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鴻鵠の娘  作者: 納戸
白虹 日を貫く 【茜國編】
22/50

1.血は水よりも濃い─2

 

「すぐに其方を博士に据えるつもりはない。其方が二十になるまで待つ、それまでに良い返事を聞かせてくれ」



 二年、それは芙蓉にとって長いようで短い時間だ。

 普通の官吏の人生と比べれば、明らかに短いことは分かりきっている。



 芙蓉は王宮の中を塀に沿って、一人とぼとぼと歩いていた。

 子雀が見送りをつけてくれようとしたが、一人で歩きたくて辞退したのだ。

 慶朝は今日くらいはその格好で帰ればいいと、芙蓉を女物の服のまま帰らせたが芙蓉にはそんなことに構っていられる余裕はなかった。

 芙蓉は桜國にいる間、汀眞の計らいで薺家の別邸に宿泊させてもらっているがとても戻れるような気分にはなれない。

 今の芙蓉には蘭國以外でうまくやっていける自信がなかった。

 嬰翔も鈴扇も良い上司で、周りの人間も優秀で学ぶことが好きな人間が多い。

 しかし、官吏が皆そうではないことを芙蓉は知っている。

 芙蓉がいくら人心を解せたところで、人に寄り添えなければ意味などないのだ。

 きっと、父と同じようになってしまう。

 それがこの国にとっても良くないと言うことを芙蓉は分かっていた。

 しかも蘭國に来て、芙蓉は人の温もりに触れてしまった。十五になるまでろくに人と関わらず、山の上で仙人のように暮らしていた月英とはそういう意味でも芙蓉は違う。

 自分が孤独な席で心を失って()んでいく様を想像するだけで、怖くなった。

 本当の化け物に変わってしまうような心地さえした。

 それに耐えられない自分を弱いと感じながら、そこに平然と座る自分は恐ろしいと思った。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 極論だが、慶朝の要求は芙蓉にはそのように聞こえた。

 この恐ろしい問いに二つ返事で答えた父はやはりかなりの変わり者だったのだろう。

 父を化け物だと言う叔父のことは嫌いだったが、こんな風に悩むならいっそ化け物になってしまったほうが楽なのかもしれない。

 いくら考えても出ない答えに辟易としながら歩いていると、王宮の外れの塀付近で男性が壁に手をついているのが見えた。

 見ると官服を身に纏っていないにもかかわらず身綺麗で、その腰には素晴らしい装飾の佩玉が下がっている。

 こんなところに現れる酔っぱらいはたとえ酔っぱらいであっても品が良いのだなと素通りしそうになったところで、芙蓉はその亜麻色の髪に気が付いて思わず声を荒げた。


「鈴扇様!?」


「芙蓉か……?」


 品の良い酔っぱらい、もとい鈴扇は芙蓉を見つけると睨むように見つめる。

 酒のせいで顔色がなく、唇も紫に近い色になっているがそのせいかいつにもまして人間離れした美しさに凄味がある。

 彼の酔っ払った姿を初めて見た芙蓉は驚いて駆け寄るが手を伸ばそうとして大丈夫だと押し返された。

 どう見ても大丈夫そうではないが、周りに人影もなく彼を運んでやることはできない。

 仕方なく顔を覗き込むと、鈴扇はバツが悪そうにしている。


「どうされたんです?こんなところで」

「それはこちらの質問だと思うが、何故女物の服を着ている?」

「ああ、これは陛下に……あっ……」


 そう言われて芙蓉は自分が女物の服を着ていることを思い出して焦った。

 芙蓉は体つきも顔の造形も男らしくはない。

 普通なら女だとバレてしまっておかしくはない状況だ。

 まずい、と思ったが当の鈴扇はそんなことに気を配っていられないのか落ち着いており、深い溜息をついた。


「蔦官吏に大体の話は聞いている。それにしてもあの人はまだそんなことをして遊んでいるのか」

「遊んでいる……?」


 芙蓉は祝いの衣装だと聞いていたため、聞き捨てならなかったが鈴扇はさらにその目を据わらせて続ける。


「私も十六の時に女物の服を着せられて舞を披露させられたことがある。あのときは阿鼻叫喚の嵐でひどい有様だった。成人前の男にさせていい恰好じゃない」


 今でさえ女性も羨む美貌の鈴扇の少年時代の女装となると、どんな美少女だって逃げ出したくなるほど美しかったのだろう。

 見てみたい気もしたが、女として自信を失いそうでもあったのでやめておこうと思った。

 どうやら鈴扇は芙蓉の女装も慶朝の遊びの一種だと勘違いしてくれたようでそこは安堵した。


「それは多分黄色い悲鳴だったのだと思いますが……ところで鈴扇さまはなぜそんなに疲れてらっしゃるのですか?」


 芙蓉が問うと、鈴扇は今度こそ倒れそうな様子で塀に背を預けるとそのまま地面に座り込んでしまった。


「……兄上が、私が朝廷に帰ってきているのを見計らって見合い話を持ってきたんだ」

「断ったはずではなかったのですか?」


 その話なら以前、鈴扇は一度断ったと聞いたはずだ。


「この間、兄上に苑華殿を動かしてもらっただろう。あのツケを払えということらしい。どうやら私が朝廷に戻ることを見込んでいるらしく相手は桜國の令嬢だ。今日は彼女がどんなに素晴らしい女性か、家庭を持つことがどんなに素晴らしいかを説かれ続けて逃げてきたところだ。慶朝様に部屋でも借りようかと思って」


 昼間も思っていたが鈴扇はやはり慶朝と仲が良いらしい。彼が兄から逃げて来たのが微笑ましいと思う一方、その一筋縄では行かない兄のことを思い出していた。

 鈴扇の兄菫 柳扇(きん りゅうせん)、芙蓉も手紙でだけやりとりをしたことがある彼は優秀な國主であり(まつりごと)にも深く関わっている。

 彼には発明という変わった趣味があり、彼の発明した新しい顔料が薺玉手形に施されることになっているのだ。

 薺玉手形の偽造にいち早く気が付いた芙蓉がその横行を止めるために薺家当主である苑華に話を通してくれたのも彼であり、鈴扇も今回の見合い話に従うしかなかったのだろう。

 酒のせいもあるだろうが、その顔はかつて見たことがないほど暗かった。


「それは随分と用意周到なことで……鈴扇様!?」


 鈴扇はやはり気分が悪いのか身体を倒してしまいそうになり、芙蓉はそれを両手で支える。

 女性の芙蓉にはあまりに重たすぎるその身体に彼女もつられて倒れそうになった。


「すまない、少し酔いすぎた」

「しっかりなさってください、水を貰ってまいりますので少しお待ちを」


 そう言ってなんとか立ち上がろうとしたところ、腕を掴まれて引き寄せられた。

 そのまま芙蓉を塀に縫い付けるとその肩に頭をのせてくる。


「行かなくていいから少し肩を貸してくれ。……美しいな、お前の灰色の瞳に赤の簪は良く映える」


 鈴扇は芙蓉の顔を見ながら微笑んでいきなりそんなことを言い出すので、芙蓉は腰が砕けるかと思った。

 酒を飲んで表情筋が緩んでいるのか、そう言う鈴扇の顔は愛しいものを眺めるように甘い。


「やっぱりすごく酔ってらっしゃいますよね」


 押し返すわけにもいかず、熱くなった顔を背けながら言う。

 そうすると芙蓉が気分を害したと思ったのか鈴扇はすぐに真剣な顔に戻った。


「こういうことを言われて男が嫌なのは私が一番分かっている。すまなかった」

「……いえ、見目を褒められるというのはそれだけで嬉しいことですから」


 鈴扇には本当に他意はないのだ。

 純粋に美しいと言ってくれたのだと思うと嬉しいが、それにいちいち振り回されてしまうのだからたちが悪い。女性遍歴はないと嬰翔が言っていたが、これだけ美しいのだから勘違いさせてしまうことも多かっただろう。

 心臓を強く持たねばならないと芙蓉がはやる鼓動を抑えるように深く呼吸をしていると、鈴扇は急に低い声で聞く。


「芙蓉、慶朝様に博士になれと言われたか」


「……それも汀眞殿から聞いたのですね」


 鈴扇の問いに、急に酔いがさめたように頭が冴えてきた。


「私はお前がなりたいのなら止める気はなかったんだ。お前なら、父とは違う席に変えることができるのではないかと思った。だが、今では違う風に考えている」

「どのようにですか?」

「慶朝様は焦っているように思う。博士職は、直接王に進言できる席を意味している。これがどう言う意味か分かるか」

「王は今の政権に思うところがあるということですか。下の者の意見が王の耳に届いていないと考えていらっしゃるとか?」


 芙蓉が問うと、鈴扇は苦しそうにかぶりを振った。


「違う、()()()()()()()()()()()()


「……どういう意味ですか」


 花興の北には麓という大国があるとは言え、二国の仲は比較的安定しており戦の気配はないはずだ。

 慶朝には領土を広げ国を大きくするという野望を感じたこともない。

 軍師など歴史書で読んだことはあっても実際に職として置かれたのは百年、もしかしたらもっと前だ。


「蓬樹様を知っているか?」

「お名前だけは聞いたことがあります。銀の皇后と呼ばれるとても美しい方だと」

「先代、先々代の王も葵家の姫を妃に持っていた。慶朝様の代も実のところ皇后は蓬樹様ではなく、葵家の姫だったと言われている。葵家は輿入れ直前になってそれを取り消したと。そして蓬樹様の息子である東宮の妃候補にも葵家の姫の名は上がっていない。お前ならここまで言えばわかるだろう」


 ()()()()()()()()()()()()()()、鈴扇はそう言っているのだ。


「そんなことが……」


 六大家のうちには菫家のように権力以外の強みを持ち、既に貴族位に意味はないと考える貴族がいる一方で、蘭家のようにその家名に縋り続けている貴族もいる。

 その二つに亀裂が入り始めていると言われても不思議はなかった。

 葵家は力を持っている上に、貴族意識が強い。そんな家が旗印となって声を上げれば、それにつこうとする貴族も多数現れることは目に見えていた。


「あくまで憶測だが、この国のかたちが崩れかかっているのかもしれない」


 その言葉に芙蓉は大きな声を上げそうになるが、今更ながらに場所を思い出して口を閉じた。

 ここは王宮の外れとはいえ、誰が聞いているか分からない。


「慶朝様は私に二十になるまで待つとおっしゃいました。それまでに慎重に選ぼうと思っております」


 慎重、と一口に言っても芙蓉が考えなければならないことは山ほどあるのだ。

 葵家と敵対するならそれだけの覚悟も必要になる。


「そうか、長いようで短いな」


 その言葉に、芙蓉は急に冷静になってここで話していても埒が明かないことに気が付いた。


「もう夜も遅いです、戻りましょう。柳扇様も心配なさいますよ」


 そう諭すように言ったが、鈴扇は芙蓉の手首をつかんだまま立ち上がらせてくれなかった。

 よほど見合い話を聞かされるのが嫌なのだろう。


「……帰りたくない」

「そんな子供みたいな」

「兄上が手をこまねいて待っているのだ。今夜はここで野宿する」


 そう言いながら、鈴扇は芙蓉の肩から頭を離す気配すらない。


「私を伴ってですか?」


 冗談交じりに言うと、鈴扇は急に真面目な顔で芙蓉の顔を覗き込んだ。


「そのことなんだが芙蓉、私の恋人の役を務めてはくれないか」


「はい?」


 それはあまりにも突飛な発言で、芙蓉はしばらく固まって動けなくなってしまった。




 ※




「で、困ったから俺のとこに来たわけだ。びっくりしたよ、こんな夜更けに飛び込んでくるから駆け落ちでもしたのかと思ったよ」


 王宮を出た芙蓉は嫌がる鈴扇を連れて自らが戻るはずだった薺家の門戸を叩いていた。

 突然の鈴扇の訪問に汀眞だけではなく使用人たちも驚いたらしく、事情を説明している間使用人の女性たちが列をなして彼を見守るという事態になっていた。

 王都でも稀にみる麗人に彼女たちは浮足立っているのだ。


「ほら、散った散った!」


 どうやら汀眞は使用人と気安いらしく、彼がそう言うと口では従うものの女性たちはきゃっきゃと鈴扇に手を振ったり、流し目を送ったりしている。

 汀眞自身も薺家の庇護下にある家系ゆえ、身分に殆ど差がないこともあるだろうがその様子は芙蓉や鈴扇には新鮮だった。


「汀眞様のご友人?」

「あんな綺麗な殿方初めて見たわぁ」


 汀眞の呼びかけに、彼女らは口々に言いながら出て行く。

 その様子に芙蓉は苦笑いを浮かべるが、鈴扇は酔いも冷めたのかいつも通り無表情のまま「駆け落ちなのか」と冷やかした汀眞に言う。


「馬鹿なのか、私たちは両方男だ」

「助けてもらいたいのか、追い出されたいのかどっちなのかなこの人は!?」

「落ち着いてください汀眞殿!」


 嬰翔のいない今二人の仲を取り持つ人間は芙蓉しかいない。

 既にこめかみに青筋を浮かべている汀眞を抑えようとすると、彼は芙蓉を振り返って目を吊り上げた。


「で、芙蓉はちょっとこっち!」


 芙蓉を引っ張った汀眞は小声で彼女を叱る。


「馬鹿なの!?そんな格好したらちゃんと女の子なんだからバレるに決まってんじゃん!」


 汀眞はその鑑定眼ゆえに芙蓉が女性であることにすぐに気が付いた人間だ。

 彼女の能力の高さや生い立ちを知った今、口外するどころかこうして注意してくれるのだから彼も面倒見がいい。


「こっ、これは自発的にしたのではなくて陛下が勝手に!」


 芙蓉が抗議すると人差し指を芙蓉の顔に突き付けながら言う。


「一緒なの!なんでそんな恰好で菫國令の前に出ちゃうかなあ」

「それなら心配ありません、鈴扇様はあなたの思っている百倍は朴念仁です」


 先程も芙蓉を女だと疑う素振りすら見せなかったのだからその点は心配はない。

 女性としての自信を無くしこそすれ、都合は良かった。


「ああ、まあ……それもそうか」

「どうかしたのか」


 汀眞が納得するのと同時に不思議そうに聞く鈴扇に芙蓉は即座に答える。


「いや、何でもございません!」

「支度は蔦副官に任せて大丈夫なのか」


 鈴扇がそう言うと、汀眞は面倒くさそうな顔をするが渋々と頷いた。


「……しょうがないなぁ、芙蓉には俺も恩があるし今回だけだよ」

「すまない、感謝する」


 珍しく素直な鈴扇の言葉に居心地が悪かったのか、汀眞は顔を逸らして芙蓉の服をもう一度上から下まで舐めるように見た。


「それにしてもこの服はすごいね。下手したら国宝級なんじゃない?この簪が一番すごいかな。芙蓉、これ売ったら一生遊んで暮らせるよ」

「そんなになんですか……?」


 簪だけでも持って帰りなさいと言った慶朝の言葉を思い出して芙蓉は眩暈がしそうになった。

 いっそこの簪を質に入れてとんずらこいてしまえたら楽なのだが、と思いついて馬鹿な考えを払拭するために首を振る。

 現実逃避ばかりしていてもきりがないのだ。


「あんたたち、その格好で明日行こうとしてたわけ?葵家の姫なら良くても普通の貴族の娘ならおかしすぎる。国宝級の簪付けた娘が現れたら、菫國主もびっくりするでしょ」

「……本当に汀眞殿に頼って良かったです」


 そういった事情に芙蓉も鈴扇も全く詳しくない。

 芙蓉に至っては女性とはいえ、ほとんどの人生を男として過ごしていたため年頃の女性の髪の結い方さえ分からない。

 このまま行っていたら取って付けた恋人だと一目でバレてしまうところだった。


「とりあえず、芙蓉は明日朝一番に俺の部屋の前に集合すること」


 その言葉で、その晩はひとまずお開きになった。

 汀眞はいやいや鈴扇の部屋を用意するよう使用人に指示し、鈴扇がそれに対して「感謝する」と頭を下げるだけで使用人たちの黄色い悲鳴が上がる。

 こんなにも賑やかな邸宅に初めて入った芙蓉はその賑やかさに驚きながら、汀眞が羨ましくもあった。

 



 ※




 菫 柳扇という人間は芙蓉の目から見ても変わった男だった。


「柳扇様、鈴扇様が戻られました」


 そう言って使用人が声をかけたところで、柳扇は芙蓉と鈴扇に見向きもせずに机に向かっている。

 鈴扇とともに通された柳扇の執務室は、恐ろしいほどの紙類と書物が積み上げられ、その端にある鳥籠には彼が調教したという鳩以外にも色とりどりの鸚鵡(おうむ)が収まっていた。

 窓際には異国の植物が置かれ日に向かって方々(ほうぼう)に葉を伸ばしているがそれも手入れをしているのかいないのか、鬱蒼(うっそう)としている。

 その真ん中で筆をはしらせる彼は誰がどう見たって一國の主には見えないだろう。

 亜麻色の美しい髪と、上背のある身長の高さは鈴扇とほとんど同じだが、その年齢は前髪で半分以上隠れた顔から推察できない。

 鈴扇曰く子供はいるそうだが、若いようにも更けたようにも見える不思議な男だ。

 服も物は悪くないのだろうが簡素で目立った装飾もなくその肌を隠すように長めのものを纏っている。


「兄上、鈴扇がただいま戻りました」


 そう鈴扇が言うとやっと顔を上げるが、案の定表情は分からない。

 彼は鈴扇を認めると、すぐに駆け寄ってきて大袈裟に手を広げた。


「鈴扇!なんで昨日は帰って来なかったんだい、お兄ちゃん心配したんだよ!もう、今日は向こうのお嬢さんと顔合わせをすると言っていたじゃないか」


「すいませんでした」


 先程の様子を見てもちっとも心配していた様子はないが、鈴扇は慣れているのか抱き締めようとしてくる兄の肩を押し戻す。

 随分と似ていない兄弟だ。

 彼は鈴扇の後ろに見知らぬ芙蓉を見つけ、興味深そうに顔を近づけた。

「そちらのお嬢さんはどなたかな?」

 そう問われて芙蓉は用意していた通りの答えを口にする。


莢 槿花(きょう きんか)と申します」


 槿(むくげ)の花、芙蓉と同種の花の名は、汀眞が仮に付けた名であった。

 彼女は今日ここに、鈴扇の副官莢 芙蓉の妹、槿花として来たのだ。

 鈴扇の婚約者、莢 槿花として。

 主張は弱いが品の良い藤色の上衣に小花柄の刺繍の散りばめられた紫の帯、髪型は汀眞が凝った編み込みにしてくれたため、年頃の可愛らしい貴族の女性に見えているだろう。


「今日は彼女を紹介するために連れて参りました。私たちは、その……夫婦になる約束を交わしているんです、兄上」


 柳扇は一瞬ぽかんとして口を開けるが、鈴扇、と諭すように言う。


「お兄ちゃんにはそれくらいの嘘、すぐに分かるんだよ。嬰翔くんに頼んで恋人役の()を見つけてきてもらったのかい?」

「嬰翔は蘭國に残してきました。関係ありません」

「……そうか、嬰翔くんがいないなら君にそんな知恵も伝手もないだろうからね」


 どれだけ友達がいないんだ、と芙蓉は心の中でつっこむ。

 今回ばかりはそれが好都合でもあるのだが、それで納得されてしまう鈴扇のことを思うと可哀そうになってくる。

 話を聞く気になったのか柳扇は懐から紐を持ち出すと器用に前髪を編み込んで耳に掛けた。

 そうやって露になった柳扇の顔を見て、芙蓉は先ほどの認識を改める。


 実によく似た兄弟だ。


 終始しかめっ面をしている鈴扇と違って表情が柔らかいが、顔の造形はよく似ている。

 その濃い紫の瞳は芙蓉を厳しい瞳で見つめている。


「座りなさい」


 彼は書物をいくつか下に落とすと、現れた椅子に鈴扇と芙蓉に座るように促した。


「あっ…ありがとうございます」


 硯から落ちた墨がこびり付いているのが気になったが、それ以上綺麗な椅子もなさそうだったので諦めて座ることにした。

 鈴扇と芙蓉が座ったのを確認して、柳扇は二人を見る。


「葵國のお嬢さんとお見受けするけどどこで知り合ったんだい?」

「私の兄が鈴扇様の副官職にありまして、そのご縁で何度かお会いしたところ、鈴扇様と気が合いまして」


 芙蓉は今度も汀眞が準備した答えをつらつらと述べる。

 その馴れ初めは女っ気のない鈴扇でもおかしくはないはずだった。


「鈴扇は槿花さんのどんなところが好きなの?」

「ふ……槿花はよく気が利く娘で、私が指示を出す前に動いてくれます。報告も的確ですし、筆跡も綺麗です」


 芙蓉、と言いかけた鈴扇の沓を芙蓉は静かに踏んだ。

 彼はなんとか語り終えるが、それは芙蓉の官吏としての能力の高さを褒めていても女性への誉め言葉とはとても思えなかった。


「槿花さんは鈴扇の職場で働いているのかい?」


 案の定、不審な顔をする柳扇に芙蓉は急いで取り繕う。


「いえ、例えです!家庭に入れば妻は屋敷内の経理を担うことになるやもしれませんので鈴扇様は私のそのような才能を買ってくださっているのです!」

「ふーん。で、槿花さんは鈴扇のどんなところが好きなの?」

「鈴扇様は指示も的確ですし、私を信じて任せてくださいます。私が迷っているときは、私の進むべき道を示してくださいますし、頼りがいのある男性です」


 芙蓉も芙蓉で頼りがいのある男性という言葉で誤魔化してはいるが、ほとんどが上司に対する評価に他ならない。

 柳扇はその美しい顔を綻ばせると、ふーんと頷いた。


「そう、恋人同士だという割には距離が離れているけど、私に遠慮することはないんだよ」

「えっ……」


 そう言われて芙蓉は固まった。

 恋人同士がどのようなものか、芙蓉には見当もつかない。

 悩んだ結果、鈴扇の袖を掴んでみるがそのぎこちない様子はあまりにも不自然だ。

 おまけに鈴扇も意識したせいか、無表情のままで固まってしまっている。

 両方照れてしまった結果、初々しい恋人関係に見えなくもないかもしれないがとても結婚を誓った仲には見えない。

 それを見ていた柳扇は明らかに疑いの目で二人を見ていた。


「それで、鈴扇が槿花さんに惚れた理由は彼女の能力が高いからで、槿花さんが鈴扇に惚れた理由は鈴扇が上司として尊敬できるからかい?君たちは主従関係でも結ぶつもりなのかな」


「いえ、そういうわけでは」


 鈴扇が否定するが柳扇はなおもかぶりを振った。


「結婚っていうのはそういうのじゃないんだよ、鈴扇。二人が思いあって、今後一生添い遂げるという大事な契りを交わすことなの。ちょっと気が合うなとか、そういう直感で選んでいいものじゃないんだよ」


 直感、そう言われて芙蓉は何故か腹が立った。

 鈴扇が芙蓉を官吏として繋ぎとめてくれたことは、けして直感だけではなかった。

 芙蓉と鈴扇のことを言われているわけではないのに、思わず言葉が先走ってしまう。


「失礼ですが柳扇様、私は鈴扇様と出会えたことは直感ではなく運命だと感じております。私の狭い世界を広くしてくださったのは間違いなく鈴扇様です」

「この頭の固い弟が、君の世界を広くしたとはとても思えないな」


 柳扇は若くともさすがは國主と言ったところか、芙蓉程度では良い負かされてしまいそうになる。

 それでも良い負かされるのは嫌で、芙蓉はなおも続けた。


「鈴扇様と出会うまで、私は自分の殻に閉じこもってばかりいました。鈴扇様はそんな私を外の世界に連れ出してくださいました。このご恩は一生をもって鈴扇様に返していくつもりです」


 それは芙蓉の本心からの言葉であった。

 化け物と呼ばれた芙蓉を人間だと、父と別れてそう言ったのは鈴扇が初めてだった。

 鳳の雛、眠る龍、そう言われて遠ざけられていた芙蓉を普通の官吏として叱りながら育てようとしてくれる鈴扇に芙蓉は心から感謝していた。

 芙蓉の官吏としての一生がどれほどかは分からなくとも、その官吏人生を賭して支えたいと思った。

 芙蓉がそう言うと、鈴扇は彼の袖をぎこちなく掴んでいた彼女の手を取った。


「今の言葉は本当か?」


 相変わらずの無表情だが、喜色を湛えたその声に芙蓉は驚いて聞き返す。


「鈴扇様……?」


 鈴扇は兄が目の前にいるのを忘れているのか芙蓉の手をさらに握り締める。


「ふむ、そういうことか」


 急に近付いた二人の距離を見ながらそう言うと柳扇は眼光を和らげた。


「彼女が君を思う気持ちに嘘はないみたいだね。まあ君の結婚が一筋縄でいくとは思ってなかったからね」

「それでは」


 鈴扇が言うと柳扇はぽんと手を叩いた。


「ひとまず、ひとまずだよ。今回はお断りしておこう。こんなことを言うのは私も嫌だけど、あちらは鈴扇の容姿と家格に一番興味があるようだったしね」







 柳扇は仕事があるらしく、芙蓉と鈴扇を放りだして再び執務室に籠ってしまった。

 弟を可愛がっているのか可愛がっていないのかよく分からない兄だとは思ったが、ひとまず鈴扇の見合い話は流れたらしい。

 ほっとして腕を伸ばそうとすると、その手を未だ鈴扇が掴んでいることに気が付いた。

 芙蓉が離そうとしても、その手はなかなか離れることがない。


「どうなることかと思いましたが、うまくいきましたね。あの、鈴扇様、手を離してもらってもいいですか?もう、演技はしなくていいんですよ」


 そう言うと、鈴扇はふっと力を抜いて芙蓉の手を解放する。


「……演技か、そうだな。お前が一生私についてきてくれると言ったとき、嘘でも私は嬉しかった」


 そう言うと、鈴扇は芙蓉の方を見てゆったりと微笑んだ。

 今までに見たこともないほど優しいその顔に驚いていると、彼は次いで驚くような言葉を口にする。


「ようやく分かった。私はお前に博士になどなってほしくないんだな、芙蓉」


 その言葉に思わず、芙蓉は息を飲んだ。

 その言葉を聞いて初めて芙蓉自身が博士などではなく、一官吏として鈴扇を支えたいと思っている自分に気が付いたからだ。


 それでも、今ここで答えを出すわけにはいかなかった。

 この二年間は間違いなく芙蓉にとって駆け引きの時間になる。

 葵家と慶朝の間をうまく渡り歩いていかなければならない。

 今決断してしまうと鈴扇に縋り付いてしまいそうで、芙蓉は答えを出すことができなかった。


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