2.薺家の懐刀─1
『芙蓉、葵國で待っている。さっき言ったことは本気だ。この男に飽きたら私を頼りなさい』
そう言って葵國國令候 驟雨が去っていってから、もう一週間は立っただろうか。
あれ以来鈴扇の機嫌は良くない、というのを知っているのは副官の嬰翔だけであった。
一見していつも通り政務をこなしているが、その表情は少しだけ険しい。
もっともいつも難しい顔をしているのでその違いが分かるのは嬰翔くらいのものである。
ある日、嬰翔は鈴扇が通りがかった芙蓉に問うのを柱の影から聞いていた。
「芙蓉、その佩玉はどうした?」
「あっ、これですか?これは驟雨様から笄冠の祝いに頂いたものですが」
冷や冷やして見ていた嬰翔は、ひょっとしてと思っていたことが事実だと分かり思わず声が出そうになった。
何しろ急に芙蓉がやけに凝った意匠の佩玉を付け始めた上に、その色が菫色なのだから怪しいに決まっている。
「……そうか」
「はい……?」
気落ちする鈴扇に気が付くわけもなく、芙蓉は素直に答える。
というか鈴扇の表情は怒っても悲しんでも険しくなるだけなので普通の人間にはその機微が分かるはずもない。
芙蓉も仕事のことなら気を利かすが、鈴扇との他愛もない会話の一部だと思ったのだろう。
特に気にする様子もない。
「やっぱり目立ちますよね。ちょっと派手かなとは思ったんですが、色も薄いですし気になるほどでは……えっ?鈴扇様?」
「……別に気になる程度ではない」
そう言ってすぐに踵を返すと鈴扇は芙蓉とは逆方向に歩いていってしまった。
少しはましになったとは言え、忙しい蘭國府のことである。芙蓉は首を傾げるがすぐに仕事を思い出したのか、廊下を走って行ってしまった。
嬰翔は飛び出しそうになるのを必死にこらえていたせいか、二人が立ち去ったあと思わず声を上げてしまう。
「鈴扇ってば、はっきり言えばいいのに……!」
候 驟雨のことは何度か朝廷ですれ違った程度ではあるが、鈴扇とは違う人好きのする温和な國令だと思っていた。
だが同時に笑顔で人を操る男だと聞いたこともある。
何はどうあれ一筋縄では行かない人間だと思っていたが、先日の一件ではっきりした。
鈴扇にとって天敵であろう彼は間違いなく鈴扇と出世を争うことになる手強い相手だ。
しかも、面倒なことに彼はどうやら芙蓉に惚れているようだった。
『実は私の後見になっていただいたのは葵國の國令なのです。こんなところは早く出なさいと、初めて私に言ってくださったのもその方です』
そう、芙蓉が言っていたのを嬰翔は覚えている。
彼女を外に連れ出した張本人が驟雨なのだ。つまり、間違いなく彼は芙蓉が女であることを知っている。
対して女性経験の少ない鈴扇は芙蓉が少年だと信じこんでいる。
このままだと鈴扇は圧倒的に不利だ。
鈴扇のことだから、少し表情が険しくなる程度で仕事に支障は出ない。
芙蓉にきつく当たったりもしないだろう。
しかし、友として寂しそうに芙蓉の佩玉を見る彼があまりにも可哀そうで、嬰翔は助言を試みることにした。
夜、鈴扇が一人で素案に目を通しているのを横目に資料の整理をしていた嬰翔はわざとらしく、咳払いをすると「お茶にしましょう」と誘った。
以前なら、断られていたこの誘いも最近では三回に一回は乗ってくれる。
今回は運良くその三回目だったようで、筆をおくと彼は顔を上げた。
素早く茶器を鈴扇の前に置くと自らも向かい側に腰かける。
「鈴扇も何か送ればいいのではないですか?」
「何のことを言っている?」
「芙蓉殿の佩玉、気になるのでしょう。鈴扇も何か送ればいいではないですか」
そこまで言うと、鈴扇は珍しく溜息をついて嬰翔の顔を見た。
「私はそんなに顔に出ていたか」
「まあ、僕に分かるくらいで他の人間は何も感じていなかったと思いますが」
それは控えめに言ったことではなく、本当のことだ。
今だって彼は殆ど顔色を変えていない。
黙ってしまった彼にしびれを切らして、嬰翔は話を続ける。
「ちなみに僕も何か送ろうかと考えておりまして、薊國で手に入れた異国の書物なんか喜ばれるかと」
「何をやったらいいのか分からん。あの年頃、お前は何か欲しいものがあったか?」
思わぬ質問に嬰翔は首を捻る。
「僕は、そうですね。上等な紙と、上等な硯ですかね……と言ってもあの年頃、僕たちは朝廷を駆けずり回っていましたからほとんど記憶がないというのが本音です」
なにしろ地方官吏になろうと思っていたところを鈴扇に呼び止められたため、他の官吏に抜きん出ようなど思ったこともなかった嬰翔だ。
その意識の根底から変えなければならなかったし、鈴扇は鈴扇でこの性格なのであまり他の人間と交わることもせず、やっかみもひどかった。
若い芽を早く摘もうとする人間もいたので、生き馬の目を抜く朝廷で生き延びることに二人は必死だったのだ。
いや、主に嬰翔が必死だっただけかもしれない。
今になって見ると苦い思い出もたくさんある。
「それは私もだ。あいつは人がどれだけ苦労して、四士に上がったと思っているんだ。新任で四士の位など聞いたことがない」
「ただ、芙蓉殿これで満足してそうなのが勿体ないんですよね。四士以上という条件は合格してしまいましたし、現状補佐役の方があっていると言わざるをえませんしね」
「それに関しては今度着任する官吏が確か芙蓉と同年だろうし、いい刺激になればいいがな」
「出世欲に関しては彼の横に出る者はいません。圧倒されなければいいんですが……ってその話は良いんです、芙蓉殿の欲しいものでしたらやはり仕事で使えるものがいいのではありませんか?」
いけない、すっかり芙蓉の上司としての話になってしまった。
たしかに彼女の行く末も心配だが、今は目の前の問題も片付ける必要がある。
「仕事で使えるものか……」
「ええ、そうです!」
嬰翔は声を大きくして言う。
仕事で使うということは常に近くにあるということだ。
それならばあの佩玉に対抗できる、というのが本心であった。
だが、鈴扇は合点がいったように頷くと嬰翔の意に反して突拍子もない提案をしてくる。
「では、上等の紙を用意しよう。芙蓉も質の悪い紙は節が気になって書きづらいと言っていたからな。嬰翔、薺家の者に頼んでいくつか見繕って……なんだ、その不満そうな顔は」
「鈴扇、そんなので勝てると思ってるんですか!?」
嬰翔が拳を震わせながら食い気味に言うと鈴扇は不思議そうに尋ねる。
「……何にだ?」
嬰翔は絶句した。
忘れていたが、彼は芙蓉を少年だと思っているのだ。
つまり、腹を立てているのは仕事の出来る部下が引き抜かれそうになっているからであって、好きな女にちょっかいを出している男がいるからではない。
いや、実際は違っても本人はそう思い込んでいる。
ひょっとしたら鈴扇は自分が腹を立てている理由など分かっていないのかもしれない。
太学時代から女の噂など一度も聞いたことのない彼のことだから、そんな推測もあながち間違っていないはずだ。
我慢ができなくなった嬰翔は立ち上がると鈴扇の前から茶器を下げた。
「……本当にあなたは仕事馬鹿なんですから!ほら、外に出ますよ!僕がいくつか候補を上げるんでその中で選んでください!いいですね!?」
「あ……ああ、お前そんなに怒ってどうしたんだ?」
珍しい剣幕で鈴扇の背を押す嬰翔に気圧されながら、二人は執務室を後にしたのだった。
※
「携帯用の筆記具ですか!?しかも葵國産の石を使った逸品じゃないですか!」
結局、嬰翔が選んだ中で鈴扇が芙蓉に贈ったのは携帯用の筆記具であった。
墨壺と筆が携帯できる小さな箱に入っており、それに合わせて紙もいくつか収納できるようになっている。
ちなみにこちらにも控えめではあるが、鈴扇の瞳と同色の小さな濃い紫の玉があしらわれているのは嬰翔の仕業である。
これが案外勉学好きの芙蓉のお気に召したようで、貰った途端嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとうございます、鈴扇様」
そう言って貰ったものに頬ずりでもしそうな芙蓉に、嬰翔は胸を撫でおろした。
鈴扇もまんざらでも無かったようで嬉しそうに頬を掻いた。
「あぁ、これからも精進しろ」
そう言って少しだけ綻んだ鈴扇の顔は、隣から見ていても普通の女なら卒倒してしまうほど美しい。
見つめられた芙蓉が顔色一つ変えないので忘れそうだが、鈴扇に動じない彼女もすごい。
これでは一つも進展しそうにないなというのが本音だが、それだから嬰翔も二人を見守りたいのだ。
「そう言えば芙蓉殿、佩玉はお付けになっていないんですか?」
ふと、芙蓉の腰元に佩玉がなくなっているのを見た嬰翔は不思議に思って尋ねた。
「あぁ、あれですか。やっぱり私がつけるには高貴すぎるのではないかと思いまして。今は箪笥の中に仕舞っていますよ」
そう言って苦笑する彼女には後ろめたい思いもあるのだろう。
少し女性らしすぎるのだ、と嬰翔はすぐに気が付いたが口には出さなかった。
似合ってはいたが、確かに少し仕事場には場違いであった。
驟雨には悪いが、なんにしろ良かったと嬰翔は思わず胸を撫でおろす。
こうして、鈴扇の機嫌を回復させることに成功した嬰翔なのであった。
※
「芙蓉くん、今日は偵察ですか?」
時刻は日入(夜七時)の刻を少し過ぎた頃、仕事に区切りをつけた芙蓉は夕食を取りに街に出ようかとしているところを青年に呼び止められた。
芙蓉くん、と気さくに呼ぶのは蘭國府でも彼一人だけだ。
「芳輪先生、こんなところでどうしたんですか?」
芙蓉の後ろで不気味に笑っているのは無精髭を伸びっぱなしにした怪しい男である。
朔 芳輪、彼は芙蓉が府内に開いた私塾で教師を務めている人間である。
いかにも蘭國の人間らしい、青みがかった黒髪に淡い青の瞳。まだ三十代のはずなのに無精髭は伸びっぱなしで、眼鏡という視力矯正道具を身に着けている。
その風体は芙蓉と彼が初めて出会ったころに比べれば随分とマシだが、今でも彼を知らない者には不審人物に見えるだろう。
事実、彼の周りを避けるように人の波が裂けている。
小吏たちの紹介で國府に連れてこられた彼はとにかく変わり者で、芙蓉の見立てでも国試に通るくらいの頭脳を持っていながら実家の商家の店番などをして、ふらふらしている男だった。
こんな人間に教師ができるのかと思ったが、やらせてみると教えることは案外好きらしくそのまま教師に収まっている。
ちなみに教育を司る礼曹で働かないかとも誘ってみたのだが、「自由が利かないのは死んでも嫌だ」と笑顔で断られたのは苦い思い出だ。
「先生だなんてあなたに言われたら照れますよ。どうされたんですか」
「最近治安が悪いと聞きまして、夕食がてら何か最近変わったところでもあったかなと見て回ろうかと思ったんですよ」
「駄目ですよ。芙蓉くんは弱そうなので一人でいるとすぐにカモにされます」
「ははは、相変わらず正直というか無礼というか……先生から見て何か変わったところはありましたか」
彼の無礼な物言いにも慣れたもので、芙蓉は注意することもしない。
「そうですね、最近商人は増えている気がします。ほら、芙蓉くんが薊國から絵付け職人捕まえてきて、いろいろ街で教室開いたりしたでしょう。赤錆を使用した絵付けは珍しく艶やかだからと最近人気が出ているんです。商業が活発になるのに伴って盗みも増えているというわけです」
その話なら芙蓉には大いに心当たりがあった。
工芸品の発展の乏しいこの街に、少しでも良いかと思って薊國の絵付師を招いたのである。
芙蓉もいくつか自分の持っている知識を伝えたが、中でも普通はやっかまれるはずの鉄錆を利用した釉薬は今までにない色だと評判が高く、人気があるらしい。
商人の出入りが増えているということは良いことだし、制限はしていなかったのだがまさかこんなに早く治安の悪化につながるとは思っていなかった。
少し前まで警備が少なくても良かったこの街が賑わい始めたのだからそれもしょうがない話だが、頭が痛かった。
「まわりまわって私のせいですか……?」
「とんでもない、君のせいではありませんよ。青漣が流行りにとにかく疎かったのです。ただ良いものばかりが運ばれてくるわけではないというのが商売ですから」
「まあ、その通りですね」
そんな話に長く興味を示す彼ではなくすぐに「ところで」と話を変え始める。
「芙蓉くん、今から夕飯を外に食べに行かれるんですよね?よろしければご一緒にどうです。実は薊國から新しい本を仕入れまして、芙蓉くんにも見解をお聞きしたい次第です」
そう言って書物を芙蓉の前にちらつかせると、彼女も嬉しそうに目を輝かせた。
「薊國から!?ということはもしかして異国の書ですか?」
「はい、そうです!」
七つの國のうち唯一異国に接している薊國では最新の異国の書物を扱う市があると聞いたことがある。
芙蓉も興味のあったところなので、二人はしばし若い娘のように手を取り合って喜びを分かち合う。
周りにどう思われようがあまり気にならないのは双方似た点である。
「ぜひご一緒させてください!」
芙蓉がそう言うと芳輪は一層笑みを深め、芙蓉の手を取って青漣の雑踏に紛れた。
「いや、今日は良い話が聞けましたよ。芙蓉くんは本当に見識が広い。まさか、医学にも造詣が深いとは恐れ入りましたよ」
飯店を出たところで、芳輪は満足したようにそう言った。
随分と話し込んでしまったようで、店主にいつまでいるんだと睨まれたのを芙蓉が「お開きにしよう」と言わなければ朝まででも話していただろう。
今度はお互いの家を訪ねるのもいいかもしれない、と思ったが以前嬰翔に止められたことを思い出して言うのは思いとどまった。
こんな人でも男は男なんです、と言うのが彼の言い分だが芙蓉はそうは思わない。
彼は芙蓉が女でも対等に接してくれるだろう。
「いえ、私も最近の情報をいろいろとお聞きできてよかったです。また誘ってくださいね」
「芙蓉くんに誘われるなんて光栄ですよ。あなたほど奇特にありとあらゆる知識を持っている方もいらっしゃいません」
一応は褒められているのだろう。
苦笑しながら礼を言うと、ふと芙蓉は朝廷で見た詩の暗号のことを思い出した。
もしかしたら彼ほどの有識者なら何か知っているかもしれない。
「芳輪先生を見込んでお聞きしたいのですが『泥の中に君を思う』という言い回しって聞いたことがありますか?」
「泥……?泥って、もしかして沼の中にある泥のことです?」
「はい、泥のことです」
「なんですかそれは、聞いたことがありませんが」
「そう……ですよね、気にしないでください」
やはり父の意味不明な口説き文句だったのかもしれない、と急に恥ずかしくなって笑って誤魔化そうとすると、彼は思いついたように言った。
「泥、と言えば蓮ですね」
「蓮?どうしてですか?」
「芙蓉くんに風情がないのは知っていますが、これくらいは知っていないと女性の心は掴めませんよ」
余計なお世話だ、と芙蓉は顔を顰める。
食事中に、鼠の腸の話をし始める男には死んでも言われたくない言葉だ。
「泥中の蓮という言葉をご存じありませんか。いくら汚れた環境に身を置いていても、その汚れに染まらず、清く生きている人のことを言います」
「……泥中の蓮」
「蓮は綺麗な女性の代名詞ですから、どうせ手の届かない女性に思いを寄せた惨めな男の文句でしょう」
「はは……惨めとは酷いことを言いますね」
父は貴人に恋い焦がれでもしたのだろうか。
その言葉の通り蓮家の人間なら、芙蓉は葵家に加え蓮家の女性を探さなければならなくなる。
想像してみるとさらに気が遠くなりそうだった。
芙蓉のことをかまうことなく彼は蓮、蓮とうわごとのように呟いた。
「何しろあの蓮家が皇帝陛下に蓮を下賜されたのは彼らの容貌が並外れて美しいからでしょう。いやぁ、僕も蓮國で蓮一族とすれ違った時は驚きましたよ。
彼らの目や髪ときたら銀色に輝いているんですもの!」
そう、彼が言うのを芙蓉は不思議そうに見た。
「蓮國の方は白の髪に白の瞳を持っていると聞きましたが、違うのですか?」
並んだ高位の貴族を黒の葵家、白の蓮家と民は呼ぶ。陰陽の関係にも似たこの二つの貴族は六大家の中でも強く美しい独特の一族だ。
「たしかに白ですが蓮家だけは少し違うのですよ。彼らの色彩は日の光を受けて銀に光り輝くんです。そうですね、ちょうど芙蓉くんの目のように」
「私の目のように?」
彼は芙蓉の目をじっくり見てから、がっくりと肩を下ろす。
どうやら芙蓉の容姿は彼のお眼鏡にかなわなかったらしい。
「まぁ、彼らの瞳の光には比べるべくもないですがね。でも灰色の瞳というのは珍しいですよね。一度、人相鑑定士に見てもらってはどうでしょう?私もあなたの出自が気になります」
「この色は私が葵國の出身だからですよ。平民は色が薄くなるのを知っているでしょう?」
芙蓉は笑って言うが、彼はめげずに芙蓉の顔を覗き込んだ。
この好奇心の虫に捕まってしまうと少々面倒なのである。
「にしても少し色が違いますよね。しかも芙蓉くんの髪の色はほら、黒光りする虫のような色ではありませんか」
葵家の髪色は黒曜石のように美しいとは言われるが、そんな不名誉な形容詞は聞いたこともない。
彼なりの賛辞なのだろうが、気分のいいものではない。
「む、虫……?とにかく私の容姿のことは」
芙蓉がそう言ったときのことである。
「あんたなんなんだい、いきなり入ってきて!」
争うような声が近くの商店から聞こえてきた。
店主の剣幕に喧嘩でもしているのかと声が聞こえた近くの美術商をのぞくと、店主が一人の少年の胸ぐらを掴んでいた。
何かあったのかと芙蓉たち以外にも人だかりができ始めている。
胸ぐらをつかまれている割に少年はえらく落ち着いていて、諭すように店主をなだめている。
「別に俺はあんたの売り上げ取ろうってんじゃないよ。商売の邪魔するわけじゃないんだから邪険な顔するのはやめてよ」
見ると少年が、店の主人と客に割って入り何か揉めているようだった。
見ている客は気まずそうに争う二人を見ている。
嬰翔に似たその淡い赤髪は彼が薊國の人間であることを示している。
服装からして旅の途中のようだった。
少年は店主が受け取った金貨を一瞥するとピンと指で弾き、客を睨みつけた。
「これ、贋金だよ」
「贋金だって?」
それを聞いて既に商品を布に包んでもらっていた客の顔が険しくなった。
誰もが少年を疑ってざわつき始める。なにしろ何の証拠もない。
芙蓉はすいませんと断りながら、少年に話を聞くために彼らを囲む人だかりをかき分けた。
恐らく彼が言っているのは嘘などではない。
何故かそんな気がした。
「めったなことを言うもんじゃないぞ、お前!」
店主は客を逃がすまいと少年に食って掛かるが、少年はその朱色の瞳を尖らせて言う。
「すごく良くできてるね、俺じゃなかったら多分誰も気が付かない」
二回りは上の店主相手に少しも怯まないのはすごい度胸だ。
それだけの自信があるのだろう。
「……くそっ!」
少年がそう言ったところで、客は店主から布に包まれた美術品を奪うとさっさと逃げ出してしまった。
人だかりのない路地裏に回ると、手慣れているのか姿勢を低くしてすぐに闇に紛れる。
店主は呆気に取られて一瞬ぽかんとするが、少年を下ろすとすぐに逃げた客を指さして言う。
「あっ、待ちな!誰かそいつを捕まえてくれ!」
「芙蓉くん、追いますか?」
芳輪に問われた芙蓉は頷くと素早く指示を出す。
「芳輪先生は武官を呼びに行ってください。私は彼に話があります」
「御意」
それだけ言うと彼は近くの警備兵を探して、走っていく。
話を聞こうと少年の方を振り返ると彼は店主に苦言を呈しているところだった。
「ねえ、ごめんとかないの?俺、忠告してあげたのに」
「……すまなかったよ」
店主は素直に謝るが、気まずそうに少年と目を合わせようとはしない。
少年は不満そうに眉を顰める。
「それだけぇ?なんか助け甲斐ないなあ」
はぁ、溜息をつくが少年はそれ以上何かを請求するでもなく、贋金を持ってその場を立ち去ろうとする。
「待ってください!贋金ってどういうことなんですか?」
一仕事終えたようにその場から立ち去ろうとする少年に声をかけると、振り返った彼は特に特徴もない薊國の少年だった。
しいて言えばその顔は若い娘の好きそうな女好きのするものだが、その髪色や瞳、服装にはこれと言って特徴はない。
彼は芙蓉の元まで歩いてくると、美術品を査定するようにその顔を見つめた。
「君、官吏?」
「はい、私は莢 芙蓉。この國の國令副官です」
「……へぇ、そうか。ふーん」
そう言うと少年は、彼曰く贋金の入った袋を芙蓉に投げた。
「うわっ!ちょっと重要な証拠品なんですよ!」
「じゃあ、この贋金。俺と一緒に國府まで持っていってくれる?」
「なんであなたも来るんです?」
少年の意味不明な提案に芙蓉は疑問を投げるが、少年はのらりくらりと疑問をかわしてくる。
「なんで分かったか知りたいんでしょ?」
確かにその通りだ。
近くで見てもその金貨に変わった様子は見られない。
この一見なんの変哲もない金貨を、少年はどうやって見抜いたのだろうか。
「それは今ここで教えていただいて構わないんですが」
「俺、國府まで連れて行ってくれないと話さないよ?」
しばし見つめあった後、折れたのは芙蓉の方だった。
「……分かりましたよ」
どうするんだ、とでも言いたげな彼の目に芙蓉は仕方なく頷くしかなかったのだ。
※
「ねえ、まさかとは思うけど蘭國府ってあれ?しょぼくない?」
街を通り抜けたところにある蘭國府を見つけた彼はなんとも失礼なことを言い出した。
「私は他の國の國府を見たことがないのでわかりませんが」
「芙蓉ちゃん、何歳?その歳で國令副官ってすごいね」
「別に、こう見えて成人はしています。あとその呼び方はやめてください。私は男です」
そっけなく答えると少年は気にした様子もなく会話を続ける。
芙蓉の周りには普段、寡黙な鈴扇と無駄のない嬰翔くらいしかいないので中身のない彼の話にはほとほと疲れてきた。
「じゃあ、芙蓉。十八か……俺と同い年だね」
「あなたは何者なんです?あんな一瞬で贋金を見抜くなんて、只者ではありませんよね?」
「うーん、只者ではないか。久しぶりに言われたな、そんなこと」
先ほどから彼は芙蓉に質問をしても自分は質問に答えない。
こういう態度が一層二人の会話の意味をなくしているのだと、芙蓉は手ごたえのない会話に嫌気がさす。
「答えになっていません。彼のあの様子からして贋金であることは確かだったようです。しかし、私が見たところで何も違いは分かりません。あなたはいったいどうやって知ることができたんです?」
「まあまあ、それは着いてから話すからさ……って何してんの?」
芙蓉が、露店を見ながら歩いていることに気が付いた少年は不思議そうな声を出す。
「物価を見ているんです。贋金が出回ると金が増える、増えるということは物価が上昇します。その兆しがないか見ているのです」
芙蓉も彼の他愛もない話に飽きて聞き流しながら、観察をすることにしたのだ。
見て回っていてもさしたる物価の変化はない。
どうやら贋金はまだ出回り始めてはいないらしい。
「へぇ、流石。王様があんたを買ってるだけあるなぁ」
少年の言葉に引っかかって振り返ると、彼はまた芙蓉を見定めるような目で見ている。
「王様?あなたやっぱり、只者では……」
「汀眞、あなたなんで芙蓉殿と一緒にいるんです?」
振り返るとそこに立っていたのは不思議そうな顔をした嬰翔であった。
「嬰翔様、どうされたんです」
「芙蓉殿。贋金騒ぎに関しては今、報告を聞きました」
芙蓉が嬰翔の方に歩みを進める前に、少年の方が目を輝かせて嬰翔に飛びつくように前に出ていた。
「翔兄様!」
「翔……兄様?」
聞きなれない言葉にぽかんとしていると、嬰翔はいつも優しいその目つきを尖らせて彼を見た。
汀眞、というのが彼の名前らしい。
「あなた随分早く着いたみたいですね。蘭に着いたら僕のところを訪ねるように文を送ったはずですが」
感極まって抱き着こうとする彼の額をはたくと、嬰翔はいつになく厳しい顔で彼を諫める。
少年の方はそれを意に介さず、嬰翔にはたかれた額を笑いながら押さえた。
「さっき着いたとこなんだよ、美術品の店があったから入ってみたら贋金が見えたから捕まえようとしただけじゃん」
「相変わらず変に引きが強いというか。いや、この場合は芙蓉殿の引きが強いと言ったほうがよさそうですね」
「お知り合いなんですか?嬰翔様」
尋ねると、嬰翔は「残念ながら」と少年を横目に溜息まじりに言った。
「一度あなたに蔦家と薺家について話したことがありましたね。薺家には蔦家という当主候補を値踏みする家系が存在していると。僕は彼らに値踏みされた側、彼は値踏みする側の人間です」
「では、蔦家の?」
「俺、何回も自己紹介するの面倒だから着いてからでもいいかな?」
その質問は、芙蓉にではなく嬰翔に聞いているようだった。
明らかに少年、汀眞は芙蓉のことを舐めている。
自分が舐められやすい容姿であることは百も承知だが、こうあからさまにされると不快だ。
「戻りましょう。鈴扇もあなた方のことを待っています」
嬰翔も言って分かる相手ではないと思ったのか、勝手に歩き出した汀眞に声をかけ申し訳なさそうに芙蓉を見る。
嬰翔のせいではないと目で合図をすると、芙蓉は黙って汀眞の後を追った。
「新しく蘭國刺史副官に任命されました、蔦 汀眞です」
鈴扇の前で綺麗にお辞儀をして見せた少年は、それでも國令の前に膝を折る気はないらしい。
改めて、明るい場所で見ると彼は流行りの服や装飾品を身に纏った随分と洒落た少年であった。
肩までの赤髪をまとめている髪紐一つにしても、最近王都で流行りの凝った編み込みのものであり彼の魅力をうまく引き立てている。
それにしても新しい刺史副官が着任することは嬰翔から聞かされていたが、こんな若い人間だったとは驚きだ。
先ほど芙蓉にその年で副官は珍しいと言ったくせに、自らも副官職を得ているのだからなんとなく腹立たしかった。
その不遜な態度に鈴扇も汀眞を胡乱な目で見つめている。
「……本当に来たのか」
彼も休んでいたのか、その美しい亜麻色の髪を下ろしていた。
「僕は踏み倒すと思ってたんですがね」
「ひどいなぁ、翔兄様。俺がそんなことするわけないじゃん。吏部に全然従わない高慢ちきな六大家の人間でもあるまいし」
彼が舐めているのは、芙蓉だけではなかったらしい。
鈴扇のことさえも馬鹿にしたような目で見るものだから、隣の嬰翔も冷や冷やしている。
「随分な良いようだな。お前の前にいるのは菫家の人間だぞ」
「あんたが筆頭でしょ。翔兄様のことさんざん振り回したかと思ったらこんな田舎の國にまで連れてきて。こんなことになるなら苑華様に頼んで早く薊國に連れ戻すべきだっ…痛っ!」
殴り合いでも始まりそうな雰囲気に嬰翔は持っていた書簡で汀眞の頭を叩いた。
なんとなく扱いがぞんざいな気がするのはそれだけ二人の仲がいいということなのだろう。
先ほどから嬰翔のことを兄と呼んでいるのを見ても、二人の関係が長いことが伺える。
薺家と蔦家の話を聞いたときの印象と二人の関係性は随分違って見えた。
「こら、言い合いをするために連れて来たんじゃありませんよ。あなたには贋金について聞きたいんです」
嬰翔はそう言って鈴扇の前に袋に入った贋金を並べた。
「で、これが贋金だというのか?」
鈴扇は汀眞とは話が進まないと判断したのか芙蓉の方を見て問うた。
芙蓉は蚊帳の外からいきなり話を振られたので反応が少し遅れてしまう。
「あっ、はい、なんの証拠もなしに持ってくるのは気が引けたのですが彼がそうだと言い張りまして」
「証拠ならそこにあるだろう」
そう言うと、鈴扇はこめかみに手を当てた。
「そこ、とは?……もしかして汀眞殿?」
「蔦家の人間が言っているなら間違いはない。おそらくこいつを連れて行っただけで証拠になるぞ。どんな教育をしてるのか分からないが、蔦家は全員が全員この国で適うものはいない目利きだ。蔦家のものを見る目は正真正銘本物だ」
「これ、すごいのが殆ど重さも変わらないんです。見てくださいこの天秤」
「……釣り合ってますね」
鈴扇の机の上で揺れた天秤が釣り合って止まるのを見て、改めて汀眞の異常さが分かった。
こんなもの一般人に分かるわけがない。
「翔兄様は俺が嘘ついてるって言いたいの?」
「まさか、君の目は本物です。以前、金にたった百分の一だけ含まれた鉄を光沢だけで見抜いたのを覚えていますよ。というか、蔦の名前を持つものを今更疑う訳がないでしょう」
「どういう意味です?」
ふん、と彼はまた芙蓉を馬鹿にしたような目で見て、鼻で笑った。
いちいち腹の立つ男である。
こういった家同士の事情に疎いのは平民なら普通のことだが、貴族の多い官吏社会ではひどく馬鹿にされるものだと芙蓉は一年で重々学んだ。
「蔦家は人を見る目もものを見る目もないと分かった瞬間、家を放り出されて蔦姓を持つことを許されなくなるからね。蔦家の名前自体が商標みたいなもんなの」
汀眞がそう言ったところで、嬰翔は深い溜息をついた。
「……なぜ、なぜこんなに蘭國ばかり問題が起こるんです…脱税騒ぎの報告書がやっと仕上がったばかりなんですよ……?」
もっともである。
まだ蘭一族の脱税騒ぎから三か月も経っていないのだ。
「芙蓉もその場にいたんだろう。何か気付いたことはあったか?」
落胆する部下を横目に鈴扇はいつも通り冷静に芙蓉に尋ねた。
芙蓉は嬰翔を哀れな目で見つめつつ答える。
「私から言えることは二つです。まず一つ、帰りしなに露店の商品を見ていましたが物価にさしたる上昇は見られませんでした。よってまだ贋金が出回ってはいないと思います」
「贋金の流通と言えばまず気がかりなのが他国の干渉ですが、持ってきた男になにか特徴は?」
嬰翔の問いに、芙蓉は首を振った。
男は一般的な蘭國の人間だった。人の波にのまれて、分からなくなってしまうほどに特に特徴のない男だった。
「異国人と通じていた可能性は?蘭國だったら砦一つ越えるだけで、少し行けば麓の国境近くでしょ」
「ないと思います」
これにも芙蓉はすぐに首を振る。
可能性をすぐに否定されて、汀眞は眉を顰めた。
「なんでそう言えるの?」
「汀眞殿、もしあなたが他国から我が国の貨幣の流通を狂わそうと思ったら、蘭國を選びますか。しかも蘭國の人間を使うなんてまどろっこしいやり方をして」
芙蓉はその落ち着いた瞳で汀眞を見た。
彼はその目に気圧されて思わず押し黙る。
「私なら薊國か桜國を選びます。異国の人間も多く入ってきますし、分かりやすく流通が狂います。我が国は極端に物の流通が遅い、蘭で毒を撒いたところでその毒が他の國に行きわたるまで時間がかかりすぎます。合理的ではない」
「……ふーん、なるほど」
「そしてもう一つ、私が気にかかったのは贋金を持っていた男がこれだけ精巧な金貨にも関わらず何の弁明もせずに逃げたことです。おまけに汀眞殿が官吏とも、目利きとも分かっている素振りはありませんでした」
貨幣の流通を操ろうとしているわけではない、と思った。
それにしてはやり口が下手すぎる。
「汀眞殿も見ていましたよね、あなたが贋金だと言ったとき、周りにいた誰もが信じようとしなかったのです。目的は持ち去った美術品の可能性があります。おそらくあの美術品を買って、持ち去ることに一番の意味があったのです」
やり口が下手だったのではなく、目的が違ったのだと芙蓉は判断した。
嬰翔は芙蓉の瞳に確信を得た光が宿るのを確認すると、汀眞に問いかける。
「汀眞、その絵っていうのは見ましたか?」
「あー、残念ながら見てない、俺が見た時にはもう布に包まれてたし」
バツが悪そうにしているあたり、彼も男を逃がしたことを後悔しているのだろう。
芙蓉への態度はともかく、鈴扇への態度は彼の正義感からくるものなのだろうし、少なくとも悪い人間ではない。
「絵と言えば、小吏の中にも賊に盗まれたものがいましたね。彼にも話を聞いてみましょうか」
最近盗みが横行してきており、その被害を受けた官吏の話は芙蓉の耳にも入っていた。
嬰翔の話に頷くと、鈴扇は三人を見て指示する。
「今日はもう遅い。男の捕縛は國軍に任せるとして全員休め。私は、汎殿に話を聞きに行く」
「分かりました。鈴扇もちゃんと休んでくださいよ」
それには答えず、鈴扇は近くにあった紐で適当に髪を結ぶと出て行ってしまった。
なんとなく気まずくて続いて部屋を出ようとする芙蓉に嬰翔が声をかけた。
「芙蓉殿、僕も少し仕事が残っていますので、汀眞の案内を頼んでもいいですか?」
「まあ、そのくらいなら」
とても嫌だが、いつも世話になっている嬰翔に従わないわけにはいかない。
「芙蓉殿、眉間にすごい数の皺が寄っていますよ」
嬰翔が芙蓉の眉間の皺をどうにか伸ばそうと指で撫でているところに、
「ちょっと待った」
と汀眞が声をかけた。
「その前に、翔兄様に話があるんだけど。芙蓉も、ここに残ってくれる?」
その言葉に嬰翔と芙蓉は思わず顔を合わせる。
やっぱりだ、と芙蓉は冷や汗をかいた。
芙蓉の変装程度でこの少年の鑑定眼を出し抜けるはずもなかった。
「女の子だよね?なんで官吏なんかやってるの?」
思えば蔦 汀眞の着任は、朝廷から芙蓉への最後通牒のような采配だった。




