98 快適で理想的な暮らしを
時間通りにやってきた技術者に枷を解かれ、張り付け状態のベッドから解放されたのはそれからすぐだった。
イレクトリアが上体を起こす手伝いをする人物に名札は無い。
男か女かの判断もつかないよう白衣の上からフード付きの上着を被り、厚手の手袋をつけ、顔にはマスクとゴーグルが一体化した銀色の機械をつけている。
これらは全て対空想魔法の為の装備である。
表情を観察され悟られることのないよう、イレクトリアが情報得られる術を遮断するための服なのだ。
彼(あるいは彼女)ら技術者は幼い頃からイレクトリアの前では常にそうしていた。
人一倍他人の所作や目の動き、纏う大気の流れなどに敏感で、考えている事を読み取る力に優れた少年のことが技術者達は怖かったのだろう。
それが「強く念じれば人を殺せる魔法の扱い手」ともなれば尚の事。
彼らにとってはいつ気紛れに命を取られるか解らない恐ろしい存在なのだ。
イレクトリアは十歳に満たない頃から調律の度に匿名で得体が知れない技術者たちにこうして起こされてきたが、彼らを不思議には思わなかった。
彼にとっては知れないの人物のことまで知る必要は無い。
自分を恐れて関わろうとしてこない人間ほど、弱くてつまらない存在は彼の興味の範囲にはいらないのだから。
(眩しい……)
目隠しを外し立ち上がってからは特に周囲を気にすることもなく、真っ直ぐ出口へと向かう。
「目ぇ覚めたかよバカクソリア」
張り付け状態のベッドから解放されたばかりで足取りがおぼつかず、壁伝いに部屋を出た途端に浴びせられる汚い声。酒と煙草で焼けた乱暴な台詞。
ジンガの声を聞くと、イレクトリアはやっと現実味のある日常が戻ってきたような気分になる。
「……それ、最後の方しか合ってないですよ隊長」
「口答え出来んならもう元気だな」
ジンガの出迎えに安堵して言い返すと、ジンガはイレクトリアの肩を抱いて支えてやった。
「…………」
全身匿名の技術者は言葉を発さず、小さく会釈だけして去っていった。「後はよろしくお願いします」といったところだろう。
「はー。顔も見せねェし口もきかねェ。相変わらず気持ち悪ィやつらだ」
「はは。馴れてくださいよいい加減」
技術者が離れた所で口を尖らせるジンガに、いつも通りと軽く笑って流すイレクトリア。
「一生馴れてやる気なんかねぇよ。そりゃそうとカナンも戻って来て俺の部屋で休んでるからな。ちゃんと謝っとけ」
言って小突きながらジンガは鉄の廊下を歩き出す。
彼の歩幅について歩けず、少し遅れて足がもつれてしまうイレクトリアを気遣っていれば、
「お帰りなさいませ。ご気分はいかがですか?」
「最悪のドン底。クソの吹き溜まりみたいな心地です」
「なるほどなるほど。思っていたよりも良好そうですね。担当にもそう伝えておきます」
ジンガを部屋まで案内していたコルベールが背後で声を掛けた。
彼はイレクトリアの嫌味な返事にも顔色一つ変えず、空中に浮かせた短い透明な板を叩いてメモを取る。
「滞在中はどうぞ安静になさってくださいね。国からの大切な預かり物である貴方にご不便な思いはさせません。……おや? 失礼。着信が。……はい、はい。検問所ですか。解りました。すぐに向かいます」
笑顔で話していたかと思えば片耳に触り、三連ピアスの一つを押して遠隔通話を始めるコルベール。
アクセサリーのように見える小さな通話器。それをもう一度押し、相手との会話を終えると深々とジンガ達に頭を下げる。
「ごゆっくりお過ごしくださいませ。アンバーマーク様方。それでは、快適で理想的な暮らしを機械都市で」




