5.風雲 急を告げる
国随一の商業都市である朱嘉は薺家本家と薊家本家の屋敷をその内部にもつ薊國の國都である。
そこでは昼も夜も関係なく各国、各國の商人たちが出入りして商談を行い、取引をする。
豪華絢爛な王都金陵の賑わいも朱嘉には適わないと商人たちは言うのが頷ける活気だ。
唯一異国と通じているという特質故、この地では何度も国同士の密約や取引が行われてきたのだ。
そして今もその一角で、ある重要な商談が行われているところであった。
「だからね、こんな風にして紙を傾けると違う紋様が浮かび上がるんだよ。これを用いたら公的文書でもなんでも、偽造ができなくなるんじゃないかと思って」
商館の一室、一人の青年が商人に向かって自らの発明を売り込んでいるようであった。
その手元にある紙は、青年が言うように角度によって絵柄を変えている。
亜麻色の髪色を見るに菫國の人間だがその年齢を前髪で半分以上隠れた顔から推察するのは難しい。
服も物は悪くないのだろうが簡素で目立った装飾もなくその肌を隠すように長めのものを纏っているため、彼の身分を身なりから推測するのは同じく難しかった。
珍しい技術に商人は自らも手に取ってその紙を日にかざしたり、翳らしたりして見定めるが特に仕掛けがあるようでもなかった。
「これは素晴らしい技術ですね!……それで、こちらの技術を我が薺商連に売っていただけるということで宜しいのでしょうか」
「うん、もちろん。そのために公務から逃げ……ごほん。公務を終わらせてきたんだからね」
一瞬聞こえた不穏な言葉を、彼は咳払いで誤魔化して口角を上げた。
そうしてから彼はただし、と付け加える。
「君たち、これを今度は王様に売るつもりだろう。その分も私たちの取り分に上乗せしてくれないとだめだよ」
商人は言葉に詰まるが、前髪から一瞬覗いた濃い紫の輝きにすぐに手を擦って笑顔で答えた。
「さすがですな、良く見据えていらっしゃる。ではご当主様にも近日中にお話を通すということで……ん?なんだ……?」
商人がそう言ったところで部屋に一つだけある窓がガタガタと音を立てて揺れ始めた。
明らかに異様なその音に、商人は話を中断して立ち上がる。
「しょっ、少々お待ちくださいませ」
そう言って立ち上がった商人は窓を見て絶句した。
窓の外には十羽近くの鳩が、その嘴で早く開けろと言わんばかりに窓の端を叩いている。
「うわっ!なんだこれは!!…えっ!?」
その異常な様子に商人が腰を抜かして驚いていると、その横を何でもないことのように青年が通り抜けていった。
危ないですよと商人が言うのが聞こえないのか青年はそのまま、窓の閂を外して鳩を招き入れる。
ばさり。
鳩は興奮気味に羽ばたいて部屋に入ってくると、主人を見つけたように次々と青年の肩や頭に飛び乗った。
彼らの翼によって巻き起こった風で彼の髪も巻き上がり、まるで鳩の巣のようになっている。
「ははは、私のところに戻ってきちゃったか」
動じない青年を商人が呆れたように見ていると、青年の側用人たちが血相を変えてなだれ込んできた。
「柳扇様!」
柳扇、そう呼ばれた青年の肩や頭に鳩が群がるように止まっているのを見て彼らは慌てて駆け寄る。彼らは急いで鳩を回収すると籠に戻し、次いで青年の肩や頭の羽を掃うとその身なりを五人がかりで整えていった。
それに慣れたようにじっと身を動かさない青年が高位の貴族であることは間違いなかった。
「柳扇様、お怪我はありませんか」
「うん、まったく。いつまで経っても皆過保護で困るよ」
その言葉に一同が安心して肩を落とす。
彼らは毎日のようにこの風変わりな主人に振り回されているのだ。
その主人であり菫國國主である彼の名を、菫 柳扇という。
鈴扇の兄でもある彼は発明好きの変人として貴族間では疎まれ、そして何故か民衆には愛される変わり種の國主である。
菫家が文通に利用するこの鳩の躾も、彼が考案し実用したものの一つであった。
「申し訳ありません。躾けてはいるのですがやはり柳扇様のことが気に入っているようでして」
使用人の一人が深く頭を下げると、柳扇はゆっくりと首を振る。
「良いんだよ、私が最初は躾けたんだからしょうがないだろう」
彼は籠の入り口に手を伸ばすと、鳩の足に添えられた文を取り上げる。
文を読むために重たい前髪を上げた青年の瞳は鈴扇同様、深い紫色をしていた。
容姿に頓着はないようだが、鈴扇同様髪を上げたその顔は端正だ。
弟のような煌びやかな雰囲気はないが、どこか浮世離れした雰囲気を纏った麗人である。
彼は文をじっくり読み込むと嬉しそうに頷いて、近くで様子を伺う側用人たちに回し読むよう指示する。
「うんうん、鈴扇がこんな時に私を頼ってくれるなんて嬉しいなあ。見てみなさい、ほら急を要するから助けてほしいと書いてある」
側用人達はそれを各々確認するが、柳扇に助けて欲しいなどとはどこにも書いていない。
いつも通り簡素な鈴扇からの指示だけが書いてある。
「……ええと、柳扇様にではなく薊國にいる菫家の者であればいいと書いてあるんですが。本気で行かれるおつもりで?」
側用人の中でも最も柳扇に仕えて長い者が聞くと、主人は未だに腰を抜かしている商人の手を取って起こしている最中であった。
「あっ……菫様、お手を煩わせてしまって申し訳ありません……!」
「いえ、こちらこそ。突然の客人ですまなかったね」
話を聞こうともしていない主人に、彼は肩をすくめてもう一度主人の名を呼ぶ。
「柳扇様!」
なんだい、と彼はうるさいとでも言いたそうな顔で彼らを見る。
「苑華とは仲が良いんだ。今の商談も苑華に通してもらうものだし、丁度よかった。君、私をこのまま薺家に案内してもらってもいいかい?」
柳扇の言葉に、商人は急いで返事をする。
「はっ、はい。確か今日お帰りになられたと聞いておりますので、菫様の願い出でしたらすぐにでも話を通せるかと」
それを聞いて満足そうに早速と館を出ようとする主人を側用人たちは彼を通すまいと手を広げた。
お待ちください、と皆が口を揃えるのに柳扇は仕方なく立ち止まる。
「奥方様がお待ちです。國主のお仕事を放り出してこんなところに来ているのですからそろそろ怒られますよ」
「大丈夫だよ、ちゃんとお金を稼ぎに来てるんだから。彼女も文句は言わないだろう」
「あなたみたいな大貴族が何をまた稼ごうっていうんです」
菫家は官吏を代々輩出している聡明な一族だ。
当然皇帝からの信頼も厚く、それに比例するようにその國都である紫毘も栄えるばかりである。
柳扇は乾いた笑い声をあげると、側用人たちの手をゆっくりと払い歩き出す。
「もう貴族の時代じゃないよ、鈴扇を見てみなさい。あの子は直にこの国を変えるだろう。それまでに私たちみたいに官位のないものはちゃんとお金を貯めこんでおかないと。……君、鈴扇に文を出しておいてくれ。お兄ちゃんが全部良いようにしてあげるから、心配ないと」
そう言って機嫌よく笑う彼に側用人たちはそろって溜息をついた。
もう何年もこの兄弟によって彼らは振り回されているのだ。
今更どうこうできるはずもないと、観念して主人が散らかした部屋を片付け始めた。
彼がこの時鈴扇の文にたまたま居合わせたことで、鈴扇が面倒な目に遭うのはまた別の話である。
※
「芙蓉、本当に今日で良いんだろうね」
汀眞はそう何度も彼女に確認した。
芙蓉は今日、汀眞とその上官である斎刺史に収賄及び贋金鋳造の疑いがある晋官吏の家を改めるように言ったのだ。
監察官が直接官吏の邸宅に赴くなど、よっぽどの証拠を見つけない限り難しい。
下手を打つと汀眞の減俸および異動に繋がってしまうため、できるだけ使いたくはない手だった。
それでも彼女は一向に意思を曲げず、
「ええ、今日で間違いありません」
とその瞳を細める。
この表情の彼女を汀眞は半月ほどで何度か見た。
贋金の証拠を見つけたとき、賊から逃げる算段を思いついたとき、そして今である。
間違いない、勝算があるときの表情であった。
「これで何の手掛かりも出てこなかったら俺は減俸の上に配置換えかもしれないんだけど?」
そう言っても芙蓉は手元の書簡に目を戻して、汀眞にも目もくれない。
「良かったじゃないですか、薊國に帰れるかもしれませんよ」
「……それはちょっといいかもしれない」
「よくありません、早く朝廷に帰らないと姉上に怒られますよ。汀眞」
ほだされそうになる汀眞の横に新しい書簡を置きながら、嬰翔が注意する。
どうやらその書簡も芙蓉のものらしく、目まぐるしい速さで目を通しては反対の山に積んでいく。
「そうだった!……にしても芙蓉の言葉はなんか予言めいてるっていうか見えない力に動かされてるっていうか」
「何が予言だ、お前の頭が足りないだけだろう」
副官の執務室に入ってきた鈴扇が汀眞にすげなく言うと、即座に睨み返す。
「……俺やっぱり早くこの職場出ていきたいんだけど?」
「忍耐力のない奴だな、そんな志ではどこに行っても大成しないだろう」
芙蓉と汀眞の関係は良い意味でも好敵手のような気の置けない同年の官吏におさまっていたが、この二人の言い争いに関してはもう嬰翔も無視している。
相手にしていても無意味に時間が過ぎるのみだと彼も分かっているのだ。
嬰翔は未だ睨み合う二人を置いて芙蓉に問いかける。
「芙蓉殿、僕も少し不安です。最短経路でこちらに証拠が向かっているとはいえこんなに早く汀眞を向かわせるのは危険ではないのですか」
「大丈夫だ」
そう言ったのは意外にも芙蓉ではなく鈴扇だった。
「兄上が便宜を図らってくれたからすぐに動いているはずだ。あの人は変人だが優秀だ。二週間もあれば証拠を揃え終えることができるだろう」
「柳扇様が……!?」
菫 柳扇、嬰翔も顔見知りである鈴扇の兄はしょっちゅう國主職を放り出して逃げ回っており、薊國に滞在していたのは奇跡だった。
苑華と歳も近い彼は、彼女の良き理解者であり友である。
そんな彼が苑華に話をすぐに通してくれた上に、証拠集めの指示まで手伝ってくれたらしいと鈴扇の元に戻ってきた鳩の足元に括りつけられていた。
「信じていいんだね?」
汀眞も鈴扇のことが気に食わないが、信用していないわけではない。
ましてや、彼らの鳳は今すぐに行って構わないとその灰の瞳を瞬かせている。
「もちろん」
芙蓉がそう言う限り、汀眞が足踏みをしている場合などではないのだろう。
もう一度芙蓉の顔を見て頷くと、汀眞は踏ん切りをつけたのか踵を返し執務室を後にした。
※
そうして現在、汀眞と斎官吏は晋官吏の邸宅の監査を行っていた。
「それで、斎刺史、蔦刺史副官。何か変わったものはありましたかね?」
扇で口元を隠してそう言う晋官吏の目は二人を嘲るように笑っていた。
何もない、と思わず口に出しそうになって汀眞は飲み込む。
嫌な予感はしていたが、本当に驚くほど何もない。
軍部の兵士を何人か借りて捜索に当たったが、驚くほど何も出てこないのだ。
汀眞と斎官吏はお互いに顔を合わせて溜息をつくばかりだ。
芙蓉には彼らの油断を誘うように言われていたが、汀眞の目で見ても彼は嘘をついているのに一向に証拠は出てこないという徹底ぶりだった。
「いえ、逆に怪しいほどきれいなお屋敷ですなぁ。ねえ、蔦官吏」
「はい……調度品も素晴らしい物ばかりで」
「蔦家の方にそう言っていただけるとは恐悦至極にございます」
このままでは単なるお宅訪問で終わってしまう。
芙蓉が彼らの跡を追うと言ってから、既に四刻近くが経過していた。
これ以上探しては相手の不信感を煽り、さらに守りを固くしてしまう。
「さてどう詫びていただきましょうか。だいたい賊の言葉を信用なさるなど長吏の方々も落ちたものです」
そう言われて、汀眞が深く頭を下げようとしたところだった。
「では、賊以外の言葉であれば信じてくれるのだろうかな」
凛とした声が突如として部屋に響き渡った。
扉を見ると、嬰翔が恭しく女性の手を取って招き入れているところであった。
「翔兄様……?……っ!?」
次いで嬰翔とともに現れた赤毛の女性に、汀眞は目を丸くした。
確かに薺家に助けを求めたが、彼女が出てくるとは思っていなかったのだ。
「ちょうど、帰っていたところだったようで力をお借りしました」
そう面白がるように言う嬰翔に晋は不躾な視線を向ける。
「な、何者だ!?人の家に勝手に入るなど無礼千万だぞ!」
「ほう、商人で私の顔を知らないものがいたとは驚きだ。私の絵姿でも描かせて商連の全支部に飾らせでもするか」
「駄目ですよ、あなたに見られていると思ったら皆委縮してしまいます」
「経費の無駄使いはしてはならないといつも私たちに言っているのはあなたですよ」
まるで一人の人間が喋っているように、嬰翔に変わり彼女の隣に立った二人の男女はそう忠告した。
その軽口のような口調からして彼らの主従関係は固いのであろう。
どうやら男女の双子であるらしい彼らは、女性が右耳に、男性が左耳に紅玉の耳飾りをしていた。どちらも立ち居振る舞いのしやすい簡素だが品の良い揃いの服を着ていた。
二人の全てを見通すような瞳は汀眞によく似ている。
「寧姉様、寛兄様……!」
その言葉に女性の方が汀眞を見て、馬鹿にするように笑った。
「いつまでそこで膝をついてるつもりなの、愚弟?」
それは良く知る姉の声であった。
「自己紹介がまだだったな、私の名は薺 苑華。薺家当主である」
長く会っていなかったが、汀眞がその顔を見間違えるはずもない。
頬までの短い癖毛の赤髪、芯の強そうな朱色の瞳、そして凛とした声。
苑華は昔会った彼女とちっとも変わらないままでその場に立っていた。
その隣に立つ女性は汀眞の姉殊寧であり、その隣の男性は兄の汀寛である。
二人は汀眞の八つ年上の双子の兄妹であり、現在はその目を買われ苑華に最も近い場所で仕える蔦家の鑑定士たちであった。
「せっ、薺家の当主だと!?馬鹿な、何故そんな人間がここにいるんだ!?……あっ、いえ。申し訳ありません。とっ、とんだご無礼を……!」
思ってもみなかった人間の登場に彼は確認することもせずに苑華に首を垂れた。
薺玉手形などなくても、彼女の威厳がその家格を証明しているようなものだった。
「殊寧、汀寛。証拠をここに」
彼女がそう言うと、二人は袋の中にしまっていたらしい手形をいっせいに彼の目の前に落とした。
からからと落ちた手形には一つ一つに薺の花が彫られている。
それを見た晋は顔を青ざめて膝をついた。
それは良くできた薺玉手形の偽物だった。
「ここにいる蔦家の人間は、お前も知っての通り国随一の鑑定士たちだ。私はここにいる蘭國令から伝令を貰い、彼らを薊國関所に配置させていただいた。するとどうだろう、贋の薺玉手形を持った商人が通過したというので問いただすとお前の名前を吐いた」
これがからくりの種だった。
『早すぎるんです。この短時間で薊國に金を全て運び込むのは薺玉手形か桜玉手形がない限りは無理なんです』
そう、一番に気が付いた芙蓉はやはり勘が良いと汀眞は感心する。
通常商人が薊國に入るためには二週間は関所で止められる。特に、人の出入りが多い薊國ではその荷物を改めるためにその倍以上の時間がかかることもある。賊が言った通りの日取りで薊國に入るにはあまりに日が早すぎたのだ。
薊國に早く入るための手段は二つ、薺家だけが特権として持つ薺玉手形を見せるか、王が特別に下賜した桜玉手形を見せるかだが、後者は持てる者が少ないため考え難い。
それに比べて薺玉手形はその確認も形骸化しており、すんなり通れたのだろう。
芙蓉は薺家に依頼して、偽物の薺玉手形を見つけ出させたのだ。
「私の部下はすごく優秀でね。最近関所を通ったという薺商連名義の者たちのうち、うちに所属しているはずのない者を洗い出し、私の前に突き出してくれた。そして全員がお前の名を口にしてくれた」
「そっ、そんな。どうしてこんなことのために薺家が動いたんだ……!?」
その言葉に苑華の口角がピクリと上がった。
「……こんなことだと?」
そう言って彼女はその扇を晋の鼻先に突き付ける。
その瞳は怒りに燃えているようであった。
「薺の花は、たとえ我らが野の花のように貪欲な商人だと嘲られても王より賜りし我らの誇りだ!それを、こんな小細工をしなければ贋金も見抜けない者が踏みにじったことがどれだけの不敬か、貴様に分かるか!今後我らの目の光るところで商売ができると思うな!」
その剣幕に晋官吏はすっかり怯えて腰を抜かしてしまった。
短い余生を獄中で過ごす彼には関係のない話かもしれないが、この国で商売をする上で薺家の目の届かない場所などないに等しい。
たとえ万が一彼が牢から出ようと、薺家は許しはしないという脅しであった。
「観念したほうがよろしいですよ、晋官吏」
苑華の独擅場が終わったことを察したのかその後ろから姿を現した鈴扇と芙蓉に、晋は恨むような目を向ける。
「莢副官……!?やはりあなたが仕組んだことなのですか!?」
「仕組んだとは人聞きが悪い。贋金だけでは薺家を動かすのは難しかったんですよ。あなたが薺玉手形の偽造に手を出してくれたおかげで私も彼らの協力を得ることができました。感謝いたします」
芙蓉に完膚なきまでに叩きのめされて生気を失ったようになっている晋を鈴扇は目線だけで捕らえるように告げる。
「もういいだろう。彼を國府に捕らえ、聴取を行ったのち刑部に引き渡す。それで良いでしょうか、当主殿」
「二度とこの男の顔を私の前に見せないと約束しろ」
苑華の未だ治まらない怒りをはらんだ瞳に気圧されながら鈴扇は頷く。
「……分かりました。連れていけ」
晋が連れていかれるのを見守ったあと、苑華は芙蓉に向き直り拱手して頭を下げた。
「此度のこと、我々の落ち度を見抜いて下さり感謝する。あなたがいなければ、どれほど事態は大きくなっていただろうか」
その最上位ともとれる礼に芙蓉は驚いた。
明らかに悪いのはこちらであるのにこうして力まで貸してくれた苑華に頭を下げてもらう義理があるはずもなかった。
急いで芙蓉も首を垂れると謝罪の言葉を述べた。
「いえ、謝罪しなければならないのはこちらでございます。私たちの管理が行き届いていないばかりに贋金鋳造どころか薺玉手形の偽造まで……こちらの不手際お詫び申し上げます」
「それが我々にとっては悪いことばかりではないのだよ、芙蓉殿」
芙蓉の言葉に、先ほどまでの剣幕はどこに行ったのか上機嫌にそう言った。
「えっ?」
「これで我々は薊國令に恩が売れる。我々が生き残っていくための大きな交渉材料となるんだ。殊寧、例の品をここに」
「はい、苑華様」
そう言って殊寧が取り出したのは一枚の絵柄の入った紙であった。
不思議なことに、その上の顔料は宝石でも散りばめたようにきらきらと輝いている。
「これは、特殊な加工がされた紙ですか?」
「鈴扇殿、柳扇殿はお前と違ってなかなか見どころがある。丁度、私が帰ったのは彼にこれを見せてもらうためでね」
失礼な物言いにほんの少し眉を顰めながら鈴扇が問う。
「……兄上はまた何か発明されたんですか?」
「これを見てみろ」
苑華が紙を傾けると日の光の反射によって紙の上の絵柄が変わった。
ほう、と一同それを見て感心したように声を上げる。
まるで奇術のようにその姿を変えた紙片に皆が釘付けになっていた。
「特殊な顔料を使っていて、光の反射によって浮き出る文字が変わるんだ。まだ実用には至っていないが、来月には慶朝様にも見せるつもりだ。私はこれを新たな薺玉手形に施そうと思っている」
苑華は微笑んでそう告げた。
彼女は薊國の関所の怠慢を逆手にとって、新たな商売を思いついたのだ。
なんとも賢く、そして合理的な彼女の職業婦人としての顔であった。
「一度転んでもただでは起き上がらないのが我らだ。そのきっかけを作ってくれたのは、芙蓉殿あなただ。そのことに深く感謝する」
そう言われた芙蓉は少し置いて、いえと言葉を返した。
「それでも今回は私たちの負けです。確かに私たちはこれだけの収賄を暴くことができました。しかし同時に、これほどの細工を施せる職人を失ったのです。この國の産業が発展していないばかりに、こんなことに手を染めさせてしまった」
かつて芙蓉はこの國の商業が発展しない理由の一つは、職人への興味の薄さだと嬰翔に説いたことがある。
今回の一件できっと贋金や偽の薺玉手形の製造に携わった職人は死罪となる。
彼らを失うことがどれほどこの國にとっての損失か、芙蓉には手に取るように分かった。
そんな芙蓉の瞳を、鈴扇は隣で溜息をついて見守る。
「お前今、どうすれば職人が一月暮らしていけるか頭の中で算盤を弾いていたのだろう」
「……良くお分かりで」
「一人で抱え込むのはやめろ。私はそんなに頼りないように見えるか。お前がそう言いだすのかと思って、この國に商業特区の誘致を考えているところだ。よく考えてみれば、薊國に近いという立地を有効利用しないという手はないだろう」
その言葉に、芙蓉は驚いて鈴扇を見た。
そのように民を慮った政策を打ち出すことは半年前、彼と初めて会った頃には考えられないことであった。
彼は本当に変わった。
そんな彼と同じ夢を見られることは芙蓉には誇らしいことであった。
「お前は、一人ではない。それを忘れて行動することを慎むように」
「……はい!」
そう芙蓉が涙の滲む目で返事をすると、鈴扇は芙蓉の髪を優しく撫でた。
それはいつも彼が芙蓉にする小動物を触るような触り方よりも少しだけ柔らかいように感じた。
鈴扇の瞳がほんの僅か、しかしいつもよりはるかに分かりやすく綻んだのを見て嬰翔ばかりではなく苑華と汀眞が面白そうな顔をしている。
「ほう、溶けない氷のような男だと言われていたあの男にあのような表情をさせるとは芙蓉殿は何者だ?」
既に二人の世界になっている芙蓉と鈴扇から一歩身を引いた苑華と汀眞は顔を寄せて嬰翔に詰め寄った。
「なんというか、あれ、本人たちは気付いてないの……?」
そんな二人の表情を見た嬰翔は手を振って妙な勘繰りはやめるよう暗に訴えた。
「変なちょっかい出さないでくださいよ、僕はゆっくりと二人を育てることに決めてるんです」
「いや、二人が育てるものであって翔兄様が育てるもんじゃないんじゃないのっ……てうわっ!」
そう言ったときに、汀眞の肩を豪快に抱いたのはその兄である汀寛であった。
「よう、久しぶり汀眞。お前国試ちゃんと受かってたんだな。俺たちの中でもあんまり出来が良い方じゃないのにすごいじゃん」
「寛兄様!?」
その横で殊寧も嬰翔の腕にしがみ付く。
「翔もちゃんと官吏やってんだね~。あんたは絶対商人になったほうが良かったって思ってたのに」
「……殊寧、嫁入り前の娘がそんな風に男の腕を抱くのはどうかと思うんですが」
「赤ちゃんの時からの仲でしょ、今頃何言ってんだか」
汀眞と嬰翔はともに苦笑するが、この天真爛漫な双子は昔からこうだから二人は慣れたものだ。
それは汀眞と嬰翔が幼い頃に育った家族のかたちであった。
例え血の繋がりなどなくても彼らは繋がっていられる。
その古い時代の盟約と、今の彼らをつなぐ信頼で。
それが長い時間をかけて培ってきた薺家と蔦家の絆なのだ。
しかし、兄と姉に「よく頑張った」と頭を撫でられていた汀眞の前に苑華は厳しい顔をして立った。
「汀眞、國府に帰ったら時間を開けろ。お前には聞かねばならんことがある」
「……はい」
汀眞には心当たりが山ほどあった。
このような事態を招いてしまったこと、最近報告を怠っていたこと、そして何より蘭國への異動を彼女に正式に報告していないことである。
「可哀そうな汀眞」
そう言って頭を撫でる兄と姉が、今は少しだけ恨めしかった。
※
一通り仕事を終えた汀眞が、四阿の影で花を見つめる苑華に声をかけたのはすでに夕方近くであった。
彼女は持っていた扇子を子気味良い音をさせて閉じるとさて、と汀眞に向き直った。
「最初に聞いておくがお前、私に蘭國府への異動を報告していないのはどういう了見だ。嬰翔と同じくあの男に引っ張られでもしたか」
「違う!それは断じて違う!……王様にどうしてもって頼まれたんです」
そう言うと、苑華の眉が吊り上がる。
「……何故だ?蘭は大した國ではない。大した商業もなければ、國主も大したことがない。家の名に縋っているだけの馬鹿な貴族の治める國だ。利用価値もないだろう」
「それは……!」
芙蓉を、二人目の博士となるかもしれない少女を見定めるためだとはとても言えなかった。
そうでなくとも蘭國では昨年大規模な脱税騒ぎが起こったため、人を見る目に長けた蔦家の人間が選ばれたのだと言えばよかったのに思わず言葉を詰まらせたことで何も言えなくなってしまう。
「私に言えないことがあるのか、汀眞」
その言葉は汀眞には首先に刃を突き付けられたように恐ろしいものだった。
言葉を失っているとさらに彼女は言葉の刃を振り回した。
「私が朝廷に送ったのは絶対にお前が私を裏切らないという確信があったからだ。そう思って私はお前を買ったのだ、汀眞。私の目が狂っていたと、お前はそう言いたいのか」
ただ責めるだけではなく、彼女の言葉は汀眞の心を抉るようであった。
「私が慶朝様に蔦家の人間が欲しいと頼まれた時期と、お前が官吏になりたいから後見についてほしいと私に願い出てきた時期はほとんど同じだったな。私はその時に聞いたはずだ。私はお前の好意を利用する。それでも、私の目と耳となってくれるかと」
それは汀眞が太学にはいる少し前の話だ。
『あなたになら喜んで利用されます。この世で蔦 汀眞を利用していいのは貴方だけなんですから』
そう、汀眞は彼女に応えたのだ。
そして朝廷に入り一人きりで戦うことを選んだ。
汀眞は苑華の耳となり、目となると約束した。
それでも、汀眞にはここで芙蓉と王の話を彼女に打ち明けることが賢いとは思えなかった。
「……言えません」
そう苦虫を噛み潰したような声で告げると苑華は目を見開いた。
「なんだと?」
「言えません、と言いました。でもこれだけは言えます。俺は決してあなたを裏切ってなどいません。あなたを裏切るくらいなら、俺は二士の官位など望みません。あなたを裏切るくらいなら、死んだほうがましだ!」
そう言い切って、恐る恐るその顔を覗くと彼女は厳しい顔を徐々に綻ばせた。
「───よし、合格だ」
「はっ?」
思いもよらなかった言葉に汀眞が間の抜けた声を上げると、苑華は何故か安心したように目を細める。
「お前がここでぺらぺらと喋り始めたら本当にクビにして殊寧か汀寛に国試を受けさせるところだったぞ。まあ、二人とも勉学はからきしだから嫌だというだろうがな」
「どっ、どういうことです……?」
「あんな王でも私は信用している。その王がお前を蘭國にやったというのだからよほどの意味があるのだろう。情に流されてその事情を私に話すようでは、逆にあちらの情にも流されて私たちの事情も話すだろう、ということだ」
彼女の言うことももっともである。
汀眞には特殊な事情がある以上、王と苑華の板挟みになることは避けられないだろう。
だが、汀眞はけして間者ではないのだ。
両方の中を取り持つうえでも、その存在は重要な意味を成す。
「いいか、汀眞。お前は普通の官吏とは違う。うまく立ち回らねば、すぐに潰される。あれは割と良い王だが、優しいだけの王ではない。昔のお前ならすぐに私に喋っていただろう。お前が成長したという証だ」
そう言って頭を撫でられて、思わず汀眞は苑華の腰を抱き寄せて抱き締めていた。
この人はなんて聡明で、優しいのだろうと思った。
薺家のためならば憎まれ役も喜んで受けようとする彼女は昔見たままに強く美しい。
いつもは素早く逃げられるのに、今日ばかりは彼女も汀眞の手に逆らわなかった。
「今日は拒まないんですね」
「ご褒美だ、よく頑張ったからな」
彼女の子供を相手にするような言い方に腹が立つ。
十三も離れているのだから当然だが、いつまで子ども扱いしているのだろうかと腹が立って余計に彼女を抱く腕に力が入った。
「そういうのに男はつけあがるんですよ!」
「いっ痛い、汀眞……!私のような年増に興味があるのはお前くらいのものだ」
苑華が自分を卑下するように言うと、汀眞はその肩に頭を摺り寄せて言う。
「俺が、苑華様を好きだって言った全部嘘なんか一つもありません。俺はずっとあなたのことを息をするように好きだったんです」
「……私は何もお前を理由もなく無下にしているわけではない。私は薺家当主だ。貴族というのは鬼の棲家だ。私一人で戦っていくくらいの気概がなければ、彼らと渡り合うことなど出来ない」
「知ってます、そんなこと。そんなあなただから好きになったんです」
それは本心から出た言葉だった。
こんな魅力的な女性を、汀眞はどれだけの人間を見たって他に見つけられなかったのだ。
「……汀眞」
「はい」
久方ぶりに感じる彼女の体温を抱きながら、汀眞は静かに頷いた。
きっといつも通り振られるのだと分かっていても今は彼女から離れがたかった。
「お前が二士の官位を得るのは何歳だ、汀眞。お前が翔より早く出世しようが、三十までには無理だろう。四十でもきっと難しい。お前が四十なら私は五十三だ。おばさんどころか、きっとしわくちゃのおばあさんになっている。お前を待つことがどれだけ怖いか分かるか。……そしてそれが、どれだけ私を弱くするか」
「あなたが弱くなるなら俺が横で支えられるようになる。俺はずっとあなたを思い続けられる自信があります。それに俺がおじさんになったっていい。あなたが、おばあさんになったっていい。俺はあなたじゃなきゃ駄目なんです」
そう言って、汀眞は苑華の髪に触れようとしたとき、彼女の身体が急に強張ったのが分かった。
なんだと思って振り向くと、後ろで面白そうにこちらを眺めていたのは殊寧と汀寛だ。
おそらく彼らに気が付いて苑華は身体を強張らせたのだろう。
そしてすごい勢いで体を離された。
「これが普通の女性だったらこんな長期戦にしなくてもすぐ落ちてくれると思うよ、汀眞」
「殊寧、汀寛……」
流石に少女のように顔を赤らめることはないが、それでも苑華の耳は赤く染まっている。
「二人ともなんで邪魔するんだよ!いいところだったのに!」
汀眞が吠えると、殊寧が面白そうに笑う。
「だって二人で出て行っちゃうから気になるじゃん」
「いいところなどではない、お前が縋ってくるから辟易していたところだ」
苑華は汀眞に抱きすくめられたことで乱れた着衣を直すとすぐに足早に歩き出してしまった。
「そんな……でも、俺は諦めませんから!ちょっと、もう行くんですか!」
苑華は汀眞のそんな声を背で聞きながら、横を歩く汀寛に「長居は無用だ」と告げた。
汀寛は後ろで項垂れる弟とそれを笑う妹を見ながら、主人に声をかける。
「苑華様もお強い。我が弟ながら優良物件だと思うのですが、振ってしまって良かったので?」
「まあ、少しだけ待ってやる気にはなった。ただし私ではなくあの馬鹿王を選んだ瞬間、速攻クビだ」
汀寛はその目を細めて、主人を見る。
「ないと思いますがね」
蔦家が人間を見てそう言うのだから本当にないのだろう。
苑華はそれにふんとだけ鼻を鳴らすとまた歩く速度を上げた。
※
月の綺麗な夜だった。
皇帝である慶朝は週に二度必ず皇后である蓮 蓬樹を訪れる。
それは蓬樹が後宮に入り、銀の皇后と呼ばれるようになってからお互いが三十を過ぎても行われている決まり事だ。
おかげで、王は皇后を寵愛しているとお伽噺のように庶民の間でも語り草になっている。
二人が幼馴染で、慶朝が二十を過ぎるまで皇后どころか一人も妃賓を取らなかったこともあり、その人気は凄まじいものであった。
慶朝は庭を眺める妻の背に声をかけた。
「蓬樹」
そう呼ばれて振り返る彼女は息を飲むほどに美しい。
日の光を浴びると白く輝く髪や瞳は、今は月光を浴びて銀色に輝いていた。
紅を引く程度の薄い化粧を施し、簡素な寝衣を纏っただけのはずなのに着飾ったどんな妃も宮女も彼女には適わない。
かつて天女がその衣を落としたところを蓮家の人間が拾い、恋に落ちたのだという昔話がある。だから蓮家には見目麗しい者が多いのだと。
その話を信じてしまう程、彼女の纏う空気は澄んで神々しいものだった。
慶朝を見つけた彼女は目を細め彼の名を呼んだ。
「慶朝、楽しそうね。新しい玩具でも見つけたのかしら」
女性にしては落ち着いた美しい声だ。
詩歌も達者な彼女の声は、聴くだけで吉兆があると宮中でもこぞって聞きたがるものが多い。
「余が玩具を見つけて喜ぶような子供だと思うか?」
彼が後ろをついてきていた侍従たちに下がるよう言うと、蓬樹は寝台から降り慶朝を出迎える。
「……そうね、きっと玩具ではないわね。面白い人間でも見つけたのかしら?」
「其方の勘は恐ろしいな。さすが、蓮家の姫の異能は衰えていないようだ。この広い王宮で、其方の目で見通せないものなどないのではないか」
蓮家の姫は人の心が読める異能を持っていると、彼らの天女の伝承と揃えて広がった噂がある。その噂に違わぬ慧眼を彼女は持っているのだ。
慶朝が軽い口調でそう言うと、彼女の瞳が一瞬翳った。
「慶朝、私は話を逸らしたいわけではないの」
「夜は長い。また碁でも打ちながら其方の愚痴を聞くとするか」
そう慶朝が言うと蓬樹は慶朝の首に手を回して強請る。
「今日は思い出話が良いわ、慶朝。あなたと私だけが知っている、芙蓉の花の話をしましょう」
「……ああ、そうしよう。余も久しぶりに聞きたくなったところだ」
その答えに満足したように笑うと、彼女は慶朝の頬にその白魚のような手を添えて言う。
「私とあなたの罪よ、慶朝。私たち二人、お墓の中まで持って行きましょう。───冷たい冷たい、泥の中まで」
※
五月のことである。
二か月はかかるだろうと言われた朝廷への報告を終えたのかふと汀眞が國府に顔を出した。
斎刺史を伴わず現れた彼に國令、副官共々驚いていると彼は真っすぐ芙蓉のもとに歩いてきて、その瞳を見つめた。
その、普段とは違う様子に嬰翔が思わず声をかけた。
「汀眞、あなたどうしたんです。報告のために朝廷に帰ったはずではなかったのですか」
「……そう俺は報告のために帰ってたんだよ、翔兄様」
その言葉に、嬰翔は全てを悟った。
彼は芙蓉の件について、王への報告を終えた。
その上で、勅命を持って帰還したのだ。
嫌な予感がして、まさかと嬰翔が口を開く前に彼は桜の印の入った書簡を広げていた。
「莢 芙蓉殿」
そう言って汀眞は芙蓉の前にその膝をついた。
彼は妙に仰々しくそのまま持っていた書簡を読み上げる。
「贋金鋳造並びに薺玉手形の偽造を暴いた貴殿の今回の活躍は充分にその功績を称えるに値する。よって、皇帝の御前に馳せ参じることを命ずる」
その言葉に芙蓉だけではなく鈴扇と嬰翔も瞠目する。
配属されて一年にも満たない一官吏に王自らが登朝を命じる。そんなことは聞いたこともない話だった。
たった一人、彼女の父親である葵 月英の場合を除いて。
「どういうことですか、汀眞殿」
あまりのことに芙蓉が驚いて彼を見返すと、汀眞はできるだけ感情の乗らない声で言う。
「勅命だ。同様に菫國令、あんたにも命が下ってます。芙蓉とともに至急、金陵に入るよう」
「解せないな、確かに私の名で報告書を提出したはずだがどうして芙蓉まで呼ばれるんだ?」
常ならば、報告は國令のみそれが無理ならば名代として副官が赴くのだが最初から芙蓉を指名することはあり得ない話だった。
「俺が報告したからですよ」
「どういうことですか……?」
「王様は全部知ってるんだよ」
「っ……!?」
全部、その意味が分からないほど芙蓉は馬鹿ではなかった。
慶朝は知っているのだ。
芙蓉の父が月英であることも、今回の事件の顛末も、全て。
そしてそれを報告したのがこの優れた目を持った監察官であることもすぐに分かった。
芙蓉は彼に一か月をかけて品定めされていたのだ。
官吏の任命式で彼が芙蓉をどこか懐かしい目で見つめたように感じたのは気のせいではなかったのだ。
彼は最初から気が付いていた。
そしてその手のうちに籠の鳥が舞い戻ることを望んでいる。
「芙蓉、俺は王命であんたを迎えに来たんだよ」
それは芙蓉が十八になる初夏のことだった。
『芙蓉、十八にして暁王の招集に応じる』と花興の後の歴史書にはそう記されているだけだ。
しかし、この出来事は芙蓉の人生で一番長い夏の幕開けとなる。
芙蓉の文が慶朝のもとに、あるもう一つの文と同時期に届けられたのがこの後起こることの発端となったと言って良いだろう。
それは茜家当主、茜 离鴇の危篤の知らせであった。
芙蓉が官吏として立とうとしているとき、南の星が今まさに落ちようとしていたのだ。
次回から茜國編となりますのでよろしくお願いします。




