86 コルベール
────ベルベットの空。
機会都市では見上げる視界に広がる空をそう呼んだ。
毛羽立つようにまだらな灰色。
ざらついていて雲の一つたりとも見つけられはしない。
否、この都市に住んでいる人々は雲という存在すら知らない者が大多数であった。
空はどこまでも同じ色。二十四時間、一日中曇ったままなのだ。
曇りであることが正常で、硬い布地のような様子の空がどこまでも果てしなく続いている。
機会都市の外側の人間たちからすればそれは異常な光景だった。
雲が厚くある次の日は雨と呼ばれる大量の水が空から降り、とても寒い日には冷たい雪となって降る。
溶けた雪は氷の粒と水が混ざったものは霙と呼んで、それが再び固まれば雹となる。
毎日微妙に変わる温度が体を介し、緩く浮くような心地よい風が吹き渡る。
それが当然の暮らしをしている人々にとっては、この都市の普通は不気味で異様な風景なのだ。
雲も見せず風も通さず光も射さないベルベットの空は、果たして空と呼べるだろうか。
古来の人々が人工的に歪ませてしまい、乾ききって空回っている風景を見たらこの空を何という名で呼ぶのだろう。
あるべき人影も見当たらない。美しさに沈みきった銀色の世界。
掠れた金属音と砂ばかりの記憶の終わりを探しても、空と同じで果てが無い。そんな世界。
「申し訳ございませんがこちらは禁煙となっております。お煙草をお吸いになるのでしたら代わりに電子煙草はいかがでしょうか? アンバーマーク様」
ポケットから煙草缶を取り出し一本を咥えたジンガに、後方で控えていた男が声を掛けた。
気品のある白い給仕服に鉄の部品を組み合わせて出来た機械の両腕。
艶の深い濡れ烏色の髪の下にある学者風の顔はどこか無機質で、頬には光る独特の紋様が描かれている。
「あ? なんつった? コルベール」
「電子煙草でございます。煙、水蒸気一切を発さず点火も充電も不要の都市常用嗜好品です。環境にも健康にも大変優しい画期的な発明です」
不満そうに聞き返すジンガの隣に歩みを寄せ復唱すると、コルベールと呼ばれた男は待っていましたとばかりに笑顔になり片手を目の高さに挙げ動かした。
「お味はどのようにいたしますか? 丁度その、アンバーマーク様のお吸いになっている物と近しい苦みと清涼感が強いものでしたらこのようにしまして……」
彼が持ち上げた手の指の間。
音もなく現れた細長い筒を光らせ、カチカチと側面に付いたボタンを何度か押す。
ボタンの近くに増減する数字が表示されており、それらを設定することによって風味が異なる仕組みらしい。
ジンガの煙草缶の銘柄を視覚で読み取り、瞬間的に記憶回路から導き出した味を計算し再現するための調整を行ったコルベールは、得意げに電子煙草を差し出した。




