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鴻鵠の娘  作者: 納戸
籠鳥 雲を恋う
3/50

1.窓際の攻防


 王國(おうこく)である桜國(おうこく)を除いた六つの國には六人の國主(こくしゅ)を補佐する國令(こくれい)職が置かれている。

 その中の一人である蘭國の國令を菫 鈴扇(きん れいせん)と言った。菫家のものが蘭國を治めているのは別におかしいことではなく、逆に言うと國令にはその國の國主の家系のものは就けない。

 國主と國令の力の均衡は國によって異なり、例えば国一の商業都市である朱嘉を抱える薊國では薺家と薊家が政治に大いに介入してくるため大変やりにくいという話がある。

 菫 鈴扇、齢は二十五。菫家次男であり最年少で國令に就任した彼は幼少期より神童の誉れ高く、おまけに女性も羨むような美貌まで持っていた。亜麻色の髪に菫家の人間独特の濃い紫の瞳に男性でさえ魅入られてしまうというのは、彼が入朝した時に囁かれた噂だ。

 恐ろしく優秀な彼には一つ大きな欠点があった。


「鈴扇、お時間よろしいですか」

「入れ」


そう言って鈴扇の執務室に入ってきたのは彼の副官の陸 嬰翔(りく えいしょう)である。齢は鈴扇と同じく二十五、癖のある赤毛に少し垂れた碧の瞳は人懐っこい印象を与える。

鈴扇、彼がそう呼び捨てにするのは二人が同じ時期に太学(たいがく)と呼ばれる学び舎で机を並べたからである。


戸曹(こそう)の官吏から辞職願を受け取っております。今月に入ってもう三通目です」


 嬰翔は真っすぐ上司の前に歩みを進めるとその目の前に紙を突き付けた。


「またか」


菫 鈴扇の抱える大きな欠点、それは人間の心が全く理解できないことであった。そのせいで蘭國府の官吏は長くて一年、短くて一か月でその姿を消す。嬰翔からの報告ももう慣れっこであり、手元の書類から顔を上げようともしない。嬰翔はその様子に苦笑を浮かべるしかない。


「どうします?もう僕四日は寝てないんですけど」


 見ると嬰翔の目の下にも鈴扇の目の下にもうっすら隈ができている。美丈夫が台無しだ。


「すぐに人員の補充をしよう、目星はつけてあるんだろう」

「…まあ、つけてはいますけど」


 鈴扇は官吏がやめるたびに優秀の呼び声高い後釜を嬰翔に見つけてこさせ、自ら引き抜きに向かう。こんなことが許されているのはひとえに彼の出身が菫家であるからだろう。有能な官吏を多く輩出している菫家に逆らえるものは少ない。


「貴族のお坊ちゃんは駄目だ。あいつらは根性がない」


 どの口が言っているんだ、という言葉を飲み込んで嬰翔は咳払いをする。


「そう言うと思いまして、今回は庶民出身の官吏を選出いたしました。

莢 芙蓉(きょう ふよう)、会試の律令に関する設問を一言一句違えず解答したため昨年の国試で不正を働いたのではないかと話題になった人物です。この優秀な人物が今なんと朝廷の書庫にいるのです」


 花興における全ての律令について記した書物は全百巻に及ぶ。国試に挑む学徒であれば要所を暗記しているとはいえ、全巻一言一句違えずとなると恐ろしい記憶力を要する。並の人間のなせる業ではない。


「暗記が得意だからと言って優秀だとは限らない。勉強ができるだけの人間が蹴落とされていったのをお前も中央で見て来ただろう」


 それでもなかなか興味を示そうとしない鈴扇の頭を嬰翔は丸めた書類で叩いた。花興を古今東西探してもそんなことができるのは嬰翔くらいのものだ。

ようやく鈴扇が顔を上げたのを確認すると腕を組んで話を続ける。


「話は最後まで聞いてください。面白い話があります。この官吏を野に解き放つと大変なことが起こったそうです。なんでも、心が読めるため部署のものを悉く無能にして回ったらしいのです」

「まどろっこしい、そいつは使えそうなのか?」

「ええ、今のあなたには必要な人材かと」


 嬰翔にとってこれは賭けであった。国試を突破してたった一年、しかもそのうち半年を書庫でほこりをかぶっていた新人官吏がこの忙しい蘭國府で使い物になるのか。

 しかし、その力がこの冷徹上司に必要なことは確かだ。藁にもすがる思いだった。


「王都に向かう。支度をしろ」


 上司の腰が上がったのを確認すると嬰翔は彼が上掛けを羽織るのを手伝った。その上掛けには菫家の人間の証である菫の花が優美に咲いている。


「なんでも紅顔の美少年らしく、そういう意味で狙っている方々も多いのだとか。入朝した頃のあなたが懐かしいですねぇ。礼部尚書(れいぶしょうしょ)の床に引きずり込まれそうになった貴方を引っ張り出して逃げたのもいい思い出です、痛っ!」


「やかましい」


 今度は鈴扇が嬰翔の頭に手刀を食らわせる番であった。





 花興の国試は大きく三つに分けられている。


 一つは郷試(きょうし)と呼ばれる地方での記述試験、二つは会試(かいし)と呼ばれる宮中での記述試験と体術試験、三つ目に殿試(でんし)と呼ばれる朝廷で行われる口頭試験である。特に体術試験においては馬術と弓術を見られることとなり、最終試験である殿試では六部(りくぶ)の尚書自ら口頭試験を行う。こうして選ばれた進士は官として国に採用され、小吏(しょうり)と呼ばれる地方官吏とは明確に区別される。

 試験のみでその能力を判断することは難しいため、この国の試験には順位というものが存在しない。すべての合格者が公平に割り振られた任地に赴き、その部署の長官が適性を見定め最終的な所属の判断を下す。


 その期間の一年が来ようとしている。





 書庫の窓から朝廷の庭にちらつく雪を不安そうな顔で眺める少女がいた。


『父上、約束しましょう。必ず父上のお墓に朝廷に咲く芙蓉の花をお供えします。あなたが世界で一番愛した花を』


 それは彼女が父と最後に交わした約束だ。父が死んでからずっと地下牢にいたため、窓の外に積もる雪は父が死んでから六年ぶりに見る。

 少女の名前は、莢 芙蓉(きょう ふよう)。実の名を葵 芙蓉(き ふよう)という。花興でも一二を争う名家である葵家の血を引く彼女がこんな朝廷の隅にいるのには複雑な経緯があった。

 彼女の父は現皇帝である桜 慶朝(おう けいちょう)に望まれ直接登用された葵 月英(き げつえい)という官吏であり、その非凡な才ゆえに一族に疎まれ芙蓉が生まれる前に葵家を追放の身となった。芙蓉は父の官位や家柄について何も知らずに十まで育ったが、娘である彼女も父と同じく非凡な才を持って生まれたことが葵本家に勘付かれ、父子はその身を狙われることとなった。実の叔父である現当主葵 陶月に父を殺され、半ば監禁状態で引き取られた彼女が言い渡された生きる条件は葵の名を名乗らないこと、そして子を成さないことだった。そうして彼女は六年間をその才と知識を葵家に吸い取られ、地下牢で過ごしてきたのだ。




 彼女に転機が訪れたのは去年の春のことだ。芙蓉の地下牢に一人の官吏が現れたのだ。

 候 驟雨(こう しゅうう)葵國國令(きこくこくれい)である彼は芙蓉を見ると、


『現状を抜け出そうともしない愚か者だな』


 と嘲笑した。父の愛した芙蓉の花が朝廷に咲いているのかと聞くとそんなに気になるのなら自分で探しに来いと言った。官吏になれと暗に言われているのだと分かった。

 そう言われて芙蓉は彼に腹立ちもしたが、初めて自分の置かれている状況に憤った。必死に生きることだけを考えていたせいで、自分を顧みる余裕などなかったのだ。

 そして、自ら動こうと思った。

 叔父に官吏として朝廷入りすることを志願したのだ。驟雨は不遜だが賢い男で、陶月に芙蓉の国試受験を承諾させることができたのは彼の手腕が大きい。おまけに葵家の後ろ盾を得ることができない芙蓉の後見まで引き受けてくれたのだから不思議な男である。

 叔父は芙蓉を手放すのを惜しんだが、驟雨が「彼女を長く飼いたいのなら野に放ってやることも大事です」と助言したのを真に受けたらしく条件付きでその国試受験が許された。


 その条件は一年以内に『四士(よんし)』以上の官吏資格を得ること、それができなければ強制的にあの黴の生えた地下牢に一生飼い殺しだという意味だ。これは、中央で言えば将来有望な官吏を据え置くと言われる郎中以上、地方で言えば國令の副官以上の地位をたった一年で得るという無理難題であった。


「まあ、飼い殺しにされても叔父上は私を外に出さないだけで知識と生きるための食事くらいは得られるでしょうね」


 芙蓉はこの六年で少なからず葵國の治世に関わった。かつて父がそうだったように、地下牢から芙蓉が投げた一石は徐々に葵國を変えていったと驟雨から聞いている。そんな大義があるようで、ひどく退屈な毎日が芙蓉の心を蝕んでいったのだ。


「二度と戻りたくなんてありません」


 そう、苦い顔で芙蓉は呟く。

 父を殺した男の駒になど、二度と戻りたくはなかった。




 ところで、芙蓉の国試での成績はこの年の試験官を大いに悩ませることとなった。

 郷試、会試において記述試験の成績はほとんど満点だが体術試験は相当にひどいものだったのである。驟雨にはこれで殿試に進めたら奇跡だと言われるほどに、彼女の馬術も弓術も半年で身に着けた付け焼刃の代物だったのだ。

 さらに悪いことに試験官は彼女の答案用紙におかしな共通点を見つけた。答案用紙には不気味なほど一言一句違わず正確に法律書の内容が記述されていた。その書が百巻にもわたってこの国の法律のすべてを記したものだったから、試験官たちは戸惑ったのだ。

 これは芙蓉が父にその内容を叩き込まれ、長い地下牢生活で朝から晩まで読書に励んだ結果なのだが試験官は知る由もない。

 不正を疑われた芙蓉は殿試において一人違う部屋に呼び出され、種々の法律書の暗唱を求められた。百巻以上にわたって記された書物を、彼女は半日にわたって一言一句違えず諳んじた。

 結局、試験官を担当した六部の尚書の方から音を上げたという話である。




 進士(しんし)としてまず礼部に配属された芙蓉を待っていたのは、己の能力との戦いだった。


『君は母上譲りで目がいいね。こちらが話す前になんでも分かってしまうし、助けてもらいたい人は嫌でも目に付くのだろう』


 かつて父がそう言ったように芙蓉には人心を解する目がある。言葉尻や機微からすぐに他の人間の要求を察することができ、さらに行動に移すことができる。しかし、これが大いに人の輪を乱す能力だと、芙蓉はそれまで知る由もなかった。なにせ人間と関わる機会が極端に少なかった。

 最初におかしくなったのは芙蓉と同じくして配属された礼部の進士だ。あまりに有能な同期の進士に心を病み、移動を願う嘆願書が出された。次に直属の上司、次に近接部署の官吏と、芙蓉と接している時間が長い人間ほど他の人間と話すのが下手になっていく。

 この頃、『莢進士を得た時はもう一本腕を得たように執務が楽になるのに、莢進士を失った時は二本腕を奪われたように執務が回らなくなる』というのがもっぱらの噂だった。


次第に芙蓉は部署を盥回しにされることになった。


『あの、長官。私の仕事は…?』


 ついに簡単な書類仕事ですら回って来なくなった芙蓉に、


『君は心が読めるんだったね、それなら次の仕事くらいわかるだろう』


 と心無い言葉がかけられた。

 そうやってとうとう厄介払いとでも言わんばかりに芙蓉はこの広い書庫の番人に命ぜられたのだ。もう半年、ここで本の整理や貸し出しの管理だけをしている。こんな事をしていては四士以上の官位を手に入れることなど到底無理な話だった。


「叔父上の反対を押し切ってやっとなれた官吏なのにこんな場所にずっといるとばれたらすぐに家に引き戻されてしまいますよ」


 執念深い叔父のことだ。そんなこともうとっくに知っているのかもしれない。それでも芙蓉にはどうしても遂げなければならない使命がある。

 父の墓前に王宮に咲く芙蓉の花を手向けること、それがただ一つ芙蓉の心を支える父との約束なのだ。


「莢くん」


 しばし考え事のため意識を手元から離していた芙蓉に後ろから声がかかった。

はっとして後ろを振り向くと、声の主は芙蓉が最初に配属された礼部の桂侍郎(けいじろう)であった。人を品定めするような独特な笑みを浮かべた目で芙蓉の方をじっと見ている。


「すいません、少し考え事をしていて。桂侍郎、何かお探し物ですか」

「三年前の令改正についての書物はどこにあるか分かるか?」


 不気味な笑みに少し不安になったが、文献を探しに来ただけらしい。


「ああ、それでしたらこちらが詳しいかと思われます」


 芙蓉が立ち上がって本棚に手を伸ばしていると、背中に不思議な感触のものが当たった。それが彼のよく肥えた腹部だと気づいた時にはすでに遅く芙蓉は背後を取られてしまう。


「他に何か?」


 返事がないのでおかしいと思い、後ろを振り返るといやらしい笑みを浮かべた顔がすぐ近くにあり思わず後ずさった。非常にまずい状況だ。


「莢くん、配属の件で困ってるって言っていただろう。いい働き口があるんだけど」

「あの…ちょっと近くありませんか……?」

「君男の子なのに随分と可愛い顔してるよね、今晩相手をしてくれるなら配属を考えてあげてもいいんだけどな」


 書棚に追いやられてしまったせいで逃げ場がない。荒い息が顔にかかり、芙蓉は思わず顔を歪めそうになって苦笑に留めた。

 朝廷では男色も嗜みだと冗談交じりの噂話を聞いたことがあるが、高官の奇特な趣味に付き合うつもりなど毛頭なかった。第一、床に引きずり込まれた時点で女だとばれる。こんな時、葵家の名があればすぐに黙らせることができるのだが生憎芙蓉は庶民と同じ程度の身分しか持たない。

 やんわりとその胸を押し戻すが、弱い力だったせいかかえってその気にさせてしまったらしい。すぐにその手を取られてさらに体が密着した。


「困ります、宮中での姦淫は官位剥奪刑だと聞きますし」

「私の口添えがあれば気にすることはない」

「ひっ…!」


 いよいよ迫ってきた唇に芙蓉が短い悲鳴を上げたと同時に、芙蓉を覆う影は目の前から消えていた。見ると彼女の足元にのびてしまっている彼の背には沓で踏みつけられたような跡がある。


「えっ……?」


「邪魔をするぞ」


 顔を上げるとそこには先ほどまではいなかった男が立っていた。

 その姿を見て芙蓉は思わず絶句する。

 桂侍郎を蹴飛ばして窓から入ってきたらしいその男は後ろ髪に括った亜麻色の髪を靡かせる迫力の麗人だったのだ。高い鼻梁に、濃い紫の瞳を縁取る髪と同色の長い睫毛。女性の芙蓉でも羨むような完璧な美貌だ。窓から吹き込む風と幾片の雪が彼の存在をいっそう神々しいものにしている。


「鈴扇、あなたなんで窓から入るんです!書庫には立派な入口があるでしょう!」


 芙蓉が言葉を失っているとその後ろからもう一人、青年が息を切らせて書庫に駆け込んでくる。いつもは芙蓉しかいない閑散とした書庫なのに今夜はやけに客人が多い。


「無駄に広い廊下を歩いている暇はない。お前が、莢 芙蓉か」


 青年を一瞥すると彼は芙蓉にもう一度目を向けた。切れ長の深い紫の瞳は紛れもなく高位の貴族の証だ。唾を飲み込んで芙蓉ははい、と返事をする。


「そうですが、どちら様でしょうか?」

「お前をこの牢獄から連れ出しに来た救世主だぞ、感謝しろ」


 彼は「はぁ」と素っ頓狂な返事をする芙蓉を見、ついで書庫を見回してため息をつく。そんな姿まで美しいのだから美人とは恐ろしい。


「こんなところにいては脳味噌に黴が生える、早く出るぞ」

「待ってください、鈴扇。困惑した顔をしているじゃないですか。ちゃんと彼の顔を見て話してあげてください」


 芙蓉の腕を掴んで再び窓から退出しようとする彼に、横にいた青年が待ったをかける。目の前の青年に気を取られていたが、淡い赤髪を持つこの青年も女性に好かれそうな整った顔をしていた。

 鈴扇、そう呼ばれた青年は注意されて初めてじっくり芙蓉の顔を見る。


「ふむ、確かに綺麗な顔をしているな。本当にこの小さい頭に頭脳が詰まっているのか?」


 貴方にだけは言われたくない、と芙蓉は心の中でつっこむ。芙蓉は女だが、おそらく目の前の麗人はれっきとした成人男性だ。自分より綺麗な男に褒められたところで全く嬉しくない。


「そういうことじゃないでしょうっ!?まったくあなたは頭が良いんだか悪いんだか。芙蓉殿、こちらはですね」

「う……うぅ…お、お前たち何者だ!?この私に暴行を働くなど無礼千万、すぐに武官に引き渡してやるぞ!」


 青年の言葉を遮るように、いつの間にか正気を取り戻したらしい桂侍郎が彼らを指さして喚きはじめる。騒ぎを起こしてはまずい。芙蓉が謝罪しようとするのをそっと赤髪の青年が制した。


「蘭國國令、菫 鈴扇だ」


 恫喝に一切動揺を見せず、青年は自らの名を告げた。菫、王家より下賜された菫の花を紋に持つ一族の名前に芙蓉までも顔を強張らせた。


「きっ、菫家の方とはつゆ知らず……六大家の方に向かって、とっ、とんだご無礼を」


 その名を聞いた桂侍郎は平伏して頭を床につけた。

 六大家(ろくたいか)、六つの國を統べるかつての王族である彼らはそれほどまでに大きな力を持つ一族だ。芙蓉も準じようとするが腕を鈴扇に掴まれているため立ち尽くすままとなる。


「今、菫家の話は関係ない。それより、宮中での姦淫は禁じられているはずだが?お前は王の官吏に手を付けようとしたのだぞ」

「ひっ、なにとぞご勘慈悲を……」

「今夜ここであったことは他言無用だ。それで手を打とう」


 ますます恐縮する足元の男に、鈴扇は興味もなさそうに言う。


「ありがたきお言葉にございます。でっ、では私はこれで失礼いたします」


 顔を上げそそくさと去っていく桂侍郎を見て目を丸くする芙蓉に、赤髪の青年が笑いかける。


「ね、大丈夫だったでしょう。……鈴扇、芙蓉殿の腕をいい加減離しなさい。話をするんでしょう」


 そう言われて案外素直に鈴扇は芙蓉の腕から手を離した。


「鈴扇様って…」


 実はその名前は芙蓉も聞いたことがあるものだった。

 菫 鈴扇、名官吏を数々産出した菫家の次男である彼には悪い癖があると評判だった。

自分が認めた官吏は他國他部署であっても構わず引き抜きを行い、その美貌と手腕で蘭國に連れ帰ってしまう。

 彼の評判は朝廷では賛否両論で、合理的である一方で一般人にはついていけない高尚な政治をするだとかとにかく噂の絶えない人物だった。


「あの、私に何のご用でしょうか」


 あなたを引き抜きに参ったのですよ、と隣の青年が言う。


「初めまして、芙蓉殿。僕は陸 嬰翔、鈴扇の副官をしております。以後お見知りおきを」


 人懐っこい笑みを浮かべる嬰翔の横で鈴扇の瞳はあくまで冷たい。先ほどとは違った意味で品定めされているような居心地の悪さを感じた。


「莢 芙蓉と申します。現在は書庫の管理を申し付けられております。私を引き抜きにいらっしゃったとはどういう意味でしょう」


 芙蓉はそう言って、恭しく二人の前に叩頭する。彼らが芙蓉をここから連れ出すことを考えているのなら、むしろ彼らは芙蓉の望む客なのだ。無礼のないようにしなければならない。


「芙蓉殿は国試において相当な成績を残されたと聞いております。そのあなたにこの処遇はあんまりでしょう。どうでしょう、蘭國府で働いていただくことはできないでしょうか」

「蘭國府で、でございますか」

「もちろん無理強いは致しません。あなたが宜しければでございます」

「どうせここにいてもするのは本の整理だけだろう。私についてこい。悪いようにはしない」

「鈴扇、どうしてあなたはそんなに事を急ぐのです」


 嬰翔は上官である鈴扇を肘で小突いた。國令である上、菫の名を持つ彼にそんな振る舞いができるとは彼も高位の貴族なのだろうか。


「お前、この国律令をすべて暗記していると聞いたが、本当か?」

「それは本当ですが、特に暗記能力に優れているわけではありませんよ。国試までの五年間朝から晩までずっと読んでいたので自然に覚えてしまったのです」

「……あの量を自然に覚えたのは十分才能だと思いますが」


 嬰翔は太学で学ばされたとてつもない巻数の律令書を思い出して苦い顔をした。とても人間業とは思えない。


「鈴扇様、私をぜひお引き抜きください」


 そう言う芙蓉に二人は面食らった顔をした。芙蓉も結論を出すのが早いかと思ったが、迷っている時間はない。何しろ、あと叔父が決めた期限まで三か月もないのだ。


「面白い、いつもは何回か通うのに今回はやけにあっさりですね、鈴扇」

「何故だ?こんな場所で働くのは嫌か?」


 嬰翔が、事が楽に運んだと喜ぶ一方で、鈴扇は芙蓉の言葉を不審に思ったようだった。隠す気もないので芙蓉はその理由を告げる。


「私は一年以内に四士以上の官吏にならなければならないのです、貴方がその夢を叶えてくださるなら喜んでついていきます」


 芙蓉がそう言うと嬰翔は面白くて仕方ないと言った様子で笑い始めた。


「はははは!冗談がお上手ですね、五士(ごし)に上がるだけでも五年はかかると言われているのに四士に一年で!無理でしょう!」


 鈴扇の横で常識人ぶった顔をしているこの男も彼の上司に負けず劣らずの不遜な男だ。芙蓉は嬰翔を睨むと、


「ではこの話はお受けできません」


 と、すげなく告げた。芙蓉にはもう時間がないのだ。


「え!それは困りますよ!」


 嬰翔に芙蓉は拳を握り締めて反論する。


「私だって困ってるんですよ、出世できないと……!」


 死ぬまで飼い殺しにされるんですから、という言葉を飲み込む。


「出世できないとなんなんです?」

「……それは言えません」


 彼女の返答に一気に不審そうに眉を顰めた嬰翔の詮索を遮ったのは鈴扇だ。


「嬰翔、お前の官位はなんだった?」

「國令副官は四士ですが…鈴扇?もしかして」


「ああ、芙蓉を一時的に私の副官にする」


 それは芙蓉にはまさに青天の霹靂のような提案だった。これで叔父が設定した条件を満たすことができるのだ。


「ほっ、本当ですか!?」


 芙蓉が目を輝かせる一方で、嬰翔は目を見開いて困惑する。彼にしたら自分が持ってきた人事のせいで自分が職を失うという訳の分からない状況だ。


「僕はクビですか……!?」

「お前は副々官に据え置く、安心しろ」

「なんなんですかそれ聞いたことありませんよ!」


 こんな無茶苦茶な人事は聞いたことがない。鈴扇は自分の副官が頭を抱えているのを見てもどこ吹く風である。


「どうだ、受けてくれるか」

「はい、喜んでお受けいたします!」


 芙蓉は鈴扇の問いに間髪入れず返答する。嬰翔には悪いが、芙蓉も引き下がるわけにはいかなかった。


「どうだ、嬰翔。これで人員を確保したぞ」


 何故か得意げな上官に嬰翔は観念したように、


「ああ!もう、いいですよ!あなたはいつも無茶ばっかり言うんですから……!」


 そう言ってため息をついた。どうやら話はまとまったようだった。


「芙蓉殿、すぐに荷物をまとめてください。僕は吏部(りぶ)に行って書類を提出してきます。鈴扇の名前があればどうにかなるので心配なさらなくていいですよ。では、半刻の後に我々は春桜門にてお持ちしておりますので」


 嬰翔はすぐに気分を切り替えたらしく芙蓉に恨み言を言うでもなく、てきぱきと指示を出す。これに驚いたのは芙蓉だ。


「今日中に王都を出るのですか!?」

「何か不都合でもありましたか、城下にご家族がいらっしゃるようでしたら挨拶の時間ぐらいは取れますが」


 芙蓉には挨拶をするべき家族もいなければ、最近はめっきり書庫に泊まり込んでいたため進士用の寮にもほとんど荷物はない。悲しいことに都合が悪いことなど一つもなかった。


「いえ、特にはありませんが……あまりに急で驚いたもので」

「すいません、いつもこんな感じなんです」


 では僕は吏部に行ってきます、と書庫を後にしようとする彼に鈴扇が問いかける。


「嬰翔、私は何かすることがあるか」

「あなたは派手に散らかした窓の周りの掃除でもしていてください」


 分かったと言って自分が乗り込んできた窓を閉める鈴扇は嬰翔の言葉の棘になど気が付いていないようだった。その背に芙蓉は気になっていたことを問いかける。


「あの、鈴扇様。どうして私が四士以上の官位を志すかお聞きにならないのですか」

「興味がない」


 そう、芙蓉を振り返ることもなく心底興味なさそうに彼は言う。氷の美貌は芙蓉程度の存在では揺らがないようだった。


「……そうですか」


 理由を追及されなかったことに胸を撫でおろした芙蓉だったが実はこの興味のなさこそこの男の難点だということを後に知ることとなる。


 ひとまず、菫 鈴扇という官吏によって見出されたことが後の芙蓉の人生を大きく変えることはこの時彼女自身知る由もなかった。





「もしかして馬に乗るのですか?!」


 桜春門(おうしゅんもん)と言われた時点で気が付くべきだったと芙蓉は目の前に準備された馬具を見て頭を抱えた。桜春門は普段は武官が入場する際に用いられる門で、馬舎がすぐ近くに置かれている。

 菫家のお坊ちゃまなら車くらい用意があると睨んでいた自分を悔やむ。それでも彼女はすでに荷物をまとめ、書置きまでしてきてしまった。後には引けない。


「蘭國に残してきた部下がいる。悠長にはしていられない」


 すでに馬上にいる鈴扇は芙蓉がごねる時間が勿体ないとでも言いたげな顔をしている。


「鈴扇様、私を引き抜きに蘭國を出られたのは何日前ですか?」

「つい二日前だが」


 二日、かつて芙蓉が父を追いかけ国境を超えるのに車で一週間かかったことを考えると頭がくらくらした。


「会試には馬術試験もあったでしょう、もしかして乗れないのですか?」


 芙蓉の分の馬を引いてきた嬰翔がそう言うが芙蓉の知っている限り、官吏に國をまたいで馬を駆けさせることなど求められていないはずだ。


「そんな長距離を乗る前提で練習してませんよ」


 馬術も弓術も国試前に驟雨に叩き込まれただけで、芙蓉の馬術は整備された凹凸のない土地をやっと走り回れるくらいの最低限のものだ。國をまたいだ乗馬などできるはずもなかった。


「徐々に慣れますけどね」

「普通の人間は二日を徐々にとは言わないんです」


 これ以上言っても埒が明かないと思ったのだろう。鈴扇は馬を降りると、芙蓉を抱き上げ自らの馬に乗せた。


「はっ!?」


 成人男性に抱き上げられたことへの驚きで芙蓉は声を上げるのが一呼吸遅れる。


「しょうがないだろう、私の前に乗れ」

「それがいいですね、僕もそこまで得意というわけではありませんし」


 芙蓉の後ろに腰を下ろした鈴扇は手綱を引くとすぐに桜春門を抜ける。すでに夜半を過ぎた暗闇に徐々に目が慣れ、見え始めた風景はものすごい速度で移り変わっていく。


「あの!鈴扇様!」


 経験したことのない速度に、もう少し速度を落とせないのかと言おうとしたが、


「口を閉じておけ、舌を切るぞ」


 そう窘められ、素直に口を閉じる。芙蓉が口を閉じたのを確認すると、鈴扇は手綱を強く引いた。


「ひっ……!」


 そこからはもう失神寸前で、記憶もおぼつかない。


 こうして芙蓉は命からがら蘭國府に入ることとなったのだ。



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