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鴻鵠の娘  作者: 納戸
籠鳥 雲を恋う
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序章 空莢の姫

「山は高きに在らず、仙有らば則ち名あり。水は深きに在らず、龍有らば則ち霊あり。ここは是れ陋室(ろうしつ)にして、ただ吾が徳のみ(かんば)し」




 凛とした声が滔々と地下室に響いた。少女のようにも少年のようにも聞こえる落ち着いた声だ。


「どういう意味だ?」


 その声に、まどろんでいた牢屋番の男が目を覚まし牢の中の影に問う。


「山は高いから有名になるのではなく、仙がいるから有名になるもの。川は深いから神秘的になるのではなく、龍がいるから神秘的になるもの。ここは粗末な部屋ですが、私の志が高ければ恥じることはない、という意味です」


 あっさりと言い放った言葉は随分と失礼な物言いだ。


「はんっ、馬鹿にしてんのか。ここだって俺たちの家に比べたら随分上等なもんだぜ」


 男は牢の中に吊り下がった豪奢な御簾に手を伸ばし弄ぶ。そこからわずかに覗く書物、文机、筆はどれをとっても庶民が一生触れることの適わないものだ。


「ではあなたが代わりに入りますか?」


 そう言って御簾を上げて揚々と顔を出したのは灰色の瞳を持った少女だった。


 牢屋番は少女の顔を苦虫を噛んだような顔で見つめ返す。


「冗談じゃねえよ、いくら寝食が保証されたってこんなところで一生飼い殺しなんざ俺は嫌だね」


 そんな反応には飽きているのか、少女は「はぁ」とため息をついた。


「叔父上を呼んでください。するべきことができたのでここを出ます」


 今度は男が「はぁ?」と素っ頓狂な声を出すと少女の顔を凝視した。


「何言ってんだ、お嬢さん。あんたは一生ここに幽閉されるんだよ、旦那様が許すと思ってんのか?」


「ご心配はいりませんよ」


 そう断言する少女としばし見つめあうと男は根負けしたのか立ち上がって地上に繋がる小さな扉に手をかけた。そうしてからまた、躊躇うように少女を振り返る。


「俺はあんたが嫌いなわけじゃないんだぜ、お嬢さん。ここに入ってた誰よりも賢くて綺麗で、おまけに俺たちに飯まで分けてくれる。旦那様は怖いお人だって知ってるだろう、あんたが殺されちまったら夢見が悪いよ」


「あなたの夢枕には立たないようにしますよ」


 けろりとした顔で彼女は言う。そういうことではないのだが、頭のいい彼女とこれ以上言い争って口で勝てるとは思わなかった。


芙蓉、一度だけ教えてくれた彼女の名前は彼女のように凛とした花の名前だった。一日しかその花を咲かせない、夢のように儚い花。男には彼女もその花のように生きている気がしてならなかった。


「言い出したら聞かねえってのは分かってんだけどなあ」


 ようやく扉を開けて、男はしぶしぶ歩き出した。


少女はそれを見送ると、安心したようにその瞳を閉じる。




 莢 芙蓉、父である葵 月英とともに親子二代にわたって暁王の治世の一端を担うことになるこの少女はこの年まだ十六を迎えたばかりであった。






 少女の物語を始める前に花興という国の成り立ちに触れる必要がある。


 今から五百年以上も昔、大陸にまだ転々と国が散らばっていたころ西に(ろく)という国が興った。麓はわずか数十年で急成長を遂げ、大陸を飲み干すがごとく勢力を広げていった。大陸諸国は麓に対抗するようにまとまり始め、徐々に一つの国を主として各地に新たな国が興り始めた。

 花興はそのうちの一つであり、小さな国がまるで花弁が一つの花にまとまるように興ったこの国を人々は花興と呼ぶようになった。

そのような性質もあってか未だ七つに別れた領地は国としての性質を持ち、その一つ一つを花興では「国」と区別して「國」と呼んだ。七つの國はそれぞれ花の名を持ち、王より國名と同じ花の名を下賜された高位の貴族が國主を務めている。王族として王都である桜國を治める桜家、六つの國を治める()(れん)(らん)(けい)(きん)(せん)の家に加え、商業によって名を挙げた(せい)家のみがその姓に花の名を持つことを許されていた。


 これは花興史において、もっともその歴史を動かしたと称される暁王が即位していた時代の話である。



 話を戻そう。少女の物語は蘭國のはずれにある緑青(ろくしょう)村に始まる。

緑青村は七つの國の中では比較的発展の乏しい蘭國の平地に囲まれた土地にあった。その道の途中に何やら戸惑う女性と、一人の少女がいた。

齢は八、濃い黒髪に灰色の瞳を持つ利発そうな少女こそ、この物語の主人公である。彼女は溝に落ちた荷車に太い枝を滑り込ませ、女性の手を引いた。


「できました、ほらおばさん。私と一緒にこの棒を下に押してください」


「無理だよ、芙蓉ちゃん。大の男が二人でも動かせない荷車だよ。村に戻って人を呼んでくるよぉ」


 手を引く少女をたしなめて、女性は狼狽える。どうやら女性の引いていた荷車が水路に落ちてしまったようだった。

芙蓉、そう呼ばれた少女はニコリと微笑んでさらに女性の手を引く。


「大丈夫、騙されたと思って私の後ろから一緒に押してください。ほら!」


 彼女につられて棒を勢いよく押すとそのはずみで荷車が水路から道に飛びだした。


「えっ、ああ!…本当に溝から抜け出しちまったよ…どうやったんだい?これ」


 少し傾いた荷物を直しながら少女は誇らしげに説明する。


「どんな大きなものでも棒を長くすると小さな力で動かすことができるんです。これで大丈夫ですよ」

「あんたのところは本当に親子そろって賢いねえ。ありがとう芙蓉ちゃん、これで日が暮れる前に市場に間に合うよ」


 お礼だよ、と豆菓子をその手に貰った芙蓉は嬉しそうに微笑む。


「ありがとうございます!この方法は全部父上が教えてくれたんです、父上はこの国で一番賢いんですもの」


「芙蓉」


 意気揚々と父を自慢する芙蓉の後ろから、落ち着いてはいるがさとすような声がかかった。


「げっ、父上…」


 芙蓉が苦い顔を向けるのは芙蓉の父親、月英(げつえい)であった。芙蓉と同じ濃い黒髪に、こちらは濃い色の黒い瞳を持った優しそうな男である。道の反対側から歩いてきた月英は芙蓉の頭にこら、と優しくではあるが拳を落とした。


「僕との約束が守れないならもう勉強は教えないと言ったはずだろう」

「月英先生、何もそこまで怒らなくても。芙蓉ちゃんがいないと困りきってたんだよ。溝に荷車がはまっちまってねぇ」


 いえ、と月英はその芙蓉への厳しい眼差しをゆるめない。


「僕が怒っているのはあなたを助けたことではありませんよ。この子は無鉄砲なんです。芙蓉、困ったことがあったら一人で解決しようとするのはやめなさいと言っただろう。こんな大きなものを動かした拍子に君や(よう)さんが下敷きになったらどうしようと思ったんだ」

「…ごめんなさい、父上」

「ふっ…芙蓉ちゃん、本当にありがとうね」


 親子の間に流れるただならない空気に気まずくなったのか女性は二人の顔を交互に見ると、荷車を引いてそそくさと退散してしまった。味方のいなくなった芙蓉が月英から目を背けようとしたとき、芙蓉と月英がもう一度その顔を覗き見た。


「君は二つ約束をやぶったね。父上から聞いた話は口外しないと約束したじゃないか」


 うう、と少女は後ろめたそうにうなる。

父は村で読み書きと算術を教えているが、芙蓉にはそれ以上のことを教えてくれる。例えば、道具の構造のこと、治水のこと、政治のこと、その内容は驚くほど多岐にわたる。

おかげで芙蓉は平民の大人を軽く超える知識を持っているのだが、それを絶対に人の前で話してはいけないと約束させられているのだ。


「父上から聞いた話を喋った訳じゃないんです。ちょっと応用しただけ。困っている人がいて、助ける手を持っているのにどうして黙っていなければならないんですか?」


 悪気など一つもない純粋な瞳に月英は肩を落とす。


「君、この前は小屋を改良して米つき用の水車を作っただろう。それがまた偉く評判で僕は隣村で君の名前を聞いたときは肝を冷やしたよ」

「みんな褒めてくれるんです、力仕事がなくなったって」


 芙蓉はそう言って胸を張った。月英はますます肩を落とすばかりである。


「いいかい、芙蓉。平民の子供がそんなことを知っていたら目立ちすぎるんだ。秘密を守ることは私たち二人が生きていくために必要なことなんだよ」


「…ねえ父上は、本当は何者なんですか?どうして平民が知らないことを知っているんですか?」


 この質問をすると父はいつも黙って怖い顔をする。芙蓉がこのことについて探りを入れて沈黙を破れたためしはない。

いつも通り、月英は芙蓉の顔から目をそらすと、


「君が反省するまで勉強はなしだ。帳面も父上が預かる」


 そう言って芙蓉の持っていた帳面を取り上げた。


「父上!」


 芙蓉の目にみるみる涙がたまった。この少女は、妙に大人びた物言いをするがたった一人しかいない身内である月英に怒られると弱いのだ。


「父上、芙蓉はもう知識をひけらかしたりしません!黙っているから!だから、勉強だけは取り上げないでください…」


 芙蓉は勉強が好きだ。教わったことを使って人を助けるのも好きだし、新しく何かを考えだすことも楽しい。もし芙蓉の人生に月英がいなければなんて味気なかっただろうと、本気で思うことがある。

月英はすっかりしおらしくなった娘を抱き上げ帳面を返すとその額に自らの額を当てた。


「…すまない。僕も君の才能を潰したいわけじゃないんだ。君が全部をわかる年になったらちゃんと話すからわかっておくれ」


「もう怒っていませんか?」


「怒っていないよ」


 父の目が怒っていないのを確認すると、芙蓉はその胸にしがみつく。


「父上は生きる書物です、私の宝物なんです。父上に見放されたら私の人生はお先真っ暗です」


 月英は娘の背を叩きながらあやすように言う。


「芙蓉、これは生きていくうえでの助言だ。君は母上譲りで目がいいね。こちらが話す前になんでも分かってしまうし、助けてもらいたい人は嫌でも目に付くのだろう。それは実に素晴らしいことだよ、でも君の手は二つしかないんだ。全てをその手で救おうなどと思うのは傲慢だ」


「…はい、父上」


 納得していない顔をする娘を父は苦笑しながら見つめる。


「はは、不満そうな顔をしているね。僕は目の前の人間を助けるなと言っているわけじゃない。信頼できる人間を作りなさいと言っているんだ。そうすると助けられる手は四つに増える。君が動けばともに動いてくれる友を、仲間を作りなさい。…と言っても君にはまだ難しいかな」


「難しいです、だって私がやったほうが速いのです」


 芙蓉の意見は正論だ。彼女は聡明で、誰かにやらせるより自分でしたほうが速いに決まっているのだ。月英もそういうきらいがあるから、手に取るようにわかる。

 しかし彼女は父とは違う。自分のこと以外に興味がなかった月英と違い、芙蓉は母親に似てその手を他に差し伸べることができるから、同じように生きてはいけない。


「君は父上と母上の悪いところばかり似てしまったね」


 悪態をついているはずなのに、その声色はどこか嬉しそうだ。

芙蓉の母は産後の肥立ちが悪く、娘を出産してすぐに死んだと月英から聞いている。父は母の話をするとすぐにその口を閉ざすため、芙蓉は母の名前すら知らない。多分それも芙蓉がちゃんと全てがわかる年になったら明かされる真実に含まれているのだと彼女は知っている。

 もう一度父の機嫌を損なう訳にはいかないので、芙蓉はわざと話題をそらす。


「父上、今日は何の話をしてくれますか?」

「そうだね、今日は海を渡る鳥の話をしてあげよう。君が寝るまで、僕が知っている全てを教えてあげよう」

「絶対ですよ、眠るまで」

「ああ、君の言うとおりにするよ」


 芙蓉が全てを知る日、その日が明日来ればいいのにと思う一方、永遠に来なければいいのにとも思う。その日が来たら今の生活が変わってしまうのだと、芙蓉はどこかで気が付いているのだ。



 季節は二度巡り、芙蓉は十の年を迎えた。

二年前は背までだった黒髪は腰に及び、今は頭頂部に結い上げている。

この年になると芙蓉は月英の頭の中の書物をほとんどその小さな頭に吸収し、灰色の瞳は好奇心で輝くばかりの可愛らしい少女に成長していた。


「とりゃ!」


 自作の網を振り上げ、芙蓉は網にかかった飛蝗(ばった)を籠に入れる。季節は秋の盛りで、稲が重く実った穂を垂らしていた。


「芙蓉、これいつまでやればいいの?」


 隣では芙蓉の飛蝗とりに参加させられているらしい少女が不満げに声を上げた。

芙蓉に花冠を作ろうと言われて遊びに来たのに飛蝗とりを手伝わされているのだから彼女の不満はもっともだ。


「そうですね、最低でも百匹は欲しいです」


それを聞いた少女はげっと声を上げる。


「飛蝗なんか取ってどうするの?芙蓉ちゃんって頭いいのにたまにすごく子供っぽいよね」

「あはは…」


 芙蓉は苦笑を浮かべる。きっと真意を伝えたところで彼女には伝わらない。

 父曰くこの国には三害というものがある。水害、旱魃(かんばつ)、蝗害のことでその中でも蝗害は草木を食い荒らした飛蝗が卵を産み付け土壌を侵すため何年も続く災害になりかねない。

 去年この地方ではゆるやかな旱魃が観察された。

 旱魃が発生した後は川が干上がり、飛行する飛蝗の発生しやすい環境ができる。そのため飛蝗を観察し、その前足に飛行する飛蝗の前兆が見られた場合はすぐに対処する必要があるのだと、父は教えてくれた。


「もうわたし嫌だよ、気持ち悪い~」

「そんなこと言わないでください、祥凛(しょうりん)。父上はこんなもんじゃ満足しないですよ」


「芙蓉、取りすぎだよ。これで十分だ」


 袖をまくって意気込む芙蓉に市場から帰ってきたらしい月英が呆れて声をかけた。背負った籠の中からは食糧や書物がのぞいている。


「父上!新しい書物は買えましたか?今日は一か月に一度市場に王都の書物商が来る日でしょう」


 芙蓉は父の籠の中にある書物を見つけ、目をらんらんと輝かせた。知識を養分にして育つ植物のような娘なのだ。


「ああ、帰ったら一緒に読もうか。…祥凛ちゃん、うちの娘がすまないね。これはちょっとだけど市場で買った魚だ。お母さんによろしく頼むよ」

「うわぁ、ありがとう月英先生!芙蓉ちゃん、またね。今度は花冠を作るって約束を忘れないでよ」


 芙蓉とともに飛蝗取りに勤しんでいた祥凛は解放されたと言わんばかりに魚を受け取る。


「うん、もちろん!」


 少女は頭を下げると家路に駆け出していった。その姿を見送って、芙蓉は父に報告する。


「父上、飛蝗を観察しましたが前足は去年のものと変わらないようでした。今年は蟷螂が巣を高く作っています。来年旱魃が起きてもきっと雪解け水が大地を潤してくれるでしょう」


「そうか、それはよかった。君、去年蟷螂の卵を山ほど取って帰って家で孵化させただろう。今年は勘弁してくれよ」


「こっ、今年は取っていません!ちゃんとこのように帳面に長さを測って記したのです」


 芙蓉は帳面を取り出すと線が引かれた頁を開き、月英に見せる。娘の微笑ましい様子に父はその頭を撫でる。


「まったくうちの子は立派な学者様だなあ」


 はい、と嬉しそうに芙蓉は返事をする。


「私は将来たくさん勉強をして学者になって書物を書きたいんです。父上から教えて貰ったことをもっとたくさんの人に知ってもらうんです」


「ああ君ならきっとなれるよ、芙蓉」


 月英がそう言った時だった。



「ここにいたのかい、芙蓉ちゃん!月英先生!」



そう二人を呼び止めたのは祥凛の母親、舜凛(しゅんりん)だった。なにやら焦ったような顔をしている。


「おばさん?」

「芙蓉ちゃんと月英先生を探してるって人が村に来たんだよ。お役人みたいだったから、ちょっと怖くてね。今は市場に行っているからいないって伝えたんだけど、あんたたち何かしたのかい?」


 首をひねる芙蓉とは対照的に月英は険しい顔になる。


「舜凛さん、その男たちの衣服のうちどこかに葵の花が書いてありませんでしたか?」


「葵の花っていうのはどんな花だい?」


 月英は地面に指を使って五つの花びらを持った花を描き出す。それは芙蓉も初めて見る紋様だった。


「こういう五つの花弁がある花です」

「ああこれかい、あったよ!あれは葵って花なんだねえ」


そう聞いて月英は血相を変えた。


「まさか…こんなに早いなんて」

「父上?」


 戸惑う芙蓉の手をとり、舜凛に頭を下げる。


「芙蓉今すぐ荷造りをしなさい、今日中にここを立つ。舜凛さん、お世話になりました。祥凛ちゃんにも娘と仲良くしてくれてありがとうとお伝えください。このご恩はきっと忘れません」

「えっ、父上なぜですか!?」


 いつも冷静な月英らしくなく戸惑う芙蓉の顔を見てすまないと小さくつぶやく。


「説明は後でする、すぐに必要なものだけを持って家を出よう。舜凛さん、もしまたその男たちが来たら冬ごもりの準備をしに親子で王都に出かけたとお伝えください」

「あ、ああ…気を付けておいでよ、月英先生」


 舜凛も厄介ごとに関わりたくないのかそそくさと帰っていった。


「ねっ、ねえ父上!」


 先ほどから父は目を合わせてくれない。


「芙蓉、急ぎなさい。書物は持っていけないから置いていきなさい」


 父に手を引かれた拍子に持っていた虫籠が足元に落ちる。


「あっ…」


 途端に飛蝗が飛んで逃げ出すが、それを追うことを父は許さない。

今までに見たことのないような厳しい顔をした父に芙蓉は黙ってついていくことしかできなかった。



 二人が村を出たのはその夜だった。

 光が一つもない谷間、暗闇に二人の濃い黒の髪はよく溶ける。唯一芙蓉の灰色の目だけがわずかに銀色に光っていた。

 静かにしていなさいと言われたから、芙蓉は家を出てから一言も口をきいていない。父が芙蓉にたった一冊だけ帳面を持つことを許し、他は全て薪にくべて焼いてしまった理由も芙蓉はまだ聞けていない。


「父…」


ヒュンッ!

 我慢ならず顔を上げた時視界の端に銀色の何かが迫ってくるのが見えた。


「芙蓉、頭を下げて!」


 月英は芙蓉の頭を掴んで伏せさせる。


「え!?」


 頭の後ろで芙蓉の衣服を裂く音がしてから、自分に向けられたのは矢だったのだとようやく気が付いた。

月英はその矢を一瞥してすぐに芙蓉を立たせる。


「…葵花紋の入った矢だ、これには毒が塗ってあるんだ」

「父上、どうしてそんなことを知っているんです…!?」

「おいで!村のものしかわからない抜け道を使おう、冬の狩猟用の洞窟がある」


 月英は急いで足がもつれる芙蓉を抱き上げるとすぐに走り出した。

近くの林で人が蠢く音がする。

 父から常人以上の知識を叩き込まれている芙蓉にとって知らない、理解ができないということはそれだけで恐怖だった。それゆえに頭がうまく回らず、状況が一つも飲み込めない。

 月英は素早く洞窟に走りこむと岩ばかりの道を選ぶ。それから素早く小刀を取り出すと、入口のもろくなった岩を砕いて塞いでしまった。

 息を殺していると程なくして誰かが駆け抜けるような音が近づき、そして遠のいていった。


「芙蓉、もう大丈夫だ」


 息を吐きだすと、先ほどまでのことが恐ろしくて涙が溢れた。得体のしれないものに命を狙われる恐ろしさはわずか十歳の少女には耐えがたいものだった。


「怖…かった…」

「ここまでくれば大丈夫だ。芙蓉、いくら君が賢くても戸惑わせてしまったね。

君に見せなければならないものがある」


 父がそう言った時、芙蓉はとうとうその時が来たのだと胸の鼓動が速くなるのを感じた。

 ずっと隠されていた真実が自分たちの生活が変えてしまうのだと。

 月英は携帯用の燭台に火をつけあたりを照らす。

 それからからんと、取り出した小さな袋の中から木彫りの花紋が現れた。開いた花の中心には斑点がある。


「これは…花紋ですか?」

「芙蓉は8つの花紋を持つ貴族について話したことを覚えているかい?」

「…はい、王様は(さくら)。その周りの六つの國の主である(はす)(あおい)(すみれ)(あかね)(あざみ)(らん)、それと商家である(なずな)の家だけが花紋を持つことを許されていると」


 月英は娘の肩に手を置き言い聞かせるようにその目を見た。


「良くお聞き、君の本当の名前を葵 芙蓉(き ふよう)という。僕は葵家を追放された人間なんだ」


「葵家って、王家の次に力を持っている葵蓮(きれん)二家の…?」


 そうだ、と信じられないような顔をする芙蓉を月英は正面から見つめる。

 この国で最も位の高い花は王家の桜、次に蓮と葵の花である。つまり蓮家と葵家は貴族の中で最も位が高いのだ。二つの家は葵蓮二家と呼ばれ、王家との婚姻も最も数が多い。名門中の名門貴族である。


「閉ざされた花額山(かがくさん)の中に邸宅を構える葵家の者を間近で見られる人間は少ないからあまり知られていないが葵家は直系に近いほど髪も瞳も濃い黒になる。ちょうど闇夜に溶け込めるくらいに。君と僕の黒髪は平民には珍しいものだと思ったことはないか」


「珍しい色だとは思っていましたが、そんな理由があったなんて」


 古来より王族は金の髪を持つと言われているが、黒は平民にも存在する色だからその濃さについてはたいして気にしたこともなかった。そう言われて見ると、月英の瞳は濃い黒だ。血がそれだけ強いのだろう。


「もしかして父上は直系なんですか?」

「僕は現当主の二番目の弟なんだ」

「…葵家の三男なんてこの国で五つの指に入るくらい位が高いんじゃないんですか…?」


 どうだろうね、と月英ははぐらかしたがこんなところで畑を耕しているような身分ではないことだけは確かだ。


「これは僕が家を追放された時に兄上が寄越した花紋だ。少し変わった葵の花紋の中心に斑点が入っている。午時葵(ごじあおい)、この花は葵という名を持ちながら我が国では葵の種類に含まれない。()()()()()()()()()とはひどい皮肉だよ」

 月英は転がった花紋を見つめて、自嘲するように月英は言う。


「見たこともない花です」


「珍しい花だよ。西の国から来た花らしい。この花は自らの足元に油を垂らし、夏の日差しを受けて発火する。自害する花だと忌み嫌われているそうだ。まるで一族全員から嫌われていた僕のようにね」


「…父上はどうして追放されたのですか?」


「僕は、兄上よりちょっと頭がよくてね。本家には邪魔になったらしいんだよ。十五のときに葵の家名を名乗ることは許されても、二度と葵家の敷居を跨ぐことはできなくなってしまったんだ」


「叔父上はそんな仕打ちをしておきながら、どうして今頃父上の命を狙うんです?」


 声を震わせて不安そうに聞く芙蓉を、月英は苦しそうに見つめ返す。

その瞳の中で燭台の火が揺れるのが見えた。


「…狙っているのはおそらく君だよ、芙蓉。叔父上は君が怖いんだ。僕の全てを注ぎ込んだ、僕の宝物がね」


「私が復讐しに来るとでも思っているのですか!?」


()()()()()()()()()()()()()()()。兄上は君ならできると思ったんだ。彼は君が成長するまでその能力を持った娘か見極めていたのだろう。君はそれに見事合格してしまったんだ、芙蓉」


「私が能無しのフリをすれば良いんです。そうしたら、叔父上だって私が怖くなくなります」


 月英は静かに首を振った。そんな小細工が通じる相手ではないのだ。


「僕たちの動向は全て葵家の密偵に探られている。僕が村で読み書きを教えていたことも、君が利発であることも」

「そんな…だから私が人を助けるのをあんなに怒ったのですね。どうしてもっと早く言ってくれなかったんです!?」


 生きるためには仕方ないんだ、という父の言葉は、本当にそのままの意味だったのだ。


「言ったところで君は誰かを助けることをやめることができたかい?」

「それは…」


 芙蓉は下を向く。否定することはできなかった。


「…大丈夫、父上がどうにかしよう。このまま薊國まで行けば異国に行ける。異国に通じれば、兄も僕たちを追っては来ない」


 嘘だ、と直感的に分かった。多分叔父は芙蓉たち親子をどこまでも、死ぬまで追い詰めるのだろう。


「関所にはもう葵家の手が回っているだろう。蘭國から関所を通らずに異国に通じている薊國に行くためには山を一つ越えねばならない。芙蓉、辛い旅になるが我慢できるか」


「できます…なんとしても父上と生きてみせます」


 月英は芙蓉をそっとその腕に抱きこんだ。芙蓉は静かに涙を流す。

 暗く長い旅になるのだろう、そう思った。

 もしかしたら、死ぬまで終わらないかもしれない、長い旅の始まりだろうと。



 月英も芙蓉もどちらかと言うと頭でっかちな人間で武芸などとんと縁がない。

 それゆえに二人だけで刺客から逃げるのは至難の業だった。ただ月英は薬にも明るかったため、煙幕を巻いたり眠り薬を仕込んだ香を炊いたり、できる限りの小細工を使って刺客を撒いた。

 追われていない間、月英は村にいた時よりも頻繁に芙蓉に法や政治について説いた。それ以外にも、災害の時の対処の方法や兵法についてまで恐ろしい量の知識を芙蓉に叩き込んだ。

 そのうえで彼は、魚を捌くにしても草花を摘むにしてもじっくり観察することを芙蓉に教えた。


「芙蓉、大切なのは観察だ。書物を読んで得た知識を真に受けて先入観を持ってはいけない。必ず自分の目で見て、物事を判断するようにしなさい」

「はい、父上」


 目の前で魚を捌く父の手元を見ながら芙蓉は答える。父の知識が決して減らないのはそうやって絶えず物事をじっくりと観察し、新たな見識を吸収し続けているからなのだ。


「僕は早くに家を出され、花額山に隔離された。僕はそこからゆっくりとこの国とそれを取り巻く自然が変化するのを観察していたんだ。そしてずっと夢想していたよ、僕がここに一石を投じたら何が変わるだろうと」


 まるで囚われのお姫様みたいだろう、と無精髭をたくわえた父が言うと面白くて芙蓉は久しぶりに顔を綻ばせる。


「父と兄は面白いんだ。僕にそんな仕打ちをしたのに自分で考える脳もないから、僕にさんざん助言を求めた。僕は彼らに、僕が観察して得た知識を与えた。そしてまた、花額山の上から僕の言葉が波紋のように下界に広がっていくのを見ていたんだ」


「父上はその手で誰かを助けようとは思わなかったのですか?」


 その問いに月英は静かにかぶりを振った。


「人は僕のことを神様のように言ったけど僕はただ僕の言葉が影響しあってどんな風に世界が変わっていくかを眺めていたいだけだった。今思えば、なんて傲慢なんだろうと思うよ。僕自身も自分を神様か何かだと勘違いしていたんだね。君の母上に会うまでは誰かを助けたいだなんて思ったことがなかったよ」


「母上?」

「君の母上はすごく良い目を持っていたから、困っている人がいたらすぐに見つけてきてね。おまけに全員を助けようとするから僕まで巻き込むんだ。君にそっくりだ」

「わっ、私は自分のことは自分で解決できます!」


 すぐに否定すると父は笑う。母の話をするときの父の目はいつも優しい。

 娘の芙蓉が言うのも妙な話だが、月英は人間らしくない。それは芙蓉と母を除いた他者への興味の薄さや、物事に黙って身を委ねる達観した態度であったりするのだが母の話をしている時だけはその目に明らかな温もりがあった。


「そうだね、君は本当に賢い。僕が教えることはもうほとんどないね」


 芙蓉はその言葉に急いで首を振る。

 この頃、父の知識がすっかり芙蓉に移った瞬間に父がいなくなってしまうのではないかとそんな疑念が芙蓉の頭の片隅にはいつもある。

 残り少ない時間、自分が生きた証を残すために父は芙蓉に様々な話を聞かせているような気がしてならないのだ。


「父上、私は父上に勉強を教えてもらっていてよかったです。知識は置いていかなくて良いから」

「…すまない。ほとんど君のものは持ってこられなかった」

「父上との帳面さえあればどこだって勉強できます、父上に教えていただきたいことがまだまだたくさんあるのです」


 だから変な気を起こすのはやめてください、そんなことは言わなくても父は芙蓉の真意に気が付いているようだった。



 それでもやはり一日の大半の時間は刺客に追われ続けた。

山間を馬が通れないのは馬が扱えない芙蓉たちにとってはかえって有利であり、葵家の刺客とつかず離れずの距離を保ちながら蘭國と薊國の境にある山の中腹を辿っていた。

どこにいるのかは分からなくても夜は芙蓉たちの体力を消耗させるため落石の音がなり続け、眠れない日々が続いた。

さらに悪いことに山は下界より一足早い冬を迎え、芙蓉たちの旅路を邪魔した。一番の問題は雪だ。雪は芙蓉たちの行く手を阻み、その重さが体力を奪った。


「父上危ない!」


 芙蓉は父の背に矢を射ようとする刺客の頭上の木を自作した矢で射る。

殺傷能力はまるでない矢だがその拍子に枝がたわみ、枝から落下した大量の雪によって刺客の視界を遮った。


「どんどん逞しくなるね、芙蓉」


 腰を抜かす自分に手を貸す芙蓉に月英は苦笑する。


「いいから急ぎましょう!ここを超えたら薊國が見えます。町に降りたらあちらも私たちを狙いにくくなると父上がおっしゃったんですよ」


その拍子に再び足を滑らせる月英に芙蓉は悲鳴に近い声を上げる。


「父上!」

「…少し足を痛めたようだ。すまないが肩を貸してくれるかい?」


 痛みに顔を歪める月英に芙蓉は急いで肩を貸すが十歳の体ではとても支えきれない。引きずるようにして父を雪から出すだけで芙蓉の息はすっかり上がっていた。


「すぐそこに岩場があります。休んでいきましょう」

「芙蓉、すまないね」


 父の表情に芙蓉は一瞬息を詰まらせ、すぐに「いいえ」という。

 自分たちはもう徐々に前にも後ろにも進めなくなっているのだ。

 もう限界が近付いている、どちらも口にすることはないがその事実に聡い親子はすでに気が付いていた。





 石が落ちる音が一つもしない、不気味なほど静かな夜だった。

二人は小さな洞窟を見つけ身を寄せ合うようにしてその身を横たえていた。


「父上」


 芙蓉は日に日に小さくなっていくように感じる父の背に呼びかける。


「なんだい、芙蓉」

「父上、お話をしてください。その…眠れなくなってしまったんです」


 しょうがないね、と父は寝返りを打って芙蓉のほうを向く。

 その手はこの一か月で痩せこけ、骨が浮き出ていた。

 芙蓉の予想通り、全てが変わってしまった。芙蓉に語りかける父の優しい声、それ以外のものは全てきっと二度と元には戻らない。


「じゃあ、初めてする話をしてあげよう。僕はね、朝廷の官吏だったんだ」


「だから父上はたくさんのことを知っているんですね」


 驚かない芙蓉に月英は拍子抜けした顔をする。


「君、ちょっとは勘づいていたね。貴族の三男が家に引き籠って得た知識にしてはおかしいことに」


 なんとなくそんな気はしていた。父の知識は書物から得たものと生きている知識が混ざっているように感じていたからだ。


「確信はなかったんですよ」


「自慢じゃないけど僕は国試を受けていない、王様の方が僕に会いに来たんだ。僕の能力が欲しいから特例で官吏にしてやるってね」


 自慢ではないと言ったが、父にとってそれは良き時代の思い出であることは間違いないのだろう。遠い目の中に明るい光が見えたような気がした。


「父上はとっても頭がいいんですもの」

「でもそれと同時に僕はとうとう葵家を追い出された。優秀すぎる三男は争いを生みかねないとかなんとか言ってね。僕は当主になろうなんて思ったこと一度もないのにひどいだろう」

「父上は十五で朝廷に上がったんですか?それってすっごく早いんじゃないですか?」


 ああ、と月英は静かに微笑む。


「最年少だと噂になったものだよ。しかも国試を受けていなかったからやっかみもひどくてね。僕は葵家を追い出されたばかりだったのに、誰も憐れんでなどくれなかった」


 でもね、と父は嬉しそうに目を細めた。


「辛くなると僕は王宮に咲いている芙蓉の花を見に行った。芙蓉は僕の一番好きな花だけど、あそこに咲いていた花は一際綺麗でね。僕に子供ができたら絶対に芙蓉と名付けようと思っていたんだ」

「私の名前?」


 そう聞くと父は少し黙って、芙蓉の頭を撫でた。


「そうだよ。父上はあそこで昔沢山の夢を見たんだ。いつか僕たちが本当に自由になったら、綺麗な芙蓉の花を必ず見にいこう」


 月英は芙蓉を抱きしめる。いつもよりきつく抱きしめられた気がして何故か芙蓉は不安になった。


「父上?どうしたんですか?」


「芙蓉、かわいくて聡い僕と(はく)の子供。君ならきっと僕たちとは違う人生を切り開ける」


 抱きしめられたせいで、父の顔は見えなかった。

 ハク、とは母の名だろうか。初めて聞く名前だった。


「ねえ、父上。母上とはどこで出会ったんですか?」

「それはまた明日教えてあげよう。明日も早いんだ、今日は静かだし眠れるときに眠っておきなさい」


 父から目を離していけない、そんな気がしたのに疲れた体は芙蓉の瞼をあっという間に閉じさせる。

 気が付くと芙蓉は一刻も経たないうちに眠りについてしまっていた。







 朝目が覚めると芙蓉の横に父の姿はなかった。


「…父上?」


 顔を洗いに外に出たのかと思ったが、父の持ち物が全て無くなっていることに気が付いて

すぐに洞窟の外に出た。刺客の気配がない。

振り返って芙蓉が眠っていた岩場に戻ると午時葵の花家紋と、薊國から異国に出るための一人分の手形だけが置いてあった。


「最初から私一人を逃がすつもりで…?」


 間違いない。父は葵家に向かったのだ。おそらく芙蓉の命乞いをするために。芙蓉が異国に出る時間稼ぎをするために。

痛いほど熱くなる目頭を押さえて芙蓉は立ち上がる。


「泣いては駄目。考えなければ」


 父はもし二人が別れてしまったら街を行けと言った。明るい場所で殺されることはないから、日の当たる場所を辿れと。

 朝日が足元にある薊國の國都、朱嘉(しゅか)を照らしている。薊國には他国との貿易を司っている薺家も居を構えていると聞いたことがある。あそこまで降りれば各國の行商が集まっているはずだ。

 涙を拭うと芙蓉は雪道を死に物狂いで下り始めた。





「こら、危ないじゃないか!お嬢ちゃん!」


 行商人が急に荷馬車の間に飛び出した少女を叱責する。その少女は他でもない芙蓉であった。


『葵國は雪が降る山深い土地にあるから、車輪が他の車と違うんだ。この凹凸があると雪道でも滑らないんだよ』


 そう父に教えてもらったことを芙蓉は覚えていて、ずっと行商人の車を探し回っていたのだ。父を連れて行ったのはおそらく葵家の刺客、芙蓉が徒歩で追いつけるわけがない。そうなると芙蓉も一刻も早く葵國に行ける足を自分で見つけるしかないのだ。


「おじさんたちの荷馬車についているこの車輪、葵國に向かう大商ですよね!?」


 ただならない様子の芙蓉に行商人たちも怯む。

 十歳の少女が親も連れず、真っ赤な顔に上掛け一枚羽織っただけの姿で飛び出してきたのだ。その反応が当然だろう。


「そうだが、お嬢ちゃんどうしたんだい?」

「お願いです!私をこの車に乗せてほしいんです!」


 そう言うと芙蓉は額を地面にこすりつけるようにして叩頭した。


「なんだって?無理だよ、これは人を乗せる車じゃない。お嬢ちゃんみたいな一般人を乗せるわけにはいかないんだ」

「お願いです!一刻も早く行かないと、父上が…!」


 芙蓉の剣幕に行商人たちが顔を見合わせ、その中の一人が諭すように切り出した。


「お嬢ちゃん、何か出せるものでもあるのかい?まさかただ乗りしようとしてるんじゃないだろう?」


 芙蓉は急いで荷物をあさるが、食糧も底をつき父が残した手形と家紋、そしてわずかな金子しか出てこない。


「なっ…、何もありません…」

「それじゃ、申し訳ないねえ」


 他の手を探そうと観念して芙蓉が身を引いた時だった。芙蓉を諭した男の後ろから女が顔を出し芙蓉の持つ手形を指さした。


「お嬢ちゃんその手に持ってる手形、桜玉手形(おうぎょくてがた)じゃないかい?!」


「…手形?これのことですか?」


 女は荷馬車から降りると芙蓉の手の中の手形を眺め、ついで信じられないような顔をして芙蓉の顔を見る。


「間違いない、お嬢ちゃん。これは国王様が許可した特別な人間しか持てない手形だよ。こんな細かい細工ができるのは王宮の彫刻家だけだよ。これをどこで手に入れたんだい?」


 なぜそんなものがここにあるのか、そんなこと芙蓉にも分からない。こんなものをいつ準備したのだろうと芙蓉自身が不思議に思っていたところだった。


「……父上は、官吏なのです」


 とっさに出た言葉だったが、嘘は言っていないはずだ。


「父上は王命を受けて葵國に行くのにこの手形を忘れてしまわれたのです、お願いです!私を葵國まで乗せてください!」


 王命と聞いて行商人たちがにわかにざわつき始める。

それに追い打ちをかけるようにお願いしますとさらに頭を下げる。


「…しょうがない、お嬢ちゃん。その父上から、ちゃんと運賃を請求するんだよ」


 彼らも芙蓉を身分のはっきりした娘だと判断したようだった。


「ありがとうございます…!」


 芙蓉は頭を下げ、荷物の隅のほうに乗せてもらう了承を得た。

 それでも父に追いつくまでは一息もつくことはできない。

 自分は地獄の淵に足をかけたのかもしれない、ふとそんな考えが頭をよぎる。

 おそらく芙蓉が異国に逃げても、子供の足ではすぐに追いつかれ殺されるだろう。

 父と死ぬか、一人で死ぬか芙蓉にはおそらくその二つの選択肢しか残されていないのだ。

 それでもきっと父は時間を稼いでくれる。芙蓉には不思議な確信があった。


「今はまだ決めるときじゃない」


 そう自分に言い聞かせて小さい手を握り締めた。





 薊國から葵國まで行くのにはゆうに一週間を要した。

 父が言っていた通り、葵家は花額山に沿って居を構えていた。葵國の國都である黒佳(こくか)に入るとすぐに目につくほど、要塞ともいえるべきその邸宅は異様な存在感を放っていた。

 山そのものが住居であるような荘厳な造りの葵家邸は、何人も寄り付かせないような黒を基調とした壁に囲まれている。

 行商人とは僅かな金子をすべて出し、残りは父から貰ってくると別れを告げた。きっともう二度と会えないだろう彼らに芙蓉はせめても深く頭を下げた。

 そこからは山の中腹あたりにあると行きづりの人に聞いた葵家の門を目指してひたすらに歩みを進めた。


「山は高きに在らず、仙有らば則ち名あり。水は深きに在らず、龍有らば則ち霊あり。

ここは是れ陋室(ろうしつ)にして、ただ吾が徳のみ(かんば)し」


 父が好んで口にしていた詩を芙蓉は道中何度も諳んじた。

山深くにある葵家本家に近づくにつれ、雪は深くなるばかりでそうでもしていないと意識を失ってしまいそうだった。


苔痕(たいこん)(きざはし)を上って緑に、草色は簾に入って青し。談笑に鴻儒(こうじゅ)有り、往来に白丁(はくてい)無し」


 どこにあっても心が高潔であれば、学問を侵すものなどいない、そういう意味の詩である。

 この詩を詠んだ詩人は左遷された官吏だと聞いたが、もしかしたら父も自分を重ねていたのかもしれない。


「父上は…華やかな朝廷の暮らしと…私との暮らしどちらが楽しかったですか?」


 父は王に取り立てられた官吏なのだと言っていた。そう言ったとき、父の顔は眩しいものを見るように綻んだのを思い出す。

 そんな人間が幼い娘の面倒を見ながら、ろくな書物もない田舎で暮らすことを本当に望んだのだろうか。


「父上には苔の生えた田舎の暮らしであっても…私には全てだったのですよ」


 月英は芙蓉にとって繭であった。繭とは一種成虫の鋳型のようなものであり、それを壊された幼虫がたどる運命を芙蓉は知っていた。

 自分も鋳型から流れ出る鉄のように所在を失って死んでいく、そんな気がしてならなかった。

 芙蓉が詩を諳んじるのがもう何度か分からなくなったとき、目の前に荘厳な造りの漆黒の門が現れた。

 その扉には王より下賜された葵の花紋が咲き誇っている。

 芙蓉には豪奢な造りのその門があの世に向かう門に見えた。


「ここを通してください」


 息も絶え絶えにそう言うと、芙蓉の前に門番の剣が突き付けられた。急に現れた身なりの汚い少女が通してくださいと言うのだ。無理もない。


「通してください。私は葵 芙蓉。月英の娘です」


 芙蓉の口にした名前に門番は顔を見合わせる。


「月英殿はもはや葵家のものではない!立ち入ることは許されていないぞ!」

「開けてください、私は叔父上に会いに来たのです!」

「これ以上騒ぐなら切り捨てるぞ!」


その首に剣を突き付けてもなお怯まない芙蓉に彼らはとうとうその刃を振り下ろそうとした時だった。


「良い、剣を下ろせ」


 門番たちを制したのは父に似た声だった。

 その声の主は漆黒の瞳に漆黒の髪を持った男だ。

 陶月様、と邸宅に続く石畳を歩いてきた男に門番たちが声を発するのが聞こえた。


 葵 陶月(き とうげつ)、父から聞いた現葵家当主の名前だ。その後ろには多くの使用人が控えているのが見える。


「名前はなんと言った」


 父に似ているのにひどく冷たい目をした男だった。

 今まで芙蓉は自分と同じ髪色を持つ人間を、父親しか見たことがない。本当にこの男と血が繋がっているのだ。


「お初にお目にかかります、叔父上。芙蓉と申します」


 叔父上という芙蓉の言葉を聞いて男は明らかに眉を顰めた。


「芙蓉とはまた皮肉な。追放されてもなおあいつは葵家にしがみつこうというのか」


 乾いた笑いが方々から聞こえた。ここに芙蓉の味方など一人もいないのだと改めて実感する。お言葉ですが、と芙蓉は顔を上げる。


「芙蓉は葵の一種ですが、それ以前に父上の一番愛した花です。父上は最後まで葵家に帰ろうとはしませんでした。一度もあなたに頼ろうとしなかったではありませんか」


 そう言うと陶月はまた笑いだす。


「おかしなことを言う、月英はここで死んだのだぞ。無様にも命乞いをしてな」


 そう言われて初めて芙蓉は顔色を変えた。


「父上が…!?」


 父が死んだ。

 想像はできたことだったが、一縷の望みも持っていなかったというと嘘になる。途端に涙が赤切れだらけの手に落ちて、ひりひりと痛んだ。目頭が痛いほどに熱い。


「一足遅かったな、あいつがここに来たのもつい先刻だった」


 絶望しては叔父の思うつぼだ。ここで泣いたところで同情してくれるものなど一人もいない。弱ったところを切り捨てられるだけだ。そう思いなおしすぐに気丈に顔を上げる。


「私を殺さない代わりに…父上が身代わりになったのでしょう」


 それでも怒りでどうしようもなく声が震えた。


「なるほど。聡い娘だ、あいつの子供であるのは本当のようだな。それで月英が自らの命まで差し出して守ったお前がどうしてここにいるのだ」


 父は自分が時間を稼ぐ間に芙蓉が異国に逃げのびることに賭けたが、勝算はなかったと今確信を得た。この人は芙蓉を生かしておくような人間ではない。

それならば芙蓉は、生きるために新しい賭けをしなければならない。


「叔父上でしたら地の果てまで私を追い詰めて殺すでしょう。なので、私は私なりに命乞いをしにまいりました」


「ここでお前を切り捨てるとは思わなかったのか?」


「遠い昔に追放した父上に今更刺客を放ったのは私怖さにでしょう。それほどまでに私を恐れるのなら私を手中に収めてしまえばいいのです」


 それは、父が愛する娘のために絶対に切れなかった芙蓉だけの切り札だった。

 かつて父がそうだったように芙蓉が自ら葵家に飼い殺しにされるという苦肉の策だ。


「ほう」

「外部からあなたを狙うであろう私を今ここで殺しますか、今ここで私を生かして内部に私を飼いますか。葵家の末席に名を連ねるものとして、あなたに従いましょう」


 そう言って芙蓉は深々と頭を下げた。まるでこの首を切っても構わないと差し出すように。

 ザっと、少しの間の後に目の前で刀が風を切る音がした。

 死んでも父の所に行けるならそれでいいと思ったが、目を開けても芙蓉の首は繋がっていた。代わりにその髪の端が切れてあたりに散らばっている。

 顔を上げると陶月が剣を鞘に納めているところだった。


 二つ条件を出そう、と先ほどと何も変わらない冷たい声で言う。


「お前には女として生きることは許さない。よって、姻戚関係を結ぶことおよび子を成すことは許さない。また、葵を名乗ることも許さない。お前は葵家の末席にすら座ることはない。特別にお前の父の家紋である午時葵だけは使用を許そう」


「寛大な心遣いに感謝いたします」


 怒りに歪みそうになる顔を必死に手で隠して頭を下げる。

 怒りと、それから悔しさで唇を噛みちぎりそうだった。何も持っていない芙蓉は父と自分の人生を差し出すことでしか身を守れなかったのだ。それでも、父が残したこの命を守るにはこれしか思いつかなかった。


「ふん、月英は娘をうまく仕込んだな。この娘を地下牢へ連れていけ」

「お待ちください」


 早速その腕を掴んで連れて行こうとする使用人たちを制して芙蓉が言うと陶月は心底面倒くさそうな顔を彼女に向けた。


「なんだ、まだ要求でもあるのか、小娘」

「父上の埋葬だけは私にさせてください。…ご安心ください。父にいくらあなたが恐れる才能があろうと、死んでしまったものは私におかしなことを吹き込んだりはしません」


 言いながら口の中で血が滲んだ味がした。


「好きにするがいい、誰も片付けぬから困っていたところだ」


 彼にとって月英は人間ですらないのだ。


 ありがとうございます、かろうじてそう言ってから顔を上げると既に目の前に陶月の姿はなかった。







 芙蓉が連れていかれたのは山肌の覗く断崖に打ち捨てられた父の亡骸の前だった。


「父上!」


 降りしきる雪のせいなのか、まだ生きているようなのにその身体は凍ってしまったように冷たかった。


「父上…!父上…なぜそんな幸せそうな顔で眠っているんです…!」


 実の兄に切られたというのに父の顔は笑っているようだった。

 それまで必死に我慢していた涙が堰を切ったように溢れた。


「う…っく…父上…」


 思えば父が何をしたというのだろう。

 父は天才と呼ぶに値する人物だが、それ以上に生まれながらの学者気質で権力にも名誉にもまるで興味を持たなかった。

 ただ、彼は自分が大河に落とした数滴の絵の具が下流で交わるさまを静かに見ていた。

 それだけだったのだ。

 次第に感覚を失っていく手で父の墓を掘り終えるとその中心に亡骸を横たえた。


『いつか僕たちが本当に自由になったら、綺麗な芙蓉の花を必ず見にいこう』


 父の言葉がよみがえってきて、芙蓉に語り掛ける。


「父上、約束しましょう。必ず父上のお墓に朝廷に咲く芙蓉の花をお供えします。あなたが世界で一番愛した花を」


 その時まで、泣くのは今日で終わりにしなければならない。



 埋葬が終わると芙蓉は地下牢に一人閉じ込められた。

 女として生きることを禁じられた以上、芙蓉の戸籍上の性別は男とされた。

 彼女に新しく与えられた姓は莢、豆のさやを意味するこの名は実つまり子供を持つことを許されない芙蓉にはあまりに皮肉な名であった。

  




 さやに実を付けることのできない哀れな姫君、いつしか芙蓉は葵家の中で空莢姫(からさやひめ)と呼ばれるようになった。










「父上」


 そう呟いた自分の声で目を覚ました少女はあたりを見渡して、深い溜息をついた。牢の小窓からわずかにこぼれる光を見るに時間はそれほど経っていないようだ。

 どうやら眠っていた時間は僅かのようだが長い夢を見ていたようだ。


 コツコツと沓がこちらに向かって歩いてくる音が聞こえる。



 さあ、準備は整った。




「父上、芙蓉は朝廷にまいります」



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