昼休みの夜想曲
彼女の名前は、西城夜子といった。
同じ制服を着ているのに、ひとりだけ喪服のようにみえる。暗いというよりは、悲しい雰囲気をまとっていた。口の悪い連中からは、陰で「お通夜さん」などと呼ばれている。
儚いぐらいに痩せている彼女は、気が小さくて、自分に近づいてくる人間を恐れていた。例えそれが、情熱の欠片もない凪のような教師でも、ひたすら数学の難問を解きつづけている修行僧のような男子でも、自他ともに認める地味な女子であったりしても、あまり変わらない。
極度の人見知りであった彼女は、相手の目を見ることができず、挨拶もすぐには返せない。何秒か待っていると、小さな声がボソボソと返ってくる。タイムラグの長さと聞きとれない声量のため、会話によるコミュニケーションが成立しにくい。ゆっくりでいいよと伝えはしても、こちらを待たせているとおもうと余計に負担に感じるらしい。
無理をさせてしまうのも悪いので、彼女に声をかけることはなくなった。
クラスの誰もが、彼女の存在を気にしないでいた。
いないものとして扱われることを、彼女自身が望んでいた。
○
彼女は頭が良く、実技以外なら成績もよい。
あとから知った話によると、小学校、中学校ともに、ほとんど不登校であったらしい。塾にも通わず、家庭教師の助けもなく、ほとんど独学で勉強を続けて、進学校に入学していた。
けれど彼女は、頭がいいとは思っていない。
むしろ自分は出来が悪くて、要領も悪いのだと卑下している。
「なにもすることがなくて、暇だったから」
ずっと家のなかにこもっていたから。
暇だったから、ずっと勉強していただけだという。
漫画を読むこともなく、ゲームをすることもなく、配信される動画を観ることもなく、毎日十時間以上、勉強していただけだと言っていた。
学校の近くに引っ越すまでは、毎日四時間ほど、ピアノを弾いていたらしい。それもまた、独学で。耳で聴いた音楽を、指先で表現するだけだと話していた。ピアノ教室に通うこともできなかったため、楽譜は読めないそうだ。
「好きな曲を、くり返し弾いていただけ」
彼女は演奏していた。
毎日四時間ほど、淡々と演奏しつづけていた。
○
状況が少しだけ変化したのは、ある日、音楽の授業が終わったとき。
四限目の授業が終わり、誰もが昼休みを意識していた。教師は音楽準備室に消えて、クラスのみんなが足早に音楽室を出ていく。彼女はいつもどおり、最後に部屋をでるつもりでいた。
変わらない風景。少しだけ違ったのは、出入口で団子状態になったことと、最後尾にいた彼女が、ピアノに近かったこと。ピアノに意識を向けつづけたこと。
クラスメイトが音楽室をでたあと、彼女は鍵盤にふれた。
その音に気づいたのはクラスの半分くらいで、気になって足をとめたのは、十人もいない。残ったクラスメイトで顔を見あわせていると、またピアノの音が響き、つづいて、旋律が流れた。
美しい旋律。
悲しみと共にある美しさに、声をあげることも、立ち去ることもできない。
音楽準備室の扉がそっと開かれて、教師が出てきた。
誰もが耳を傾ける。
ほんの数分で演奏を終わった。
「ショパン。ノクターン、第二十番」
教師がささやいた。
音楽室から出てきた彼女は、心底驚いたかもしれない。教師と生徒が十人ほど待ちかまえていて、そのうちの何人かは、涙をこぼしていたのだから。
パチパチと拍手で迎えられて、彼女は小さくなり、たぶん謝っていた。
普段なら彼女に気をつかうところだけれども、そういうテンションではなかった。質問を投げかけて、音楽教師の補助説明をまじえながら、話を聞きだした。
久しぶりにピアノに触れて、彼女はつい、演奏してしまった。
一番好きな曲を弾いたのだという。
ひさしぶりに演奏した興奮もあって、彼女もたぶん、普通ではなかった。
繊細すぎる感性の持ち主。
困惑は大きいにせよ、純粋な賛辞が伝わらないほど、鈍感ではない。
「ありがとう」
聞こえないくらい小さな声で、彼女は伝えた。
ほんわずかな笑みではあるけれど、彼女の気持ちは伝わってきた。
○
クラスに大きな変化はない。
すこしばかり話題にはなったけれども、いまでも「お通夜さん」と陰口を叩く連中はいるし、彼女の存在を気にするクラスメイトはほとんどいない。彼女の隣りの席にいる修行僧のような男子も、
「まさかショパンで泣くとは……」
と、いまひとつ腑に落ちない感想をこぼしていたわりには変化がない。
彼女自身にも、たいした変化はない。
ただ少し、私と会話する機会が増えただけだ。
クラシックに興味を持ちはじめた私は、いつか彼女が、またピアノを演奏してくれることを、秘かに期待している。
あの日のノクターンを待ち望んでいるのは、たぶん、私だけではないだろう。




