72 雀蜂の針
マグの呼び起こした暴風が森に立ち昇った炎に更なる力を齎す。
何重にも輪をかけて大波を煽られた火は赤から橙、黄色から白と外側に拡がるにつれて色を変えながらファレルファタルムへと向かい、彼女の白銀の鱗を照り付けた。
「グァあアアァッっ!」
まるで古来からある樹木の年輪のように、深く掘り下げられた地層のように。重ね連なる表情を持った業火が大竜のもとへ到達してゆく。
繋がれた足元から全身へと一瞬にして回った炎に焼かれ包まれたファレルファタルムの悲鳴が一同の鼓膜を劈かんばかりに響き渡る。
彼女の身に天災のごとく振りかかった炎の勢いは止まらない。
足枷になっていた豆の大樹は炭を介さずに灰となり、周囲一帯の森へと無差別に降り注いだ。灰からは火が燃え移り、たちまち木々の緑を赤と黒のコントラストに塗り替えていく。
「やったのか……? 今のを……俺が……?」
地獄が存在するならばまさに今目の前で相当リアルな地獄の再現が行われている。と、自身の放った魔法が引き起こした事態に息を飲むマグ。
地獄へ落ちた者が受ける罰のように、一方的に償いを求められ身を焼かれて苦しみを訴えるファレルファタルムの叫喚が聞こえる。
既に抗う声ではない。生を受けたことを後悔しているほどの悲痛な泣き声だ。
「嘘だろ。こんな……ファリーを説得するはずが……っ」
「お、お母さん……!!」
動揺するマグを背に乗せたスーも黙ってはいられず、灼熱に虐げられている母竜に呼び掛けようとする。
飛び付くことの出来ない距離で飛行を続けファレルファタルムを見守るしか出来ない彼女は、焦燥と不安で胸を痛めていた。
それを察したマグが咄嗟に頭後ろを引き寄せる。
「冷静に! スー。落ち着け!」
「でも! だって! お母さんが……! ボクの、ボクのお母さんが!」
「まだだ! まだ足らない! 炎鎧の炎よ、奴を跡形も無く焼き消せ! 『靴を奪われた少女はマッチで暖をとる。火中に見えた幻影の、明かりの家の、愛する家族とたくさんのご馳走、そして彼女は亡き祖母に手を引かれ天へ昇る』……!」
煉獄に捕らわれたファレルファタルムに追い討ちをかけるような詠唱が二人の声を遮って続けられる。
部下が残した火へ、隙を与えず焚き付ける。もはや野蛮な炎の扱い手と化したイレクトリアの呪文はマグもよく知る童話だった。
この焦りの中で聞かされるような話ではない。父親に虐げられ人々に無視され路傍で悲しい結末を迎える薄幸の少女の悲しい物語は、逆巻く炎には何とも不似合いで逆に寒気がするほど悍ましい。
まるでスーとマグの焦りを嘲笑うかのように。イレクトリアは瞳に狂気を宿しその物語を辿る。
しかし、大竜も一方的に虐げられたままではいなかった。
火渦と熱風の中心に囚われ真っ黒に焦がれたファレルファタルムの顎が大きく開かれ、水晶の角が細やかな文字列を浮かべる。
彼女は再び口腔より氷の魔法を放ち、自身を焼く炎に抵抗し対抗を始めた。
「ギュオオオォーーーーッ!」
荒れる炎に衝突した氷の息は溶解し、水となり彼女を守り癒す雨へと変わる。
一瞬にして鎮火した先で焼け黒く染まった鱗の中央、胸の中心部に晒された結晶は彼女の体よりも灰よりも更に鈍い漆黒。
それが何を意味するのか今のマグには解っている。
「ちっ。逃がすものか……!」
悔しげに小さな舌打ちをして睨むイレクトリア。渾身であった炎魔法の強化をもうち解かれ、次の手を探して本へと視線を落とす。
その瞬間をマグは見落とさず、間髪入れずに声を張った。
「無駄だ! ファリーが暴走しているのはあの黒い結晶のせいなんだ! 俺の角と魔王を包んでいたのと同じあれが原因なんだよ……!」
もはや誰に向けてでもない。自分自身に言うように必死の形相だった。ファレルファタルムの行動に対抗するべくイレクトリアが次の呪文を読み上げる前にマグが叫ぶ。
「あれを取り除くんだ! そうすれば、彼女だって正気に戻るはずだ!」
「は? まおー? 取り除くって? マグちん何、倒し方わかんならどーにかできるヮケ?! やり方知ってんの?!」
「わからない! でも、俺がやる。やってみせるよ!」
ミレイから振り向き彼が指し示す先。両足の拘束を解かれたファレルファタルムが大きく羽撃く。自ら引き起こした一瞬の雨を散らして弾き、黒く染まった体を旋回させ飛び立とうとする。
「ファリーを追って飛んでくれ、スー!」
「わ、わかった!」
悲痛な叫びを挙げながら逃避の姿勢を取る彼女を追うように指示をし、マグはスーの背をしっかりと掴んだ。
浮いたままの体勢を整えて翼を動かすスー。力強く飛び、母竜へ近寄るべく加速する。
ファレルファタルムまであと少し。鈍くも艶めき黒ずんだ姿はまるで蒸気機関車のようだ。煙に代わる黒影を傷付いた胸の結晶から溢しながら逃げる彼女の尾まで追い付く。
マグは右手で魔法辞典を開き、スーから身を乗り出して彼女に腕を近付けようとする。
シグマのエメラルドリングを介して彼に制御されている風の魔法がスーに力を与えれば飛行速度が増し、すぐに尾から付け根、腰から上まで飛び付ける位置にまで出た。
カーチェイスを繰り広げるかのように単車ほど小型のスーが何度も機関車大のファレルファタルムへと接近しては距離を離す。
繰り返して数度目。黒い結晶に向けている腕の狙いがなかなか定まらずマグが苦戦していると、
「おいクソトンボ! テメェ最後まで責任持ってアイツをとっちめろ!」
「せ、先生さぁん!」
彼を後押ししたのはジンガの怒声と、聞き覚えのある怯えたような女声だった。
激励とは違うまたひどく乱暴な蛮勇と悲鳴に近い絞声。対照的な二つの声にマグはそちらを振り向き見た。
「ジンガさん?! それにフィーブルさん!」
「半端なことしてっとテメェのケツごと殺るつったろうが!!」
相変わらずのがさつな口振りが今は頼もしくも聞こえる。
ジンガは既にマグの叫び声を聞き思いを汲み取りイレクトリアより先に次の手までを判断。既に決定してフィーブルに指示を出し此処まで来ていた。
牛娘は逃亡するファレルファタルムの退路を予測、待ち構えるために先回りで隊長を抱えて走り、遅れて一同と合流を果たすなり即刻見せ場をつくりにきたらしい。
ジンガがフィーブルの腕から抜け、彼女に目配せで合図をする。
「散々振り回してくれやがったな……おい、フィー!」
「はいっ隊長! い、いいっ、いきますよぉ~~!!」
常人ならざる怪力で筋肉質な成人男性を打ち上げ、一息に投げ飛ばす。目標は大竜の頭上。
フィーブルが組んだ手を踏み、両足の軸をバネにして高く高く跳躍し、ジンガが空へと舞い上がる。
右半身に輝く赤い光の片腕を展開、爪を開いた形を握り締め空中を裂くように弧を描きながら再び集約。腕とは違う形に構築。
「観念しな! 年貢の納め時だぜ、守り神さんよォ!」
ファレルファタルムへと飛び掛かるジンガの腕に現れたのは巨大で長大な一本の槍だった。
彼やマグらの身丈の数倍……約十倍にも及ぶ深紅の鋭利な武器を作り出せば、勢いで振りかぶったまま体重を落下に乗せる。
彼の赤い腕は鉄塔の先端の如く閃き、ファレルファタルムの背中に深く突き刺さる。黒くなった鱗を引き剥がし、下に残った本来の銀白を抉り、長く太い真芯針を竜の体躯に貫通させた。
「ガァアッ!」
気力限り無い衝動に任せた一撃。
槍に貫かれた大竜が轟音と共に地へ衝突する。燃え屑を振り撒き緑と黒を斑にしていた木々を薙ぎ倒し、薙ぎ砕く。ファレルファタルムは背から突き通され標本のような形に縫い止められてしまった。
「な……っ?!」
「こンのくたばりぞこないが……」
圧巻の出来事に言葉を失うマグたちの視線の向こうで上がる土煙。
獲物を仕留めた男の呟きにひらめく黒い制服。遅れて着地する真っ赤な布地。肩に光る銀蜂隊の証。
彼らのシンボルである雀蜂の印は、まさしくこの隊長の武装姿に決定されていたことをマグはその時初めて知った。




