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鴻鵠の娘  作者: 納戸
眼光 紙背に徹す
15/50

3.使える知識、使えない知識─2

 

「……私は何をあんなに怒っていたんでしょう」


 汀眞を追い出してしまった芙蓉は、府庫の階段に腰かけて高く昇った月を見ていた。

 自らも頭を冷やそうと思ったのだが、案外冷たい春の風はあっという間に芙蓉の身体を冷やした。

 夜風が次第に怒りで熱くなった頬の温度を奪っていくにつれて、芙蓉は平常心を取り戻していく。

 先ほどの自分は、怒っていたというより戸惑っていたという方が正しいのかもしれない。

 復讐したいと思ったことはないのか、と汀眞に問われて素直に驚いた。


 そんなことを当人に聞く汀眞の無神経さにではなく、自分が本当に一度もそんなことを画策したことがなかったことにだ。


 地下牢に放り込まれた当初、芙蓉はとにかく生きなければならないと思っていた。

 唯一父に報いることができるのは、自分が生きて父の知識を残していくことだと信じていたからだ。

 すこしでも下手を打てば殺されるかもしれない地下牢の中で、芙蓉はひたすら自らの知性を研ぎ澄ますことに注力していた。

 そのために復讐という選択肢は明らかに邪魔なものであり、考えるだけ時間の無駄だったのだ。

 そんな事情を知るはずもない彼に怒りに任せて出ていくよう促してしまったことを、芙蓉は少しだけ後悔していた。

 はあ、と自分の不甲斐なさに溜息をつくと、バサリとなにやら鳥が羽ばたくような音がしているのに気が付いてあたりを見渡す。

 夜目のきかないはずの鳥がこの時間に騒ぎ出すのはおかしい。

 そう思って恐る恐る音がしたほうを見ると芙蓉の後方で、鈴扇が鳩に餌をやっているのが見えた。

 そのおかしな取り合わせに思わず目を見張る。


「鈴扇様……?何をしていらっしゃるんです。また家に帰られなかったのですか?」


 羽音が聞こえたのは、どうやらその鳩が羽ばたいた音だったらしい。

 彼らは鈴扇の手から粟や黍といった餌を与えられている。


「なんだ、芙蓉か」


 彼は鳩に餌をやり終えたのか、芙蓉を見るとこちらに歩いてきた。

 今晩も泊まり込むらしい鈴扇はくつろいでいるのか、普段は束ねている髪を解いている。

 少しずつ見慣れてきた芙蓉にもその姿はちょっと胸やけがするほど美しかった。


「鳩ですか?」

「菫國に文を送っていた。夜は動かないが、彼らの帰巣本能があれば明日には菫家に戻るだろう」


芙蓉は庭でうずくまっている鳩を見て感心したように声を出す。

そういった話は聞いたことはあったが実際に見るのは初めてであった。


「その習性については聞いたことがありましたが、本当に実用化している例があったとは驚きました。なにか危急の知らせでもあったんですか?」


 いや、と鈴扇は気まずそうに芙蓉から目を逸らした。


「兄上から早く結婚しろという催促だ。あの人も懲りない」

「鈴扇様もいろいろあるんですね」


 そう言うと、鈴扇は芙蓉の横に腰かけじっとその灰色の瞳を見つめた。


()?どうかしたのか、顔が暗いな」


 ふいに芙蓉の前髪に触れてその表情を見る鈴扇は、芙蓉がここに来た時よりもずっと人間に興味を持つようになった。

 その様子は嬉しくもあるが、たまに距離感の分かっていない彼にこうして動物に触れるようにされると驚いてしまう。

 なにしろ顔が美しすぎる。

 彼も芙蓉のことを子供のようだと言っていたし、他意はないのだろうが女性にそういうことをすると勘違いされるぞと、嬰翔あたりに進言したほうがいいかもしれない。


「鈴扇様は私が弱ってるときに限っていらっしゃいますね」

「あの少年に虐められているのか」


 少年とは汀眞のことだろう。

 鈴扇は表情を変えないまま少し鋭い声でそう言った。


「そんなことはありません。ただ、あそこまで私に盾ついてくる同年の官吏に会ったのは初めてで…正直扱いには困ります」


 芙蓉が苦笑すると鈴扇はふむ、と言って腕を組んだ。


「そう肩肘を張らなくてもいい。身近に競い合える相手がいて私は羨ましいがな。嬰翔は、出会った当初から競争心のない人間だったから」


「鈴扇様には驟雨様がいるではありませんか」


 そう言うと途端に顔が険しくなった。

 芙蓉もその表情の変化が面白くて言っている節がある。

 完全無欠、高潔無比の麗しの國令の眉間にこんなに深い皺を刻むことができるのはきっと驟雨だけだ。


「……あいつの話はするな。お前から驟雨の話を聞くと何故か腹が立つ」

「何故ですか?」

「……何故……?」


 芙蓉が尋ねたはずなのに、険しい顔をそのままに鈴扇は首を捻った。


「いや、私が聞いてるんですけれど」

「……分からないがお前があいつに見出されたと聞いたとき、何故か無性に腹が立った。あの日、お前を書庫から連れ出したのは私だと思っていたから」


 不意に芙蓉から顔を背けた鈴扇の横顔は、拗ねた少年のようだった。

 その様子を芙蓉は、自分で引き抜いたと思った部下が先に自分の好敵手に見出されていたと分かって拗ねているのだと理解した。

 嬰翔がここにいればまた違っただろうが、芙蓉は変に納得すると鈴扇に言う。


「本当の意味で私を解き放ってくださったのは鈴扇様ですよ。私を、人心を解する化け物から、普通の人間に戻してくださったのは鈴扇様なんです。あなたは言いましたね。自信と誇りを持って言うがいい、私は立派な人間であると。初めてだったんです、私を人間だと言ってくれた人は」


 そう微笑むと同時にこちらを向いた鈴扇の眉間にはもう先ほどのように深い皺は刻まれていなかった。

 怪訝な顔ではなくなったが無表情のままじっとこちらを見る鈴扇に何か間違えたかと思っていると、次の瞬間その腕の中に閉じ込められていた。

 かすかに香る花の匂いが、芙蓉の意識を現実へと引き戻す。


「鈴扇様?!」


 座っていてもかなり体格に差があるので身動きが取れず暴れると、鈴扇はゆっくりと頭や背を撫でてくる。


 そう、まるで飼い猫にでもするようにだ。


 ……おそらく犬猫と同じ扱いを受けているのだろうと思った芙蓉は彼の気は済むまで大人しくしていようと思った。

 子供の次は動物か、と思っていると鈴扇は芙蓉の耳元で呟く。


「すまない、何故か抱き締めたくなっただけだ。他意はない」

「いえ、私でよければ。しかし、早く奥方を見つけなければお兄様も心配なさいますよ」


 そう言うと、何故かさらにきつく抱き締められる。


「別にいらない」

「ええ?勿体ないですよ」


 結局鈴扇の気が済むまで、そのやりとりはしばらく続くこととなった。


 嬰翔が見たら発狂しそうなこの二人のおかしなやりとりを見ているのは幸いこの日いつもより高く昇った月だけだったのは唯一の救いだろう。



 ※




「なんなんですかこんな夜更けに」



 ところ変わってここは嬰翔の邸宅である。

 嬰翔の住まいは、國府から少し離れた官吏が邸宅を構える通りの一番奥にあり、一人で暮らすには少々大きすぎる邸宅部分と広い庭が自慢の風雅なものだ。

 今日は比較的早く帰ることができたと自室でまどろんでいた嬰翔が、使用人に呼ばれて応接間で見たのは卓に突っ伏した汀眞であった。

 面倒くさい客人が来た、そう思いながら明かりを置き汀眞の向かいに腰かける。


「翔兄様、今でも女の子みたいに髪結って寝てるんだね……」


 彼は嬰翔の声に顔を上げると開口一番そう言った。

 それは嬰翔が腰近くまである髪を三つ編みにして肩口に垂らしている姿を言っているのだろう。

 嬰翔にとっては癖のある髪が寝ている間に絡まないようにするためのごく普通の工夫なのだが、子供の頃は良く女のようだと揶揄われたものだ。


「しょうがないでしょう、あなたたちと違って癖毛なんです。そんなことを言いに来たなら僕は明日も早いので寝ますよ」


 気を悪くして席を立ち上ろうとすると汀眞がそうはさせまいとあろうことか編まれた髪の束を握って引き留める。


「待ってよ!俺を置いていかないで!」

「痛い痛い!!だから聞いてあげますってば!髪を引っ張るのをやめてください!」


 嬰翔の髪は柔らかく切れやすい。

 現に汀眞に引っ張られただけでぶちぶちと数本が切れる音がして、やめなさいと汀眞の手を叩いた。

 ようやく静かになったかと思うと、また机に突っ伏した汀眞はくぐもった声で吐露する。


「どうしよう……芙蓉怒らせちゃったよ、翔兄様」


 嬰翔はすぐには事態が呑み込めない。

 汀眞が赴任した時からすでに何度も論戦を交わしているはずなのに何をいまさら落ち込んでいるのだろう。


「来た時から何回も怒らせてるでしょ、今頃なんなんですか」

「いやなんか違うんだよ、本気で怒らせちゃったっていうか……」


 汀眞が素直に芙蓉に復讐する気はないのかと聞いたことを明かすと、嬰翔の顔色が変わる。

 今まで弟を見るようだった目は、汀眞を咎める鋭い目つきに変わった。


「あなたそんなこと聞いたんですか」


 汀眞はその目を見て嬰翔に縋り付いたことを後悔し始めたようで、肩を小さくして「ごめん」と小さく呟く。

 小さなころから共に育った経験のある嬰翔でも彼が謝るのを聞いたのは久しぶりだった。

 それだけ強情な彼がここまで弱っているということは、芙蓉は何をしたのだろうと気になるところではある。

 汀眞の疑問ももっともなので、少し目線を和らげると彼は口をとがらせて言う。


「だって不思議に思うじゃん。あれだけの才能を持った人間が、自分の父親を殺した人間を野放しにしてるなんて」


 才能ね、と自嘲するように嬰翔は言った。


「芙蓉殿は馬術もできませんし弓も扱えません。あの実力で国試に受かったのは奇跡です。おまけに美的感覚はあの通りですし、没頭すると寝食を忘れます。完璧とは程遠い、普通の少女です」

「……あれが普通だって本気で言ってんの?」


 汀眞は先ほどの芙蓉のひどく靄のかかった瞳を思い出して言う。

 あんな、人知を超えた知恵を持つ太古の獣のような少女が普通とは汀眞にはとても言えなかった。


 そんなことを彼女に言ったところで、一時の慰めにしかならないような気がした。


「本気です。僕も鈴扇も本気で彼女を普通の官吏として育てるつもりでいます」


 彼女の才能を伸ばすために必要なのは彼女を崇めることではないと、嬰翔も鈴扇も分かっている。

 幸いなことに、彼女は人の声を聴く能力に長けている。彼女を朝廷から引き抜いたのも、嬰翔が芙蓉のそんな能力を買ってのことだったのだ。そんな彼女を、人心を解する化け物にしてしまうのはあまりに惜しい話だった。


「そんなの……!」


()()()()()()()()()


 嬰翔は汀眞の瞳を見つめ、否定される前にはっきりと言う。

 それは自分にも言い聞かせなければならない言葉だった。


「葵家の、いえこの国の過ちは葵 月英を神仙のように崇めたことです。僕は陛下が月英に特別な席を作ったというのも間違いの一つだと思っています。我が国ではまだまだ優秀な人間の登用が進んでいないのです。彼らのような存在が当たり前にならなければこの国は変わりません」


 嬰翔と鈴扇にはこの国から國制を失くし、一つにまとめるという悲願があった。

 それはこの国に昔から救っている六大家と貴族の台頭を抑え、有能な人間を登用するきっかけとすることも意味している。

 黙って苦い顔をする汀眞に、嬰翔はさらに言い聞かせるように言う。


「汀眞、僕たちは()()殿()()()()()()()()()()()()()()()()。たとえ陛下が望もうとも、彼女を月英が座った博士という孤高の椅子に座らせてはなりません。過ちを繰り返してはいけないんです」


 芙蓉に話したことはないが、嬰翔は月英が博士の席に座らなければならなかった訳を人づてに聞いたことがある。


 誰もが認める天の才を持った月英は誰とも交わることができなかった。


 誰もが彼の語る知識に、高尚な言葉にただ従うだけで真に彼を理解しようとはしなかったのだ。

 ただ、親鳥からえさを与えられる雛のように口を開けているだけでその餌の取り方を知ろうとしなかった。

 彼が生きているうちはそれでも良い。しかし、彼一人に頼った政治が後の世にうまく機能するわけがないということを嬰翔は知っていた。

 月英一人が悪いのではない、彼はただ言われるがまま知識を与えた万民に平等な神仙のような存在だったのだろう。

 そういう意味で彼は天才でありこそすれ、有能な官吏ではなかったのかもしれない。


「あいつ言ったんだよ、自分は月英の娘であって月英自身じゃないって。あいつ自身が月英になろうとしてるのに俺たちが止めてもいいのかな」


 彼女自身は父親のようになることを望んでいる。

 それは『博士(はくし)』というはっきりとした地位ではないにしろ、父こそ自分の完成形であると信じている瞳をしていた。

 それを止めることが果たして彼女にとって幸せなのか、汀眞には分からなかった。

 そうですか、と嬰翔は苦笑する。


「なれるんです、彼女なら月英に。彼女を見ていたらそれくらいわかります。それでも、駄目なんですよ。()()()()()()()()()()()()()、二人目の博士を出してはならないんです」


 彼女をその地位に上げてしまうことは一種の敗北なのだ。

 その敗北は自分たちが死んだ先の国の繁栄を捨てることと同義だと嬰翔は思う。


「俺さ、実は言うと王様に言われたんだよ。蘭國に莢 芙蓉っていう優秀な官吏がいるから俺の目で見極めて来いって。その官吏が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 いろいろと突っ込んで聞きたいことはあるがまず気になったのは慶朝と汀眞の関係性であった。


「ちょっと待ってください。色々聞きたいことはありますが、あなた慶朝様と個人的に話したんですか……?」

「王様なら良く俺に会いに御史台に来るよ。たまに城下に飲みに行くし」

「はぁ!?」


 けろっとした様子でそれがなんだとでも言いだしそうな汀眞に、嬰翔は椅子から落ちそうになった。

 官吏になって十年近い嬰翔ですらほとんど会う機会のない慶朝と、汀眞は飲み友達なのだという。

 彼が直接苑華の後見を受けて朝廷に入ったことを考えれば不思議でもない話かもしれないが、慶朝はそれだけ汀眞の能力を買っているのだろう。


「今回俺が蘭國に派遣されたのも王様の采配。苑華様に朝廷の監視をしろって言われてるから無理って言ったんだけど」

「……あなた、陛下に無理って言ったんですか!?」


 話の腰を折るつもりはないが、汀眞の話があまりにも突拍子がないため嬰翔は眩暈がしてきた。


「うん、無理って言ったけどどうしてもっていうから引き受けたんだ。翔兄様、王様は間違いなく二人目の博士を望んでる。俺も最初は耳を疑ったけど、芙蓉があの月英の娘だって聞いたら納得できる話だよね」

「彼女はまだ官吏になって二年目です。いきなり博士だなんて」


 そう言ってから、嬰翔はそんな反論が何の意味もないことに気が付いて黙る。

 彼女は月英の娘だ。

 慶朝が唯一自ら取り立てた、かの鴻鵠の娘なのだ。


「月英が博士位を得たのだって官吏になってたった一年目、それも十五か十六の年だ。王様ならそんな無茶な人事もできてしまうんだよ」

「慶朝様は、芙蓉殿が月英の娘だと知っているのですね……」


 汀眞もそれ自体は聞かされていないようだったが、同意して頷いた。

 そうでなければ地方貴族の脱税を暴いただけの新人に、薺家から借りている懐刀を会わせたりはしないだろう。


「芙蓉がこの案件を解決したら間違いなく王様は褒美を与えるためとか言って朝廷に呼びつけるよ。贋金鋳造は良くて国外追放悪くて死罪の大罪だ。それを解決したなら昇進も夢じゃない」


 なんということだ、と嬰翔は頭を抱えた。

 芙蓉を官吏として育てることを、皇帝が許してくれない。

 これは嬰翔と鈴扇にとって由々しき事態であった。

 ひょっとしたら、慶朝はさっさと芙蓉をその手中に収めることで葵家との繋がりを断ち切らせたいのかとも思った。

 それなら自分たちは圧倒的に不利だ。

 今の芙蓉を生かしている葵家との繋がりは、芙蓉にとってしがらみでしかないのだから。


「汀眞、あなた芙蓉殿が思ったより間抜けだったとか嘘の報告をすることはできないんですか?」


 苦し紛れにそんな提案をすると、汀眞は「正気?」と眉を顰めた。


「やめてよ、王様に嘘なんかついたら蔦家の家名にも泥を塗るんだから」

「ですよね。くそっ……、まさかこんなに早く慶朝様が動かれるとは……」


 珍しく語気を乱す嬰翔に、汀眞も戸惑った顔をする。

 彼女の運命を自分たちの一存で決めることなど絶対にできないのだ。


「選ぶのは芙蓉なんだよね、翔兄様」

「……えぇ、その通りです」


 嬰翔の瞼裏には芙蓉が父を語るときの、小さな子供が大好きな物語を語るような顔が蘇る。


『父は私に想像力はどんな獣より早くこの国を走り抜けることができるのだと、そう言ったことがあります』


 そう話した彼女の夢を見るような顔は、本当に普通の少女のようだったのだ。

 その様子を思い出すたびに、嬰翔は少女を父親と引き裂いているようで申し訳なくなるのだ。


「……ねぇ、翔兄様。明日、俺芙蓉と視察に行かないといけないんだけど許してくれるかな……」


 目の前に浮かび上がた大きな問題のことなど忘れて芙蓉の機嫌取りを画策する汀眞に、思わず嬰翔は笑みを零した。


「大丈夫です。芙蓉殿は、あれで案外優しい子なんですよ」




 ※



 翌朝、汀眞は芙蓉の執務室の扉の前でびくびくと彼女が現れるのを待っていた。

 捕まえた男から、晋官吏の収賄について詳しく聞くことはできなかったが、早く現場を押さえなければ取り逃がしてしまうというのは汀眞にも分かった。


「汀眞殿、もういらしていたんですね」

「ひっ!」


 そう言うと、彼女はすぐに門に向かって歩き出してしまう。

 明らかにまだ怒っている彼女の後を追うと、汀眞が足を速めた分だけ芙蓉も足早になった。


「芙蓉、悪かったよ。そんなに怒らないでほしいんだけど」

「怒ってません」


 口では言っても、彼女は汀眞と顔を合わせようともしない。

 途中すれ違った官吏たちはその異様な様子に不思議そうな顔をするが、汀眞が怖いのかできるだけ二人を見ないようにして去っていく。

 どうやら彼女も汀眞を置いていく気はないらしく、駆け足になったりはしないが國府の門を抜けてもなお顔を合わせようとはしない。


「怒ってるじゃん!俺反省したからさ……!」


 そう手を合わせ続け、街の入り口に着いた頃やっと足を止めた芙蓉は目を尖らせて言った。


「反省しているなら、二度と父上の名を私の前で出さないでください」


 その瞳が昨日のような靄に包まれた色でないことを確認すると、汀眞は大人しく何度も頷いた。

 彼女の機嫌を損ねて昨日のような思いをするのは御免だし、そもそも彼女と話さなければ慶朝に頼まれた任務も果たせない。


「分かればいいんです」


 そう言うと彼女は気持ちを切り替えたように表情を柔らかくした。

 最初から思っていたことだが彼女は気持ちを切り変えるのが早い上にうまい。

 おそらく、彼女の論考が飛躍しても着地点を見失わないのはこの切り替えの早さゆえもあるのだろう。


 芙蓉と汀眞の目的地は二人が出会った贋金の交換現場だ。

 二人とも昨日はそこにあったことを確認していたが、今日行ってみるとなんともぬけの殻となっている。


「あの、おばさん昨日までここに店を構えてた美術商は?」


 隣で織物を売っていた女性に汀眞が尋ねると彼女はああ、と首を振った。


「昨日には店を畳んで出て行ったよ。どこに行くとまでは聞いちゃいないけどね」

「そんな……」


 がっくりと肩を落とした汀眞に、芙蓉は一つも顔色を変えずにやっぱりですね、と呟いた。

 男が捕まった時点で、贋金を持った美術商は逃げているのではないかと思っていたが敵もやはり馬鹿ではないということだ。

 しかし芙蓉の読みでは、金貨にして運べる金の量はさほど多くはない。まだ近くに晋官吏の息のかかった商人がいるはずだ。

 そう思っていると、汀眞も何か見つけたのか芙蓉の肩を叩く。


「芙蓉、あそこの美術商。昨日まではなかった。……あと店先にあの絵みたいにひどい美術品が並んでる」

「……私にはやはりさっぱり分からないのであなたを連れてきて正解でした」


 そう彼女が微笑んだのを見て汀眞は少し安心する。

 良かった、この子はちゃんと笑える。

 昨日の彼女はやはり夢だったのではないかと、胸を撫でおろした。

 それと同時に、嬰翔の言う通りこの子を博士という孤独な椅子に座らせてしまうことは間違っている気がしてならなかった。


「俺が注意を引くから、芙蓉は店先を探って。あんたの見立てなら泉酸だっけか、それが置いてあるんだろ」

「はい、頼みました」


 そういう小細工ができる性質(たち)ではないので汀眞の身のこなしの軽さは芙蓉には正直有難かった。

 作戦開始、と汀眞が呟くのを聞いてから芙蓉は彼の後ろを慎重についていく。

 彼は店主に声をかけると店の奥にある髪飾りを見て、人懐っこい笑みで話し始める。


「おじさん、俺女の子に髪飾りを送りたいんだけどどれかお薦めとかある?」


そう言うと店の主人は汀眞を普通の年頃の青年だと思ったのだろう。

人のよさそうな笑みを浮かべて彼に応えた。


「お兄ちゃん、薊國の人だろう。色男だねぇ、送るのはあんたと同じ朱色の髪の女の子かい?」

「うん、この翠の歩揺なんかいいと思うんだけど。……あ、おじさんこの玉の部分傷が入ってない?」


汀眞は髪飾りを指さすと、店主にもそれを見るように促した。


「えっ、どこだい?」

「ほら、ここのところ。花の中心部分だよ」

「そうかい?ゴミが乗っているだけじゃないかい?」

「ほらこれで見てみてよ、この部分。小さいけど傷が入ってるでしょ」


 汀眞は懐から拡大鏡を取り出すと店主にもそれを覗かせて芙蓉に注意が向かないようにしてくれている。

 二人が髪飾りに夢中になっているのを横目に見ながら、芙蓉は急いで店先を見渡した。


「あった……」


 自分が持っているのと同様の小瓶が目に入った芙蓉は思わず、小さく呟く。

 少し身を乗り出して奥の卓の上にある小瓶を取ると、入っていた匙で贋金に液体を垂らし泡が付くのを見て小さく「当たり」と呟いた。

 やはり彼らは賊とつながっている。

 見回したが試金石もなく、金の鑑定に使っているとは到底思い難かった。


「やっぱりそうだ、これは泉酸です。汀眞殿、早く國府に戻っ……うっ…んむ……!」


 丁度店主と話を終えたらしい汀眞に呼びかけようと踵を返したときのことだった。

 芙蓉は気が付くと口元を抑えられ、まんまと人通りの少ない路地裏に引きずり込まれていた。

 声を上げようとすると余計に口元に力を籠められ、息さえうまくできなくなる。


「官吏のお坊ちゃん、何を企んでんだ?」


 そう言われ、初めてそれが晋官吏と共謀した賊の一味だと気が付いた。

 驚いて見上げようにも芙蓉の身体をすっぽりと抱きかかえた太い男の腕のせいで、犯人の顔さえ見ることができない。


「痛っ!!」

「んっ……!ぅう!!っはなしてくださいっ!」


 やっと口を押さえる手を噛んで声を出すと、向かいで汀眞が押さえつけられているのが見えた。


「駄目だなあ、俺たちを嗅ぎまわるときはちゃんとした護衛くらいは付けないと」


 まずいと思ったがどうやらここは警備の手が薄い地区のようだった。

 叫んだところで駆けつける前に連れ攫われるか、最悪殺される。


「くそっ!離せっ!!」

「あなたも武術の心得がないんですか!!?」


 以前嬰翔が猿の頭蓋を人間のものと勘違いして腰を抜かしたのを見て、商家の貴族は頼りにならないと思ったことがあったが、どうやら汀眞もその類らしい。


「あなたもってなんだよっ!」

「騒がせるな、黙らせろっ!」

「っ……!!」


 不服そうに汀眞が叫んだところで彼の鳩尾に男の拳が入ったのが見えて芙蓉は思わず悲鳴を上げそうになる。

 ここで叫んだら女だとバレて余計にややこしくなると判断した芙蓉は必死で口をつぐむが次の瞬間、彼女自身も鳩尾に鈍い痛みを感じ、そのまま意識を失うこととなった。


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