2.薺家の懐刀─2
「花開くも同に賞せず、花落つるも同に悲しまず。問わんと欲す相思う処、花開き花落つるの時」
歌うように、慶朝は詩の一説を口ずさんだ。
彼女と別れてから月英が、頻繁に口にしたこの詩の本当の意味を慶朝は知っている。
『彼女と僕の運命が再び交わるのはこの国の終焉か、この国の開花期か』
そう、彼にしては感傷的に呟いたのを慶朝は覚えている。
自分が捨てさせてしまった彼の初恋を、忘れられるはずもなかった。
結局二人の運命は、幼い娘を残してあれきり交わらなかった。
先日、久しぶりに見た芙蓉は少しだけ母の面影を濃くしていた。
「月英、其方は芙蓉を化け物にせぬよう育てたのだな。白が聞いたらきっと喜ぶだろう」
彼の使っていた筆を弄びながら、今はもういない友を思い出す。
夜の鳳籠宮には慶朝だけが佇んでいた。
鳳籠宮、かつて月英がしばしの間官吏として暮らした王宮のはずれにある宮だ。
月英が実験や観察に使う部屋が欲しいというので与えたら、どうやら王は鳳を捕まえる籠を作ったらしいと噂されたのが癪に障ったので、逆にそのまま名前を付けてしまったのだ。
現在は医局として使われているが、月英が頻繁に使った私室だけは彼がいたままにしてある。
いつか芙蓉がここを訪れたら見せてやるのもまた一興だろうと、思ってから慶朝は苦笑した。
「余が過去にしがみ付いているしょうもない皇帝だと芙蓉にバレてしまうな」
そう言ったとき、後ろに気配を感じて振り返ると一人の男が立っていた。
「陛下、薺家と御史台を敵に回すおつもりですか?」
そう、慶朝に声をかけたのは起居注官の一人、孝亮であった。
莫 孝亮、起居注官と呼ばれる皇帝の一挙手一投足を記録する立場にある彼は慶朝が皇帝位に就いた十三の時からその傍にいる古株の官吏だ。
彼は中立と平和を愛する人間であり、月英の登用にも強く反対した家臣の一人だった。
「どういう意味だ?孝亮」
そう問いただすと彼は険しい顔で慶朝を見ている。
夜の闇が彫りの深い顔に一層濃い影をつくり、より深刻な顔をしているように見えた。
「えぇ、私は記憶しておりますよ。陛下が薺家当主であられる薺 苑華様を招かれた時に苑華様がきっぱりとお断りになったことを」
その時のことは慶朝も良く覚えている。
祭祀の際に届く贈り物があまりに多いため、薺家に蔦家の貸し出しを頼んだことがあった。
『陛下、恐れ多くも申し上げます。蔦家は薺家の懐刀にして宝、たとえ王家にも貸し出すことは出来ませんわ』
薺家現当主である薺 苑華は三十を少し過ぎたばかりの若い当主でおまけに大家中唯一の女性当主である。
それでも彼女のきっぱりとした言葉には威厳と誇りがあった。
蔦家というのはそれだけの価値がある一族なのだ。
彼らの目は絶対に狂わない。
その証拠が薺家の繁栄なのだ。
「うん、確かに断られたな。だが苑華はただ断っただけではないぞ、ちゃんと寄越してくれたではないか」
薺家はなんの旨味もない取引はしない。
蔦 汀眞が送られてきたのは朝廷に薺家の息が掛かった者を置かせていただくということだと慶朝は判断した。
「それをあなたは蘭國に送ったのですよ!三年前にも貴方は陸家の青年を蘭國に送ったでしょう。何回彼女を怒らせるつもりなんですか」
そう言われ慶朝は僅かに眉を顰めた。
「誤解だ、陸 嬰翔は鈴扇が勝手に引き抜いていっただけだろう。あれに関しては苑華も余には怒っていないはずだ」
才気あふれるが気難しい鈴扇を、慶朝は昔から可愛がってきたが少し自由に育ちすぎた気もする。
「薺家だけではありません。御史台も彼を中央に置いておきたいはずです。この一年で彼が官吏の汚職を暴いた数は明らかに異常です」
重ね重ね主君を諫めようとする彼に慶朝は呆れたように言う。
「余のものだぞ。余の好きなように利用させてもらう」
そうまで言ってしまうと逆らえないことを、慶朝は良く知っている。
虚しいことに、この権力を振りかざせば手に入らないものなどこの世に殆どない。
予想通り静かになった孝亮に慶朝は下がるように指示した。
彼は苦々しい顔をするが、いつも通り音もなく宮を後にした。
彼の主張はもっともだ。
しかし芙蓉にとっても、そして汀眞にとってもお互いが良い刺激となるのは確かである。
汀眞が国試受験を突破したころ、慶朝は蔦家の若者に会って見たくて御史台に赴いたことがある。
変装には自信があったのだが、汀眞に一目見て見抜かれた上に特に遜る様子もなく、
『あっ、王様だ!』
と言われたときは拍子抜けしたものだ。
やはりあの薺家の懐刀の名は伊達ではない。
官吏になった理由を聞いたところで、彼はけろりとして苑華に惚れたからだと言った。
『俺ねぇ、苑華様に惚れてるんです。だから、苑華様に言われたら何でもしちゃうの』
以前陸家の青年が送り込まれてきたときも苑華の指示だったと聞いたが、彼女は随分と人に好かれるようだ。
本人は薺家のために生きると決めているので、結婚しないと明言しているのが勿体ない。
「彼自身、鼻っ柱を一度折られると良いだろう。御史台で天狗になっているようだからな」
芙蓉ならそれができてしまうだろうと思った。
ただ彼女らしく生きている、それだけで。
※
「女の子だよね?なんで官吏なんかやってるの?」
朱色の瞳は、芙蓉を捕らえて離さない。
この少年に対して性別を偽るなど、到底無理な話だったのであろう。
嬰翔は観念したように手を上げ言う。
「ここでは誰か聞いているかもしれませんので、副官の執務室に行きましょう」
「翔兄様にもバレてる感じ?ぱっと見は分からないから良くやってると思うよ。見事にかわいい少年だ。そっか、あんたの代は翆湅がいるからバレないよね」
図星すぎる指摘に思わず芙蓉は思わず唸る。
そういえば汀眞は翆湅と同じ御史台所属である。
翆湅という圧倒的な美少年の影に隠れることでやりすごしていたことまで、一瞬で汀眞は気が付いた。もうこれは観念するしかないのだろう。
「汀眞」
「分かったよ」
嬰翔は彼を諫めると、三人は國令の執務室の隣にある副官室に静かに移動する。
その間も芙蓉を舐めるように見つめる目に、自分が無機物になったような恐ろしさがあり思わず身震いがした。
扉を閉めるや否や、汀眞は芙蓉の顔をじろじろと美術品を鑑定するように見た。
「改めて聞くけど女の子は官吏になれないって知ってるよね?しかもその髪の色、葵家の直系の血が混じってるんだろう。目の色は薄いから、侍女にでも産ませた子供に情けをかけたの?」
次々と秘密を暴かれて、芙蓉は言葉を失う。
「……そこまでわかるんですね」
「蔦家は目や髪の色を見れば大体の血の濃さが分かります。彼らに嘘をつくことはできません。慶朝様も何を思って汀眞をここにやったのか……」
彼が送られてくると分かった時から嬰翔には嫌な予感がしていたのだ。
汀眞の性格や性質の問題ではなく、蔦家自体が目の前の嘘偽りを暴くために生まれてきた一族だ。
芙蓉のことを見逃せるわけがない。
「お高く止まった葵家のことだから落胤は生まれてもすぐに殺されるって聞いてたけどあんたは運がいいんだね。官吏にまでしてもらえるなんて」
「観念しましょう、芙蓉殿。彼には全部吐いた方がいいです。
汀眞、彼女は葵 月英の娘です」
「えっ……」
何の断りもなく芙蓉の出自を明かした嬰翔に芙蓉自身が驚いていると、一呼吸おいて汀眞が間の抜けた声を出した。
「……はっ?」
「君も良く知っている。あの、葵 月英の娘ですよ」
畳みかけるように言う嬰翔に芙蓉は顔を顰めて、止めようとした。
「嬰翔様、何もそこまで言ってしまわなくても」
「汀眞に中途半端な嘘をついても後が怖いだけです」
嬰翔は言い終わるやいなや、汀眞は身を乗り出して芙蓉に近づいてきた。
その剣幕に芙蓉は思わず後ずさる。
「娘がいたの!?え、いつ?待って、ちょっと良く見せて」
「うわっ!なにするんです!?」
汀眞は芙蓉に近づくとその頬を片手で掴み、もう一つの手で燭台を持って芙蓉の目に近づけた。
急に目の前に火がちらついて驚くと、汀眞はそれ以上に驚いた声を出す。
「よく見たら何この目の色!?こんな色見たことない、どこの女との子供なの!?」
「母上は私が生まれてすぐ亡くなられたので知りません!私も今それが知りたくて探しているところなんです!いい加減離してください!」
興奮している汀眞に芙蓉は掴みかかって抗議するが、彼は逆に芙蓉の肩を掴んで離そうとしなくなってしまった。
「すごいよ、翔兄様!重要な参考資料だ、早く持って帰って蔦家の皆にも見せたい!」
「駄目に決まってるでしょう。というかあなたでも分からないんですか?」
「心当たりはいくつかあるよ、紹の一部では灰色の瞳の人間もいるけど少し違う。葵國の平民にしては淡すぎるし、蓮国の平民にしては濃すぎる」
相変わらず医者がするように芙蓉の目を伸ばしたり閉じさせたりしている汀眞の手を嬰翔は掴んで止める。
「話が逸れましたね。月英が死んだあと彼女は葵家に囚われ、今は期間限定で官吏として出仕しているのです」
大分いろいろ省いた説明だったせいか、汀眞の頭の上に疑問符が浮かんでいるのが見えた。
「月英って死んだの?」
「はい、残念ながら」
芙蓉が言うと汀眞はやっとその手を離して、どう言ったら良いのか分からないというような顔をした。
「……なんか変な感じ、仙人が死んだみたいな。俺たちにとって雲の上の存在すぎてさ」
「彼女は月英の知識をそのまま受け継いだ優秀な官吏です。女性だからといって失ってしまうにはあまりに惜しい人材なんです」
嬰翔はあくまで冷静にそう伝える。
感情に訴えて勝てる相手ではないと知っているのだろう。
それでも汀眞はいまいち合点がいかないような顔をしている。
「そういう事情があるなら見逃してあげるか……なんて言うと思った?」
隣を見ると、やはり無理かと言う顔をした嬰翔が苦笑いしていた。
「嬰翔様……」
これでは、芙蓉の秘密が露呈して終わっただけではないか。
苦情の一つでも言おうとするが、その前に嬰翔に詰め寄るように汀眞が彼を責めた。
「あのね、翔兄様はこのお嬢さんを甘やかしすぎ。女性は官吏の資格を得ることはできないというのは確かに差別のように感じるかもしれないけどこれは決まりだ。こういうところから気の緩みが生じるんだよ」
「彼女は戸籍上は男です。その点では何の問題もない」
「……はぁ?そんなことまでやってんの、もっと悪いよ。葵家の権力が大きすぎる証拠じゃん。俺はこのことを明日にでも報告するつもりだよ」
そういう彼の瞳はいかにも監察官らしい冷たいものだ。
嬰翔は芙蓉をちらりと見てから、汀眞に再度訴える。
「あなたは薺家しか見たことがないから分からないでしょうが、葵家に情けはないんです。このまま帰れば芙蓉殿は」
「一生、地下牢暮らしでしょうね」
そう言うと、ついで何かを言おうとした汀眞の口がふさがった。
女だとばれて、葵家が黙っているはずもない。
「…芙蓉殿」
急に静かになった芙蓉に、汀眞は調子が狂ったような顔をする。
芙蓉が彼の目を見ただけで、途端に気まずそうに頭を掻き始めた。
その様子に、貴族の道楽娘だと思っていたら貴族の魔の手から逃げ出したお姫様にでも見えていたら上出来だな、と芙蓉は思った。
「……そこまで言うなら条件付きで黙っててあげるよ。俺が持ってきた贋金、あの出所を一か月以内に見つけてきて。そうしたら君を認めてあげる」
「汀眞ちょっとそれは厳しすぎるのでは……」
「これ以上譲歩はしない」
彼の強い瞳に、芙蓉も覚悟を決める必要があった。
彼にも蔦家として、なにより監察官としての矜持がある。
「鈴扇様は、あなたを連れて行けば十分に証拠になると言っていましたが刑部の協力を仰いでもよろしいですか?」
「悪いけどそれはできない」
即座に首を振る彼に芙蓉は思わず、顔を顰める。
贋金の鋳造、この国家の一大事を自分の事情で見て見ぬふりをするというのか。
「贋金が流通するかもしれないというのに自分の感情を優先するんですか?」
そう言うと、隣の嬰翔が気まずそうに首を振った。
「芙蓉殿、それは無理なんです」
「なぜです?」
「俺たちが嘘を言ってないという証拠はどこにもない。いくら目が良くても人間は嘘をつく。俺は蔦家だけでなく薺家の名を背負って朝廷に入った。簡単にはこの名を使うわけにはいかないの」
そう言う汀眞は、先ほどまで芙蓉を責めていた口調とは明らかに違っていた。
彼は何の家柄も持たない芙蓉とは違う。
身の振り方を考えなければ、その家名も傷つきかねないのだ。
「蔦家は薺家の懐刀、その名を軽々しくは使えません」
嬰翔も苦々しい顔でその言葉に同意する。
「そんな、じゃあ」
「僕もここまでの譲歩がぎりぎりです、芙蓉殿」
お手上げだというように嬰翔は芙蓉を見た。
「期限は一か月、それまでにあんたが贋金の出所を見つけてこれたら、俺もあんたを認めてあげる」
汀眞の朱色の瞳が燭台とともに揺れる。
冗談を言っている目ではなかった。
芙蓉はこうして、蘭國で第二の騒動に巻き込まれることになったのである。
※
「これも駄目……ですよね」
芙蓉は目の前の茶碗に入った金貨を見つめると深い溜息をついた。
ここは國府のはずれの庭園にある四阿である。
芙蓉は汀眞に条件を提示されてから二日、何の手掛かりも掴めないでいた。
そもそも贋金だと証明することができないので、刑曹に頼ることも難しい。
「浮かない顔をしてらっしゃいますね」
そう、芙蓉の横に腰を下ろした嬰翔も責任を感じてくれているのだろう。
ここ最近芙蓉の仕事を肩代わりしながら、こうやって手がかりを探る時間を作ってくれている。
それでも現状、彼の期待に応えられそうにないので芙蓉も申し訳ない気がしてくる。
「いろいろ試してみましたが駄目です。どの金貨も同じ重さですし、色も錆びていると言われたら弁明のしようもありません。私にはまずこれが贋金だと証明することができないんですよ」
円卓の上に体を伸ばして溜息をつく芙蓉の横に茶碗を見つけた嬰翔は感心したような声を出す。
「面白いですね、錆の違いを見てたんですか」
「でも、これ私には見ても違いは分からないんですよ」
芙蓉は茶碗に漬けていた金貨を取り出して日にかざした。
この国の金貨は金と銅の合金を用いているというのは有名な話でその割合が違うのであれば錆の出方にも違いがあるのではないかと思ったのだが、素人が手を出してはいけない領域だったらしい。
塩水に金貨をつけることで確かにはやく錆はついたが、素人目には違いが全く分からない。
これでは到底証明することは無理である。
「贋金だと証明できないと、逃げた男は騒がれたから逃げただけで金は払ってるんだから犯罪ではない。聴取もできないというわけですね」
がばっと身を起こすと芙蓉は嬰翔と向き合って座りなおした。
「嬰翔様、蔦家について詳しく教えてください。規格外すぎるでしょう、あの人」
「ああ、聞きましたか?監査の件」
それがどうしたのかとでも言うような彼の態度に芙蓉は瞠目する。
「なんで驚いてないんですか?!今日だけで十人の小吏の収賄がバレたんですよ、たった数刻面接をしただけで」
「僕ら当主候補と蔦家の子は小さい頃はさながら太学のようにまとめて育てられるんです。彼のことは弟のように知っていますよ。汀眞は人が嘘をつくときの癖を全て記憶していますから、彼の前で嘘をつくのは愚行です」
そう言いながらも嬰翔が彼に手を焼いているのは事実だ。
彼が来てから明らかに國府の雰囲気が変わった。
ピリピリと張りつめた空気が明らかに官吏たちの仕事の手を止めてしまっている。
「おかげでこの重たい空気、斎刺史は仕事がはかどると言っていましたが全員戦々恐々としてます。これでは仕事に支障が出ます」
汀眞の上司にあたる斎刺史は御史台から派遣されてきたのが不思議なくらい優しい人間で、鈴扇の方が官吏を監察しているのではないかと思っていたが、どうやら本当にそうだったらしい。
彼はこの状況で一人、仕事がはかどると汀眞の赴任を喜んでいた。
「手加減を知りませんからね。目の前に嘘があれば暴くように、あの一族はそう育てられているんです」
「お前たちはこんなところで何をしているんだ?」
そう言って四阿に向かってきた鈴扇もいつもよりも少し疲れている気がする。
汀眞が官吏の汚職を暴いたことに伴う謹慎やら処分やらで彼も仕事が進んでいないのだろう。
「鈴扇、晋殿から話は聞けましたか」
晋 楚楊、少し前に賊にその家を襲われた小吏のうちの一人の名前である。
彼は小吏の副業として商店をいくつか営んでおり、その美術品の殆どが盗まれてしまったらしい。
彼の落ち込みようはひどいものだったと、周りの人間からも聞き及んでいる。
「ああ、どうやら賊が絡んでいるらしい。刃物を突き付けられて脅されたのだと言っていた。これが贋金だと言えない現状、男を本格的に追うのも難しいな」
芙蓉の横に積まれた贋金を見て鈴扇も渋い顔をした。
「でも、おかしくないですか。なんで絵を盗んだ賊が今度は贋金まで使って正規の手段で手に入れようとするんです?」
芙蓉が言うと、たしかにと二人も頷く。
なんとも不思議なことばかり重なる事件である。
「そこは私も疑問だ。お前ならなにか思いつくかと思って来てみたが、もう動いていたとはさすがだな」
「まあ、それはちょっと事情がありまして……」
鈴扇が感心したように言ってくれたところ申し訳ないが、芙蓉がこれほど必死になっているのは保身のためが第一であった。
もちろん、この贋金がどこから湧いたのかという話は気になるが今はそれどころではないというのが本音である。
「また葵家から何か言われているのか?……もしかして、驟雨か?」
疑うように芙蓉の顔を覗き込む鈴扇に、芙蓉は不思議そうな顔をした。
「なんでそこで驟雨様の話が出てくるんです?あの人からは三か月に一度文が届くくらいであれからなにも便りはありませんが。それに今回は葵家は関係ありません」
「……ならいい」
彼が驟雨を気にするのは、芙蓉にちょっかいを出さないようになのだがそれを知っているのは嬰翔だけだ。
芙蓉は気にしていないだけで少し考えると気が付いてしまいそうなので、嬰翔は急いで話題を変える。
「それにしても今回汀眞が送られてきたのは芙蓉殿にとって試されているというか、商人風に言うと試金石を放り込まれたようですねぇ」
嬰翔が気を使ってそう言ったとき、芙蓉は何か思いついたようにその瞳を輝かせ椅子を立った。
見開かれた瞳に日の光が差し込んで、淡く銀に輝き始める。
「試金石……試金石!そうか、その手がありましたか!」
「いつも、急に思いつきますね。でもあれも見る人が見ないと分からないでしょう?」
試金石、彼女が口にしたそれは美術商であればおそらくだれでも知っている代物である。
金に傷をつけることでその純度を確かめる手段の一つだが、それを行うのも熟練した鑑定士だと聞く。
目がいいとはいえ、経験のない彼女にできるとはとても思えなかった。
「素人でも見て分かるようにすればいいんです。嬰翔様、午後には戻りますね!」
そう微笑んで言うと芙蓉は四阿を抜けて走って行ってしまう。
ようやくいつもの調子を取り戻した彼女に嬰翔はよかった、と思わず呟いていた。
「何かあったのか?」
「同年の官吏同士、競っているようですよ。一月以内に贋金の出所を見つけるんだそうです」
不思議そうに聞く鈴扇に嬰翔は差支えのない程度に答えた。嘘は言っていないだろう。
芙蓉がいなくなった椅子に腰かけた鈴扇はどこか懐かしそうな顔をする嬰翔を見て言う。
「あいつが来て懐かしくなったか」
「僕はそんな顔をしてましたか?心配しなくても帰りませんよ」
地方官吏として働く気であった嬰翔は鈴扇とともにこの國を変えようと思ってからも、時折彼の故郷である薊國に帰りたいと軽口を叩くことがあった。
彼はそれを存外真に受けているのだろう。
「私にはまだ、お前がいなければ困る」
その絶対の信頼に、優秀だが秀才の域を出ない嬰翔はたまに申し訳なく感じてしまう。
「……はは、そうですか」
分かりにくいが、鈴扇は嬰翔に絶対の信頼を寄せている。
彼が欲しいのは優秀な部下なのか、信頼できる友なのか。
後者であれば、それはただの依存関係なのではないかと思ってしまうときがある。
芙蓉が来てからそう思う回数は確実に増えた。
それでも嬰翔は鈴扇を安心させるように言う。
「僕が懐かしそうな顔しているように見えたなら、思い出しているのは薊國のことではなく、僕らが若かった時代のことです」
「お前、年寄りみたいになってきたな」
「……余計なお世話ですよ」
まあ、時折無性に帰りたくなるのはこういうところがあるからでもあるが。




