64 彼女のもとへ
ーーーーまた、ここで魔法をやってみろ。
彼にそう言われているような、試されているような気がした。
初めて路地裏で呼び出したときよりも、俺は今いくらか冷静に己が放つ魔法と向き合うことが出来ていた。
ビアフランカに教えてもらった記録の魔法の仕組みを、知識として吸収したことによる恐れや不安の軽減。
マグの力は彼から俺に与えられ、ビアフランカが紐解いてくれたことで、この世界で生きるための大きな武器に変わる希望を持った。
(落ち着け……、よし)
まず自分を信じることが、彼の体から魔法辞典を呼び出す一番最初の手順。
剣を昇り刃の上を入れ替わりながら走り回る文字を見、深呼吸をしてまずは一つ数える。
次に思い返すのは先程まで、アプスが模範を示してくれた目印になる光の球体。直近に見たイメージがすぐに浮かぶもの。
ただし、脳内のイメージから直接魔法を呼ぶことが出来るのは空想に適正のある魔法使いだけ。
マグはそうではないから、近しい呪文を、自分の記録を収めたものから取り出して一回ごとに行使しなければならない。
あの時、路地裏でアプスの光の球を真似て魔法辞典から選んだのは強い閃光の爆発だった。
路地裏での時は扱い方が解らず、咄嗟にその文字を捕まえて投げるように発動するしか出来なかった。
だが、今は違う。と、深呼吸の最後に息を吸い直して二つ目を数える。
「いくぞ……! これだ!」
三つ目を心の中で唱え、勢いに任せて片手を剣の刃に当て、剥ぎ取るようにして文字の一つを捕まえる。
俺の呼び掛けに応えた魔法辞典を展開し、今再びマグの残した力を借りるべく、剣を持つ手を高く掲げた。
「頼む! ファリーの元まで道を開けてくれ、マグの……いや、俺の魔法!」
捕まれた文字が粉塵を散らして夜闇に溶ける。
見とれて二秒と僅か。次の瞬間には、剣が纏う光の帯たちが渦を巻き始めた。
文字列から一部を奪われて出来た穴が、辺りの一帯全部の景色を吸い込むように激しく。
躍り狂うような暴風に木々をざわつかせる様子は、ファリーの咆哮と同じように風を引き寄せていた。
彼女と同様の竜の鳴き声が飄風と共に割れる景色の一線を画し、俺の頭上を抜けて響く。力強い竜の声は俺自身から出ているかのようだった。
眼前の道なき道に透明な空洞が現れ、世界が止まって見えた。散ったはずの文字が道標になって俺を風のアーチの中へ引き込む。
「えっ……!?」
円形の風はそのまま角度を変えて立ち上がり、すぐに俺は木々を下に見ることになった。俺の体が夜空に一筋の光として打ち上げられたのだ。
目映く輝きを放ちながら地上を飛び立った俺を運ぶ風は、一直線に上空へと飛び上がり、揺らめいている月を割るために紺碧の間を走った。
噴き上げた風は木々の蒼を駆け抜けて過り、瞬く間に俺は先を走っていたはずの女騎士の背中を追い抜いていた。
風圧に舞った木の葉が細かい傷をつくり、寒気が切り傷の出来た肌に染み込む。
「教諭?! あなた一体何を……?!」
「ま、待ってくれ! カナンさん、これは! うわああああああーーーー!」
事情を話している隙もない。吹き荒ぶ風が俺を運ぶ様子を見て魔物を切り裂いていた手を止めるカナンに掛けた声は、置いてきぼりをくらって遥か後ろで掠れて消えた。
魔物を退け、先を走るカナンに追い付き、より早くファリーの元へ辿り着く。それを確かに望んで選んだ魔法ではあったのだけれど。
相変わらず何が起きるか解らない。理解したつもりでいたのに、俺は魔法辞典にまたしても振り回されてしまっていた。
「ーーーーっ!!」
クォォォォーー……!
叫び声を渇らした俺がやっとの思いで唾を飲む音も掻き消される竜の鳴き声。振動。全身への衝撃。
咄嗟にしがみついた場所は、真っ白な鱗が覆った太い尾の先端だった。
夢の中で見た、目玉一つが俺の頭ほどもある巨大な竜が真上で羽ばたいている。
スーと同じ灰色の尖った角と、空とそれ以外とを隔てるような広い翼を持つ空想上の生き物の体を俺は掴んで宙に浮いていた。
(なんてこった……いや、待て待て待て?!)
両足が地上から離れた時どうなっていたのかも覚えていないほど素早い動作だった。思考がまるで追い付いてこない。思考以上に体も追い付いてこない。右足も左足も投げ出されていて、重力に逆らわず下を向いている。
現在地は空を舞うファリーの長い尻尾の先。命綱は存在しない。俺は片手で彼女にぶらさがっていた。
(近い……!そして高い……! )
バランスを取るので精一杯だ。自分の足を確認して下を見たのが間違いだった。心臓が縮んで胃にめり込んでいるような圧迫感。
真下に広がる木々の合間を縫って駆け寄ってきているカナンが、手のひらサイズに見える。
それだけ高いところに、一体俺はどうやって飛び付いたというのだろう。
落ちれば一貫の終わりだ。こうなっては上を目指すしかない。もとより目的は眼前の真っ白な鱗肌の主なのだ。
剣を持っていたために投げ出されていた片手を自身の胸へ引き寄せる。
「ファリー! なあ! 聞いてくれ! 俺と、話をしようーーーー……」
振り落とされそうになるのを必死で堪え、顔を真上に向ける。
渇れた喉から声をなんとか吐き出して声を掛ければ、大きな紫の目が俺を見下ろした。スーと同じ色の澄んだ宝石のような目が、俺の姿を捕らえて揺らぐ。
「マグ……? 貴方なのですか……?」
上から聞こえてきたファリーの声は、夢の中と同じ穏やかな女性の声だった。
動揺と困惑の入り混ざった問い掛けに、俺は腕に力を込めて彼女の体に足をかけ昇りながら答える。
「ああ! そうだとも!」
「本当に………………?」
尾の揺れが止まる。
彼女の鳴き声は既に完全に人の言葉に変わっていた。
暴れまわる事を止め、俺との対話を選んでくれた。俺の呼び掛けに反応している。説得に成功したのか。
水晶の爪が付いた長い指が俺の体を遠慮がちに摘まむ。
ファリーは尻尾にしがみついていた俺をそっと掬い上げて鼻先を優しく寄せ、懐かしそうに匂いを嗅いだ。
「ああ。マグ、貴方に、……貴方に会いたかった。貴方を探して……」
大きなてのひらに包まれながら、彼女の横顔を撫でる。
空の上での再会。夢ではマグと再会するファリーを見ていただけだったが、今の俺は彼女と向き合うマグそのもの。
一番間近で息遣いと温もりを感じていた。まだ少しだけ興奮しているのが触れている手を通して伝わってくる。




