1.芙蓉と驟雨─2
三月の初旬のことである。
芙蓉は新人官吏の任命式に向けて王都金陵に出向いていた。
この数か月で少しだけ上達した馬術のおかげで休憩しながらではあるがなんとか馬で蘭國の國都である青漣からここまで来られたが、宿で一晩休んだ今も胃腸がひっくり返りそうな気持ち悪さが残っている。
金陵、花興の王都であるこの都はその名の通り国中の贅を集めた金の都であり、絢爛豪華な国一美しい都である。この地に住まう人々は他の国に比べ人種も様々だが、圧倒的に多いのは金の髪に金の瞳の人々だ。
金の髪に金の瞳を持った人々が集う天の都 金陵、その中央部に皇帝桜 慶朝の住まう宮殿があった。
この時期になると桜の花が一斉に咲く花興の宮城を桜雲城と人は呼ぶ。
読んで字のごとく雲海のような桜の並木の中には千を軽く超える建物が並んでいる。
芙蓉も初めて驟雨に連れてこられたときは驚いたが、この天上の宮ともいえるべき美しい城には五万を軽く超える人間が務めているらしい。
その奥、催事の中心となる太極殿に芙蓉は現在向かっていた。
二月に、吏部から芙蓉を國令副官として認めるという旨の辞令が送られてきたが、それに加え新人官吏は一年の研修期間を終えた証として、官吏の任命式に参加する必要がある。
蘭國は他の国と比べ発展の乏しい國であり、副官は一人配置すればいいとされていたが、今回の一件でむしろ発展の乏しい国を援助するためにもう一つ副官職を設けるべきではないかということになったらしい。
こうして芙蓉と嬰翔、二人の副官職が叶ったのであった。
開かれた宮城の扉をくぐると既に芙蓉同様に、昨年の国試を突破した進士がすでに集まっていた。
芙蓉と同じくして進士となったものは殆どが嬰翔や鈴扇と同じく太学と呼ばれる学び舎で出身であり、既に派閥がいくつかできているので芙蓉の付け入る隙は殆どない。
大人しくしていようと中央部に足を進めると芙蓉と同じくどの会話の輪にも入ろうとしない一人の少年が目に入った。
見ると他にも何人かの進士がその少年のことをちらちらと見ているのが分かる。
その理由はただ一つ、その少年の容姿が夢のように美しいからである。
碧 翆湅、彼は芙蓉と同じく太学に通わず国試を突破した少年である。
背は芙蓉より少し低いのではないだろうか。淡い金の髪を、女性がつけるような簪でまとめた彼はその名の通り睡蓮の花が匂い立つような美しい少年で、女の芙蓉でも霞んでしまうほどその顔立ちは華やかだ。
少し吊った翡翠の瞳を髪と同色の長い睫毛が囲い、小さな唇は可愛らしい桜色、頬紅を施したわけでもないのに仄かに赤い頬は庇護欲をそそる。
「金の花」だと、かつて埃にまみれた書庫に務めていた芙蓉でさえもその愛らしさは及び聞いていた。
女だとバレなかったのはこの少年のおかげだと芙蓉は密かに彼に感謝していた。
「どうされたんですか?莢進士」
少し見つめすぎたせいかもしれない。
いつの間にか芙蓉の隣に立っていた彼は猫のように目を細め、芙蓉の顔を覗き込んだ。
「い、いえ。碧進士、今日も麗しいなと思いまして」
「僕はこのような装飾品でもないと格好がつかないような貧相な身ですので」
そう言って簪に指を絡めながら困ったように微笑む彼に、周りの進士たちの「かわいい」という心の声が聞こえたような気がした。
芙蓉もそれが可愛いとは思うが疑問でもあった。
少し婀娜っぽいようにも見えるこんな仕草を、彼は生来身に着けて生まれたのだろうか。
「莢進士は、蘭國令副官になられたのですか?すごいですね、僕たちの出世頭です」
「運が良かっただけです。そう言う碧進士も御史台に配属されたと聞きましたよ」
御史台、三省六部から独立した官吏の監察機関であるこの部署は将来出世を見込まれた官吏を多く起用すると言われている。
彼は美しい上に有能な官吏と認められ、その部署に配属が決まっているのだ。
「僕も運が良かっただけですよ」
そう彼が言ったところで皇帝の登場を告げる銅鑼が鳴った。
「慶朝様のご到着にございます!」
近侍がそう高らかに宣言すると、全ての官吏が叩頭し皇帝の登場を待った。
暫くの間、慶朝の身に着けた豪奢な衣服と装飾品の擦る音だけが宮殿中で唯一の音だった。
「進士四十名、顔を上げよ」
低く威厳のある声に従って顔を上げると、階段を上がったところに見えるのはもちろん皇帝桜 慶朝であった。
金陵の城下で見た民の金色と比べるのも失礼な話だが、彼の髪も瞳もそれよりずっと濃い金である。
それはまさしく天の都の主に相応しい姿であった。
今はその姿がないが、皇后である蓮家の姫は白銀の髪と瞳を持った傾国の美姫であり、その成婚の際には「金の皇帝と銀の皇后」と国中がその目も眩むような美しさに沸き立ったと噂だけは聞いていた。
「莢 芙蓉」
「はっ!」
そう呼ばれ慶朝に目を向け立ち上がると、彼は滔々と芙蓉の役職を告げた。
「其方には蘭國令副官の任を命ずる。先日の働きは國令から報告が上がっている。大儀であった」
「有り難き幸せにございます」
進士には皇帝を目に入れる資格などないと言われるため、その姿をしっかりと見たのはこれが初めてであった。
桜 慶朝、芙蓉の父である月英を直接花額山に迎えに行ったという奇特な皇帝陛下。
稀代の賢帝の誉れ高い彼は、とても四十が近いとは思えない偉丈夫だ。
その瞳が僅かに芙蓉を見て、細められたような気がした。
月英の娘だと気が付いているのではないか、と思った。
「莢進士、早く戻りなさい」
そう吏部尚書に急かされ、我に返った芙蓉は急いで腰を折り跪いた。
皇帝相手にこんなことを言うのはおかしいが、後ろ髪を引かれたような気がした。
粛々と進んでいく式典の中、慶朝の瞳の奥の何か懐かしいものも見たような憂いだけが芙蓉の目に焼き付いて離れなかった。
式典が終わると、その夜は新人官吏の着任を祝う宴が行われる。
芙蓉はそのこと自体は知っていたし、参加するつもりでもあったのだが、つい嬰翔に頼まれた本を見つけておこうと書庫に立ち寄ってしまった。
そこで本を探している間に、現在の書庫番の仕事の杜撰さについ目がいき、片付け始めたときのことである。
ガチャリという音がして書庫の鍵が締められてしまったのだ。
甘かった、と数刻前の自分を呪ったがもう遅い。
よく考えれば自分は結構嫌われているのだ。同期に煙たがられていた芙蓉が突然國令の副官になったというのを面白く思わない人間はたくさんいるのだろう。
悪いことは重なるものだ。
芙蓉は床に散らばった本に躓き、前のめりに転んで頭を打つ。
「……新しい書庫番、本当に仕事をしていませんね」
起き上がろうとしたとき、芙蓉がいつも座っていた机の裏に文字のようなものが見えた。
皇帝の持ち物である宮中に落書きを施したとなると刑罰は免れられないだろうが、埃のかぶった書庫のこんな場所ならだれも確認しなかったのだろう。
「……っ!」
文だろうかと覗き込んで見ると、あることに気が付いて目を見開いた。
素早く机の下に滑り込むとその筆跡を指でなぞる。
間違いない、柔らかく流れるような文字は見慣れた父の筆跡だ。
『悲花欲我處泞時你
相賞中泥開芙不同
落起花在開思落花
花不想問同蓉』
一見出鱈目な文章にしか見えないその文字の羅列に芙蓉の好奇心がかきたてられた。
ひょっとしたら父の秘密が書かれているのかもしれない。
そう思った芙蓉は、机の下に燭台と紙を引きずりこむと解読を始める。
それは何かの暗号のようだった。
恐らく読む者が法則を知ったうえで読み解く物として書かれているため何の手掛かりもないが、しばらく眺めているといくつかの文字が浮かび上がって見えてきた。
「これ、よく見たら詩を一度分解して組み立てなおした文章ですね」
芙蓉は父に教養として知っておくようにと言われた詩をいくつか思い出して、比べてみる。
その中で心当たりがあるものをいくつか紙の上に書き出して父の文章と見比べる。
これが結構難しい作業で、詩以外の文字も含まれていると気が付くまでにゆうに半時(1時間)を有した。
「これは……春望詞の第一節ですね」
春望詞とは女性詩人が読んだと言われる、舞い散る春の花に自らの老いを重ねた詩である。
その詩が分解されて、この文章には散りばめられていた。
『花開くも 同に賞せず
花落つるも 同に悲しまず。
問わんと欲す 相思ふ処、
花開き花落つるの時』
これはその一節にあたるもので、『花が開くときをあなたと共に楽しめず、花が散るときも共に悲しめない。あなたと思いを共にできるところはどこだろうか、それは花が開くときか花が散るときか』と言う意味の詩である。
どうやらこれは恋文のようだ。
父の、思いもよらない情熱的な文を見つけてしまった芙蓉は少し歯がゆい気持ちになる。
月英も娘がまさかこれを見ることになるとは思わなかっただろう。
読んでいて分かったことは詩に使わない文字が何か暗号として浮かび上がると言うことだ。
詩自体とその中にちりばめられた文字によって、思いを伝えようとしているらしい。
詩の部分を取り去ってしまって残った文字をつなぎ合わせると一つの文が浮かび上がった。
『我在泥泞中想起你』
「君のことを泥の中で思っています……?」
何度文章を組み立てなおしても、意味が分かるように繋げるとこうなってしまうのだ。
さらに言うと、これ以外にどうしてもいらない二つの文字が残ってしまう。
それが「芙」と「蓉」、芙蓉自身の名前だから面白い。
「もしかして芙蓉という女性に向けた文なんでしょうか?」
そう思って繋げると『芙蓉、君のことを泥の中で思う』となる。
泥の中で思うとはどういう意味だろう。
父なりの甘い言葉なのだとしたらいたたまれない。なにしろ彼は詩や歌の類がからっきしなのだ。
これは芙蓉自身が気付いたことではなく嬰翔から聞いた話である。
以前、もしかして芙蓉は詩にも才能があるのではないかと蘭國府の人々に読まされたのを見て、嬰翔が父君譲りですねと苦笑した。
『今から二十年前には国試に詩歌の創作が含まれたのです。それを陛下、慶朝様が月英はこんな試験問題は解けないから廃止せよ、とおっしゃったのです。結果的に、国試はより学問に特化したものとなったので良かったは良かったのですが、当時の反発はすごいものだったようで』
慶朝は一言、「だって月英は詩も歌も下手だからな」と言ったというのが残っているのだから凄い。
もっとも月英はこの発言のせいで風流を解さない人間だというのが後世まで知られることとなってしまったらしい。
聞けば聞くほど父の影響力は芙蓉の想像をはるか超えてすごい。
ちなみに芙蓉も詩や歌については父と同じくらいの知識しかないため、慶朝には感謝せねばなるまい。
「芙蓉の花はもしかして……人間のこと?」
芙蓉には父の亡骸と最後に交わした約束があった。
父が綺麗だと言った、王宮に咲く芙蓉の花をその墓前に手向けることだ。
その芙蓉の花とはもしかして本物の花ではないのかもしれない、と漠然と思った。
思えば父は芙蓉が生まれる前からその名を「芙蓉」とすると決めていたと言っていた。
もしかしたらそれは父と結ばれた女性、つまり芙蓉の母が関係しているのではないかと思う。
それならば芙蓉が恥も外聞もなく外朝の庭に分け入って、芙蓉の花を探し回っていたのは見当違い甚だしい話だ。
芙蓉、という名前なら葵家にゆかりのある女である可能性は高い。
王宮で女と言えば、宮女や女官、はたまた後宮の姫という話になるが葵家ゆかりのものとなると探すのに苦労する。葵家は王宮に広く巣食うのだ。
しかも出奔したという父とともに王宮を追われた可能性もあり、探すのはさらに困難だと容易に予想できた。
「……つまり、花だけではなく王宮中の女性をしらみつぶしに探していかないといけないということですか」
途方もない話だ。宮女と女官だけでもその数は一万とも言われている。
芙蓉が考えることに疲れ仰向けに倒れた時、きぃと扉の開く音がした。
時刻はおそらく宴のお開きの頃だ。
流石に可哀そうだと思った誰かが開けてくれたのだろうかと、机の下から顔を出すと思いがけない顔がこちらを見ていた。
「なんで驟雨様がここにいらっしゃるんですか?」
候 驟雨、芙蓉の後見人である彼は机の間で歩いてきてしゃがみ込むと机の下の芙蓉と目を合わせた。
菫國出身の驟雨の紫の瞳は深い紫色を誇る鈴扇の瞳よりもむしろ菫色に近い優しい色だ。
「芙蓉、君はまたいい気味だな」
優しそうな顔が心底面白そうに、邪悪に笑っているのを芙蓉はいつ見ても慣れない。
その顔は神が彼を聖人にするために産んだ顔だろうといつも思ってしまう。
一見すると彼は鳶色の髪を襟足でまとめた柔和な顔立ちの好青年なのだが、その実笑顔で葵家当主を丸め込む恐ろしい男であることを芙蓉は知っている。
「なんで驟雨様がいらっしゃるんですか?今日は新人官吏の祝いの席では…」
「その前に何か言うことがあるだろう」
「…ありがとうございます」
そう言うと彼はふんと鼻を鳴らし、何故ここにいるかは告げず芙蓉に手を差し出した。
こういうところは変なところで優しい上司、鈴扇を思い出す。
驟雨は菫家にゆかりがあると言っていたので、もしかしたら鈴扇の遠い親戚にあたるのかもしれない。
冷たく澄んだ美貌を持った鈴扇と、人好きのする優しい美貌を持った驟雨の根本は割と近いところにあると思った。
「君の考えた施策を通した、今回はその伺いを立てに金陵まで来ただけだ」
「ありがとうございます、私がいなくなったので驟雨様もやりやすくなったでしょう」
そう言っても、彼は否定も肯定もしない。
ただ芙蓉の瞳を見つめると諭すように言う。
「文にも書いたが、君の残したいくつかの案であと数年は陶月殿も落ち着いているだろう。遠慮せず、官吏として努めなさい」
「はい、ありがとうございます」
驟雨は、芙蓉の足元に転がった筆や燭台、それから元から散らばっていた本を見て呆れた顔をした。
「君が散らかしたのか。変わらないな、早く片付けなさい」
「違います、新しい書庫番が……いえ、急いで片付けますのでお待ちください」
確かに驟雨の家にいた頃、芙蓉没頭癖と散らかし癖はひどかったが全てが自分のせいではない。
そう抗議しようとしたが、驟雨の面倒そうな顔を見てすぐに近場の本だけでも片付けることにした。
「……全く、半年も書庫に眠らされていたかと思ったらあんな奴に引っこ抜かれるなんて」
「まさか拾ってくれるつもりだったんですか?」
嬉々として言うと彼はまたその口端を吊り上げて笑う。
「あぁ。泣きついてきたら拾ってやろうと」
「……本当にいい性格をしてらっしゃいますね」
そう言ったところでぐぅ、と芙蓉の腹の虫が鳴った。
何しろ宴にありつけなかったため、夕飯を食べ損ねてしまったのだ。
驟雨は一笑いすると、芙蓉が一通り片付け終わったのを見て書庫の扉に向けて踵を返した。
「夕餉がまだだろう。もう夜食になってしまうかもしれないが、それでよければ菫家の別邸に寄ろう」
「菫の名前を持っていなくても菫家の別邸を使うことができるのですか?」
「言っていなかったか。私の母が本家当主の母君の姉なんだ。特別に滞在を許可されている」
当主の母と言うと、鈴扇の母に当たるはずだ。
「ということは驟雨様って鈴扇様の従兄弟なんですか……?」
鈴扇、その名前が出た瞬間、驟雨の形のいい眉毛が吊り上がる。
「お互い比べられて育ったので全く仲は良くないが、まあそういうことになるな」
確かに少し似ているところはあると思っていたが、まさかそんなにも近い親戚だとは思わなかった。
それにしても従兄弟同士で共に國令職とはとんでもない一族である。
よく見ればいで立ちや、声に似たところがあるがそれは言わないほうがいいのだろう。
驟雨が苛立っていることに気が付いた芙蓉はすぐにその口を閉じ、黙って彼の後ろをついていくしかなかった。
※
「ようこそお越しくださいました、驟雨様。聞いておりました通り、二つ部屋を準備させていただいております」
紫を基調とした菫家の別邸は、流石は六大家と言うべき大きな屋敷であり葵國の驟雨の邸宅より数段広く感じた。
どうやら菫家に所縁のある貴族の子息たちはここを寮のように使い、太学に通っているらしい。廊下ですれ違うのは鈴扇と同じ色を持った、秀麗な少年たちばかりである。
地味な色味の芙蓉などは驟雨の後ろについて隠れるようにして廊下を歩くしかない。
「ご苦労だった、遅いが夕餉の準備は頼めるか」
「はい、すぐに準備いたしますのでそちらの部屋でお待ちください。お連れ様もお寛ぎくださいませ、お荷物は私共で部屋に運ばせていただきます」
芙蓉は持っていた荷物を早々と使用人たちに持っていかれ恐縮するばかりだ。
「あっ、ありがとうございます」
「どうした、掛けなさい」
勝手知ったる驟雨も使っている邸宅のはずなのに宿屋よりも緊張するのは何故だろうかと思っていると、驟雨に椅子に座るよう促された。
彼は使用人たちを外に出し、二人きりにするよう告げると芙蓉の真向かいに腰かける。
そのまま驟雨は芙蓉をその菫色の目でじっと見ると、ふと何でもないことのように言った。
「芙蓉、君美人になったな」
「っげほ!っ……今なんておっしゃいました?」
なにかとんでもないことを聞いたような気がして思わず咳き込むと、驟雨は照れもせずにその言葉を繰り返す。
「美人になったと言った。迷いのない目をしているな。鈴扇に垂らしこまれでもしたか」
「垂らし……そもそも鈴扇様は私が女だということを知りません」
「知ったところで変わらないだろう。あれは昔から情緒の欠片もない真面目人間だからな。牽制のためにわざわざ家紋入りで文を送ったが、必要なかったか」
「牽制?」
聞き馴染みのない言葉に聞き返すが、驟雨には答える気はなさそうだ。
こういう傍若無人なところが鈴扇と似ているのだと言ってやりたくなる。
「頼んでいたものをここに」
驟雨が立ち上がり、扉を叩くと控えていたらしい使用人が芙蓉の前に菫色の玉環に飾り紐を通した佩玉が差し出した。
「佩玉!?こんな高価なもの驟雨様から頂けません」
「……私からは貰えないとはどういうことだ?」
すぐに不機嫌そうになる驟雨にめげず、芙蓉は使用人の持った木箱を押し返すと勢いよく言う。
「見返りが怖いんですよ!」
「おとなしく貰いなさい。別にただの笄冠の祝いだろう。簪は送れないから、佩玉にしただけだ」
「笄冠……?」
笄冠、女性なら家長から簪を、男性なら冠を拝することで成人を迎えたことを祝う儀式のことである。女性なら十五、男性なら十八で受ける習いなので実は芙蓉は成人しているのだが、戸籍上は男であり今年十八になる彼女に驟雨は佩玉を贈ってくれたのだ。
まさか彼から祝われると思わなかった芙蓉は拒んでいた手を離すと、佩玉をじっと見た。
女性でも使えるような美しい意匠が施された逸品だ。
「……ありがとうございます」
芙蓉がそれを大人しく受け取ると使用人は安心して、下がっていった。
まさか、自分の成人を祝ってもらえるなどつゆほども思っていなかったので不思議と嬉しい。
素直に礼を言うと、驟雨は何故かほっとしたような顔をした。
彼でもそんな顔をすることがあるのかと、思っていると扉の向こうから夕餉ができたので運ぶという旨の声がかかる。
それから運ばれてきた夜食と呼ぶにはあまりにも豪勢な食事の数々に芙蓉が圧倒されたのは言うまでもない。
※
食事中に驟雨が蘭國への帰りは自分が車で送るから心配するなと言い出した時は驚いたが、芙蓉にとってもあの長い馬の上での旅は正直辛いので有難くその話を受けることにした。
聞くと既に鈴扇に文を贈ったらしく、芙蓉が断ることなど出来なかったのだが。
翌日、宿屋の十倍は柔らかいだろう布団から起き上がると、芙蓉は机の上に置いたままにしていた佩玉を帯に着けようか悩んだ。
そもそも位の高い官吏がつけるものであるし、走り回って傷がつくと驟雨に申し訳が立たない。
そう思って蘭國への道中も懐に忍ばせていたのだが、とうとう五日目、國都青漣に入るだろうかと言うところで驟雨はそのことに触れた。
「私の佩玉は付けないのか」
「恐れおおくて……い、いえ、喜んでつけさせていただきます……!」
その無言の威圧感に芙蓉が急いで帯に着けると彼は相貌を崩した。
それはいつもの人を嘲笑うようなものではなく、心底嬉しそうな笑みだった。
こういう微笑みに皆騙されてしまうのだろう、芙蓉は心の中で悪態をつく。
「君の灰色の瞳には濃い紫よりも薄い紫が合うな。私は、濃い紫はむしろ主張が激しくて下品に見えて好かない」
「鈴扇様のことを言っているんですか?」
「そうだ」
何の躊躇もなく言い切ると、彼は芙蓉の髪を一房掴んで弄ぶ。
「なんですか?」
何を考えているのか分からない紫の瞳に問いかけると、彼は驚くようなことを言い出す。
「芙蓉、鈴扇に飽きたらすぐに葵國に戻ってきていいぞ。官吏に飽きたら私が妾に貰ってやってもいい」
いろいろ聞き捨てならないことを言われた気がするが、今更驟雨に何を言われようが驚く芙蓉ではない。
「馬鹿言わないでください、私は婚姻関係を結んでは……あっ、妾ならいいんですかね……?」
芙蓉も芙蓉で判断基準がおかしくなっているのは恋愛耐性がないせいなのか、世間離れしているせいなのか。
目の前で変なところに頭を悩ませる少女を驟雨はただじっと見つめている。
「私は君が思うよりずっと陶月殿に気に入られている。君一人貰い受けるくらい難しいことではない」
驟雨の真剣な様子から、それが自分をあの家から救うための手段だと判断した芙蓉は悲しそうに笑った。
「お優しいですね。驟雨様はどうしてそんなに私に良くしてくださるんです?」
そう言うと、驟雨は芙蓉の髪から手を外し、その灰色の瞳を見つめて言う。
「分からないのか、私は君が」
「……痛っ!?」
急に車が止まったせいで芙蓉は車の壁に頭を打ち付け、驟雨の言葉が聞き取れなかった。
車が止まった衝撃で、驟雨の手が芙蓉の後ろの壁に付き、二人の距離は先ほどよりずっと近くなる。
それに気が付いた芙蓉は照れたらいいのか、謝ればいいのか分からなくなりとりあえずその胸を押し戻した。
「着いたみたいですね。あっ、君が……何ですか?」
そう尋ねると、途端にいつもの調子に戻った驟雨が口端を上げながら言う。
「君が馬鹿みたいに走り回ってる姿を見るのが嫌いではない、と言っただけだ」
「何ですかそれ、私が馬術と弓術の練習から逃げて走り回ったらあんなに怒ったくせに」
コンコン、と扉から音がしたので開けてみると困った顔をした従者が驚くようなことを口にした。
「驟雨様、失礼いたします。その、蘭國令殿が外でお待ちでございます」
そうか、とだけ言うと驟雨は体勢を直し「芙蓉、先に出ろ」と言う。
困ったのは芙蓉だ。
「鈴扇様が?」
そう問う芙蓉の顔には何か粗相をしたのではないかという不安の色が浮かんでいた。
予定より大幅に遅れて國府に戻った芙蓉へのお小言が待っているかと恐る恐る車を降りたが、待っていたのは渋い顔をした鈴扇と呆れ顔の嬰翔だった。
芙蓉からしてみれば見慣れた光景だが、何故彼らが國府の門の前で待ち構えているのかまでは分からない。
「おかえりなさい、芙蓉殿。式はどうでしたか」
そう朗らかに聞いてくる嬰翔もよく分かっていない、という顔をしている。
「はい、滞りなく」
芙蓉に次いで車から降りた驟雨を見て鈴扇の目は一層厳しくなった。
「……何故お前がここにいるんだ、驟雨」
「年上を呼び捨てにするものではないぞ、鈴扇」
珍しく怒りを顔に出している鈴扇と比べ、驟雨には余裕があるように見える。
『お互い比べられて育ったので全く仲は良くないが、まあそういうことになるな』
と彼が言っていたのはどうやら本当だったらしい。
普段感情を表に出すことのない鈴扇の顔には嫌悪の二文字がはっきり浮かんでいる。
「話を逸らすな、何故お前の車に芙蓉が乗っているんだ?」
「自分の養い子を送ってくるのがそんなにおかしいか?」
「養い子だと……?」
そう言ってしまうと誤解があるが確かに芙蓉は驟雨の援助を受けているため、否定はできない。そして否定しようものなら、驟雨の機嫌を損ねてしまいそうで怖い。
「芙蓉の国試受験の後見は私だが」
嬰翔には既に葵國令の後見を受けていると話していたが、そう言えば鈴扇にはこの話をしたことがなかった。
今度は何故かこちらを睨みつける鈴扇に芙蓉は渋々と言い訳する。
「……まあ、葵家はもちろん後見なんかには付いてくれないので」
そう言うと今度は驟雨が眉を顰めた。
葵家の名を口に出したことで芙蓉が葵姓の人間だと鈴扇に知られていることを悟ったらしい。
「そこまで話したのか、芙蓉」
父の名声を聞いた今、芙蓉が月英の子供だと知られてはならないことは嫌というほど分かっている。
芙蓉も反省していることなのだし、水に流してほしい。
「ちょっと気を抜いてまして……」
「甘いな、だから葵国に戻れと言ったんだ」
言い争う芙蓉と驟雨の様子を横目に今の状況を何も説明されていない嬰翔が鈴扇に問いかける。
「鈴扇、葵國令様とはお知り合いなんですか?」
「驟雨は私の母方の従兄弟だ」
「あぁ……」
その苦い顔を見るに年の近い二人が幼少期どのように過ごしたか手に取るようにわかった。
薺家の分家の出である嬰翔も幼い頃を他の当主候補と並べられて育ったため、気持ちは分からなくもない。
芙蓉と驟雨のやりとりを黙って見ていた鈴扇だったが、芙蓉の前に割って入ると驟雨を睨みつけた。
「葵國に戻れだと?芙蓉は私を選んだ、お前が出る幕はない」
その言われように芙蓉は呆然とするが、なお驟雨はその口元の笑みを絶やさない。
「芙蓉、葵國で待っている。さっき言ったことは本気だ。この男に飽きたら私を頼りなさい」
「待てまだ話は!」
鈴扇が言おうとするが、既に驟雨は彼に背を向けていた。
「君と話す話などない、鈴扇。早く当主にでもなんでもなれ、君の兄上が手をこまねいて待っているぞ」
そう言ってさっさと車に乗り込むと、驟雨はさっさと去ってしまった。
残された三人の間には今も微妙な空気感が残っている。
これは面倒くさい好敵手が現れたものだと、苦い顔をする鈴扇の代わりに嬰翔の方が溜息をついたのだった。




