50 不穏
本日ご来店の謎の美しいお客様は、昨日のお騒がせなお客様の関係者と考えてもいいのではないだろうか。と、シグマは考えた。
昨日、文無しで記憶もない。などと言っていた連れに置いて行かれたあと、残った輝石竜の少女も目の前の女性と同じ行動をしてきた。
ストランジェットと名乗った少女は輝石竜としての価値はもとより、とても素直で健気な良い少女だったとシグマは記憶している。
彼女は自分を置いて去ってしまった青年をずっと待っていた。
待っている時間の中、「先生が戻る前までにボクが稼いで代金を払えたことにしてもらえませんか?」と言ってお金の代わりにと宝石を差し出し、シグマの妻に頼んで制服を着せてもらっていた。
制服に関しては少女が着てみたいと自ら進んで腕を通したのもあるのだが、宝石を渡してきた理由はけして青年が戻ってこないと思ったからではないと何度も何度も念をおして言ってきた。
そんなことをするような人物ではないと青年を庇い、「絶対戻ってきてくれるけど、もしかしたらお金を借りたりするのは苦手だから……」と笑顔で言っていた。
そんな少女を見ていたシグマは感心し、悪い考えが浮かんでしまったが彼女から念を押されるたびにまた何度も何度も自分の悪心を打ち砕き、理性的で紳士な獣人として己を保った。
ストランジェットの紫色の澄んだ瞳が潤んで眼球に水の輪を張ってキラキラと輝く。
あの顔を思い出すと、目の前の女性に重なった。
その照合率といえば瓜二つに近くしっかりとはまってしまうほど高い。
少女の未来の姿がここへやってきたのかもしれないと思いたくなるほどだ。
「いえ、お客様。これは……」
「足りませんか……? では……うっ! げほっ!? ごほっ……!」
シグマが握らされた布袋を返そうとしたところで、女性は突然咳き込みグラスを置いた。
「いかがなさいました、お客様」
こういう時、抑揚に乏しく語尾にエクスクラメーションが付けられない自分をシグマは少し疎んでいた。
「飲食代は昨日のご親族に頂いているので結構ですよ。それよりも貴女のお話を聞かせて頂けませんか」と紳士に話題を振るつもりだったが、女性が突然苦しがり彼の中でその気障な台詞は没になった。
声色では判断しづらいがシグマが慌てている様子を優秀なスタッフはすぐに汲み取ることができる。
後方に控えてみていたうちの一人は店長からの指示を待たずとも、熟練の動きで冷水とナプキンを用意して二人に駆け寄った。
「大丈夫です……少し歩き疲れてしまったみたいで。体力もないのに人を探して街中歩いたから……」
「お水をどうぞ。お客様」
「ええ。ありがとう……」
受け取ったグラスから一口、水を含んで落ち着きを取り戻す女性にシグマは妙な感覚を覚える。
それは彼女が稀に見ない美女で、輝石竜だから……というのはここまでで理解していたが、また今度は異なる新しい情報のせいだと彼は思った。
(あれは何だ……? 付けられてまだ日も浅いようだが……)
スタッフからお冷を受け取って俯き礼をいう女性の綺麗な御首の真ん中付け根。
見惚れるほど光る肌に痛々しい傷跡があったのをシグマは見逃さなかった。
彼女自身が付けたのか何者かが傷をつけたのかは不明だが、女性が口元から手を離したときにそれははっきりと目についてしまった。
真っ直ぐと縦にナイフで付けられたような刃物の痕跡がある。
人に襲われたにせよ、心中を計ったにせよ、まだ赤みを帯びていてとても痛々しい。
素敵な外見のこの女性には不似合いで可哀想な気持ちにさせる切り傷を今すぐ自分に移し替えてしまいたい。
毛束のような自分の首ならば彼女ほど目立たずに済むのだから。と、シグマは思いながらも口を開かずにいた。
駆け付けたスタッフに女性の身体を任せて入れ替わり、傷の手当てをする道具がないか探しに行こうとする。
咳き込んで苦しんだ原因が首の傷ではないとしても、完璧な外面を持つ彼女にそんな傷が付けられていることがどうしてか悔しい。と、シグマは自分が感情的になっていることを実感した。
傷んだ野菜を選別するときよりも積極的になっているのは何故だろう。
料理の盛り付けを美しくみせるための指導をしているような感覚に近いかもしれない。
十字竜治癒団の一人でもこの場所に居たならすぐに呼んで治してもらいたいが、生憎彼らは贅沢に無縁のためまずこの店には来ない。
自分のためではなく世の為人の為にお金を使うのは立派だとは思うし、国民の大半が彼らに実際助けられている。
だが、この肝心なときになぜいてくれないのだろう。
自分の心の異様な熱も彼女の傷にも今すぐに治癒の魔法をかけて助けて欲しいのに。
「オーナー、お代を……」
「お気になさらず。後で結構です。こちらのスタッフがついておりますので今は安静になさっていてください」
縋るような女性の声でシグマは急に現実に引き戻された。
熱くなった目頭に手をあてながら長いひげを引っ張り、らしくもない感情を振り払う。
「どうぞ、ごゆっくり」
一言告げて頭を下げ、席へ引き留めようとする彼女をなだめた。
シグマは先ほど誰より早く駆け付けたスタッフにその後を任せ、隣の椅子に座っているよう命じると救急箱を探しに控え室へと去っていった。
店主が去った後。竜の美女の介抱をしていた男性スタッフは、彼女のはだけた胸の間を見て息を飲んだ。
銀髪の糸のような髪が落ちてかかるそこには黒く鈍い何かが淀んだ空気を纏って光っている。
それに気づくと、陰鬱な彼女の表情が再び歪み、
「お、お客様……!」
「大丈夫……大丈夫ですから……」
胸元を苦しそうに押さえた。
彼女の症状はシグマ店長がいた時よりも悪化している。
料理で食物アレルギーが出てしまった人とは違う原因が女性にはある。と、男性スタッフは気付いていた。
だが、彼女が胸を押さえた手指の間から漏れている黒い光の正体は彼にはわからない。
胸に見えた漆黒に明滅している物体が、女性の体を蝕んでいるとすればそれが原因だろうと予測は出来たのだが、言葉に詰まる。
彼には女性に体のことを問うなどという、デリカシーのない発言はできなかった。
シグマの指導によって徹底的にお客様への振る舞いを定められている優秀な従業員たちは、優秀すぎるが故にここで判断ミスをおかしてしまったことに気付かなかった。
その失態に気付いたのはこのずっと後のこと。
事件が起こってからで、店にいる誰もがこの時点ではまだ予想できていなかった。




