鳴いた闘犬
アイ。君が正しいよ。君が正しいことは、いつだって分かってた。私はそれを知ってて、見ないようにしていたんだ。
戦うべき時に戦えなかったら、人はただ折れるだけだ。一度鳴いた闘犬は二度と戦えないんだ。
君のお父さんや私の同僚だった男は、その必要があったから、立ち向かったし、それゆえに死ぬことしか選べなかった。彼らは立派だった。
私は違う。
必要な時に必要な勇気がなかったから、すべきことを、あるべきことを、正すことができなかった。正しく生きようとしたけれど、それだけでは足りなかった。勇気がなければ、強くなければ、正しさには足りないのだ。勇気を持てないなら、強さを持たないなら、正しさを語ってはいけないんだ。
私は一度、心が折れてしまった。理念をねじ曲げてしまったんだ。君のお父さんが死んだ時に。だから、私はいつも君の真っ直ぐな純真を見て見ぬふりしてきたのだ。そんなものは、あたかも存在しないように、そうやって自分に言い聞かせていた。
強くなければいけない。私たちは強く在らなければならない。そうでなければ、自分の誤魔化しを無限に肯定し続けることになる。そうしていつか、そんな自分に耐えられなくなる。
◯
私は少女を引き寄せた。息を呑む声が聞こえた。
私は彼女を抱きしめながら言った。
「わかってるよ、アイ。君の言うことが、ずっと正しかったんだ。私が一番に行動しなければならなかったんだ。本当は君に行動で伝えなければならなかったんだ。君の先生として」
シャツ越しに、彼女の涙の温かさが伝わった。
「私は一度、ないてしまったけれど、君まで、ないてはいけない」
少女は私の腕の中で言った。
「先生、先生。ずっと一緒にいました。今までずっと。いつも先生が心のどこかに後ろ暗いものを抱えていたのを知っています。実体がないくせに、空気よりずっと濃い予感を先生が持っていたことを知っています。でも」
彼女はここで言葉を切って、少しだけ離れて、私の目を見つめた。
「今まで、私のためにたくさんのことを、生きる術を教えてもらいました。本当にたくさん」
さっきまで涙を流していた少女はもうそこにいなかった。彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
「私はきっと、賢く、立派になります。だって先生に学んだんですもの。だからもっと私を見ていて欲しいです。まだ私を教えるには足りないはずです」
微笑んだ彼女の表情は、とても悲しげで、それでも希望に進もうとする意思を感じた。
「この不幸を、一緒に止めましょう」
私は、まだやはり勘違いしていたのかもしれない。彼女はもう、子供じゃなかった。一人の立派な女性で、正しい道を進もうとする立派な大人だった。
突然、ウェアラブル=デバイスが起動して、インフラ=システムにアクセスされた。システムへのアクセスはまだ出来ない筈だと訝しんでいると、私の肉眼で見えている少女の隣に、グラスに写っている、薄い靄のような影が見えた。そして、その上に行動予測のアノテーションがついている。
私ははたと気づいた。これが、少女の位置情報を調べた際にでた"もう一人"の正体だと言うことに。だが、その原因が分からなかった。
ウェアラブルが表示している、正体のない薄い靄のような、もう一人のアイ。そして、通常その人物の行動予測のアノテーションが示される場所には、不思議な言葉が表示されていた。
そこには、『君の信じる道を』とあった。
彼女"たち"を見つめていると、ウェアラブルのコウヅキ アイの影が、目の前のアイと重なった。彼女の上にそのメッセージが表示された。
私は彼女にその事を伝えようとしたが、思いとどまった。その代わりに、私は意を決して彼女に言った。
「やろう」
「ええ」
私は"もう一人"の原因に思い当たった。その"原因"の思い出が蘇ってきて、私は思わず、少しだけ対抗するように、こう言ってしまった。
「ありふれた言葉だと、笑うか?私は君のことを実の娘のように思っていた」
「笑いませんとも。決して」




