96 くんかくんか、すーはー
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恋する乙女は盲目だ。
恋愛対象にしている男性の悪いところも、何もかもがかわいらしいと錯覚してしまえるほどに。
愛する異性の事を一晩や三日そこらと一日中考えて、病のような熱にうなされる。
そんな感覚を懲りもせずに年に数十回ほど繰り返しては、届かぬ想いに枕を濡らす。
しっとりの時もぐっしょりの時も健やかに。
部隊では鉄の女と呼ばれる炎の精霊も、ある時までは一人の少女であったし、いまだ諦めきれない想いを抱く乙女として相応の心に悶える日が無いわけではない。
人間を象った実体を失って数日間、カナンは自分を庇ってイレクトリアを殴ったジンガのことばかり考えてしまっていた。
(流石に……柄にもない。とは私自身も思っている。けれど隊長にそこまでさせて、結果的に副隊長の調律が必要になり機械都市にまで赴くことになってしまった。だから……)
いういかにも真面目で、恋愛沙汰とは程遠い思考を巡らせる。
一度消滅した精霊は実体がない限り言葉を発することも他者に触れることも出来ないが、自身の象徴がある場所に漠然とした輪郭で存在することだけはできる。
カナンはジンガに連れ回されていることだけをここ数日間自覚していた。
文字通り焔鎧は物、鎧の一部だけになったカナンとして主の懐に守り刀のごとく収まっていたのだ。
そしてたった今、完全に実体を取り戻した彼女は広くて硬いベッドの上で目を覚ました。
一糸まとわぬ生まれたままのヒトの体でジンガの脱ぎ捨てたコートを羽織り、主の温もりと匂いを心ゆくまで堪能していた。
(違う。これは断じて……! そういう変態的な行為ではなく……っ! って、誰に言っているの? 私……っ?!)
頭では否定している。
しかし、誰も見ていない。誰も自分のこんな姿、見てなどいない。だからといってこんな行為は赦されるのか。咎める人物がいない間だけ、でも。
(今だけはおゆるしください……はうぅ……)
カナンが目覚めた時、部屋に彼女以外の人間は見当たらなかった。
最初は後ろめたい感情などもなかった。
彼女の象徴である肩鎧の一部が偶然ジンガの上着に包まれた状態で置かれていたために、想い人の衣服を裸で羽織って目覚めただけのこと。
それはカナンにとって予期せぬトラブルで幸福で、目覚めた瞬間に冷静ではいられなくなってしまった。
思慕は時として鉄の女を乙女に戻すのだ。
カナンはジンガの匂いが本当に好きだった。
紙煙草の燻った臭い、僅かなアルコールと汗が混ざった男くさい年配者の臭いを好む変わった趣味はないが、想い人の匂いとなれば感じ方も全く変わってくる。
彼の香りに包まれていると、彼が差し伸べてくれた大きな強い左手を思い出す。
人間に縛り付けられていたカナンに自由を与え、先行きが解らず不安だった未来の生き方を示してくれたあの手。
カナンにとってのジンガの匂いは、打ちひしがれた自分を包み込んで希望をくれる暖かな匂い。
この香りはどんな甘味よりも甘く、自分を優しく励ましてくれる特別なもの。
だから全身で彼の匂いに包まれていたいのだと、愛の巣作りをする小鳥のようにコートにくるまれながら彼女は寝転ぶ。
「うふふ。私は今とても幸せです。隊長……隊長……」
全身の力を抜いて休んでいると、自然に表情が綻んでしまう。
思い返せばジンガが自分の為にイレクトリアのことを怒ってくれたのは嬉しかった。もっと言えば副隊長の涼しい横顔に拳を振るってくれたことには快ささえ思えた。
くんくん。すぅー。
カナンは誰にも見せたことのない満面の笑みで、ジンガの香りを胸いっぱいまで思い切り吸った。
大好きな人を感じる度に心地よく体が熱ってくる。
人感センサーに反応した自動ドアが横に動き、彼が部屋に入って来たのはちょうどそのタイミングで。
「おう? カナン。戻ってたのか」
「たっ、隊長?! あ、あのっ、その! こここ、こりぇは! ち、違うんです! 誤解なんです隊長!」
来訪者は上着の持ち主ことジンガ当人。
カナンは握りしめていたコートの裾を顔から離し、緊急時のフィーブルにも負けないほどのどもり様と舌を噛む失態を重ねて慌てる。
「わーかった、わかった! 着替え持ってきてやるから! お前、そのまま待ってろ……!」
真っ赤になってベッドの上で急に立ち上がるカナン。
あられもない姿を晒す彼女に、見てはいけない現場を見てしまったことを察しジンガも急いで部屋を出ていった。
「た、隊長~~~~!」




