65 守り神の記憶
ファリーの横顔を眺め、頭の後ろから手前にカーブを描いて生えている水晶の角に触れる。
いつも避けているスーの物とそっくりな色形だが、サイズは何倍にも及ぶ大きな角に。
ちょうど真ん中で緩やかに曲がったところに小さな文字が震えているのを見付け、俺は手を伸ばした。
(これは……ファリーが刻んだ記録の魔法?)
魔法辞典を開いたままになっていた右手を見る。
魔法を扱う時と同様に指先でそっと彼女の角に記された文字を拾い上げると、
「くっ……!」
緩やかに電流が走るような僅かな痛み。
俺は無意識にファリーの記録魔法に再生を命じていた。否、命じていたのはマグの意思なのかもしれない。
ここまでで役目を終え腕の中に魔法辞典が収縮した反動に思わず仰け反ると、足場になっていたファリーの両手の平が光の粒を撒き散らしながら消え始める。
足の下には鬱蒼と広がる夜の森が口を開けている。
だが、俺の体が落下することはなかった。
すぐに新しい景色が周囲に広がっていき、空だった足の下に石の床が構築され、俺はそこへ立っていた。安定した地面に。
イレクトリアの魔法で森まで連れて来られた時のように、周囲の風景が瞬きするごとに変わっていく。
ただし、今度は場所を移動しているわけではない。
ファリーの記憶が再現しているいつかの時間を端から覗き見るために、破片と破片を繋ぎ合わせて一つの空間を造り出しているのだ。
流れ込んでくる。彼女の不安が。心細さが。
なだれ込んで来る。ファリーの気持ちが。
あの時、傷付きながら横たわっていた。去るマグを見送り最期を迎えた彼女の姿が脳裏に浮かんで来た。
割けた腹から血を流し、身を起こせぬままスーを預け、啜り泣きながらも悲しい声音だけは震え抑え込んでいた大きな母竜の存在が。
パズルのピースのように再現すべき舞台が組み上がった。そうして時間が巻き戻される。
ファリーが傷付き死を悟るよりも前、彼女がまだ人の形に化けていられた頃の記憶が俺の脳に送られてくる。
掌に掬い上げた記録魔法の文字が溶けて消え去った頃、微かに二つの声が聞こえてきた。
「……憐憫。悲惨。愛憎。聖女と尊ばれ港街の守り神とうたわれたお前が自ら魔王へ滅ぼされに来るとは。いや、人々が安寧のためにお前を売ったという方が正しいのか……」
第一に聞こえたのは低い男の声。顔のほとんどを布で覆っている、司祭のような服を着た背の高い人物。
向かい合っている真っ白な光を放つ麗しい婦人は……直感で解った、ファリーだ。スーによく似ている。スーがそのまま大人の女性に成長したような姿だ。
彼女の顎を掴んで男が笑うと、ファリーは黙ったまま目で彼の言葉を否定した。
「いいえ。人々は関係ありません。私は私の意思で魔王の傷を癒しに来たのです」
「今更。不快。疑心。ヒトの男に現を抜かし、魂の運び手……神竜の継承を放棄したお前に何が出来る?」
二人は暗い部屋で何かを言い争っている様子だ。
俺の居る石床を辿った少し先で互いに睨みあっている。ファリーはどこか焦っている。彼女は疲れたように睫毛を伏せていたが、すぐに男の手を払い除けた。
「それとこれとは別のこと。私は、彼女を救いたいだけです。私の命をもってこの世界の呪いを、魔王の苦悩を終わらせるのです……」
「不義。小癪。虫酸。ふざけたことを言うメス竜め……」
男は短く舌を鳴らして、骨張った手でファリーの顔を捕まえ直し、彼女の長い髪を引っ張った。
顔が見えず静かな口調のため、表情が読み取れない。だが明らかにファリーに乱暴をしていることはここから見ても解る。
「早くしなければ、討伐軍が結成され魔王のもとへ到達してしまいます。人々はその為の支度を始めている。最悪の事態に、そうなる前に彼女を……」
「不適。不遇。懐疑。魔王が討伐軍にも滅びることはない。あの方は永久。不死をこの世にもたらす御方。お前の治癒などで癒す必要はない」
ファリーの言葉を遮る男の台詞は、不愉快を表してはいるものの彼女との会話としては一節も続いていないように聞こえる。
俺には言葉を交わしている二人の顔色がいまひとつ掴めない。
解ることは、今目の前で起きていること……見せられているファリーの記録は少なくともファリー自身が亡くなる前の出来事だということ。
場所は不明だが、討伐軍が来るということは魔王の所在に近しいところなのだろう。
討伐軍というのは恐らく魔王を倒すために組まれた人々……ビアフランカに教わった話では、騎士団や機械都市、その他の魔法使いを集め、マグも抜擢されていたもの。
今見ている記録の先で、魔王を滅ぼす者達がじきにやってくるとファリーは言っているようだ。
そして、その前には彼女と魔王との接触を臨み、一人で立ち向かおうとしている道を男が塞いで「否」を続けている。




