66 魔王
ファリーと男が立っている光景が僅かに綻びを見せた。
一つの画面の中に纏めて放り込まれた俺たちの周囲が、ノイズを走らせる映像のように不安定に揺らぐ。
黙ったまま対峙する両者の頭上。
その歪んだ赤い指のような物は部屋の薄明かりを掻き消すように現れた。
見上げる俺たちの視界の上側に、突如として天井に張り巡らされたのは生き物の臓腑を連想する真っ赤な蔦。一本が俺の腕回り以上もある血管のような太い触手が無数に湧いて、部屋の上部を覆った。
拡大は一瞬。壁にまで根を張り出した管たちは、中に通っている黒い液体を噴き散らしながらファリーに近付いた。
「ファリー! 危ない……!」
俺が伸ばした手を二人が見る。四つの目がこちらを、まっすぐに。
違和感がある。ここはファリーの記憶を再現した映像の中だ。俺の姿は誰にも見えていないはず。
「……っ?」
確かにそうだった。彼女達は俺を見たのではなく、俺の体をすり抜けて現れた少女を見つめていたのだった。
(彼女が……魔王?)
どうして俺の直感はそう思えたのか。異様な姿の人間が一人。どろり、と血の塊が落ちるように俺の胸を貫いて現れ、抱擁を求めるかのようにファリーに向かって両腕を伸ばす。
ーーーー魔王。
それは想像していたよりも遥かに華奢で痛々しく、朧気で小さな生命の形。
魔王の正体は俺の頭一つ分ほど背の低い少女だった。
魔王という代名詞の響きからはとても連想しないような。水滴を溢している触手を植物の蔦に例えれば、その中心に咲く一輪の薔薇の花のような。小さくも存在感はある、周囲の赤とは色気味の違う脈拍。
光の当たり方によって緑か青がかっているようにも見える金髪を背中まで伸ばした少女。
下半身は天井から伸びる触手に繋げられ腰まで巻き付かれていて、白い人肌は血が滲んで所々黒く変色している。
絡み合う触手のせいで自立出来ない足から繋がる骨の浮いた肋には管の先が食い込み、上から吊り下げられるような形でファリーにゆっくりと向かって行く。
見るも無惨でおどろおどろしい出で立ちだが、俺は彼女から目を背けることを許されなかった。焼き付いてしまったその風貌をいくら払っても忘れられることはないだろう。今にも息が止まりそうだ。
何故ならば。
「これと……同じ?」
肋から枯れた枝のごとく細い腕、渇いて擦り傷だらけの首の上。そのさらに上。
魔王の頭部にはマグが頭の片側に生やしている角とよく似た黒い尖った鱗のような物があった。
思わず自分の方頬から頭に触れる。既に彼女からは絶対的に目が離せない。魔王はマグと、俺と同じ角を持っているのだ。
彼女のものは角の一本と呼ぶには範囲が広い。頭部を掴み掛かる爪のように覆い、横からも一周ぐるりと取り巻いている。爬虫類の尻尾のようにも見える黒曜色の塊が彼女の両目を塞ぎ、耳を塞ぎ、首を絞める腕のごとくまとわりついている。
(魔王と同じ角がどうして俺にも……?)
そう思った途端に頭痛が起きた。嘘をつけない魔法のせいではない。いつかも感じた、肝心なところで言えないことをマグの体が否定するときに起きる方の激痛だ。
(くそっ! 今はダメだ……気を取られるな! ファリーを……彼女の記憶を見ていなくては……!)
目を開けていれば痛みは鼻の頭から。真上に抜けては振り落とされるように前頭葉をがちりと殴り付ける。なんとか持ちこたえてくれ。ファリーの記憶の中で、最後まで見届けないことには瞼を閉じるわけにはいかない。
「ええ、魔王……いいえ、ミナリス。私が来たからにはもう大丈夫です。貴女の痛みを取り去りましょう」
ミナリス。それが魔王の名前。
この世界を陥れた諸悪の根源。何故ファリーはその名前を、哀愁を込めて呼ぶのだろうか。
まるで諭すような口調ではないか。
風邪で寝込んだ子供をあやすような優しい口振で、スーにはみせることが出来ていたかもわからないような慈しみを込めた表情。穏やかな母親の囁きで魔王を呼ぶのはどうしてなんだ。
情景が脳裏で軋む。俺のこめかみが割ける。頭から抜け落ちた脳が胃まで落ちて窪む。底でじりじりと溶けて焼けるかのような痛み。
痺れる。耳から口の端までが不自由になる。
(なんとか、頼む、今は……!)
「ーーーーやめろファレルファタルム! 無謀だというのが解らないのか!!」
男の声が響いて、頭の痛みから乱雑に引き戻される。
閉じ掛けた目を一気に見開く俺の手の先。
ファリーの胸を貫いているのは俺の手から伸びた真っ黒な結晶。
それもまた、俺の頭にある角と同じ。魔王の手から彼女に移り渡った不穏な物質。
魔王と重ね合わせた俺の拳が、その先にある。
救うために伸ばした腕が、港街の守り神の、麗しい竜の婦人の、ストランジェットの母親の……ファレルファタルムの肌を突き破って、彼女の背中の後ろに貫通し刺さっていた。
(は…………?!)
血を口の端から滴らせ痛みに堪えるファリーの胸に広がる黒い影。
衣服を破り去られ、肌に拳が通るほどの大穴を開けた彼女の胸の生暖かい感触。
彼女は自身に治癒魔法を唱える隙もなく膝をつき、魔王と側の男を悲しげに見ていた。
俺の立ち位置は今、魔王に重なっているが、ファリーの視線が俺と交わることはなかった。




