を通り抜け、茜家への道を急いだ。

 芙蓉と汀眞は馬でそれを追ったわけだが、距離にして蘭國から王都までの丁度二倍の距離を走り抜けた。そんな長距離の移動に芙蓉が耐えられるわけもなく途中からは紅鳶の従者である莫 李美(ばくりび)の馬に乗せられて運ばれたわけだが、茜家についた瞬間吐いた。

 今は大分おさまったが今度は茜國特有の日差しの強さが弱った体に突き刺さり、水差しを抱えてずっと横たわったままである。

 紅鳶が葵國に来た頃はまだ五月だったのに、既に六月に差し掛かっているせいか先ほどから汗が額を伝って床に落ちる。

 ここは芙蓉が情報収集のために所望した茜家の書庫だが、その蔵書量に驚く間もなく芙蓉は腰を擦っている。


「腰が……腰が痛い……」


 芙蓉が唸るように呟くと、汀眞が彼女の前に書物をいくつか積み上げた。


「芙蓉、いつまでもへばってないで作業に集中してよ」


 口では厳しいが、彼女の額を伝う汗を拭ってやるあたり前よりは優しくなった。芙蓉は彼が濡らして額に置いた手拭いを持って体を起こした。

 風を入れるために開けた窓から見える景色は蘭國とはまるで違う花々に彩られている。


「……だってあんな長距離を走ったことなんてなかったんですもん」

「関所でちゃんと休んだでしょ、通るのに三日は待たされたんだからしっかり休んだはずだよ」


 その言葉に思わず詰まるが、芙蓉にはほとんど関所の記憶がない。騎馬民族として知られる茜國の兵士たちに汀眞がついていけたのは意外なことで、芙蓉には風となって駆けているような心地がした。


「嬰翔様も汀眞殿も意外と慣れてますよね」


 そういえば最初に蘭國に入った際も、嬰翔は鈴扇について馬を駆けさせていた。何でもないことのように汀眞は鼻を鳴らして言う。


「そりゃそうだよ、商人が車なんかいいものに乗ってられるわけないでしょ」

「じゃあ、苑華様も!?」

「当たり前」


 そういう彼は何故か誇らしげである。

 汀眞の思い人であり、薺家の当主である苑華は商人だが女性らしい服装に身を包んだ美しい女性だった。そういえば以前薺玉手形が偽造された際も自ら足を運んできたが、あの時も芙蓉の予想よりはるかに早く到着していた。そういうことだったのかと今更ながらに感心してしまう。


「芙蓉さん、もしまだ痛むようでしたら抱いて運びますが」


 芙蓉を見て莫が言うが、生憎彼の言うことなど一つも信用していない。事実彼は『抱いて』と言っているが、気を失った芙蓉を荷物のように肩に担いで運んだあげく書庫の長椅子に放り出したのだ。そのせいで胸の不快感が増し、嘔吐したといってもおかしくない。

 明らかに芙蓉のことをものとしか思っていない。

 放り投げられた衝撃で目を覚まし、彼の何も考えていない瞳と目が合った時は殺意を覚えたものだ。


「あれは()()()って言わないんです。人を俵か何かみたいに扱わないでください」


「そうですか、気を付けます」


 敵意むき出しの目で言ったところで彼は申し訳なさそうな顔一つしない。手ごたえのない反応に腹が立つがどうせ何も感じないので振り上げた拳を下ろすしかない。


「……ともかく大丈夫なので、莫さんは資料を運んでください」

「了解しました」


 そんな芙蓉と莫のやりとりを見ながら汀眞は目の前に積まれた書物の山に辟易とした声を上げる。その書物は芙蓉が書庫の中から厳選した家畜の病や生態に関する読み物である。ざっと二十冊はあるだろう。


「ねぇ、ここからここまで本気で全部一日で読み込めっていうの?」

「はい、汀眞殿ならできますよ。期間はあと十日しかないのです」

「……人には向き不向きっていうものがあってさぁ」


 そう言いながらせっせと芙蓉の前に報告書の山を作っていく莫を見ると彼はすぐに首を振った。


「俺は無理ですよ。学は全て母親の腹の中に置いてきたんで」

「……分かったよ、やってみる」


 汀眞はすぐに彼が嘘を言っているわけではないと気が付いたらしく、身を引いた。芙蓉はようやく働き始めた頭で書物を読み進めながら、その専門的な内容に驚く。


「ここの書庫はすごいですね、農耕や家畜に特化した記述が多い上に細かい。朝廷の書庫でもここまでの情報は手に入りません」


 むしろ、ここの方が生活に根付いてる分有益な情報を得やすい。時間さえあれば全て読み解きたいくらいだが生憎今は時間がなかった。明日には莫に農場に連れて行ってもらう約束をしている。それまでに汀眞に家畜に関する知識の基礎だけでも叩き込まなければならない。


「芙蓉、ここらへんの記述ってほとんど虫とか鳥が媒介する感染症だよね。なにか見当がついてるの?」

「各所で起きたというので虫や鼠、鳥が媒介となって感染する病を調べようと思ったんです。そうでなければ」


「そうでなければ?」


 そう言ったところで言葉を濁した芙蓉に汀眞は不機嫌そうに先を急かした。


「まだ勘の話です。そうでなければ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「芙蓉が最初に解決した脱税の話みたいに、感染症を引き起こす毒でもあるっていうの?そんなこと起こせる?」


 そう言われ、芙蓉は汀眞が慶朝から自らを見極めるために派遣された監察官であったことを思い出した。さすが、芙蓉のことをよく知っている。

 昨年の冬に芙蓉が解決した脱税の事件では、仮死状態で疫病と信じ込ませることで國府を騙していたのだ。


「もし証拠を掴めたなら、葵國に賠償を求めることもできます」


 月樺が何か仕掛けているなら──いやきっと仕掛けていると芙蓉は踏んでいるが──それを暴くしかない。

 そう言いながら、芙蓉も今回は事件のあらましが掴めていないらしく険しい表情をしている。汀眞も半信半疑らしく、書物に目を通しながら首を傾げた。


「本当にそんなことできるのかねぇ……」


 芙蓉は農家からの報告書を読み進めながら目立った症状を書き起こしているうち、手を止めて柱同然に立っている莫に声をかけた。


「莫さん、人間に同じような症状が出たという報告はありますか」

「今のところありません、ただ最近は皆用心して家畜に触れるようになっていますからそれが自然と予防になっているかもしれませんがね」


 彼はすぐに首を振る。人間に感染しているとなればもっと対応が進んでいてもおかしくないのでそれもそうか、と芙蓉は納得した。


「報告された症状と似た病に跳躍病というものがあります。これは羊に足の震えが止まらず、運動疾患が確認される病の一つです。そして厄介なことに虫を介して人間にも感染します」

「……本当ですか?」


 莫は今まで一つも動かさなかった表情筋を僅かに動かした。


「動物の感染症のうちいくつかは稀ですが、人間にも感染します。早く突き止めなければ、被害は家畜だけにおさまらなくなるかもしれません」

「分かりました、すぐに調査を進めます」

「それから、家畜のうち下痢や流産を引き起こしたものはいませんでしたか」

「報告には上がっていません」


 莫がそういうのを聞くと、芙蓉は汀眞に割り振っていた書物のいくつかを選って棚に戻していく。


「では汀眞殿、こちらは読まなくていいです。詳しい症状はまだわかりませんが、そちらだけは必ず頭に叩き込んでください」

「分かった」


 汀眞の机を整理するためにいくつかの書物を片付けにいく芙蓉の背を見送りつつ、莫は驚いたように汀眞に問いかけた。


「蔦さん、芙蓉さんってなんであんなに家畜に詳しいんです?あそこまで詳しい話、うちの國の学者でもあんなすらすら出てきませんよ」


 そう問われて汀眞は乾いた笑いを浮かべる。


「芙蓉なんでも知ってるから今更何も驚かないけどね。言っておくけど、芙蓉はあんたたちにとって借りものなんだからこのままここに置こうなんてことは思わないでよね」

「……さぁ、紅鳶様のお考えは俺には分からないので」

「俺忠犬って嫌いなんだよね。自分で考えられない人間の見せかけの美談にしか感じられない」


 汀眞が挑発するように言ったところで莫は無表情に報告書を運び終わって柱のように立つだけである。


「汀眞殿、あなたどこでも喧嘩売らないと気が済まないんですか」

「違う!俺はこいつらが変な気を起こさないように!」


 戻ってきた芙蓉が明らかに嫌悪感を含んだ目線で汀眞を見たので急いで弁明するが、彼女の視線はもはや違うところに向けられていた。見ると喪服に身を包んだ使用人たちが真っ赤に塗られた棺桶を持って庭を巡っている最中であった。

 冠婚葬祭は最もその地域の文化が色濃く表れる儀式である。芙蓉は熱心にその光景を見つめて汀眞に問う。


「お葬式ってみんなああやってするんですか」


 芙蓉が窓をそっと広げ見つめている横から、汀眞は窓の外を覗き込んで首を振った。


「薺家の方が派手だね。楽器の演奏も凄いし、服装ももっと華美だし」

「楽器なんて演奏するんですね」

「派手なほど、お金持ってるってことだからね」


 そういえば彼の生家はそういう家だった。妙に納得してしまう。


「どこまでも薺家らしいですね。……どうして彼らはああやって回っているんですか」


 彼らが棺桶を掲げたまま、庭を数度回っているのを見て尋ねると今度は莫が答えた。


「死者が帰って来ないように迷子にするための儀式です。ああやって三回庭を巡れば、死者は迷子になってここに戻ってこれなくなるということです」

「なるほど。……っていうか参加しなくていいんですか、莫さん」

「俺が仕えているのは紅鳶様なので」


 相変わらず薄情なのか紅鳶への忠誠心が強すぎるのかよく分からない男だ。彼がその忠誠心故に同僚すら簡単に切り捨てたことを思い出して気分が悪くなったので汀眞に視線を戻し、再び問う。


「他にも何か作法があるんですか」

「妊婦は近寄ったらだめだとか、女性が葬式から帰るときは飴を舐めなければならないとか、葬式の後は回り道をして帰らないといけないとかね。すごいところは町中の猫を全部繋いだりするらしいよ」

「猫を?」

「猫が死体に駆けあがったら死体が起き上がって悪事を働くんだってさ。葬式にそんなに興味あるの?」


 先程から子供がするように窓から身を乗り出しそうに見守っている芙蓉に汀眞は不審な目を向けた。


「私、父上が亡くなったときに何もしてあげられなかったんです。死んで以来一度も参ることもできませんでした。だからもう一度帰るときにはせめて形だけでも何かできればと思って」


 兄に斬られて死んだ父の前で、芙蓉はあまりに無力だった。その手で墓を掘り起こすことすら難しく必死でかけた土も雪と混ざってすぐに溶けた。冬の葵國に花が咲いているはずもなく、彼の墓前には芙蓉が置いた石がひとつ置いてあるのみだ。

 言ってから汀眞がふと黙り込んだのを感じ、振り返ると案の定気まずそうにしていた。前に一度芙蓉は父の死について汀眞と言い争ったことがある。その時のことがあって彼が黙ったのかと思いすぐにぎこちない笑顔を作った。


「すいません、湿っぽい話をしてしまって」


 そう言うと、汀眞はいやと首を振って急に真面目な顔になった。


「俺は、ここにいる間芙蓉のたった一人の味方だ。蘭にいる頃は兄様や菫國令がいたけどここには俺しかない。俺は芙蓉と同じ年だけど、官吏としては先輩なんだから頼ってほしいよ」

「……えっと、ありがとうございます。正直かなり予想外の言葉で驚きました」


 そう言うと急に照れ臭くなったのか、いつも通りの険しい顔に戻り言う。


「まあ。苑華様に危害が及ばない限りは味方だから安心してね」

「ははは……うぷっ!?」


 その返答が実に彼らしいと思って再び参列する一行を見ようとしたとき、芙蓉の顔に勢いよく何かがぶつかった。


「芙蓉!?」


 驚いて汀眞がそれを剥ぎ取ると、黄色い紙に銭の絵が描かれている。紙銭(しせん)、死者のために焚く銭を模倣したものだ。汀眞と、後ろで何事かと剣の柄に手をかけていた莫はすぐにそれが何か気が付くが芙蓉は何が何やら分からず困惑している。

 汀眞が説明しようとしていると参列していた一行がこちらに急いで駆けて来たので、目を丸くした。

 見るとその先頭、喪服ながら赤い佩玉を身に着けている青年が慌ててこちらに駆け寄ってきた。隣には紅鳶がこちらを睨むように見ているが、つまりそういうことなのだろう。


 列の中央、紅鳶同様に真っ赤な髪を持ったこの青年は彼の兄茜 緋鶯(せん ひおう)だ。


「ごめん!風が強くて飛んで行ってしまって……」


 そう言って頭を下げた彼は、よく見ると割と整った顔立ちだが隣の弟と比べると全く目立たない普通の好青年に見えてくるから不思議だ。芙蓉の周りにいた六大家ゆかりの人間が妙に雰囲気のある美形が多かったからかもしれないが、彼は紙や目の色を除き一般人に溶け込んでも分からないように見える。

 彼は芙蓉と汀眞の顔を確認するとゆっくりと微笑む。


「君たちが紅鳶が蘭國で知り合ったというお友達か。ああ、莫くん。君もいたんだね」


 その顔に泣いた跡が見えるのもまた、父の死などどうでも良さそうだった紅鳶と比べて随分対照的だった。


「ご無沙汰しております、緋鶯様」


 莫がそう頭を下げるのを横目に芙蓉と汀眞は()()()という言葉に違和感を持って互いの顔を見る。


「兄上にはそういうことにしてるんだ、話を合わさせてくれ」


 そんな二人の耳の横で紅鳶が小声で言う。彼の服装はいつもの派手さが全くないせいか引き締まった体躯が分かり、かえっていつもより美しく見えた。こう言っては何だが、やはり緋鶯は弟の横に立つのが可哀そうだ。


「初めまして。わたしは茜 緋鶯。紅鳶の兄だ」


そう言って芙蓉と汀眞に頭を下げる彼は、やはり一國の國主らしくない。


「彼らは二人ともこの年で四士の官位を持つ優秀な官吏なんです。彼らの好意で家畜の病の調査をしてくれるようで」


 芙蓉と汀眞が彼に倣って頭を下げると紅鳶は見たこともない笑みを浮かべて兄に説明する。

 見事な猫かぶりだと思っていると隣の汀眞も同じく嫌な顔をしていた。強引に連れてきておいてよく言う、とでも思っているのだろう。芙蓉も同意見だった。


「今日は出棺が終わればやることもないしわたしの部屋に来てほしいな。美味しいお茶があるんだ。どうかだろう」

「有り難い言葉ですが私共は……いえ、伺わせていただきます」


 芙蓉が緋鶯の申し出を断ろうとした瞬間、紅鳶の眼差しが鋭くなったのを感じ急いで回答を修正する。そう言うと、緋鶯は嬉しそうに泣きはらしただろう目を細め、「では、また後でね」と告げて去っていった。


「何あれ怖すぎない!?」


 彼らが去ったあと、開口一番そう言った汀眞に芙蓉はもしや紅鳶が見てはいないかと見渡したが、そういえば莫がいる時点で会話は全て筒抜けだと逆に開き直った。


「……全然似てない兄弟でしたね」

「本当に血繋がってるのかな……いやでも骨格は似てたから兄弟か」


 汀眞が言うなら間違いない。それにしてもにわかには信じがたかった。


「っていうか時間ないんですよ。呑気にお茶なんか飲んでる場合じゃないって紅鳶様も分かってるはずなのに……」

「どうにかして早く切り上げるしかないね」


 そう言って顔を見合わせた二人ともがそんなにうまくいくわけがないと悟った顔をしており、お互い深い溜息をついた。



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