2.茜薊交わらず─2
嬰翔の邸宅を訪れた翌日、芙蓉は嬰翔に頼まれて牢の巡回に来ていた。
汚いから芙蓉にはきついだろうと彼が度々変わってくれている仕事だったのだが、そんなことも言っていられない状況だ。
「梁さん、巡回に参りました」
「なんだい、今日は嬰翔様じゃないのかい」
牢の番をしている梁老人に声をかけると彼は久しぶりの客人が嬉しいのか顔を綻ばせた。
嬰翔曰くいつも牢を少しだけ見回って、残りの時間は彼の茶話に付き合っているらしい。
芙蓉はこれが終わってから紅鳶の処遇について考慮するように官吏たちから懇願されているため長居はできないが、それでもこんなところに一人でずっといたら気が滅入ってしまうのは芙蓉自身知っているので彼に揚げ菓子を渡しながら微笑む。
牢は國府の隅に、地下に向かって作られており葵家の地下牢を彷彿とさせる。
そういう意味でも嬰翔は芙蓉をここに近づけないでいてくれたのだろう。
そういうところでは甘い嬰翔である。
地下牢の中には簡素だが梁老人の部屋があり、囚人たちの飯の世話までしてくれている。
芙蓉は地下牢でも比較的良い生活をさせてもらっていたが、彼らの住環境はひどいものだ。
地下は饐えた匂いが充満しており、とても人間の住める場所ではない。
これでは病気が発生してもおかしくない。
ここも見直すべき部分の一つだなと思いながらそのための下調べの意味も込めて、芙蓉は帳面片手に巡回を行った。
体調やその様子について記録しながら回っていると、格子のある部分だけ赤茶けて変色してしまっているのが見えた。
なんだろうと思って触ってみると、手に赤黒い粉が付着した。
次いで、床を見るとところどころ白い結晶のようなものが見える。
芙蓉がある可能性に気が付いて軽く格子を揺らしていると、後ろから近づいた梁老人が芙蓉の腕を取ってそれを制した。
「芙蓉様、触ったら汚えよ。そこはそいつらが汁をこぼした場所なんだ」
「汁物……」
彼がそう言うと囚人たちは口々に文句を言い始める。
「あんたが飯を渡すのが下手なんだろうが!」
「そうだ!碌な飯も食わせねえで!」
「うるせぇな、酒中毒ども!お前らの手が震えてるからだろう!」
それに対して梁老人も大きな声で反論する。
芙蓉が目を細めてその光景を見ていると彼女に気が付いた囚人のうちの何人かが騒ぎ始めた。
暗さに目が慣れてきた芙蓉の方を見る獰猛な瞳の男たちにああ、と合点がいった。
彼らは三月に起こった贋金事件で首謀の男の手助けをしたとして芙蓉が収監した賊であった。
彼女の企みによって本物の金貨を贋金だと勘違いして國府まで自ら運んできた際に、お縄についたのだ。
今考えてもあれほど効率的な逮捕劇はない、と芙蓉は自らを褒めたくなる。
当然ながら彼らの中では芙蓉は極悪人である。
「坊ちゃんじゃねえか、よくも俺たちを嵌めてくれたな」
そう言って今にも掴みかかりそうな雰囲気の頭領の男に、芙蓉は呆れた瞳を向けた。
「何を言ってるんですか、私はちゃんと約束を守りましたよ。ちゃんとあの場は見逃したでしょう。自分たちから牢に入りに来てくれたのに、私を恨むのはお門違いです」
『私たちをここから出してくれたら、あなた達がここでやったことを見逃します。あなた達も晋官吏がこのまま捌かれないのは癪でしょう。ここから出たらちゃんと彼の罪を白日の下に晒します』
芙蓉は確かにあの時そう言ったのだ。分かりやすくここでと強調した言い方をしたはずだった。
その余裕の笑みが気に入らないのか彼らは芙蓉を殺しそうな目で睨んでくる。
「待ってろ、すぐに出てやるからな。その綺麗な顔を傷ものにしてやるよ」
そう言われても芙蓉の顔色は何一つ変わらない。
綺麗な顔と言われようが鈴扇の顔を思い浮かべると自分の生まれの割に地味な顔は特段綺麗とは思えなかった。
月英も割と綺麗な顔の割に目立たない男だったが、それに似たのだろう。
「傷ができようが私の価値に変わりはありません。できるものならやってみてください」
「このクソガキ!」
そう言って鉄格子から伸びる手を、芙蓉は間合いを取って避ける。
その様子を見ていた梁老人は呆れて止めに入った。
「芙蓉様、そいつらを煽るのはやめておくれよ」
「ちっ!」
頭領が恨めし気に舌打ちをしたのをものともせず、芙蓉は梁老人に問うた。
「梁さん、厨房に入れていただいてよろしいですか」
「はぁ、いいけどよ」
芙蓉の予想外の申し出に梁老人は目を丸くした。
※
「厨房っていうほどちゃんとしたものはないんだけどな」
梁老人の部屋は思ったより綺麗だった。
というよりも、芙蓉にとって大変興味深いものであった。
小さな部屋に生活必需品が詰まっており、人形の部屋のようなおかしな可愛らしさがある。
壁には彼が描いたのか植物の葉の模様が無数に散りばめられている。
芙蓉にもこのように地下暮らしを楽しむ余裕があればよかったのだが、と彼の暮らしぶりを見て素直に感心した。
ここで給仕を行っていると言うので竈を見ると汁物が煮立っているのが見えたため、先ほどの疑問を払拭するために申し出る。
「私にも一口ください」
「……やめといたほうがいいですぜ」
梁老人は訝しそうな顔をしたが上官の申し出を断るわけもなく小皿に数滴汁を垂らして芙蓉に渡してくれた。
そしてそれを口に含んだ瞬間、芙蓉は驚いて咳き込んだ。
「げほっ!……なんなんですかこれ!?ちゃんと味見してます!?」
あまりに塩辛いのだ。
普通の十倍は言い過ぎかもしれないが、それでも芙蓉がいつも口にするものより格段に塩分が多い。
辛そうな芙蓉に言わんこっちゃないと言いながら、不要の背をさすって彼は茶を差し出した。
「いや、最初は一応してたんだけどなぁ……あいつら酒の飲みすぎで味覚がおかしくなってるらしくて普通の汁じゃ物足りないって騒ぐんだよ。おまけに手の震えがあるやつはしょっちゅうこぼすんで掃除も大変だ。牢の中はひどい匂いだっただろう」
あの匂いはやはり腐臭だったのだ。
芙蓉は出された茶を飲み干してから、涙目で言う。
「さっ、酒の依存症でしょうか」
「ああ、多分な。安酒ばっかり飲んでるからそうなるんだよ」
それにしてもおかしい、あんな決まった場所に綺麗に溢すのだろうか。
そう思うと芙蓉の中で合点がいった。
「なるほど。ところで梁さん、一つお願いがあるのですが」
芙蓉がそう言うと、梁老人は肩をすくめた。
「芙蓉様がそういう顔をしてる時はあまりいいことが起こらないと聞いたことがあるんだけどなぁ」
「誰ですか、そんな噂を立てたのは。汀眞殿に言って減俸してもらいましょう」
今はいない同僚の監察官に言うと怒られそうだと思いながら、芙蓉は梁老人と話し込むために焼き菓子の包みを解いた。
※
夜になると牢屋番が姿を消すと男たちは知っていた。
今日は國府で酒宴が行われるらしく、「今日くらい休んでいいんですよ」と昼頃来た女のような官吏が牢屋番に告げていったのだ。
あの妙に知恵の回る官吏のことだから何か考えてはいないかと思ったが、あのすかした少年ならすぐに自分たちの企みを指摘するだろうと思った。
不思議そうに床を見つめているのを見た時は内心冷や冷やしたが、老人が止めに入ってくれて助かった。
その後も二人で談笑している声が聞こえたときは、腹が立ったが自分たちの策を潰す算段をしているわけではないと安心したものだ。
以前から仲間内でこっそり話し合っていた算段で、男は牢を抜けた。
からん、と想像以上に簡単に格子は床に転がる。
牢屋番が鍵をかけている場所も見ていたので次々に男たちを解放していく。
驚くほどあっさりと牢を抜けることができた。
皆とは言わないまでも、あの少年官吏に騙されて捕まった者が殆どでありその理不尽に憤りを感じていた。贋金というのが少々まずかったかもしれないが、頼まれたものを運んだだけなのだ。
皆が久しぶりに出た地上に歓喜の声を上げた。
さあ、少年を探し出して一発はあの綺麗な顔を殴ってやらないと気が済まないと思った時のことだ。
呆れたような声が後ろからかかる。
「で、気は済みましたかね?」
見ると灰色の瞳の少年が、呆れ顔で武官たちを引き連れて立っている。
その傍らには牢屋番の男と官服姿の男が二人驚いた顔をしてこちらを見ていた。
※
ここまで簡単に引っかかるものなのかと、正直芙蓉は驚くとともに呆れていた。
驚いたのは向こうも同じだったようで、芙蓉の目を食い入るように見つめている。
「おっ、お前!!」
「はい、皆さん。捕縛をお願いします」
芙蓉が二つ手を叩くと、賊は十数人の男たちにあっという間に取り囲まれてあっという間に捕縛されてしまった。
「まっ、まさか。本当に逃げようとしてたとは……!」
牢屋番、こと梁老人が驚いて芙蓉の腕を掴んでいる。
彼は牢屋番ではあるが腕っぷしが立つわけではない。
男たちが素手で殴りあう様子を見て驚いてしまっているのだろう。
「芙蓉くん、なんで分かったんですか?」
面白そうだから、とそれだけの理由でついてきた芳輪が老人の重さに倒れそうになる芙蓉のもう片方の腕を支えながら聞くと芙蓉はすらすらと答える。
「塩分が多い汁をちょっとずつ格子にかけていたんですよ。そうすると金属は錆びて脆くなるでしょう、私が見たところそろそろ折れるそうだったので、ちょっとは知恵が働くみたいですね」
格子は錆びて赤茶けており、下には塩の結晶ができるほどの濃度の汁が垂れていた。
「それはまたおもしろいですねぇ」
芳輪がそう言いながら手を打ったので芙蓉は重心がずれて思わず転びそうになった。
それでもなんとか身体を立て直すと、隣にいる刑曹の官吏に言う。
「いえ、これで懲りたでしょう。同じようなことをしでかす輩がいてはなりませんので報告書にまとめて報告させていただきますね。ちゃんと記録していますか?」
「わざわざ逃がしてから捕まえる意味なんてあったんですか?」
「私はこの一年で学んだんです。事が起きないと上は動いてくれないと。新しい罪状を作って、それからこの機に鉄格子を一新しましょう」
「……予算寄越せってことですか」
その言葉に、芙蓉はにこりと微笑んで頷いた。
すっかりこの一年間で守銭奴になってしまったものだと、官吏と武官は一同悲しくなる。
もとは商売人の血筋である嬰翔の教育の賜物だが、それでも赴任したばかりの賢いが世間知らずな芙蓉が懐かしい。
「頑丈で、清潔なものを作ってもらいましょうね」
上機嫌の芙蓉はこのとき木の陰で赤髪の男が聞き耳を立てていることなど気が付いていなかった。
※
「そう、莢官吏は思ったよりずっと面白いね」
報告を受けた紅鳶は酒杯を傾けて心底面白そうに笑った。
その酒杯の中には馬乳酒と呼ばれる遊牧民族が好む乳白色の酒が揺れている。
「聞いた話によりますと、これまでも脱税や贋金鋳造を見破ったことがあるそうで。少年とはいえ、只者ではありません」
紅鳶の横で棒立ちのまま報告する青年の名を莫という。
派手好きの主人と違っていで立ちは至って簡素、細い目は手元の帳面を見つめ、肩までの赤髪を下ろしたままにしている。
紅鳶が幼いころから彼に仕える側用人であり、茜國の男らしくその腰に携えた剣を始終身から離すことはない。
彼こそ芙蓉を観察し、その捕り物の様子を伺っていた男である。
その横には彼よりも若く、優しい顔立ちの青年が立っている。
彼もまた紅鳶が連れてきた側用人の一人で名前を姜と言った。
優しそうとはいっても茜國の私兵は皆武官の試験を受ければ上位で受かるものばかりなので、相当の手練れであることは間違いない。
「蛇に噛まれそうになった時は驚いたよ。普通、いくら毒がないとはいえ口で吸い出すかな、見ず知らずの男の腕だよ?」
「驚きましたが、医者は処置が良かったからたいした後遺症もないだろうと言っていましたよ」
「女の子ならともかく、男の腕になんて僕は死んでも口をつけたくない。しかも毒が含まれてるかもしれない血になんてなおさらだ」
そう言うと姜が彼を諫めるように発言する。
「紅鳶様!彼はあなたを守ろうとしたんです!それを笑い話にするなど……」
「姜、僕に指図できる立場なの?」
笑顔のまま言う彼に、姜は口をつぐんだ。
茜國の人間は一種獣の群れのような性質を持ち、自分より武の優れた人間に服従する。
紅鳶が茜家の者であることを除いても、姜の反応は紅鳶を武人として上に見ている証であった。
紅鳶は黙ってしまった姜に構うことなく、窓の外を見た。
茜國の方角を見つめても、そちらから吹く風に潮の香りは混じっていない。
「全部覚えているよ。僕が朝廷に行かなくなってからも、全部兄上が教えてくれたんだもの。変わり者の菫家の兄弟、臆病者の蘭家の若様、皇后に劣らず美しいという蓮家の姫。確か彼女は東宮への輿入れを考えているといったかな。蓮家は益々皇帝との縁が盤石だな」
そう国の未来を語る彼の顔には、我儘ばかり言う放蕩息子の影はなかった。
「それはまだ内密の話です」
莫は静かに言う。どうも目が細いせいか表情が恐ろしく乏しい男である。
そうだったかなという紅鳶の顔に悪気があるようには見えない。
側用人たちもそれが分かっているのか誰も諫めなかった。
「でも兄上が知らないこともある、混ざりものの、今はまだ小さな鴻鵠の雛。おかしいよね、鈴扇殿はあれで捕まえた気になっているのかな」
紅鳶は唇に他人の血を付けたまま、自分を見つめる少年を思い出していた。
鈴扇の彼への執着ぶりは見ていて面白かった。
彼は兄同様風変わりな男だと聞いていたが、芙蓉が紅鳶の従者に処置を行ったときの彼の目の色の変わりようは面白かった。
まるで大切なものが汚されてしまったような、そんな顔。
昔会った時は変わり者の兄と違って、表情の変わらない面白みのない男だと思ったが十年以上の時間は彼を変えたらしい。
それでも紅鳶は彼には特段興味をそそられなかった。
「鴻鵠の雛……?あの賢い少年のことですか?」
不思議そうに聞く姜にそうだよ、と紅鳶は言う。
姜と違って、莫は涼しい顔で主人を見ている。
「ここは鳳凰の籠には小さすぎる。皇帝が宮を作ってまで捕らえられなかったものを本気で情だけで繋ぎとめられると思っているのかな。共に生きられもしないのに、可哀そうなだけだ」
所詮は化け物と人間が友達ごっこをしているだけだったのだと、紅鳶は月英と慶朝を馬鹿にしている節がある。
月英は慶朝に乞われて彼の国の住人になったが、慶朝は月英の国に立ち入ることさえできなかったことだろう。
化け物が人間と同じ夢を見るなど滑稽な話だ。
「紅鳶様、本性がばれますよ」
莫の指摘を、紅鳶は鼻で笑った。
そのために策はあらかじめ打ってある。
「だから、あの赤髪の官吏を遠ざけたんだろう。蔦家の目は厄介すぎる、流石の僕も襤褸が出るよ。……それに僕は馬鹿だよ、兄上には遠く及ばない世間知らずのお坊ちゃんさ」
そう言うと、表情に乏しい莫の眉がぴくりと動いた。
兄上には遠く及ばない、莫は小さい頃から紅鳶が言い聞かせるように言うその言葉が嫌いなのだ。
それでも主人がそう思いたいなら、従者はそれに従うしかない。
「明日からどうされますか、もう手は出尽くしたようですが」
莫が細い目を僅かに開けて問うと、紅鳶は心底面倒くさそうな顔をした。
彼は本来我儘を言う性質ではない。つまり、我儘を考えるのも労力がいるのだ。
「一か月は長いね、僕が身の振り方を考えるには短すぎるかもしれないけど」
自分の父親の余命のはずなのに、紅鳶の言葉にはなんの感慨もない。
「自分から言い出したことでしょうに」
煩いな、と真面目過ぎる従者に紅鳶は苦言を呈した。
そう言ってから思いついたように手を打った。
「そうだな、土産を持って帰りたい」
土産、莫にはすぐにそれが何を意味するのか分かった。
彼が何かに興味を見せるのは珍しいが、確かに持ち帰れば計画の役に立ちそうだった。
機嫌のよくなった主人を見ながら、現実的な莫は真面目な顔をしながら鳳凰とは焼けばどのような味がするのだろうと、そんなことを考えていた。
※
芙蓉は例の牢での捕り物を終えた後、紅鳶の処遇について考えを巡らせていた。
ひとまず、彼の滞在する屋敷に教師を派遣することも考えたが芳輪が半泣きで抗議してきたのでそれはやめた。
いっそ旅行目的なら教師をつけるのをやめればいいのだが、芳輪曰く彼は勉強したいという気はあるらしい。
実に厄介だ。
となると、もう彼に直接言ってみるしかないということになった。
芙蓉には彼の部下を助けたという義理もあるわけで、少しなら言うことを聞いてくれるのではないかと皆口にした。
ここで芙蓉に葵の名さえあれば楽なのだが、生憎今は平民出の官吏でしかない。
もうこれは土下座してでも頼み込むしかないと、礼曹の官吏と芳輪を連れて紅鳶が使用している部屋を訪れた。
「紅鳶様、非常に申し訳ないのですが今日はお願いを申し上げに来ました」
彼女の後ろには官吏たちが身を隠すように付き従っている。
「なにかな」
今日の紅鳶の姿はさすが派手好きの茜國の男、女性が身に着けるような飾り紐のついた翡翠の耳飾りを下げている。
同じく流行りものの好きな汀眞に比べて装飾が多すぎる気がしたがそれに負けない綺麗な顔立ちは流石だ。
しかし、そんなことに感心している場合ではない。
「このように官吏一同震えあがってしまいまして、もう少しその……要求を控えていただくと嬉しいのです。勿論ただでとは言いません。紅鳶様が滞在されている邸宅の借料は我々が肩代わりさせていただきますし」
芙蓉が腰を落として話し始めると、何を思ったのか紅鳶は芙蓉の方に近づいてきて微笑んだ。
彼が近付くにつれて後ろの官吏たちの気配も後退していく。
皆、薄情である。
「いろいろと考えてくれたみたいだけどその必要はないよ」
「では……!」
芙蓉がその言葉に喜色を呈すると、紅鳶は驚くようなことを口にした。
「君が、今日から僕の専属の教師になってくれたらいいだろう?」
「……はいっ?」
思わず、素の声が出た。
何を言っているのか意味が分からない。
確かに頼まれて教師役をしていることはあるが、芙蓉には芙蓉の仕事がある。
彼一人に割いている時間などあろうはずもない。
「ここで一番賢い人間は誰だと聞いたら皆君の名前を口にしたし、君の功績についても聞いたよ。僕は君一人いれば十分だ、他の人間は下がっていい」
「えっ、ちょっとそれは……ちょっと皆さん!?」
後ろを見ると芙蓉の後ろに付き従っていたはずの官吏たちは全員が全員忽然と消えていた。
芙蓉は彼らによって目の前の男に生贄として差し出されたのだ。
一瞬にして裏切られた、と後方を振り返って呆然としていると彼は芙蓉の髪を一房取って笑いかけてくる。
「君はそんな髪色をしているけど、葵家になんの所縁もないんだよね。莢 芙蓉官吏?」
笑ってはいるが瞳の奥の真意が読めない。
こういう時、物事の真贋を判別する目を持った汀眞がいないのは不便である。
「……はい、なんの所縁もございません」
悲しいかな、芙蓉には葵を名乗る権利もなければ、バレても面倒ごとが待っていそうな気しかしないので結局そう答えるしかなかった。
「じゃあ、問題はないね。今日からよろしく、芙蓉」
家格もない官吏が六大家に逆らうなんて出来るわけがない、ということを暗に確認されたのだ。
かくしてこの日より、芙蓉は紅鳶の専属の教師と官吏の二足の草鞋を履く羽目になったのである。




