5.滑落する雛─2
鈴扇が嬰翔の部屋に入ると、汀眞が散らかった部屋に座り込んでいた。書類と菓子をひどく散らかした彼の周りはもはや巣のようになっている。
汀眞は鈴扇を見つけると珍しく鈴扇の方まで近づいていき、胸ぐらを掴みかねない勢いで彼に問いかけた。
「……で、意味が分かんないんですけど、菫國令殿?」
「もう伝わっていたのか」
鈴扇が表情を変えずに言うと、汀眞は苛立ちを一つも隠さずに言い放つ。
「さっき芙蓉が頭下げに来たんですよ。あんたの代わりにね!!」
怒りのあまり敬語も適当になっているが、そんなことを鈴扇は気にしていない。
「なんと答えたんだ」
「保留ですけど!?」
汀眞はギリギリと歯を鳴らす。芙蓉が茜國についていくという話を聞いたときはまた面倒ごとを引き受けたなと思ったが、まさか自分まで同伴させられると聞いたときは持っていた書類を全てひっくり返していた。
『一つ条件を付ける。莢官吏の貸し出しには、蔦副刺史の同伴を許していただかなければ応じることはできない』
そう紅鳶に言いだしたのが鈴扇だと聞いて、綺麗な顔を殴ってやろうかと思った。そもそも蟄居させるほど薊國を見下している男の前に汀眞を引き出すことの意味が分からなかった。
芙蓉は便宜上平民の位しか持たない。
平民の割に薺家の庇護下にある蔦家を合わせて向かわせれば、抑止力にはなるだろう。少なくとも芙蓉一人好きなように使われることを避けられるかもしれない。
だとしても、汀眞はさんざん薺家を馬鹿にしている茜家に出向くなど針の筵に座るように辛い。なにより鈴扇にいいように使われた気がして腹が立って仕方なかった。
「芙蓉は普通の官吏じゃない、博士候補だ。王のものなんだよ、それを茜國に貸し出すのがどういうことか理解していないあんたじゃないでしょ」
そう言うと、鈴扇は濃い菫色の瞳を伏せて言う。
「お前は貴族間の動きには詳しいだろう。葵家が二代にわたって姫を後宮入りさせていないことも知っているはずだ」
「さすがにお妃様全員を覚えているわけじゃないけど、そう言う話は聞いたことがありますね」
「先日朝廷に戻ったとき慶朝様は、焦っているように感じた。芙蓉を早く手元に置きたがっているように」
汀眞も薄々感じていたことでもあり、その言葉には同意するように頷く。相変わらず貴族社会ではあるが、慶朝が芙蓉を一刻も早く手に入れたいと思う程今の朝廷が傾いているようにも感じない。
「今の朝廷がうまく回っていないということは聞いたことがない。でももし、有事があれば立ち回れる人間がと言われたら難しいかもしれないというのが本音だろう」
「有事……?謀反でも起こそうっていうの?」
笑い飛ばそうとして合った濃い紫の瞳は真剣に汀眞を見ていた。
「昔から実力重視の慶朝様のお考えは家柄重視の葵家とは合わない。そして葵家程ではないが、茜家もそういう家系だ。彼らが手を組めば、後々この国のかたちは変わってくるだろう」
「……嘘だろ、そんなことになってんですか」
厄介すぎる組み合わせだ。両家はどちらも国を動かすほどの権力を持っている。
白虹日を貫く、白い虹が太陽を貫いてかかるように王家に反感を抱いている良家が通じ合おうとしているとでもいうのだろうか。
「安心しろ、紅鳶は葵家と手は組みたくないらしいからうまくいけば阻止はできるだろう。こういうことを言うとずるいと思って言わなかったが、家柄重視の国になれば薺家の権利などすぐに取り上げられる。苑華殿もまた窮地に立たされるのではないか」
「それは……!」
本当にずるい、と思った。汀眞が苑華の名を出されれば動かざるを得ないことを知っているのだ。しかしそれを聞かされてしまうと、承諾せざるを得ない。
このまま言い負かされるのも癪なので嫌味の一つでも言おうとしたら、鈴扇が頭を下げたのでぎょっとする。滅多にすまないすら言わない彼が、芙蓉のために頭を下げた。
つまりそれは、そういうことだと思うのだがこの朴念仁は素でやっているのだろう。
「すまない、今回は私では守れない。お前に芙蓉を頼みたい」
そこまでされれば、汀眞も断れない。
「……貸し、一つですからね」
苦し紛れにそう言いながら汀眞の頭には芙蓉の出自のことがぐるぐると回っていた。彼女はかの有名な葵 月英以外にも高貴な血を引いている可能性がある。いや、おそらく汀眞が勘付いた時点でこれは可能性ではなく確信だ。
蓮家と葵家の血を引く娘が、茜國に向かえばどうなるのか予想すらできなかった。
※
『一つ条件を付ける。莢官吏の貸し出しには蔦副刺史の同伴を許していただかなければ応じることはできない』
紅鳶と汀眞、二人の性格を考えて絶対に通らないだろうと思っていなかった提案は案外あっさり受理された。
紅鳶は渋ったが、結局國令と六大家の次男では國令の方に分があったらしい。それなら、同伴自体を断ってくれとも思ったが、いろいろ考えてみた結果行くべきだとも思った。
嬰翔には苦労をかけてしまうが、彼も「行ってきてください」とむしろ背を押してくれた。葵家と茜家が手を組むことを阻止できる最後の機会だと彼も理解しているようだった。
芙蓉の方も目の前で人が切り殺されたことに戸惑いながら一日経つと、理解はできないが落ち着いてきた当たり伊達に修羅場をくぐってきていない。
あれ以来紅鳶はすっかり落ち着いてしまい、殆どの時間を滞在用の邸宅で過ごしている。芙蓉のことも忘れていてくれたらと思ったが、昨日来た彼の従者は芙蓉に葬式や当主襲名の儀について細かく説明して帰ったあたり忘れてくれてはいないようだった。
芙蓉と汀眞が紅鳶に伴って茜に出立する前日のことである。
芙蓉は一日の休暇を取って、鈴扇の執務室に顔を出していた。
「鈴扇様、馬をお借りしていいでしょうか」
「茜國への旅路に使うのか」
「いえ、それは紅鳶様が車を用意してくださるそうなので大丈夫です。母上のお墓に参ろうと考えておりました」
そう言うと鈴扇は顔を上げて芙蓉の顔をじっと見た。芙蓉から母のことを聞くのが初めてだったからか少し驚いているようだが、やはり表情に大きな変化はないため何を考えているかまでは分からない。
彼は何を思ったか席を立つと、持っていた判を仕舞って上掛けを羽織った。
「お前ひとりでは何日かかるか分からない、明日からは嬰翔も戻れるから今日ぐらいは大丈夫だ。同行しよう」
「えっ、申し訳ないですよ……!」
折角嵐が去ったというのに時間が勿体ない。そう思って首を振るが鈴扇は引かなかった。
「明日までにお前が戻らないほうが心配だ」
その本気で心配しているのであろう顔に、良心が痛みながら頷くしかなかった。
結局鈴扇の気遣いで彼の馬に乗せられて久しぶりに訪れた故郷のある蘭國のはずれは、未だ土地の再分配がされず閑散としている。以前のように病の噂があるわけでもないので人の気配はあったが、それでも焼けてしまった村は侘しい。
かつて芙蓉と月英が薊國を求めて彷徨った國の境となる山の中腹部に、芙蓉の母の墓があった。幼い頃は父と毎年掃除のために訪れていたが、もう何年来ていないのかと考えると芙蓉がここを去ってから間もなく十年が立つのだと気が付いた。
母の墓はすっかり苔と木の葉で覆われ、かき分けなければその姿を確認できなかった。
「もうだいぶ年季が入っちゃってますね」
芙蓉の横で同じく木の葉をよけながら鈴扇は問いかける。
「母上は、葵國の方なのか」
「……何も知りません。父は何も言わずに逝きましたから」
芙蓉が母に知っていることは名前のどこかに「ハク」という音が入ることと、芙蓉と同じく目が良いこと。そしてあまり認めたくはないが無鉄砲なところは母譲りだということだけだ。
それ以外、本当に何も知らない。母の名前すら彫られていないその墓に、芙蓉は今更ながら違和感を覚えた。
持参した花を置いて、水をかけてから芙蓉は鈴扇に向き直って言う。
「以前、私が朝廷に来た理由は芙蓉の花を探しに来たからだと言いましたね」
「驟雨に、騙されたと聞いたな」
芙蓉は後見人である候 驟雨にまんまと騙され、父とも約束である王宮に咲いた芙蓉の花を見つけるために国試を受験した。
実際には何代か前の王がある貴族に肩入れしてその花紋の花を外朝に植えたことが問題になったため、王宮には六大家ゆかりの花は一切ない。芙蓉は葵科の植物だから当然あるはずもないのだ。
「はい、そうです。きっと内朝に行ったことはありませんがそこにも芙蓉の花はないと思います」
「おそらくな」
けれど父は、王宮には芙蓉の花が咲いていたと言った。いずれ二人で見に行こうと言ったのだ。
その意味を芙蓉は今になって何度も考える。
「王宮の書庫に、父に筆跡でおそらく母に向けた恋文が残されていました。そこには芙蓉へ、と書かれていました。そしてあの父が王宮に咲く芙蓉の花を見に行こうと言ったのです」
春に朝廷の書庫で見かけた父の手紙は確かに恋文だった。それはおそらく朝廷の女に向けたものだったのだと思う。
「母上は生きているのかもしれません」
確信めいたものを芙蓉は感じていた。朝廷に咲く芙蓉の花は、母は、未だ朝廷のどこかに咲いているのかもしれない。
「もう二十年も前の話だ、あそこは女の留まる場所ではない」
鈴扇はにわかには信じがたいという顔をするが、貴族出身の彼だから分かることもあるのだろう。
通常女官は上位でもなければ結婚でもして下がってしまうことが多い。それは良家であっても同じであり、貴族の子女ほどはやく結婚のために朝廷を退く。
「そうですね。普通の女なら結婚でもして退いている年頃です。でも、父上は私にいつか見に行こうと言ったんです」
父が朝廷を離れて十年経ってからもいつかと言えるほどの女性の官位とはどれほどかは分からないが父の相手ならば才女であってもおかしくはない。乞われて朝廷に残っているかもしれなかった。
「母君は上位の女官か妃ということか?」
「私は父が王の女に手を出したとは思いたくありません。でも、真実を知りたいとは思います。そしてもし生きていらっしゃるのなら、父上のお墓の前に共に参りたいと思います」
『父上、約束しましょう。必ず父上のお墓に朝廷に咲く芙蓉の花をお供えします。あなたが世界で一番愛した花を』
それは父の墓前に交わした父との最期の約束だ。芙蓉を突き動かし続けた父との約束を、芙蓉は葵家に連れ戻される前に果たしたいと思った。
芙蓉は母の墓に向き直る。もう、少し擦ったくらいでは取れない苔塗れの墓はそれでも父が建てたのかと思うと不思議と愛しく感じた。
「……今の私にはこの墓を掘り起こす勇気はありません。鈴扇様、茜から戻ったら、どうか確かめるのを手伝って欲しいのです」
確かめる、それは墓を掘り起こすということだ。それがどれだけ後ろめたく野蛮な行為だと分かっていても、それ以外に新たな道を切り開くことはできないと思った。
鈴扇を見ると彼はゆっくりと頷いてくれる。
「分かった、お前が帰ってくるのを待っている」
その言葉が、不思議と頼もしくて芙蓉は精いっぱいの背伸びをして微笑む。
「必ず、戻って参ります」
それは同時に、鈴扇との約束を果たすための決意でもあった。
※
紅鳶と汀眞の初対面は最悪であった。
なにしろ汀眞にとっては目に入れるのも嫌だから蟄居しろと言ってきた相手である。
芙蓉には同系統に見える彼らの色彩も、その不仲を明らかに助長している。
何を思ったか芙蓉と汀眞を自らと同じ車に乗せた紅鳶は休まずに走って、一週間はかかると言った。
「はじめまして、紅鳶様。あなたのおかげで素敵な休暇が過ごせました」
「はじめまして蔦官吏、いえいえ。お礼を言われる程ではないよ」
汀眞が嫌味たっぷりに言ったところで、相手は紅鳶だ。珍しく押されている汀眞は芙蓉の方に頭を寄せると小声で言う。
「俺、この人生理的に合わないんだけど」
芙蓉も彼に合わせて小声で言う。
「そんなこと言わないでください。意外にまともですよ」
「素で二面性があるやつは嘘ついても分かんないんだよ」
二人のやりとりを見ながら、紅鳶は相変わらず何を考えているのかよく分からない笑顔だ。
「僕の前で話せないようなことを話しているのかい」
「いっ、いえそのようなことはありません」
芙蓉は慌てて答えるが汀眞は仏頂面をやめない。どうやら旅の間ずっとこの水と油の中にいなければいけないらしい。そう思うと腹が痛くなりそうだった。
彼は走り出した車についた御簾付きの小窓から外を見渡して國府が遠ざかったことを確認すると、急に真剣な表情になって「これからの話をしようか」と言った。
芙蓉がその言葉に姿勢を正すと彼は苦い笑みを浮かべた。
「その分だと僕の取引相手が誰か分かっているね」
「……こんな回りくどいやり方するのはあの人しかいません」
名前を言うのも悍ましい、葵家の次男はそういう男なのだ。
「葵 月樺、私の二番目の叔父上ですね」
そう言うと汀眞は驚き、紅鳶は肯定するようにその瞳を閉じた。
国家に陰りを作ろうと動いているのは思った通り、芙蓉の思い出にも深く傷跡を残す人物であった。
茜國後編『精衛海を填む』に続きます。




