3.弟─2
「芙蓉殿、一度口から出た言葉を戻す方法って知ってます?」
今日も如雨露片手に芙蓉を出迎えた嬰翔は少し疲れたような顔でそう言った。
彼の隣では老齢の侍女が心配そうにその顔を覗き込んでいる。
その様子は彼の女性のような髪型や、細身の体躯もあってか箱入りのお嬢様という感じがして芙蓉には面白い。
芙蓉と出会った頃、猿の頭蓋骨を見るや腰を抜かした彼を思い出してしまう。
少しだけ酒臭いのは彼からではなく、足元にある大量の酒瓶から発せられる匂いらしい。
何故かその一つ一つに花が生けられているのが気になったが、特に触れはしないことにした。
彼にもいろいろあるのだろう。
「相手を殴って忘れさせるくらいしか思いつきませんが」
少し考えてからそう答えると、明らかに落胆した顔をする。
「やっぱりその方法しかないんですか……じゃあ、僕を殴ってもらっていいですか?汀眞に一度やってもらったんですが大した効果がなくて」
「何言ってるんです、暑さにやられましたか」
疲れた顔でそんなことを言い始める嬰翔に、慣れない冗談を言ったつもりだった芙蓉の方が胡乱な顔になる。
一度やったということは汀眞も疲れているのかもしれない。
五月とはいえ日差しが強くなってきたのが関係しているのだろうか。
芙蓉に言われて我に返ったのか、嬰翔はやっといつもの調子になる。
「いえ、やっぱり気にしないで下さい。それより今日はこんなに長時間立ち寄っていていいんですか」
いつもは仕事と紅鳶のお守りの合間を縫ってきているのですぐ帰る芙蓉が立ち話に応じるのを不思議に思ったらしい。
鈴扇から聞いた話だが紅鳶が今日は一日休みでいいと言ったらしい。直接本人から聞いたわけではないが、藪をつついて蛇を出すのも嫌だったので大人しく休むことにした。
昨日は昼寝のあと芙蓉に構うことなく街に出かけたらしく、随分仕事が捗った。
いつもこうならいいが明日はまた菓子片手に芙蓉の執務室を覗きに来るのだろう。
たまの休みくらいは紅鳶から逃げたくてここに来たといってもいい。
「今日はお休みをいただいたんですよ。嬰翔様と話したいこともあったので。お邪魔でしたら帰りますが」
そう言うと、嬰翔は微笑んで椅子を引いてくれた。
彼の家は椅子まで貝殻で花をあしらった洒落たものである。
「いえ、おかまいなく。僕も汀眞との会話には飽きていたところです」
「おい、どういうことだよ」
そう言って扉から顔を出した汀眞は目を尖らせて饅頭を頬張っていた。嬰翔は謝るでもなく汀眞を振り返るとその手元の飴や饅頭の類を見て目を光らせる。
「その饅頭どうしたんです?あなた、さては街まで行ってましたね!」
汀眞は一応は気を使っているのか口元まで巻いていた襟巻を取ると、暑そうに頭を振った。
「ちゃんと赤髪の連中が見えたら逃げたから大丈夫だよ。翔兄様にもあげる、疲れてるでしょ」
卓上に買ってきたらしい山査子の飴や、揚げ菓子、それから饅頭を並べると侍女たちが慌てたように皿を持ってきた。
芙蓉と嬰翔、それから汀眞を交えた机の上にはいつの間にか花茶の用意がされておりやはりこの家の侍女の有能さが伺えた。
「もう、バレたら面倒なんで程々にしてくださいね」
はいはい、と聞く様子もない汀眞はいくつか菓子類をよそって芙蓉の前においてくれた。
贋金騒ぎ依頼芙蓉を認めてくれているらしく、嬰翔に対するほどではないが気を使ってくれる。
その何気ない心遣いに、苑華への長年の片思いさえなければさぞ女性にもてるだろうにと思う。
「汀眞殿もいていただけたら助かります。私今まで葵家以外の六大家について考えたことがなくて、教えていただけたらと思ったんです」
「紅鳶に同情でもした?」
「うっ……」
確信をついた一言に芙蓉は思わず唸った。やはり彼に下手な隠し事はできない。
甘いなあ、と汀眞が渋い顔をする。
「芙蓉、そんなこと考えてる暇あるの?ただでさえ慶朝様に返事をするまでに二年しかないのに一か月あいつに振り回されるんだよ。何の見返りもないのに同情なんかするだけ無駄無駄」
「……おっしゃる通りで」
「まあまあ、紅鳶殿について芙蓉殿はどう考えてるんです」
汀眞の言葉の一つ一つに胸を抉られて、助けを求めるように嬰翔を見ると彼は微笑む。
今の芙蓉には天の救いだ。
「あの人、とんだ韜晦息子ですよ。九章算術どころか四書五経の暗唱もできます」
算術の問題はもちろん試しに聞いてみた儒学書も、彼はさらっと暗唱してみせた。
驚く芙蓉に彼は普通だろうという顔をした。
これ以上教えるとなると本当に国試を目指した方がいいのではないのだろうかとも思う。
「それはまたなおさら蘭國に来た理由が分からないような青年ですね」
「そんな人が次男というだけであんな風に命狙われたり、邪魔者扱いされたりするのは正直見ていて辛いです。茜家は葵家と同じように長男をいやに崇拝している節があるんですか?」
芙蓉の生まれである葵家は家長となる長男の権力が絶対だ。そのせいで父は山に閉じ込められ存在をなかったことにまでされた。
「それはどの貴族も多少はそうだと思いますが、どうでしょうか」
嬰翔が汀眞に目をやると、彼は山査子の連なった飴をくるくると回して口を出してきた。
「俺の記憶の範囲の話になるけどいい?」
はいと答えると彼はやけに神妙な顔になる。
「茜家の髪と瞳が赤いのは人の血を浴びたからだって聞いたことない?あれは彼らが昔は当主を選ぶとき、武で競い合ったからなんだよ」
「武で競い合ったって……」
「まあ要するに殺し合いだよね。薺家が商才で当主を選ぶように、茜家は武術の才能で当主を選んだ。最近はそういう時代でもないから徐々にそういう風習も薄れてるみたいだけど、先々代は別。次男が自分より劣る兄を廃して自らがその地位についた」
「廃した?」
芙蓉が顔を歪めると、同様に嬰翔も嫌そうな顔をしている。二人の嫌な予感は的中する。
ようは殺したんだよ、と汀眞はさほど興味もなさそうに言うがその顔は芙蓉を地下牢に閉じ込めた葵家を詰った時と同じ表情をしていた。
彼は古い風習を明らかに馬鹿にしている。それは憎んでいると言っていいほどに。
芙蓉は鈴扇が言っていたことを思い出して、あ、と声を出した。
「ちょっと待ってください。その方って」
そうだよ、と汀眞はまた感情の乗らない声で言う。
「茜 魯鴇、紅鳶に似てるって言われてる禁軍の将軍だった男だ」
芙蓉は一気に胸が悪くなった気がして口に含んだ菓子を茶で流し込んだ。
こんなところまできて兄のために馬鹿のふりをしている弟は、よりによって兄殺しの祖父と似ているのだ。
※
いつまでこの愚かな芝居を続ければいいのだろうかと、時折思うことがある。
莫 李美、それが自分の名前で、与えられた役割は紅鳶の従者だ。
『僕が兄上をこの國の王様にしてあげる』
困った顔をする緋鶯に跪いて、主人である紅鳶は笑っていた。
その傍らには冷めた瞳の自分が立っていた。
自分では見えているが他人には閉じているように見えるらしい細い目のせいで表情を悟られることはなかったが、緋鶯を交えた芝居めいたやりとりが正直苦手だった。
自分は紅鳶の従者だが、緋鶯の従者ではないと心のどこかでいつも思っていた。
あれは紅鳶が九歳の時だ。
紅鳶が緋鶯に碁で勝った。それですら、李美には彼が力の加減を間違えただけのように見えたが、周りは明らかに落胆した。誰が見ても、紅鳶の方が優れていると一目瞭然であった。
それでもあの時から紅鳶は自らに超えてはいけない一線を設けた。兄より先んじることをしないように細心の注意を払っていた。
「李美、めでたしめでたしってなんなんだろうね」
紅鳶は手元に自ら引き抜いた髪飾りを弄びながら言う。
二人きりの時にだけ下の名前で呼ぶのは彼なりの甘えなのかもしれない。
ちらりと紅鳶の前の卓子を見ると、そこには緋鶯から贈られたらしい贈答用の飴細工が並んでいる。
李美はそれに対して少しだけ眉を動かす。
馬鹿なのかと思った。
飴は紅鳶の好物だったものだ。
紅鳶は昔、緋鶯から貰った飴に毒を盛られたことがある。
蜜を固めた飴の中心部に毒が入っていた。
勿論優しい緋鶯がそんなことをするわけもなく、彼の従者のうちの誰かがしたことは明白だったが紅鳶は違和感を感じながらもそれを飲み込んだ。
李美にはそれが、彼が茜家をその業ごと飲み込んだ瞬間だったのだと思うことがある。
小さな少年の喉元を、熱い熱を持って通り抜けたそれは今でも彼の胸を蝕んでいる。
それから三日三晩吐き続けたことを、それでも彼は兄には言わなかった。
好物だった飴に彼は兄の前で以外、手を付けなくなった。
「それを、あの少年に聞くのではなかったのですか。なんでしたっけ、鶏?」
紅鳶が何日か前に面白い人物がいると言って教えてくれた少年の名を李美は覚えようとすらしなかった。
興味がないし、学問は苦手だ。
確かえらい人間の子供だったと言っていたが、その人物すら李美には心当たりがなかった。
「鴻鵠ね、君本当に興味がないこと覚えようとしないよね」
「そう、その人に聞くんじゃなかったんですか」
「……うん、そうなんだけどね」
言葉を濁すあたり、彼に聞いたところで現状を解決できる手掛かりを得られなかったんだろう。
当然だ。答えは単純明快、紅鳶が跡目を継げば解決するのだから。
自分の主人は聡明だが愚かだ。
緋鶯が当主になったって誰も幸せになれやしない。
誰もいないのをいいことに李美は綿のたっぷり詰まった紅鳶の向かいの椅子に深く腰掛けた。
腰の剣が肘掛けにぶつかって嫌な音がした。
「俺は緋鶯様嫌いってわけじゃないですよ、ああいう人が上司だったら楽だなって思うし」
「サボることばかり考えてるからなぁ、君は」
「効率的に働いてるだけです」
そう言いながら李美は主人が手を付けそうにもない飴を口に頬りこむ。工芸品のように美しい飴は内側から頬に当たって少し痛いが、味は良い。
「ねぇ、それ毒入ってるかもしれないよ」
自嘲するように言う主人は、やはりそう思っているのかと思ったがそれには触れない。
触れたらきっと少しだけ機嫌が悪くなる。
「平気です。緋鶯様側が使う毒なんて知れてますし。もちろん紅鳶様は食べたらダメですよ」
「一人で食べたいだけだろう」
いいけどねと言って微睡むように紅鳶は目を細める。悪態をつきながら、飴を捨てることにならずに安堵しているようであった。
昼間はわがまま放題の主人が、本当は一人で全てを背負っていることを李美だけは知っている。
「さっき上司にするなら緋鶯様って言いましたけど」
胡乱な目でこちらを見てくる主人を見て、李美はその細い目をできるだけ開いて紅鳶を見る。
「でも王はあなたですよ」
そう言うと彼はいつも聞こえないふりをするのだ。
※
嬰翔の家を後にした芙蓉は國府への道を歩きながら、先程の話を思い出していた。
一族間の争いの話というのはどうも月英を思い出してしまって気分が悪くなる。
彼の場合、兄を慕っているからなおだ。
芙蓉が一度だけ、紅鳶に兄の話を聞いたときはその時だけ懐かしそうな顔をして「あんなに優しい人はいないんだよ」と笑った。
その瞳に嘘はないように見えたから辛かった。
そんなことを考えながら大通りを歩いていたからか、目の前に人がいたことに気が付かずぶつかりそうになる。
相手の方も何か食べながら歩いていたようで、芙蓉に軽く頭を下げる。
「あっ、すいません」
「いえ、こちらこそ」
目の前に現れた長身の男に見覚えがあった芙蓉はあ、と声を上げた。彼の方も芙蓉を見つめて口に食べ物を放り込むのをやめる。
「あ、なんだっけ、鶏じゃなくて雛だからひよこさん?」
「……芙蓉です」
何がどうなってそうなったんだと思ったが、細目の男は毛ほども芙蓉に興味がないのだろう。
「ああ、そう。芙蓉さん」
そう言いながら、彼は右手に持っていた串から肉を口に含む。
それでも芙蓉の方は彼を覚えているわけで、彼が紅鳶の従者の中でも信頼を置かれている莫 李美という人物だとすぐに分かった。
字も読みも可愛らしい名前だが、目の前の男は細身の割にガタイの良い、何を考えているかさっぱり分からない細目の男だ。
見ると両手に菓子や肉を持った彼は無表情でそれを貪っている最中だったようだ。
「大変ですね」
一応そう言うと彼は無表情のまま首を振る。口にものが入っているから喋るのが面倒らしい。
やっと飲み干した彼は芙蓉を見てやっとしゃべり始める。
「そうでもないですよ。紅鳶様自由なんで俺たちが自由にしてても何も言わないし」
見ると剣の柄にすら菓子の袋がぶら下げられているが武人としてそれは許されるのだろうか。
紅鳶の隣にいるときは無表情だが真面目そうに見えたのに、こうして見ると彼も大概自由人らしい。
そうしていると芙蓉が思っていることを、横にいたもう一人の従者が諫めた。
「莫さん、護衛中は食べるのやめてくださいって言ったじゃないですか」
そう言う彼のことも見たことがある。
莫の次くらいに紅鳶の側でよく見かける男で、確か名前は姜 茅楡だったはずだ。
莫よりは少し若い少年然とした青年であり、生真面目そうにいつも顔を強張らせている。
莫は姜の言葉に不満があったのか、食べ物類を左手に持つと右手を剣の柄に沿える。
「ちゃんと見てますよ」
そう言って莫は芙蓉の目の前でいきなり剣を抜くと空を切った。
「ひっ!」
「失礼、菓子に小蠅が止まっていたものですから」
芙蓉が小さく悲鳴を上げて後ろに下がると、地面の上に見事に翅と体の分かれた小蠅が落ちているのが目に入った。
彼は狙って米粒より小さな蠅を二つに両断したのだ。
恐ろしい剣筋に思わず冷や汗が出る。とても人間業とは思えない。
そもそもずっと閉じているように見える目で、彼はどのようにそれを見たのか芙蓉には気になるところであった。
「……こんなこと皆さんできるんですか?」
「ここまでは莫さんぐらいしか無理ですが普通の蠅なら皆出来ると思いますよ」
芙蓉は剣術に詳しいわけではないが、すごいことなのではないかと思う。
「俺頭悪いんで、これしか取り柄ないんです」
「でも、莫さんのお爺さんは陛下の起居注官なんですよ」
起居注官、確か皇帝の一挙手一投足を記録する官吏の役職である。皇帝の側近くにある要職だ。
芙蓉が素直に感心していると、莫は興味なさそうに剣を納めて柄にかかっていた袋から新しい菓子を取り出して口に含む。
「俺自身は何の学もありません。芙蓉さん、すごく賢いって紅鳶様褒めてましたよ」
「はぁ、ありがとうございます」
一応礼を言うがちっとも褒められている気がしないのはなぜだろうか。嫌味で小賢しいと言われることはあっても、ここまで社交辞令的に賢いと言われたのは初めてだった。
ここにいても莫も芙蓉も実のない会話をするだけだろうと思ってでは、と立ち去ろうとしたときだ。
「あれ、芙蓉。休みなのに僕に会いたくなったの?」
しまった、と肩に手を回されてから芙蓉は自分の甘さを呪った。
彼らがいるということは紅鳶がいないわけがなかった。
おそるおそる後ろを振り向くと、紅鳶がにこりと微笑んでいる。
逃げられないと瞬時に悟って莫を見ると食べていたはずのものはすっかりその手から消えておりその素早さに感嘆した。
芙蓉一人が青ざめて紅鳶を凝視している。
相変わらず派手なうえに目立つ容姿の彼を、通りかかる人が皆目にするせいで芙蓉は肩身が狭い。
ただでさえ黒は地味なのに、彼の隣に立つと惨めで仕方がない気がしてくる。
「いえ、たまたまここらへんを歩いていただけなのですが」
急いで顔を逸らすが、彼はちっとも聞いていない。
さらに顔が近付いてきて余計に逃げられない。
「暇なら付き合ってよ」
「い、いえ。暇というわけでは」
隣を見ても、莫も姜も知らん顔を決め込んでいる。芙蓉に逃げ道は用意されていないようだった。
なおも逃げようとするが、あの好奇心に胸を躍らせるような、つまりは少しだけ月英に似た弟の顔を見てしまうと芙蓉は断れなくなる。
「ね、駄目かな?」
「……駄目じゃないです」
そう言われて芙蓉は思わずそう呟いていた。
※
結局まんまと振り回されることになった芙蓉は日が暮れるまで紅鳶に付き合わされることになった。
日暮れ頃になっても紅鳶は楽しそうに露店や商店、または芸人がやっている小さな劇場を覗いている。
おかげで芙蓉ですら全てを見たことがない青漣の街中を二人でほとんどしらみつぶしに見て回ることになった。怖いのは明日からで、これに味を占めた紅鳶が芙蓉を連れ出す機会が増えるのだろうと思うと頭が痛くなる。
「女で滅びるような国なんてさっさと滅びたらよかったんだ」
余も更け始めた頃、道端で劇を披露する芸人を見ながら紅鳶は呟くように言った。
どうやら、その演目が傾国の美姫に関わるものだったようで出た言葉だったが、冗談でも聞き捨てならない言葉に、芙蓉はムッとする。
「民がいる限り、滅びていい国などありません」
そう言うと彼は苦笑して、芙蓉の方に体を向けた。
「芙蓉、もう夜だけど君の寝物語が聴きたいな」
一瞬そういうことだろうか、と身構えたが紅鳶はいつもなら妓楼に遊びに行くはずだ。
女に困ってはいないはずの彼が、女とはいえ少々凹凸の少ない芙蓉に靡くとは思えなかった。
しかも案外芙蓉を男だと信じてくれているようで肩に手を置かれるくらいで殆ど体に触れられたこともない。
昼間にしているくらいの戯れなら付き合って害はないだろう。
あまり悩んでも怪しまれるので芙蓉はいいですよ、と返事をした。
そうすると彼は嬉しそうに驚くべきことを口にする。
「じゃあ、君の部屋で」
「は?」
芙蓉は思わず、国で五本の指には入る貴公子の前で間抜けな声を出していた。
まさか冗談だろうと思ったが、紅鳶は本当に芙蓉の部屋の寝台に腰を掛けている。
芙蓉が本を読むときに使っている小さな机と椅子しか備わっていないので、彼にはそこに座ってもらうしかないのだ。
彼の従者は國府までずっとついてきて、今は官吏寮の門の前で待機しているらしい。
平民の部屋はとにかく珍しいらしく、彼は芙蓉が燭台に火を灯すのすら不思議そうに見ていた。
「へぇ、ここが君たちの寮か。小さい上に汚いね。厩みたい」
「お褒め頂き光栄です」
酷い言いように顔を引きつらせてそう言ってから、紅鳶が芙蓉が棚の上に置いている茶葉を眺めていることに気が付いた。
北部の茶は南部とは違うので興味があるのだろう。
「それ、飲みたいですか。厨房は共用なのでお湯を頂いてきます。少々お待ちください」
そうやって芙蓉が湯を持って戻ってきた頃には、紅鳶は暇そうに芙蓉の部屋に置かれた書物を眺めていた。
芙蓉が茶を淹れていると、じっと見てくる彼はやはり放蕩息子には見えない。芙蓉と二人きりになってすっかり落ち着いた様子だ。むしろこちらが普段通りなのかもしれない。
「花が浮かんでる」
興味深そうに言う彼に芙蓉は説明する。
「ここら辺は茶葉が取れないので南で取れた茶葉に花の匂いをつけてるんですよ。香りで味が悪いのを誤魔化してるんです。茜國では珍しいでしょうね」
すぐに口をつけようとする彼に待ったをかけ、芙蓉が先に茶杯に注いで飲み干した。
「一応、毒見です」
ありがとう、と言って彼は優雅に茶を口に運んだ。
「悪くないね、兄上に買って帰ろうかな」
そう言いながら、彼はゆっくりと茶杯を撫でる。
うすうす感じていたが、兄弟仲は本当に良いのだろう。それだから見ていて余計辛くなる。
ゆっくりと目を細める彼の隣に、それでも距離を取りながら座るのは嬰翔の教えの賜物だ。
「いつもは君ばかり話しているから今日は僕の話を聞いてくれるかい」
なんとなくそんな気はしていた。
彼は誰かに話を聞いて欲しがっていたのだろう。
芙蓉がはい、と静かに頷くと彼はゆっくりと話し始めた。
「僕の兄は緋鶯といって、とても優しい人だ。僕が狩った兎がかわいそうだからと言って墓を作ってあげるし、花はかわいそうだから手折れない。そうするとそういう役は全部僕が引き受けることになった。さながら王の側近のような気分だったけど、周りが僕を見る目は違っていた」
優しいとは難しい言葉で、気が弱い人間をそう言うこともあるし、逆に弱い人間を守る力を持つ人間をそう言うこともある。
芙蓉には緋鶯が前者側の人間であるように感じた。
そんな兄の近くにいた、賢く立ち回りもうまいだろう弟を周りがどのような目で見ていたか手に取るようにわかる。
「九歳の時だ。僕が兄に初めて碁で勝ったとき、周りの大人のうち何人かが僕の方が当主に向いているんじゃないかと言い出した。そんなことはないと思った。僕よりずっと優しい兄上なら僕より良い國を作れると思ったんだ」
でも、と彼は言葉を濁す。その顔は憂いを帯びている。
「でも大きくなるにつれてなんとなく分かってきた。兄は、学はあるのにそれを使うのが下手で、強く言われたら相手の意見を飲んでしまう」
「……國主に向いている方ではなかったのですね」
茜家ほど力のある家の当主がとても務まるとは思わなかった。
紅鳶は芙蓉の言葉を聞きながら、それでも頷こうとはしなかった。
「きっと、もう少し家格の低い貴族に生まれていれば、官吏にでもなって幸せになれただろうね」
「その道はなかったのですか」
「遅いよ、兄上は当主になるために育てられたんだ。そして、そう仕向けたのも僕だった。信じたものを疑いもしない愚かな弟だった」
彼一人が悪いわけではないだろうに、彼は自らを責め続ける。
「僕にはどうしたらいいか分からない。ずっと信じてたものがこんなに脆いものだったなんて知りたくなかった。……いっそ王様のいない国なら良かったな。それならみんな幸せになれたんだ」
芙蓉は一瞬逡巡するが、すぐに首を振る。
「そんなものは幻想です。だからこそ華胥の夢なんです。王がいない国など、所詮昼寝で見る夢でしかありません」
華胥氏の国、昔の王が見た夢の中の国には王がおらず、人々はただあるがままであったという。
そこでは水に入っても溺れず、火に入っても火傷を負わず、斬っても鞭打っても傷がつかず、抓っても掻いても痛みを感じない。
そんな国はどこを探したって無いのだ。
「夢を見続ける方法はないの?」
「ありません。紅鳶様、あなたは賢いのにどうしてすぐそこにある答えから目を逸らそうとするんです」
芙蓉はずっと考えていたことを思わず口にしていた。
それがたとえ彼を怒らせることになろうとも、芙蓉は言わずにはいられなかった。
「何が言いたい?」
そう聞きながら彼は芙蓉の言いたいことを分かっているようだった。
その瞳がいつもより赤く、殺気を帯びているのを感じた。
燭台の火が揺れて彼の目に映り、その瞳もまた燃えているようだった。
「あなたが王になればいいんです」
そう言ったところで芙蓉は寝台に背を打ち付けられていた。
紅鳶が芙蓉を組み敷いたのだ。護身用の僅かな距離など、茜國の武人には何の意味もなかったことを後で嬰翔に教えねばなるまい。
地方官吏用の寮に良い寝具が取り付けられているわけもなく、いきなりの衝撃で一瞬息が止まる。
思わず咳き込んだところで、彼の手が剣に添えられているのが見えて冷や汗が流れた。
「ごめん、手加減できなかった」
少しも心の籠っていない声で紅鳶は言う。
彼の結われていない髪は芙蓉の頬をなぞるように動いた。
彼が芙蓉を殺したところで、罪には問われないだろうなと思った。先に不敬を働いたのは芙蓉だ。
「芙蓉までそんなこと言うんだね。僕をお爺様と同じだって言いたいの……!」
それでも芙蓉はその瞳を見つめて訴えかけた。
「殺さなくたっていい……!共存していく手だってあるはずです。どうしてあなたはそこから目を逸らそうとするんです」
だまれ、と彼は小さく吠えるように言った。
芙蓉の顔の近くに置かれた拳がきつく握られて骨が鳴る音がする。
子供が駄々をこねているような声に、初めて彼の本心を聞いたような気がした。
「僕たちには僕たちの矜持がある。……当主になれなかった長男が、弟に家督を奪われた長男がどんな扱いを受けるか君には分かるのか」
芙蓉はもう何も言わなかった。
これ以上は自分の口を出して良い領域ではないと思ったからだ。
逸る鼓動を必死に抑えながら、それでも芙蓉は彼から目を逸らそうとはしなかった。
睨み合いはどちらも折れないまましばらく続いたが、諦めたように紅鳶が芙蓉の身体から身を起こして離れる。
「……帰るよ、興が覚めた」
彼はそう言ってふらりと、芙蓉の部屋を出て行った。
芙蓉は彼が見えなくなってから、早鐘を打つ心臓を抑えるために茶を口に含む。
驚くことに茶はほとんど冷めていなかった。
来週は忙しいので少し更新遅れます




