89 逃げてきた少女
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「っふあぁ……」
魔法学校では朝ごはんも庭の手入れも全て交代制だ。
セージュとジェイスが大切に育ててくれている菜園の中。
二人と一緒に今朝の支度に必要な野菜をもぎ取っていると、朝早い作業にもつれこんできた眠気と風景の長閑さについ大きな欠伸が出てしまった。
「おっきなあくびです。せんせ? まだ眠いですか?」
「ううん大丈夫。だ、けど……は、ふぉ……」
見上げてくる小さな草花の精霊の子・セージュに生返事をしているとまた抑えられない欠伸が出る。
本当のことを正直に言えば昨晩のスーの様子を見てから考え事が多くて十分に睡眠が取れなかった。
でも、それはそれで今は今。
一夜明けたのだから割りきらなければ。
土の匂いが付いた手で目を擦り、鋏を使ってトマトを収穫する横で、
「なんだよマグ先生。眠いなら休んできなって。あとは俺とセージュでやっとくから」
「いやいや、そういうわけにはいかないよ。今日は俺も当番だもの」
流石農家の息子と言っていただけのことはある。
太陽やニワトリよりも早起きなジェイスが言う言葉に俺は軽く頭を振った。
早朝にも関わらずいつもの元気な声でジェイスが気遣ってくれたが、俺も今日の当番をまっとうしなくてはいけない。
朝ごはんの当番も、二人と菜園に来ることももう何周目かのことだし今更眠いからといった理由でサボるのは無しだ。
出そうになる三度目の欠伸をなんとか封じ込め、カゴの中の野菜たちを一瞥して立ち上がる。
「ふーっ」
事件が舞い込んできたのは、背伸びをすれば眠気も少し紛れるだろうと両手を空に向かって伸ばしたその時であった。
「たあーーーーすけっ! 助けてくださ~~い~~っっ!」
「ぴゃあああ~~!!」
突如として聞こえて来た二人分の大きな声が俺の目覚まし。
「追われてるんです! ストーカーです! あの人ほんっとしつこいんです! 助けて! お願い! しぃっまっす!」
息を切らして畑へ飛び込んできた少女は俺たちの後ろに隠れ、必死な様子で叫ぶ。
振り返り見た彼女の服装は黒いドレスワンピースで、丸みを帯びた金髪のボブカット。
俺の頭一つ分下に見えた顔は不安で青ざめている。
小柄だが歳はセージュよりも上でジェイスよりももしかしたら上かもしれない。
多分十代後半くらいだろう。
淡いピンク色の包みのような物を大切そうに両手で抱え、青い瞳を潤ませながら俺に助けを求めていた。
「え? ストーカー?」
「そうです! あ、あれ! あのきっしょく悪いの、見えてるでしょっ?!」
聞き返した俺に少女が俺の脇から手を伸ばし前方を指さす。
そこには彼女を追って来たのであろう見るからに怪しい男が迫っていた。
艶の無い真っ黒い髪に鋭くつり上がった真っ赤な目でこちらを睨む人物。
ヘドロのような不気味でおどろおどろしいオーラを纏った長身細身の体格と卑しい息遣い。警戒すべき男だ。
腰から下が泥のように溶けて見え、一瞬目を疑う。
朝霞か寝ぼけた俺の頭が幻覚を見せているのでなければそれは泥ではなく無数の触手のようになっていた。
少女を助ける助けないを抜きにしてもこの男は見るからに魔法学校の中に入れてはいけない類の不審者だ。
本能的に俺も身構える。




