無知
事務所から出発する前に、アサクラには話を通しておく必要があった。システムの公開についての話を終えた後のことだった。
「ご武運を」
アサクラがそう言って会話を終えようとした。
「すまないがもう少し待ってくれ」
「どうしました?」
「もう一つ、頼みがある」
「はい、なんでも」
「もしウサミ元一尉の位置情報がわかったら、彼のもとへ武力を派遣できるか」
「もちろん、可能です。そもそも今、国防省、そして我々警察省も首謀者であるウサミ元陸軍一尉の居所を必死に探しています。彼の位置情報は値千金でしょう」
「わかった。彼の居場所を見つけて、タグをつけるよ」
「タグ……検知器を打ち込むんですか」
アサクラは心配そうな声を出した。私は自分も一緒に励ますように言った。
「問題ないさ。この十年間、それを生業にしていた」
「当たり前のことですが、検知器を打ち込んでも相手を無力化できるわけではありません。相手に反撃されることだって十分あり得る」
「そうだな」
「それに、彼がひとりとは限らないでしょう?いや、誰か護衛役を付けていることだってあり得る」
私は言った。
「いや、多分……」
「多分?」
「あの男は一人だよ」
○
「悪いがあなたの体には生体情報と位置情報の検知器を埋め込んだ。その情報を辿って、じきに軍人たちを連れた国防省の人間がくるだろう」
夕日の差す港には、ウサミは誰も連れずに一人で立っていた。彼が何を思っているのか、彼の矛盾がどこから来るのか。それは相変わらず分からない。しかしなぜか彼が一人でいるであろうことは分かった。なぜそれが分かるのか、私が専門家だからかもしれないし、もしかすると彼に本当に近づいているのかもしれなかった。あとは運、賭けだった。
いずれにせよ、確実でない読みをもとにした賭けに私は勝った。しかし油断してはならない。まだ危機は脱していないし、ここから生きて帰らなければならない。
私のそんな考えと裏腹に、ウサミはゆっくりと周りを見渡し、口を開いた。
「エイロネイアは、変な名前だと思っただろう?」
慎重に私は答えた。警戒を怠るわけにはいかない。
「ああ、軍人が名付けたにしては哲学的だと思った」
彼は低く鋭い声音をやわらげた。
「ふふ、心外だな。これでも諜報部にいたこともある。身分を偽らなければならないときに、軍事や戦闘の話をするわけにはいかないだろう?上流社会の人間と適切に話すにはそれなりに教養が必要なんだ」
諜報部にいたという経歴はさすがにインフラ=システムの個人情報アーカイブにはなかった。公式にできない任務が多々あったであろうことは想像に難くない。記録に残せない汚れ仕事。彼の矛盾を理解するのに足らなかったことかもしれなかった。
ウサミは私をまっすぐに見た。夕日の逆光が彼の顔を暗くした。
「エイロネイアは、君が前に言ったように、ソクラテスの通り名だ。彼は当時の高名な学者やソフィストの元へ行き、問答を重ねた。その無知を装ったような様子から、エイロネイアというあだ名をつけられた」
彼はそう言った。暗い顔にはいかなる感情を読むことができなかった。
「彼はその弁証法で相手の無知をも暴いていってしまった。それゆえに有力な市民に嫌われ、裁判に負けて、毒杯をあおることになった」
歴史を語るウサミの声には、しかしどこか、テキストから学んだこと以上の感情がこもっているように思えた。
「この世界の我々はどうだろうか。空とぼけなどではなく、本当に無知でなければ、生きてはいけまい。情報リテラシーが高いがゆえに異分子になるものもいる。システムの存在を知った人間は全員異分子だ。異分子になれば政府の役人はもれなくその人間を制御しようとする」
確かに、この世界は、そういう風にできている。偶々、自分の情報を隠してしまって、システムに異分子と判定される。そして、罪なき罰を受けることになる。彼らは知らずに奪われる。そうして、この世界は秩序を保つ。
「この世界で生き残るには、無知な羊でい続けるか、羊飼いになるかのどちらかだ。さもなくば不当に搾取される」
「それで、あなたは」
「羊飼いの立場をやめて、羊になった。だが、私は無知ではない。この世界で生き残るには無知を装う必要がある。そして、同じような仲間を集めた」
そして、彼は羊飼いたちの世界を壊してやろうと考えた。彼らを縛る首輪を、彼らを囲う柵を、壊そうとした。
「もうじき、インフラ=システムは崩壊する。私の……娘が情報をリークする。それでシステムは無効になる」
「わかっているよ。残念だがね。私は国防省を崩壊させようと思っていたのに」
以前、”スピーカー”越しに感じた違和感。そして、私が行動予測を行ったときも感じた違和感。彼は、明瞭な論理を携えているのに、どこか破綻している。
「あなたは、矛盾だらけだ。本当は、ただ秩序を破壊したいだけなのか」
「あるいは、ただの恨みかもしれないな。いや、罪悪感か」
「なに?」
「ちなみに、このシステムの名前、知っているか?」
このシステムはずっとインフラ=システムという通称で呼ばれている。開発者の一人である私もこのシステムを名付けることはしなかった。できれば消し去りたいものだったからだ。だから、もしシステムに”本当の名前”を付けるとすれば、コウヅキ サトシを置いてほかにいなかった。私の友人である、彼しか。
ウサミは私が答えないと分かると、言葉を続けた。
「インフラ=システム。なんとも一般的な、広義の名前だろう。そして、本当の名前もある意味、広義だ。しかしながら、見方を変えると何とも個人的な名前になる」
「何を言っている」
彼が言っていることが、どういうことなのか私には理解できなかった。コウヅキがつけた名前をウサミが知っているのか。友人が、私に後を託したシステムの名前を、その破棄を願ったその名前を、知っているというのだろうか。
「このシステムの本当の名前は」
彼は天を仰ぐようにした。先ほどまで夕日の逆光で読み取れなかった表情を私は見た。微笑みとも、泣き顔ともつかない顔で、彼はこう口にした。
「Ai=system」




