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鴻鵠の娘  作者: 納戸
白虹 日を貫く 【茜國編】
23/50

2.茜薊交わらず─1

 

 芙蓉と鈴扇が妙なことになっている間、一人残された嬰翔は通常業務に加え突然舞い込んだ文に首を捻っていた。

 花の紋章入りの文は鈴扇と苑華で慣れているはずなのに、(あかね)の花は妙に禍々しく感じる。


『茜家の次男である茜 紅鳶(せん こうえん)を暫くの間、蘭國の私塾に預けたい』


 茜國当主名代(みょうだい)から届けられた手紙の内容を要約するとざっとそういう内容である。

 有能な武官を数々輩出している茜家は家格では葵と蓮に次ぐ大貴族である以上、()()()()()()()()()()()()()()

 わざわざ蘭國を選んだ意味は分からないがこの文のおかげで嬰翔は数日駆けまわる羽目になっている。


「早く帰ってきてください、こっちは大変なことになってるんですよ」


 誰に言うでもなく呟くと嬰翔は深い溜息をついた。

 嬰翔は薺家の分家筋ではあるが、所詮は六大家には遠く及ばない家格だ。

 茜國出身の汎國尉(はんこくい)に仲介を頼んで事を進めているが、やはり彼らと対等のやりとりの出来る鈴扇の帰還が待たれた。


「嬰翔殿、少しよろしいですかな」


 嬰翔が今はがらんとした鈴扇の机の上で資料を整理していると、後ろから声をかけてきたのは國尉である汎佑徳(はん ゆうとく)であった。

 見るといつも快活な彼らしくなく、どこか暗い表情をしている。


「どうされたんです、暗い顔をなさって」


 隈を作っている嬰翔に言われてもと思っただろうが、彼は力なく話し始める。


「その……ですな。最近嬰翔殿はお忙しそうにしておられましたし、休暇を取られてはいかがですか」

「休暇?あはは、御冗談を。鈴扇と芙蓉殿が帰られるまで休むわけにはいきませんよ」


 嬰翔は思わず乾いた笑いをあげた。

 この忙しい時期に何を言い出すのかと思ったが、彼が考えなしにそんなことを言うはずもないとも思った。


「それくらいでしたら他の者だけでもできますし、三日後には鈴扇殿も帰られるという話ですし……」

「ひょっとして僕を追い出そうとしていますか?」


 引こうとしない彼に嬰翔が冗談交じりに言ったのだが、そう言った瞬間彼の顔色が変わった。

 どうやら冗談ではすまされないらしい。


「非常に言いにくいのですが、嬰翔殿と汀眞殿には、ご自宅にて蟄居(ちっきょ)していただきたいのです」


「……はいっ?」


 ()()、言われた意味が暫く分からず嬰翔は素頓狂な声を上げてしまった。

 それが自宅での謹慎を意味する言葉だと分かったところで嬰翔の疑問は晴れない。

 なぜ規範に違反したわけでもない嬰翔がそんなことをしなければならないのか意味が分からなかった。

 それに、官吏を監察するはずの汀眞も巻き込まれているのもおかしい話だった。


「これは嬰翔殿のためでもあるのです」

「どういうことですか?……あの、まさかとは思うのですが、僕たちの生まれが気に食わないとかいう馬鹿げた話ではないですよね」


 嬰翔と汀眞、この國府で二人だけが持っているものと言えばその淡い赤髪である。

 そしてそれがこれから訪れる茜國の客人の意に沿わないかもしれないというのは、嬰翔にもなんとなく分かっていた。


()()()()()()()。茜本家は未だ薊國の人間に偏見を持っているものが多く……私など朝廷に出仕した者はそういった意識もないのですが。ほとんど外に出られない紅鳶様はそれがひどいのです。私宛に薊國の者は紅鳶様の前に姿を見せないようにと、わざわざ文は届きました」


 古くから茜國の人間は薊國の人間を下に見る傾向があり、それに倣って薊國の人間の中にも高飛車な茜國の人間を嫌っている人間は多い。

 嬰翔自身も太学で馬鹿にされたことがあったが、ここまであからさまな拒絶は初めてで思わず絶句した。

 ここに芙蓉がいれば馬鹿なんじゃないかと言ってくれただろうが、生憎彼女は皇帝のお膝元に出張中である。


茜薊交(せんけいまじ)わらず、ですか……」


 その言葉に佑徳は唇を噛んで、深く頭を下げる。

 その様子を見てもこの要請が彼の本意ではないことが分かった。


「申し訳ない。私もまさかあの坊ちゃんがこんなところにいらっしゃると思っていませんでした」


 嬰翔に拒否権はない。

 この国で六大家に逆らうことは左遷されてもおかしくない不敬だ。

 こんなことで志半ばに去るほど、嬰翔は馬鹿ではなかった。


「分かりました、蟄居に応じましょう。しかしいったい、茜 紅鳶様とはどんな人間なんです?」


「おそらく鈴扇様に聞かれた方が詳しいと思いますが、一言でいえば放蕩息子です」



 佑徳の暗い顔は自國の未来を憂いているようであった。




 ※




「どういう方なんですか?茜 紅鳶(せん こうえん)様という方は」


 嬰翔からの『茜國の次男を預かることになった』という伝令は芙蓉と鈴扇のもとにも遅れて届いていた。

 鈴扇は少し眉を顰めたが、これは殆ど表情を崩さない彼にしては珍しいほど分かりやすい嫌悪の表情であり、それだけでこれからやってくる男が厄介な人間だということを示していた。

 茜國と言えば、武人の國であり、蘭國の國尉である佑徳の出身地であるはずだ。

 芙蓉も彼らの暮らしぶりについては聞いたことがあったが、その気風までは詳しくない。


「私たち六大家は四季折々の行事でよく宮中に集められ、特に大朝会と呼ばれる新年の集いには全員が顔を合わせる。それもあって私も同じ年頃の六大家の人間は顔見知りが多いのだが、紅鳶という男は十を過ぎたころから一度も私たちの前に顔を出していない」


「引き籠りってことですか?」

()だ。遊んでばかりで家にもほとんど戻らないらしい。歳は私より一つか二つ下だったはずだが、評判は死ぬほど悪い。私自身は年が近いということもあって昔は遊んだこともあるが、兄の後ろをついて回ってばかりの少年だったと記憶している」


 そう聞くとますます疑問だった。

 そんな生粋のお坊ちゃんがなぜ田舎國と揶揄される蘭に足を運ぶことになったのだろうか。


「げっ、茜家の坊ちゃん本当に来るのかよ……」


 鈴扇と芙蓉を手伝って資料を運び終わった汀眞は、芙蓉と鈴扇のやりとりが聞こえたのかあからさまに嫌そうな声を出した。


「やはり薊國の方は茜國の方とそりが合わないのですか?」


 芙蓉は書類に目を通しながら汀眞に尋ねる。

 その顔を暫く見つめると汀眞は溜息をついて話し始める。


「世間知らずの芙蓉が知ってるんだからよっぽどだね」


()()()()()()、有名な言葉じゃないですか」


 茜薊交(せんけいまじ)わらず、この国でだけ使われるこの諺は茜國と薊國の人間のそりの合わなさを表した言葉だ。時には犬猿の仲と同義で用いられるほど浸透したこの言葉は芙蓉でさえ知っているものだった。


 家格の低い薊家と成り上がり貴族と言われる薺家が居を構える薊國を、家格において葵家と蓮家に次ぐ茜家の治める茜國の人間は何かと馬鹿にしている。

 おまけに彼らの髪と目の色も、茜國は赤色、薊國は朱色と大変似ているということで両國の関係は芳しくない。

 芙蓉には全く分からない赤色と朱色の髪の色の違いも、彼らだけには区別することができるらしいから不思議だ。

 汀眞曰く薊國の人間の髪の色の方が()らしい。


「俺はちょっと髪と目の色が濃いくらいで俺たちを馬鹿にしてくる茜國の奴らが大嫌いなの。汎國尉みたいな人は別だけど、直系のお坊ちゃんなんか俺たちと仲良く出来るわけないよ」

「話には聞いていましたが未だにそのような関係なんですね。國は隣同士なのに、よくやっていけますね」

「嬰翔は気にしたことはあまりないようだが、確かにあいつも太学にいた頃それで馬鹿にされたことがあるとは言っていたな」


 あの世渡りのうまい嬰翔ですら、非難の対象にあったと聞いて芙蓉は驚く。

 汀眞もそれに腹が立ったようでフンと鼻を鳴らした。


「茜家って貴族意識も高いし、俺たちとは根本的に合わないんだよね。商連も茜では商売がやりにくいって話だしね」

「というか、どうしてそんな方が蘭國に来られるんです?太学にでも入れたらいいのに」


 太学は学力ももちろんだが一番は家格と支度金だという話を聞いたことがある。

 貴族ならこんな田舎にくるよりもよっぽど有意義に思えた。


「恐らく短期で遊学させたかったんだろう。当主である离鴇様のお加減が悪いと聞いている。次の当主にはおそらく兄の緋鶯(ひおう)が就くだろうが、邪魔な弟をそれまでの間他國に預けるつもりだろう」


 芙蓉にとってそれはなんとも気分が悪い話であった。

 どうして貴族は長男に生まれたというだけで他の子供たちをないがしろにするのだろうか。

 芙蓉の父である月英は類まれなる才を持ちながら、そのせいで世に出ることがほとんどできなかったのだ。


「邪魔、ですか。ですが、放蕩息子でしたら緋鶯様の就任を妨げるようなことはないのでは?」


 芙蓉が棘のある口調で言うとすぐに鈴扇が否定する。


「紅鳶は似ているんだ。禁軍将軍だった彼らの祖父に」


「……それだけで?」

「先程は放蕩息子だと言ったが、紅鳶はただの馬鹿ではない。武家一族らしく、武芸一般を修めている。特に剣術は十で会った時すでに大人顔負けだったはずだ。そして、緋鶯は虫も殺せないような優しい男だ」

「ようするに訳あり坊ちゃんってわけね」


 汀眞の顔には明らかに俺を面倒ことに巻き込むなと書いてあった。


「うちには嬰翔様もいらっしゃいますが、大丈夫ですかね」


 もう一人の國令副官である嬰翔は何かと厄介ごとに巻き込まれやすい性質である。

 今度も彼の憂いが増えると思うと哀れだと思っていると隣の汀眞がそれを笑い飛ばした。


「さすがに俺たちを遠ざけたりはしないでしょ。まあ、俺の方からも寄り付かないけどね」



 ※



『さすがに俺たちを遠ざけたりはしないでしょ。まあ、俺の方からも寄り付かないけどね』



 その言葉がすぐに裏切られることになろうとは汀眞自体も思っていなかったのだろう。


 汀眞は芙蓉たちとともに國府に戻った途端に國軍の兵士たちに両腕を掴まれ、嬰翔の乗る車に押し込まれた。


「ちょっと何すんの!?」

「本当に申し訳ありません!汀眞殿、お許しください!」

「はい!?」


 そのあんまりな様子に芙蓉が絶句していると、状況を説明している暇もないのか車の中の嬰翔が汀眞の肩を掴んで諭す。


「汀眞、しょうがないんです。従いましょう」

「意味わかんないだけど!?ちょっと!!」

「芙蓉殿、鈴扇あとは頼みました。詳しくは後で佑徳殿にお聞きください」


 なおも抵抗しようとする汀眞を抑えながら嬰翔が出てくださいと言うと車は走り始め、芙蓉と鈴扇の前から姿を消してしまった。

 その間、芙蓉は一言も言葉を発することができずに見守っているだけだったのだからすごい速さの出来事であった。

 ほとんど誘拐である。


「……行ってしまいましたね」


 芙蓉が言うと嬰翔の乗った車の後ろに隠れていたらしい佑徳が深く頭を下げた。


「申し訳ありません、芙蓉殿、鈴扇殿。手荒な真似をしてしまいました。薊國の方々を紅鳶様の前に出してしまうと厄介だということになりまして」


 嬰翔の様子を見るにそれは合意の上なのだろうが、まさかこんなに露骨な態度取ってくるとは思っていなかった。


「さすがに失礼が過ぎます、こんな非人道的な……」


 芙蓉が文句を言おうとすると、急に異国の風が吹き込んだようにそこだけ違う匂いが吹き込む。


 どこか獣臭い、野性的な匂いは芙蓉の嗅いだことのない南の風であった。


 その違和感に風が吹いた方角を見ると、芙蓉の目を釘付けにしたのは紅の兵士たちだった。

 比喩ではない。

 紅の衣に身を包んだ騎馬兵たちが、こちらに向かってきている最中だったのである。


「話していたらどうやらおいでになったようです。いやはや、本当にぎりぎり間に合って良かった」


「えっ!もうですか!?」


 どうやら紅鳶が今日到着することは蘭國府一同知っていたことらしく、既に芙蓉と鈴扇以外の官吏は既に門の前に整列し終わっている。

 芙蓉と鈴扇もそれに倣って門の前に止まる車の前で頭を下げているとくつくつと笑う男の声が聞こえた。

 一瞬だけ見てすぐに頭を下げてしまったので顔までは見られなかったが車から降りた青年は放蕩息子、という言葉とはかけ離れているように見えた。

 その髪色は嬰翔や汀眞、今まで出会った薊國の人々とはまるで違う、燃えるような紅だ。

 芙蓉は茜國と薊國の髪色の違いが分からないと思っていたが、やはり高位の貴族となるとその髪色も濃いようだ。


「佑徳、ご苦労だったね」


 優しい声はとても鈴扇が言うような武家一門の息子とは思えない。


「紅鳶様におかれましてはますますご清栄のことと……」

「堅苦しいのは良いよ。蘭國府は聞いてた通り小さいね」


 紅鳶は佑徳の言葉を遮ると、失礼なことを言ったような気をしたが今の芙蓉たちは高位の貴族を前に自ら顔を上げることはできない。


 それにしても長い。


 慶朝であっても、ここまで長い間頭を下げ続けたことはないだろう。

 五月と言っても強い日差しの日であり、このまま自分たちを熱中症にするつもりなのかと思っていると佑徳が言葉をかけてくれた。


「……紅鳶様、あなたが良いと言うまで皆頭を上げられないのですよ」

「知ってる、いつまでこのままなのかなと思って」

「お戯れは程々にしていただかないと、日差しも厳しくなってまいりましたので」


 佑徳が苦笑しながら諫めると、紅鳶は飽きたのか官吏たちに声をかけた。


「いいよ、顔を上げて」


 そう言われて顔を上げた芙蓉は目の前に立つ青年の姿に、素直に驚いた。

 言動や服装こそ崩していて軽く見えるが、端正な顔立ちはとても放蕩息子には見えない。

 紅玉をはめ込んだような切れ長の瞳に、同じく燃えるような胸まで伸びた赤い髪を流している姿はさぞ女性にちやほやされているのだろう。

 六大家の人間には整った顔立ちの人間が多いと言うが、彼も例に漏れていないらしい。

 何より赤という色が目を引くせいか、存在感がすごいのだ。

 特に鈴扇と並んだ姿は圧巻で、絵巻物から美丈夫が二人抜け出てきたようだった。

 そう思ったのは芙蓉だけではないようで周りの官吏たちも初めて見る異國の青年に目を奪われているようであった。


「わあ、すごい。本当に皆青い目なんだね。僕國外に出るの久しぶりだから珍しくて」


 周りの視線をものともせず、彼は無邪気に官吏たちの目を見て呟いた。


「紅鳶殿、お久しぶりです」


 彼は行動の上では遊び人そのものであり、声をかけた鈴扇を見ても首を捻るばかりだ。


「名前忘れちゃったな、誰だっけ」

「菫 鈴扇様です」


 祐徳が言うとようやく思い出したようで、鈴扇の手を取って握手をした。


「ああ、あの変人の弟か。久しぶり、一か月ほど頼むよ。心配しなくてもそれまで父上ももたないだろうからとっとと出て行くよ」


 そういった軽い挨拶に慣れていない鈴扇がきょとんとしている横をすり抜けると彼は芙蓉の前に立ち、その瞳を覗き込んだ。


「珍しい毛色の子がいる。葵家が地方に飛ばされるなんて珍しいんじゃない?」


 流石は貴族、すぐに芙蓉の出自に触れてくるが、芙蓉は何もなかったように否定した。


「私は葵家ゆかりのものではありませんので」

「ふーん、そうか」


 それ以上は彼も興味がないようで、すぐに芙蓉の前を通りすぎると鈴扇の前に再び立って美しい笑顔を浮かべた。

 美しいが何を考えているか分からない笑顔に芙蓉は背筋に寒いものが走った気がした。



「これから暫く、()()()()()。鈴扇殿」



 ※



 茜 紅鳶、彼はまさに南から吹いた突風のような青年であった。


 蘭國府の人間が音を上げたのは彼が来てたった二日後のことであった。


「助けてください、芙蓉くん!!」

「ああ、芙蓉様!あんな問題児我々の手に負えません!!」


 そう言って蟄居中の嬰翔に資料を届けに國府から出ようとした芙蓉と鈴扇を引き留めたのは、珪官吏と芳輪であった。

 私塾の教師であるはずの芳輪はもう限界だと言わんばかりに髪をかき乱しており、珪は顔を手で覆っている。

 よく見ると彼らの後ろにも同じような格好で奇声を上げている官吏たちがいた。

 まさしく阿鼻叫喚の図である。

 ただならない様子に芙蓉と鈴扇はいったん嬰翔に頼まれた資料を置くと彼らに駆け寄って手を差し伸べる。


「いったいどうされたんですか?」

「芙蓉くん、あの子はどうかしている!僕たちは鈴扇くんや嬰翔くんのような、貴族と言っても礼節のある人ばかり見てきたから慣れてないんですよ!」


 芳輪は発狂しそうな声で芙蓉の耳元で叫ぶので、芙蓉は片目を瞑って耐えるしかない。


「もしかしなくても、紅鳶様のことですか?」

「ええ、もう本当に私など手が攣ってしまって……」


 そう言って珪の腕を見ると、痺れているのか微かに震えている。


「いったい何をやらされたんです?」


 芙蓉にとって祖父のような存在である彼にどんな無体を強いたのかと僅かに眉を顰めると、彼らは口々に話し始めた。


『こんな暑い場所で勉学ができるものか。団扇を持って仰いでくれないかな?』


 曰く彼はそんなことを言って一日中官吏たちに団扇で彼を仰がせていたらしい。


「……茜國ってもっと暑いんじゃないんですか?」

「地理的にはそのはずなのだがな」


 鈴扇も話を聞いて呆れているようだった。

 彼らの話はそれでは終わらない。


『こんな辛気臭い場所に長時間滞在するなんて考えられない。家具は全部持ってきたものに変えて』


『蘭は春でも山の氷が溶けないんだろう?蜜をかけた氷はおいしいと聞くから取ってきてくれないか』


 そう言った我儘を繰り返し、彼はたった二日で官吏や他の生徒たちを疲れ切らせてしまったらしい。

 私塾の生徒たちも迷惑をしているせいで今日は芳輪が一日相手をしていたらしいが、寝ているばかりで話など聞かないそうだ。

 鈴扇の二つ下ということは二十四ということになるが、あまりに子供じみた我儘に芙蓉は絶句してしまった。

 同時に彼なら嬰翔や汀眞を自分の視界に入れたくもないと言い出しかねないと妙に納得してしまう。


「これは早急に手を講じる必要がありそうですね……」

「こういう時に嬰翔がいないのは困るな」


 それは芙蓉も言おうとして留めた言葉であった。

 とかく世渡りのうまくて口が達者な嬰翔がこういう時にいないと、貴族育ちの鈴扇と世間離れした芙蓉は使い物にならない。

 そうしていると、國府から出てきたらしい紅の衣の集団がこちらに向かって歩いてきた。


「やあ、鈴扇殿。君もお出かけかい?」


 芙蓉と鈴扇に告げ口をしていた矢先に現れた彼に芙蓉の後ろの官吏たちはすっかり震え上がってしまっている。


「紅鳶殿、ご機嫌麗しいようで何よりです」


 そう言う鈴扇の声は少しだけ棘があるように感じる。


「ここは何もないけど、空気がいいね。田舎暮らしも悪くないよ」


 そう言って紅鳶が車の戸に手をかけた時にそれは起こった。


 中に潜んでいたのか、毒蛇が彼めがけて牙を剥いたのだ。


「紅鳶様!お下がりください!」


 そう従者の一人が彼の前に立つと、代わりにその牙を受けることになってしまった。

 毒蛇はすぐに他の従者によって頭を裂かれたが、芙蓉はその恐ろしさにしばし息を止めた。

 恐ろしいと思ったのは蛇だけではない。

 紅鳶の紅玉の瞳だ。

 彼の瞳は誰かが自分の盾になってくれると信じきった瞳をしていた。


「いきなり飛び出てくるものだから目が追い付かなかったよ」


 そう言いながらさも恐ろしそうに肩をすくめる彼が芙蓉は何より恐ろしかった。

 彼の瞳は蛇の姿を捕らえながら一切揺らいでいなかった。

 やはり、彼はただの遊び人ではない。鈴扇の言葉も案外間違ってはいなかったのだ。

 それよりも今は咬まれてしまった彼の護衛の方に目を向けねばならない。

 芙蓉は痛みに膝をつく彼に駆け寄るとその、咬まれた方の腕を取った。


「失礼いたします!」


 そう吐き捨てるように言うと、芙蓉はその傷口に口を当て血を吸いだしてから、地面に吐き捨てた。

 思った通り出血を促す毒が含まれているようで、口に流れ込む血の量が多い。

 芙蓉の行動に驚いた彼はすぐに腕を引こうとするが、芙蓉はそれを許さなかった。


「何をするんだ!?お前も毒を飲むぞ!」


「この種の蛇毒は傷口から入った場合のみ毒となるんです!!口から入ってもただの体液です、お気になさらず!」


「ほっ、本当か?」


 半信半疑で言う彼に鈴扇は確信を持って言う。


「その者は國府で一番の知恵者だ。黙っていろ」


 鈴扇の言葉に落ち着いた武官の腕を再度取ると、芙蓉は彼の傷口から一通り毒を吸い出してから、近くの護衛に言う。


「その布を取ってください!」


 そうしてから腕の傷から心臓部に近い部分を布で括り、噛まれた部分を再度確認した。


「毒は吸いだしましたが安静が必要です。街の外れに少々値は張りますが良い医者がいますのですぐに連れていってあげてください」

「あっ、ああ。分かったよ」


 すっかり大人しくなった彼に数人の従者たちが肩を貸しているのを見送った芙蓉は、鈴扇が自らの口をその袖口で拭おうとしているのに気が付いて後ずさった。


「何をなさろうとしてるんです?そんな高い服汚せるわけがないでしょう」

「そんな人間を食ったような顔で歩き回られても困る。別にこんな服高くもない」

「また、そうやって!私はこの間懲りたんです、貴族の方々の金銭感覚のおかしさに!」


 慶朝から貰った庶民なら一生遊んで暮らせると言われた簪の存在が芙蓉の頭の中にはあった。

 鈴扇の服はさすがに一生とは言わないが、庶民の家族が一か月は不自由なく暮らせそうだ。

 そう言った芙蓉の唇に、ふと優しいものが触れた。


 なんだと思って顔を上げると、驚くことにそれは紅鳶の指であった。


 紅を塗り広げるようなその仕草に目を見開くと、彼は面白そうに笑った。


「良いじゃないか、血の色はこの世で一番美しい赤だ。君は目立たない顔だと思ったけど、そうしていると紅を引いた女のようだね」


 その言葉に芙蓉はすぐに口についた血を自らの袖で拭った。


「お見苦しいところをお見せいたしました。紅鳶様」


 そう言って頭を下げると、彼は二日前とは違い今度はちゃんと芙蓉の目を見ていた。


「ふーん、君が莢 芙蓉ね」

「何か私の顔についていますか?」

「ここで一番頭のいい人間を聞いたら君の名前ばかり出るから気になってたんだ。()()()()()


 そう言うとひらりと車に戻り、紅鳶は笑顔で手を振って行ってしまう。

 そのよろしく、という言葉は鈴扇への言葉と違った意味をはらんでいるようで、芙蓉は表情を翳らせる。

 いったい何を考えているのか分からない男だ。


「芙蓉」

「はい?」

「あの男には気をつけろ、何か言われたら私に相談するように」


 そう言うと鈴扇は芙蓉の口元に残った血を袖口でごしごしと何度も擦って拭い取ってしまった。

 必要以上に擦られたせいか芙蓉の唇はひりひりと痛む。

 その袖が汚れてしまったことに芙蓉は思わず小さな悲鳴を上げた。


「あっ!だから駄目だって言ったじゃないですか!」

「知ったことか」


 そう言う鈴扇の顔が横顔でも不機嫌そうに見えたのは、芙蓉が彼の表情を徐々に読めるようになってきているからかもしれない。

 二人はすっかり怯えあがってしまった官吏たちに明日からどうにかすると伝えると、嬰翔の邸宅に向けて車を走らせた。




 ※




「それで、芙蓉殿が蛇毒を口で吸い出したんですか?」

「よくそんな方法知ってたね」


 そう口々に言う嬰翔と汀眞は自宅勤務で気を抜いているのか、汀眞は肩までの髪を下ろし、嬰翔は長い髪を三つ編みにして肩に垂らしていた。

 こうやって私生活を覗き見ると分かるのが二人の趣味の良さであり、茶器一つにしても良い品を使っているのが芙蓉でも分かった。


 芙蓉は嬰翔の使用人が門に現れた時、普通の邸宅とはまるで違う様相に驚いた。

 まず、門の前に下がった呼び鈴を鳴らすという画期的な方式にも驚いたが門に入ると出迎えるのは石畳を囲む藤棚で、それを抜けた先に意匠の凝った邸宅への扉が開かれている。

 このような造りの邸宅を、芙蓉は見たことがなかった。

 邸宅内に騒がしくない程度に置かれた異国の草花の世話は嬰翔がしているらしく、芙蓉と鈴扇を出迎えたときも如雨露片手であった。

 どうやら定期的に増えているらしく、鈴扇がまた増えたのかと呆れていた。


 今も嬰翔と汀眞の後ろ側の大きな窓から月明かりが差し込んでおり、幻想的に異国の草花を照らしている。

 比べると失礼だが、鈴扇の兄である柳扇の執務室とはひどい違いだ。

 どうやったら普通に生きていてこんな美的感覚が身につくのだろうと思ったが、そういえば二人の出自も独特であることを思い出して芙蓉は彼らを真似ることを諦めた。


 芙蓉は嬰翔が入れてくれた茶を飲みながら、彼らの問いに答える。


「うちには父上の漬けた蛇酒がたくさんあったのですが、それを飲んでも特に症状は現れなかったので」

「さすがというか、芙蓉殿の知識があれば医局でも働けるでしょうに」

「医官は殆どが宦官なのでちょっと……」


 女として生きていくことを禁じられている以上、去勢されるときに女だとバレてはたまらない。

 殆ど、と言ったのは子雀を思い出したからだ。

 女装して後宮でも問診を行っているという彼は女装もさることながら度胸も凄い。慶朝がその後ろにいることもあるだろうが、並の人間にできる所業ではない。


「嬰翔様、いかがですか。お仕事の様子は」

「もう散々ですよ。おかげでもう一週間近く在宅勤務です。資料もありませんし、欲しければ小吏の誰かに頼むか夜行くしかない。気が狂いそうです」


 口では文句を言っているが仕事ができないせいで休めてはいるらしく、いつもより嬰翔の顔色は良かった。


「本当、本当」


 隣で長椅子にもたれかかって言う汀眞の手には明らかに仕事用ではない書物が手にしていた。


「あなたは暇でしょ!!というかなんで僕の家にいるんです、官吏用の寮を用意したはずですが」

「だって、翔兄様の家の方が広いんだもん。ちゃんと働いたんだからちょっとくらい休んでもいいじゃん」


 あれだけ抵抗した汀眞はもうすっかりこの生活を楽しむ気でいるらしく、その傍らには本や商品目録が置かれている。

 嬰翔はそんな彼に溜息をつきながら、芙蓉と鈴扇に訴えるように言う。


「とにかく、僕たちが行けない以上芙蓉殿と鈴扇にかかっています。どうなんです、茜家の次男坊は」

「噂通りの、いや噂以上の馬鹿息子だ」


 鈴扇の元も子もない評価に、芙蓉も間髪入れずに同意した。


「まったくその通りです」

「暑いからといって官吏たちに団扇で仰がせたり、青色が気に食わないからといって茜國の家具をどんどん運び入れている。今日は蜜をかけた氷が食べたいからと山まで雪を取りに行かせたらしい」

「おかげで今蘭國府は真っ赤です。ええもう、目がちかちかするくらいに」


 芙蓉が言うと、汀眞は肩をすくめた。


「うわっ、最悪……俺、蟄居でよかったかも」


 ただでさえそりが合わない彼らが実際に会わなかったのは不幸中の幸いかもしれないとは芙蓉も思っていたことである。


「鈴扇様からはただの馬鹿ではないと聞いていたのですが、この状態で他の生徒と同じ教室に入れるわけにもいかず、しょうがなく芳輪先生が家庭教師のようなことをしてくれていますが。寝てばかりだそうで……」

「すまない、私もここまで手が付けられないとは……」


 珍しく素直に謝る鈴扇に嬰翔はこっちもこっちで大変だと気が付いたのだろう。

 茶菓子を差し出しながら鈴扇の肩を叩いた。


「もう遊学とは名ばかりの旅行ですね」


 そうしてから芙蓉と目が合った彼は、そういえばと話題を変えた。


「芙蓉殿、慶朝様と会われたのですね」


「どうしてそれを?」


 そう言ってから汀眞の口から伝わったのだと気が付いて睨むが嬰翔は笑顔でそれを制した。


「汀眞からは何も聞いていません、あなたの口から聞けと言われましてね」


 実を言うと芙蓉も嬰翔に意見を聞きたかったので僥倖であった。

 彼に向き合うとその碧の瞳を見つめながら言う。


「陛下には単刀直入に博士になってほしいと言われました。すぐにではなく、二年間は待ってくださると」


 芙蓉が言われたのは本当にそれだけだった。

 なるほど、と短く呟くと嬰翔は真剣な顔で芙蓉を見た。


「僕の考えを述べさせていただきますね。端的に言うと僕は今の芙蓉殿に、博士になっていただきたいとは思いません。芙蓉殿は、鴻鵠(こうこく)の国という言葉を知っていますか」


「いえ、存じ上げません」


 そう言うと汀眞が、驚いた顔をしている。


「芙蓉、本当に何も聞いてないんだね」

「父上に関する話なんですか?」


 もうこの流れを何回も経験しているのでそれが父に関することだと芙蓉には嫌でも分かった。


「慶朝様は月英殿を国を導く鴻鵠だと例えたそうです。そうすればきっと後の世に、花興は鴻鵠の国として知られるだろう、と」


「鴻鵠の国……?」


 はい、と言って嬰翔は芙蓉の瞳を見つめる。


「多くの人間は、これを慶朝様の月英殿への寵愛の証だったと理解しています。

 しかし僕の思うところは違います。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それが真の鴻鵠の国です。そのために、僕は貴方に博士にはなってほしくないと思うのですよ」


「……嬰翔様」


 嬰翔は聡い。芙蓉は常々彼と話すたびに感じる。

 小さい頃から貴族として育った鈴扇や特殊な環境にいた芙蓉と違い、商人の家で育った彼は地に足のついた未来を見据えている。

 嬰翔の思う鴻鵠の国は芙蓉一人が寵愛される国家ではない。

 芙蓉のような、位や性別、家庭事情によって埋もれた人間も登用される機会を得ることができる国家なのだ。

 そして今の芙蓉にはそれを実現する力はないという評価は、悔しくもあるが芙蓉も肯定せざるを得ない。

 芙蓉の何とも言えない顔を確認して、嬰翔は微笑む。


「言い換えると二年という期間、あなたはその立場を利用することができるということです。葵家に靡けば慶朝様はあなたに格段の寵愛を下さるでしょう。あなたがそれを利用しない手はありません」


「……嬰翔様?だんだん話の雲行きが怪しくなっていませんか?」

「いや、嬰翔の言うことは正しい。お前はこの二年間で使えるものをすべて利用し、博士としてではなく一人の官吏としてのお前の価値を証明しなければならない。たとえ慶朝様であっても、私たちであっても使えるものは使うべきだ」


 嬰翔の座る席の背に手をつきながら鈴扇は彼の意見に同意する。

 芙蓉を見つめる二人はさながら一国の王と軍師のようだ。

 嬰翔は賽を振るように片手を広げて芙蓉と、それから汀眞に諭すように言う。


「芙蓉殿、そして汀眞。あなた方は珍しく貴族出身ではない官吏です。相手よりはるかに石の少ない碁を打っているようなものだと思って下さい。隙を見せればすぐにあなた方の居場所はなくなります。しかしあなた方には強い味方がいます。例え、狡賢い手だと言われようが使えたはずのものを使わずに負けるなんて間抜けです」


 芙蓉も汀眞も、嬰翔が二人の未来に誰よりも期待してくれていることを知っている。

 目を見合わせると互いに頷きあって嬰翔を見つめかえした。


「そして、後にあなた方のような人間が現れたら、次はあなた方がその味方になるのです。それが()()()の理想の国です」



 そう言って嬰翔が鈴扇の方を見ると、彼も静かに頷いた。

 彼らが芙蓉がどんな状況にあっても支えてくれようとしていることは、芙蓉にとって何より喜ばしいことであった。



 とにかく久しぶりに訪れた歓談の時間に芙蓉は時を忘れて身を委ねたのだった。

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