表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
わかりきった結末  作者: 早雲
第四部
78/90

明かされる過程

 身近な人間が死んだと知ったとき、私は心がすっと溶けてしまうような感じをおぼえました。幸運なことに、と言っていいのかわかりませんが、そんな感覚をおぼえたのはたった一度きりです。


 そして、やはり、不運なことに、と言うべきなのでしょう。その一度きりの感覚は、私の父が死んだという知らせを受けた時のものでした。


 先生に手を引かれ、公園を逃げ出すときに、私はいくつかの死体を目にしました。私はついぞ父の死体を見ることができなかったので、私にとって初めての体験ということになります。


 父が死んだと知った時の、あの感覚は、私の短い生涯の中で、強い確信を抱かせました。


 この感覚、それ自体が、不幸なんだ、と。


 結局朝まで私達は公衆トイレの個室に隠れていました。外が静かになって、しばらく経っても、また戦闘が始まってしまうのではないかと決心がつかなかったのです。ですが、扉の隙間から朝日が差し込むのを見て、ようやく動くだけの気力が生まれました。


 そこは大きな国立公園の中でした。いつもは新緑豊かなこの公園ですが、今日は様相が異なります。何人もの人が倒れているのです。不思議なことに、生きている人間と死んでいる人間は一目で見分けがつくようです。だから、私はここに倒れている人たちがみな死んでいる、ということが分かりました。


 空はとても澄み渡っています。木々が付けている葉はどれも彩度が高い緑色。日光は少し強いのですが、心地よい風が時折ふくので、暑くは感じません。


 そんな平和な雰囲気とたくさんの死体。その対比は奇妙な感覚を私に覚えさせました。


 私が通った道のすぐそばには男性の死体がころがっています。着ている白いシャツは破られており、破られた布は、銃弾を受けたであろうお腹に、真っ赤になって乗っていました。おそらく誰か手当をしようとしたのでしょう。血を止めようと破いたシャツを出血部に当てた、しかし、結果は私の見ている通り。その親切な誰かは、男性を救えなかったようです。


 彼らの親しい人は、みな私のような感覚をおぼえるのでしょうか。胸の中にある心が丸ごと、すっと溶けるように感じるのでしょうか。そこにあったものが丸ごとなかったみたいな感覚を識るのでしょうか。


 もしもそうだとすれば、あまりに、あまりに、悲しい。


 私は先生に引かれる手を振りほどき、走るのをやめてしまいました。先生は焦った顔をします。でも、訊かずにはいられませんでした。


「先生。幸せとは何ですか」


 先生は困った顔になります。それは当たり前です。我々はここから逃げなければならないのですから。


 しかし先生は私の方を向き、こう答えました。


「満ち足りていること、楽しいこと。そして科学的に言えば、外的、内的なストレスに応じてセロトニンやドーパミンに代表される脳内物質の増減が最適化されていることだ」


 そして、先生はこう、付け足しました。


「人が何をどう感じるか。私はそれをたくさん勉強して、実験して、計算して、考えてきた。だからこそ、幸せが何か、という問いに対して、私は君の望む答えをもたない。」


 先生は科学者です。私は多分、そうではありません。ずっとそうではありません。


「先生。私だって、ずっと先生のそばにいました。私もたくさん勉強しました。それでも、勉強すればするほど、それがあると信じずにはいられなかったのです」


 風が吹いています。私のほほを撫でていくこの風には、さっきまで感じなかった、血の匂いが混じっています。


「いつか、私が誰かの純粋な望みを叶えてあげたい、と話したこと、おぼえていますか」


「ああ、私は、その後、偽物にも価値が付く、と言った。だから純粋にこだわるべきじゃないと思ったんだ」


 この風に感じる血の匂いが消える日は来るのでしょうか。そんなことはないはずなのに、永遠にこの匂いは消えないのでは、と思ってしまいました。


 私は泣いていました。きっと声も普通で涙も出ていなかったでしょう。でも、はっきり自分が泣いているのを感じました。


「私は、その純真が、幸せだと思ったのです。誰かに対して良心を持つこと。ばらばらに言葉にしようとしたら、つかめなくなるようなもの。言葉にできない領域の、馬鹿みたいな純真が幸せだと思ったのです。どれだけ人間が言葉を増やしても、どれだけ科学が進歩しても、とらえきれないものが、私たちの心にはあるはずなんです。どうしたってそれを信じたかった」


 信じたかったのです。それなのに、この景色を見てしまいました。


 ねえ、先生、と私は声を掛けました。


 みんな幸せになりたいがゆえに生まれて、生きているはずなのになぜこのような惨劇が起こるのでしょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ