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鴻鵠の娘  作者: 納戸
白虹 日を貫く 【茜國編】
21/50

1.血は水よりも濃い─1

月英と子雀の話は外伝にあります。お暇であれば読んでみてください。

 (せん)家の髪と瞳が赤いのは人の血を浴びたからだ。


 そう言われることは紅鳶(こうえん)にとって、何よりの誇りだった。

 他國を歩けば父の、祖父の姿を人々が畏怖の目で見るのが心地よかった。

 かつて馬上で殆どの生涯を終えると言われた茜一族は騎馬(きば)騎射(きしゃ)に長けており、その名は大陸中に轟いていたという。

 茜家直系の次男である紅鳶は、まさに茜家そのものといえる少年であった。

 薊國の人間の比ではない、濃い燃えるような赤髪。

 紅玉(こうぎょく)をはめ込んだような美しい色の瞳。

 そして何より彼の馬と剣の腕は同じ年頃の少年の中で抜きんでていた。

 茜 紅鳶(せん こうえん)は次男にしてはできすぎたほど美しく誇り高い少年だった。

 彼には二つ上の兄である緋鶯(ひおう)がおり、彼は弟よりずっと気弱な少年だった。

 気弱だということはけして心が貧しいということと同義ではない。

 彼は勤勉で、武術の訓練をするよりは書物を読むのが好きな少年だった。

 そして紅鳶は虫も殺せない優しい兄が大好きだったのだ。


「僕が兄上をこの國の王様にしてあげる」


 それは、紅鳶の小さい頃の口癖だった。

 茜家は長男が当主を継ぐと決まった家ではなかったが、紅鳶は兄こそが当主に相応しいと常々思っていた。

 兄のために武術の腕を磨き、学問を学び、将来は祖父のように武官に推挙してもらって國を守りたいと夢を見た。

 そして、兄が優しい國を作る様を見てみたいと思った。

 親たちも優秀の域を出ないが、勤勉で民を思いやる心を持った緋鶯に期待していたのだ。


 一つ誤算だったのは、紅鳶が何をしても兄よりも上手だったことだ。


 九歳の時、紅鳶は初めて兄に碁で勝った。

 それを見た人の反応はそれぞれで、緋鶯を不甲斐ない長男と罵ったり、中には紅鳶を当主に推挙したりする人間も現れた。

 たかが遊びだと紅鳶は笑ったが兄の目には弟より自分が劣っていると、はっきりと諦めの色が浮かんだことに気が付いていた。

 兄弟の祖父は國主でありながら王を守る禁軍の将軍であり、茜家の中でも強くそして聡明な男であった。そして、紅鳶の顔は皮肉にも彼によく似ていたのだ。

 それだけで一部の人間が紅鳶は祖父の再来だと騒ぎ立てるには十分だった。


 だから、紅鳶は大好きな兄のために彼から一歩引いて歩くことにしたのだ。

 それ以降彼に勝負事で勝つことを一度もしなかったし、好きだった剣術や馬術も兄に足並みを揃えて目立たないように心掛けた。

 好きだった勉強も、基本的なことを除いては放り出して学ばないことにした。

 そうやって兄より劣る弟を軽やかに演じてみせた。

 兄の横に立つのは、彼が当主として立った後でも紅鳶にはけして遅くなかった。

 それだけの能力が自分にはあると知っていたから、それまでは兄の邪魔にならないように放蕩息子を演じることにしたのだ。

 賭博に興じ、女を買い、兄以外の家族とはほとんど口をききもしなかった。

 若い頃の天才は成人すればただの人になると誰もが噂したが、そんなことは紅鳶にはどうだって良かった。

 優しい兄が時折「すまないね」と暗い顔をするのが気がかりだったが、何も言わず時を待つことにした。

 それが、自分たちの幸せだと信じてやまなかった。


 手の付けられない茜家の放蕩息子の茜 紅鳶はそうやってうまくやっているはずだった。


『それは本当にお前たち兄弟にとっての幸せか』


 そう言った、大叔父の言葉を思い出して紅鳶は唇を噛んだ。

 紅鳶は大叔父を好いてはいなかったが、現在の大師職にある彼が一族中でもっとも賢い男だと知っていた。

 彼は紅鳶の能力を見抜いているのだ。

 今、兄弟の父は病に体を蝕まれその命の灯は尽きようとし、それに伴って緋鶯の当主及び國主の就任も刻々と近付いてきている。

 そして一度は消えていたはずの紅鳶を当主に推す声が高まっているのを、彼は敏感に感じ取っていた。

 だから彼らの目を逃れるために、紅鳶は一度姿を消すことにしたのだ。


「兄上、僕は旅に出る。そしてきっと、貴方を幸せにする結末を連れて茜國に帰ってくるよ」




 だから、それまでどうかそのままのあなたでいて欲しい。

 茜 紅鳶が愛した優しいままのあなたで。




 ※




 ほんの二月ぶりに訪れた金の都は、相変わらず蘭國都 青漣(せいれん)の比ではない賑わいを見せる美しい都だったが車の中からその様子を伺う芙蓉の顔は浮かない。

 いつもは好奇心のままに輝いている灰色の瞳も今は曇り空のような色をしている。

 現在、芙蓉と鈴扇は贋金鋳造と薺玉手形の偽造を暴いた功績で王に召名を受けていた。

 普通なら出世の足掛かりとなる喜ばしい出来事のはずだが、芙蓉には素直には喜べない事情があった。


『芙蓉、俺は王命であんたを迎えに来たんだよ』


 そう言った蘭國刺史副官蔦 汀眞(ちょう ていしん)の意図は芙蓉には嫌でも伝わっていた。

 王が、葵 月英の娘の登殿を望んでいる。

 自らがかつて手にした鴻鵠の娘の登殿を。

 道中、汀眞の話を聞く限りでは、彼はすぐにでも芙蓉を朝廷に戻そうとしているわけではないようだったが、不安ばかりが募った。

 芙蓉には朝廷で孤立した経験がある。絶対とは言わないまでも今朝廷に戻っても、待っているのはおそらく父の座った『博士(はくし)』の席だ。

 ただ、親鳥から餌を与えられる雛のように口を開けている人間に知識を与え続けるだけの席。芙蓉が十歳から六年にわたって葵國の政治に携ったときと同じだ。

 それを考えるだけで身震いがした。

 徐々に顔を青ざめさせる芙蓉に、同じ車に乗っていた鈴扇が声をかけた。


「芙蓉、酔ったか」

「いえ、大丈夫です。ただ少し、気分が悪くて」


 そう言って苦笑する芙蓉に向かいに座る汀眞が言う。


「芙蓉、王様はあんたを取って食おうってわけじゃない。そんなに身構えなくてもいいよ」

「汀眞殿」


 その深刻な声を汀眞は笑い飛ばした。


「芙蓉は王様を怖がりすぎ、あの人普段はただの陽気なおじさんだからね」

「陽気なおじさん……?」


 その物言いに驚いていると安心させるためか普段冗談など言わない鈴扇が「まあ」と頷いた。

「語弊はあるが私も同意する。慶朝様は強引に人事を進めるような方ではない。そのように身構える必要はないだろう。菫家の別邸まではまだ少しある、昨日も眠れていないのだろう。少しでいいから寝ろ」

 昨日は寝付けなかったようで朝食もほとんど手につけていなかった芙蓉を気遣った鈴扇はその頭を撫で、彼にしては優しい顔で諭した。


「……はい」


 見ていた汀眞は一人「うわ」という顔をするが芙蓉は頷いて素直に瞼を下ろす。

 その優しい手に従って車の壁にとんと、頭をつけると芙蓉は音もなく眠りに落ちるのを見るに、ずっと気を張り詰めていたのだ。


「警戒心強そうなのに、菫國令と翔兄様には随分と懐いてるよね。そんなにあの田舎國府がいいのかな」

「蔦副官、私は嬰翔から全てを聞いている」


 全て、それは汀眞が芙蓉を見極めるために蘭國に派遣されたこと、そしてそれは彼女が博士となり得る人材かを査定するためのものだったということだ。


「あっそ、兄様と随分仲が良いみたいで」

「お前はどうして私にそう棘のある口のきき方をするんだ。私たちは敵ではない」


 汀眞だってそんなことは分かっているが、彼が嬰翔を蘭國に連れて行ってしまったのもまた事実なのだ。

 今ではそれが嬰翔にとって良かったと分かるが、苑華の読みを彼が覆したのは腹立たしかった。彼女にだって嬰翔とともに國を治める計画があったのだ。

 ふんと、鼻を鳴らすと厳しい視線を鈴扇に浴びせる。


「菫國令、芙蓉を博士にするかしないか。それはあんたの手にかかってると俺は思ってる」


「私の手にだと?」

「芙蓉は確かに賢くて行動力もある。だけど、まだ鳳凰の雛だ」


 これ、と言って汀眞は鈴扇に一冊の帳面を渡した。

 随分と古いそれは汀眞が彼の双子の兄姉に頼んで取り寄せたものだった。


「蔦家の者で月英に会ったことがある者の手記が残ってたんだ。俺たちは傑物が現れたら記録を残しているんだ。月英への評価は、とても人間の評価とは思えなかったよ」


 汀眞たち蔦家の生業は主に鑑定業だが、その本当の存在意義は薺家の当主を見極めることだ。そのために彼らは努力を惜しまない。

 この手記も彼らが普段は絶対に見せない秘伝の書物なのだろう。


「武芸と芸術を除いてはまさに全知全能。彼に知識と知略で適う人間は花興にはいない。難点を挙げると、一見優男だが人間の善意をけして信じない。極端に人と触れ合わなかったせいか、人の神経を逆撫でしても気が付かない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と」


 蔦家の人間がそう言っているのを聞くと本当に、月英が人間離れしていたことが伺われる。

 手記にはさらに彼の生い立ちや、質疑応答の様子が細かく書かれているがそのどれを見ても彼の人間性の欠落が見え隠れしていた。

 天才だと言ってしまえば全てが許されるわけではない。それでも誰も彼を諫めなかったのだろう。

 いや、できなかったのだ。神仙のように扱われていた彼を叱る大人など朝廷にはいなかったのだ。


「芙蓉から聞いた話とは随分と違うようだが」


『生まれながらの学者気質で権力にも名誉にもまるで興味を持たない人でした。ただ、自分が大河に落とした数滴の絵の具が下流で交わるさまを静かに見ているような、そんな人だったのです』


 鈴扇たちが月英を伝説上の人間のように言うと、彼女はすぐにそれを否定した。

 蔦家の評と芙蓉の話、きっとそのどちらも間違ってはいないのだろう。


「少なくとも博士の席に座っていた月英はそういう人間だったんだよ。その席にあんたは芙蓉を座らせるのか」


 汀眞は試すような口調とは裏腹に苦しそうな顔で芙蓉を見た。

 彼の中では既にそれが間違っているという答えが出ているのだろう。



 しかしその問いに、鈴扇はすぐには答えられなかった。




 ※




 芙蓉の予想に反して慶朝との謁見はすぐに終わりを告げた。


 慶朝と芙蓉が通されたのは、皇帝の住まいである櫻心殿(おうしんでん)の前殿であった。

 皇帝が文書の検閲を行い、各尚書との謁見も行われるというこの場所は機密の漏れのないよう複数の兵士や官吏たちによって管理されている。

 そのような場所で皇帝が月英の名を出すことが出来るわけもなかった、と芙蓉は慶朝と鈴扇を見ながら自分の杞憂を恥じた。

 鈴扇と慶朝の質疑応答を聞いていると二人の関係はどうやら芙蓉が思っているよりもずっと気安いらしい。

 鈴扇はけして表情を崩さず、慶朝に跪く姿勢を崩すこともないが時折ふと慶朝の言葉の先を読んだような受け答えをする。

 例えば慶朝が薺玉手形の偽造防止について問う前に、その対策を簡潔に述べるといった具合だ。

 それに対して慶朝の顔も綻び、まるで息子を見ているような顔になる。

 こうやって見ると鈴扇の日の光を溶かしたような亜麻色の髪も、慶朝に比べると随分と薄い色に感じた。麗しい二人の姿が、まるで絵物語のようでここに宮女や女官がいれば黄色い悲鳴がやむことはなかっただろう。

 慶朝は随分と深く報告書を読み込んでいたらしく、報告は本当に形だけのものだった。

 一連の報告を手早く済ませてしまうと慶朝に褒賞を与えるという旨を告げられ、芙蓉たちは深々と叩頭する。

 そうして慶朝が「下がれ」と言えば終わるはずだったのだが、ふと彼は鈴扇の後ろにいた芙蓉に目を止めると微笑んで問うた。


「芙蓉、蘭國府での暮らしは充実しておるか」


 皇帝が、芙蓉のような二年にも満たない官吏にそのような気安い言葉をかけることは普通はない。

 鈴扇も驚いた顔をするが、彼にそれを止める権利はなかった。

 予想もしていなかった問いに俄かに周りの武官たちも驚いた顔をするが、芙蓉は恭順の姿勢をとったまま、答えるしかない。

「はい、このような機会をお与えくださった皇帝陛下に感謝いたします」

 そう短く応えると、慶朝の金色の瞳は細められ、同時に下がってよいと静かに命じる。

 その言葉に芙蓉はバレないように肩を落として、太監の案内に従って櫻心殿を後にしたのであった。




 ※




「芙蓉、刑部(けいぶ)に行ってここ数年の手形偽造罪の者と贋金鋳造罪の者の罪状を借りてこい。それと、吏部(りぶ)に行って官吏の収賄に関する罰則に関する判例を貰って来い。時間があれば御史台(ぎょしだい)に行き、蔦官吏に報告書を借りてこい」



 王との謁見が終わって、仕事が終わると思ったのはどうやら甘かったらしい。

 ここには蘭國府のものは芙蓉と鈴扇しかいない。

 したがって鈴扇の身の回りの雑事を担当するのは芙蓉の仕事であった。

 普段なら手の届くところにある資料も広い朝廷では駆けずり回らなければ手に入れることができない。

 芙蓉と鈴扇は、國府で待っている嬰翔のためにも報告書と新しい手形の製造の草案を一週間以内に完成させなければならない。

 芙蓉は両手一杯に資料やら書物を持って朝廷を彷徨っていた。

 もちろん誰も新人官吏を手伝う気はないらしく、芙蓉はその細い腕に山のように積んだ荷物のせいで細い腕を折りそうになっている。

 一息つこうと欄干に、腕を置いた時のことだった。

 均衡が崩れ、芙蓉は荷物を落としそうになってしまった。

 思わず目を瞑ると、芙蓉の身体に思っていた衝撃はなく、いつの間にかその身体は抱き留められている。


「少年、大丈夫かい?まったく君の上司は人使いが荒いな」


「……っ!?」


 芙蓉を抱き留めたのは中堅官吏に見える男性だった。金髪に金の目はここでは珍しいものではないが、長くたくわえられた髭は稀に見る立派なものだ。

 そう、()()()()()()()()()()()()()()

 芙蓉は彼に抱き留められたまま、じっとその顔を観察すると鬘の下にはるかに濃い色の金の髪を見た。


「どうしたんだ?私の顔に何かついているかな?」


 そう、悪意のない顔で問いかける彼には悪いが芙蓉は気が付いてしまったのだ。


「あの……()()。こんなところで何をなさっているのですか?」


 そう、彼は変装した桜 慶朝その人であったのだ。

 失礼にあたらないよう慎重に身を離し、なるべく小さな声で告げると慶朝は嬉しそうに微笑んだ。


「すごいな、一目で見抜いたのは汀眞と其方だけだぞ」


 慶朝はそう言いながら芙蓉の頭を撫で、懐かしそうにおくれ毛をもてあそんだ。

 彼の名から出た汀眞の名にさすがと思いながら、慶朝はいつもこのようなことをしているのかと心配にもなる。

 そんな芙蓉の心配をよそに、慶朝は髭を取ってしまってから微笑んだ。


「懐かしい手触りだ。月英に似たな、芙蓉」

「何故分かったんですか?」


 芙蓉の顔は父に似ているとはいえそこには男女の違いがある、その上芙蓉の瞳は灰色で珍しいとはいえ葵國の平民の色に近い。


「月英は余の良き臣下であり、良き友だった。その娘を見間違えるはずがなかろう」


 芙蓉を見る慶朝の瞳はどこまでも優しく、しかし芙蓉を通して違う何かを見ているようだった。

 月英だ。

 彼は芙蓉の中の月英を見つけ出して喜んでいるのだ。そう気付いてしまうと、少しだけ虚しかった。


()()()()()()()()()()


 芙蓉が進士として認められたとき、副官として認められたとき、もう二回も会っているはずなのに彼は改めてその中に月英を見つけたように微笑んでいる。

 その目の優しさに、耐えられず芙蓉は目を逸らす。


「……陛下、父上はもう」


 彼の目が懐かしさに輝くのを見て、芙蓉は思わず口にしていた。


「全て知っている。父のことが聞きたくはないか、芙蓉」


 これが本当の目的だ。

 彼が芙蓉を呼び出したのはやはり芙蓉と一対一で話すのが目的だったのだ。

 芙蓉が生まれた十七年前に、朝廷を出奔した父。

 そしてその父をたった一人の椅子に置いて寵愛した皇帝が彼なのだ。

 間違いなく彼は全てを知っている。

 もしかしたら、父が言い残して死んだ芙蓉の花のことも彼は知っているかもしれなかった。


「……はい、知りたいです」


 そう思うと、いてもたってもいられなくなり間髪入れずにそう答えていた。




 ※




 鈴扇に書庫に残って調べたいことがあると言うと、意外にも今晩は彼も用事があるらしくあっさり許してくれた。

 その顔が浮かなかったのは何故か分からなかったが、芙蓉には好都合だった。

 夜になってから、慶朝に指定された場所に歩いていくと宮女が立っており、芙蓉の灰色の瞳を見て静かに頭を下げた。


「芙蓉様ですね、お待ちしておりました」


 おそらく慶朝から珍しい瞳の少年が来るから連れてくるようにと告げられているのだろうと思ったが、芙蓉の予想は次の瞬間には大きく裏切られていた。

 彼女についていくと何故か最初に通されたのは大きな鏡のある化粧部屋であった。

 芙蓉は五人の宮女に傅かれるとあれよあれよという間に女性ものの服に手を通し、化粧を施されていた。

 纏うもの全てが芙蓉の見たこともないような刺繍の素晴らしい代物であり、動いて傷つけてしまってはと思うと身動きも取れない。

 (くしけず)る以外に手を加えたことのない黒髪もいつの間にか彼女たちによって結い上げられている。

 もちろん化粧などしたことがない芙蓉を女官たちは人形のように飾り立てると、仕上げに彼女の唇に赤い紅をさして溜息を零した。


「最初はどうなるかと思いましたが、何とかなりましたわね」

「陛下が城下で見初めた娘を男装させて待たせていると言われたときはどうしようかと思いましたが」


 つまり、慶朝は城下で見初めた少女を飾り立てて連れて来いと命じていたのだ。

 彼女らは、化粧を施した芙蓉をどこかの貴族の娘だとでも思っているようで「お美しいです」と口々に言う。

 実際女性の格好をした芙蓉はそこらの貴族の女性では適わないほど美しかった。

 芙蓉の顔立ちは見目麗しい物の多い六大家に漏れず、地味な色味のせいで分かりにくいが整っている。

 種々の化粧によって彩られた灰色の瞳は神秘的に輝き、若々しく美しい女性に変化していた。

 彼女らは明かりを持って、芙蓉を連れ出すと夜の王宮を歩いていく。

 昨日訪れた櫻心殿の後殿は皇帝の住居となっているためそこに案内されると思っていたが、着いていくと宮女が止まったのは薬の匂いのする宮の前であった。


鳳籠宮(ほうろうきゅう)にございます」

「鳳籠宮?」


 聞き覚えのない名前を聞き返すと、彼女ははいと微笑んだ。


「読んで字のごとく、鳳を籠に入れておくための宮にございます。陛下がいらっしゃるまで少々お待ちくださいましね」


 そう言って、彼女は芙蓉に明かりを渡し、去って行ってしまった。

 芙蓉が所在なく立ち尽くしているとその顔を覗き込むようにしてすぐに後ろから慶朝が現れる。


「芙蓉、待たせたな」

「陛下!」


 金の髪を流し、絢爛な装飾を外した一般的な貴族の男性に近い服装だ。

 そうしていても彼の高貴さが滲み出ているのだからすごい。

 芙蓉がすぐに礼を取ろうとすると慶朝は手でそれを制した。


「礼は良い。蓬樹(ほうじゅ)に知られたら面倒だ。入りなさい」


 蓬樹、と彼が呼ぶのは皇后の名前である。

 睦まじい彼らの仲に、今の女性姿の芙蓉が亀裂を入れてしまうのは確かに心苦しい。

 そうやって通された鳳籠宮の中は、謁見の間とはとても思えなかった。

 棚の中には多くの薬が並び、床にも茶葉や乾燥させた果物の皮の壺などどう見ても医術関連のものばかりが並んでいる。

 机の上に置きっぱなしになっている書物も、どうやら医術に関する記述がされているようだった。


「ここは鳳籠宮、余が月英のために作った宮だ」

「父上のために?」


 嬰翔や鈴扇からも聞いていたが、本当に父の待遇は格別だったのだろう。

 三層にはなっているだろうこの宮は見た目には地味だが機能的でまさに父のために作られたような建物だった。


「月英が実験や観察に使う部屋が欲しいというので与えたら、どうやら王は鳳を捕まえる籠を作ったらしいと噂されたのが癪に障ったので、逆にそのまま名前を付けてしまったのだ。現在は医局の一部として使われている」


 どおりでこれだけの医学書と薬がそろっているわけだと芙蓉は納得した。

 王宮内の医局といえば国内でも屈指の医師が集っていることだろう。

 芙蓉はあたりを見回していると、ふと窓際の机に埃をかぶった硯が置かれているのを見た。

 吸い寄せられるように目がいったのは、その硯に芙蓉と月英の花紋である午時葵(ごじあおい)の花が彫られていたからだ。


「そこは月英が使ったままにしている」


 芙蓉が駆け寄ってそこに置かれた帳面を開くと、そこには見慣れた父の文字が並んでいた。

 間違いなく父はここで暮らしていたのだ。


「父上の筆跡にございます…!」


 そう、芙蓉が瞳を輝かせると慶朝は眩しそうにしてその頭を撫でた。


「本当に其方は月英に似ているな、女装した月英を見ているようだ」


 それは褒めているのかどうか分からないが、芙蓉はそういえばと自らの格好の意味を慶朝に尋ねることにした。


「あの、陛下。この格好はどういう……」


 そう言うと、慶朝はああ、と何でもないことのように言った。


「其方、笄冠の儀を行っていないだろう。余からの祝いだ。遠慮せず受け取るがいい」


 笄冠、女性なら家長から簪を、男性なら冠を拝することで成人を迎えたことを祝う儀式のことである。女性なら十五、男性なら十八で受ける倣いなので実は芙蓉は成人しているのだが、その儀式も贈り物をもらうだけで済ませていたのだ。

 仕上げだと言って彼は懐から赤い簪を取り出すと、芙蓉の結い上げられた髪に刺した。

 それはまさしく笄冠の儀式をかたどったものであった。

「こっ、こんな高価なものを頂くわけにはいきません!」

 ぎょっとして芙蓉が言うと、慶朝は微笑んで諭すように言う。

「そなたの灰色の瞳に合わせて余が選んだものだ。今更返されたところで困るのは余だ。せめて簪だけでも持ち帰れ」

 しかし、と芙蓉が言葉を続けようとすると衣擦れの音がして女性の声が響いた。


「そのご衣裳は庶民なら一生遊んで暮らせるくらいのお金がかかっているのです。無下にはなさらないでください」


 驚いて振り返ると建物の奥から現れたのは婀娜(あだ)っぽい美女だ。

 妓女たちとは違い襟の詰まった服を着ているせいで下品には見えないが薄い唇にはさした濃い口紅も、右目の下の泣き黒子も彼女の内側からにじみ出る色気を助長している。

 いったい誰なのだろうと芙蓉が慶朝を見ると、彼は来たのかといって女性の横に並び立った。

 慶朝の横に立っても見栄えがするのは彼女の背が女性にしては高いせいだろう。


子雀(しじゃく)、楽にしろ。芙蓉に其方を紹介する」

「陛下、この姿の時は雀藍(じゃくらん)とお呼びくださいと何度も申し上げたはずですが」

「芙蓉が戸惑うだろう、今は其方の事情を知っている人間しかいない。無理をしなくていい」


 慶朝がそう言うと、彼女は急に肩の力を抜いた。


「慶朝様、そう言うのは先に言ってくれないと」


 急に変わった声色と口調に驚いていると彼女は芙蓉の近くによってその頬を持ち上げた。


「この子が月英先生の娘か。ああ、やっぱり似てるな。初めて会った頃の先生にそっくりじゃねえか」


「先生?」


 月英を先生と呼ぶのは彼が算術や読み書きを教えていた村の子供たちだけのはずだ。

 その呼び方に不思議そうにしていると、彼女は芙蓉の瞳や口内をまるで医者がするように見始めた。


「子雀は月英の一番弟子だった()だ、今は余の侍医として仕えてくれている。ここの今の主は子雀なのだ」

「男!?」

「あはは、騙された?」


 目の前にいる美女はどこからどう見ても女だ。

 確かに背は高く、口調は粗野だがとても男には見えない。

 芙蓉から手を離してにこりと微笑む彼女、いや彼はそう言われれば男の体の線を隠すためか柔らかい衣装を身に纏っているような気がした。

 それにしても恐ろしい変装術だ。


「宦官になれと言ったのに嫌だと言うから女の格好をしている。今度、汀眞にも見せてみよう、どういう反応をするか気になる」

「やめとけ、薺家には手の内を明かしすぎない方が良い。あいつらすぐつけこんでくるからな」


 後宮に入れるかどうかの基準はただ一つ、男の機能を持っているかどうかだ。

 そして皇帝と皇后が暮らす内朝の医官は当然全てが宦官である。

 去勢を行っていない宦官がいると言う話を聞いたことはあったが、女装した医官など聞いたことがない。

 どうやら女の時は雀藍と名乗っているらしかった。


「父はどのような少年時代を過ごしていたのですか」


 芙蓉が好奇心のままに尋ねると、子雀は懐かしそうに芙蓉を見た。

 その瞳は慶朝とは違い、芙蓉自身を見ているようで少し安堵する。


「あの人に、子供とか大人とかそんな区切りはなかったな。生まれてから死ぬまで、きっと葵 月英その人以外であり得なかったんだろうと思う」


 死ぬまで、その言葉を聞いて芙蓉は思わず彼の瞳をじっと見つめた。


「父のこと、ご存じなのですか?」


 そう言うと、子雀も慶朝も悔しそうに顔を歪めた。


「……ああ、知ってる。あの一族は本当に馬鹿しかいない。俺と慶朝様は月英先生の必ず戻ってくるという言葉を信じて待っていたんだ。でも芙蓉の活躍を聞いて、自分たちがどれだけ愚かだったのか思い知ったよ。葵家が自分たちを脅かす天才の存在を放っておくわけがなかった」

「父上は、ここに必ず戻ってくると……!?」


 やはり、父はあそこで死ぬべき人間ではなかったのだ。

 芙蓉が瞠目して子雀を見返すと、彼は失言したと思ったのか焦ったように言う。


「お前が賢く育ったことを責めているわけじゃない、よくここまで来てくれた。俺も慶朝様もずっと待っていたんだ」


 彼らが待っていたのは芙蓉ではない、月英なのだ。

 そう思うと芙蓉の顔はどんどん暗くなった。

 それを察したのか、慶朝は静かに言う。


「芙蓉、此度のこと鈴扇だけではなく汀眞からも報告を受けている。其方のおかげで、助かった。薺玉手形についても関所を見直す良いきっかけとなった。其方は月英同様に聡明な娘なのだということを余に示してくれたのだ」


 子雀はその言葉に同意するように何度も頷く。


「実を言うと金貨を合金にせよと言い出したのは月英なのだ。其方は父の張った罠に嵌った獲物をしっかりと捕らえてくれた。これは其方が父の教えをしっかりと覚えていたという確かな証拠だ」

「父上が?」

「昔贋金が横行したことがあってな、その時は粗悪品ばかりで見抜くのも簡単だったのだが、月英が手を打っておくに越したことはないと。硬貨によって合金の種類と割合を変え、詳しい鋳造法は朝廷で管理すべきだと言うのでそれに従った」

「二年前に新しく銅貨が作られましたが、あれも父の提案なのですか?」


 芙蓉が去年、蘭國で起こった脱税騒ぎの際に見つけたのは二年前に発行された新しい銅貨であった。

 今回芙蓉が贋金だと気が付いたのは金の含有量の違いによってだったが、父の知識が生きているうちに事件が解決できたのは僥倖だったに違いない。


「ああ、何年かに一度合金の割合を変えれば贋金を作るのは難しいだろう。金貨は来年には新しい絵柄を採用する予定だったから、月英の知識が生きていてよかったな」

「本当にその通りでございます」


 合金の割合が変わったあとだったら、芙蓉は汀眞に協力を仰ぐこともできていなかっただろう。


「お前がいてくれて本当に良かったんだよ、芙蓉」

「子雀様……」


 本当ならお前のせいで月英が死んだのだと芙蓉を責めてもいいはずの彼らは芙蓉を優しく諭す。

 その優しさが芙蓉にはかえって辛かった。


「月英はな、まったく官吏に向いていなかった。月英の官位は博士、というまあ余が思い付きで作った職だ。余の相談役としてな」


 そう言ってから慶朝は芙蓉の目を見つめた。


「芙蓉、()()()()()()()()()()()。其方ら以外を余の相談役につけるつもりはない」


 芙蓉はその揺らぐことのない金色の瞳に息を飲んだ。

 その言葉は想像できたもののはずなのに、いざ目の前にするとその威圧感にすぐに声が出ない。

 今の芙蓉では、月英と同じ轍を踏むこととなるのはおそらく確実だ。

 しかし、王は芙蓉に月英になることを望んでいるのだ。

 芙蓉が父と同じように、知識を与えるだけの親鳥となることこそ彼らの望むところなのだ。


「有り難いお話ですが私には」


 芙蓉がやっとの思いで言おうとすると慶朝は畳みかけるように言う。


「其方の自由に期限があることを余は知っている。余なら其方を解き放つことができる。博士の官位を二士に上げることも可能だ」


 慶朝は暗に芙蓉に新しい姓を与えることができると言っていた。

 そうやって解き放った鳳をもう一度、籠に戻すつもりなのかと芙蓉は思っていても口にはできない。

 彼の手の中の籠はおそらく葵家の地下牢よりもずっと広いのだろう。

 一生出られないことと引き換えに。

 それでもその言葉は芙蓉に考えるだけの余地を与えた。

 このままあの狭い地下牢に戻るのを待つか、広い籠に入ることで身を守るか。

 すぐに決めることはできずに芙蓉が考えあぐねていると慶朝は微笑んで言う。





「すぐに其方を博士に据えるつもりはない。其方が二十になるまで待つ、それまでに良い返事を聞かせてくれ」








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