マグカップ
暗がりにコーヒーの香りがする。
よく目を凝らすと、そこには青白いマグカップとソーサが浮かび上がる。
僕は静かに思考を巡らすということをしない。人類は二足歩行に伴い、前足を器用に使いだした。それが知能を飛躍的に伸ばすことになった。
つまり、五本指で何かを書いたり作ったりする行為が脳の演算機能を拡張する結果になったのだ。だから僕は何かを考える時には必ずキーボードかペン、あるいは何かしらの手遊び用のおもちゃを持っていた。
いまはそのいずれも持っていない。
それがどういうことかといえば、何にも考えていない、ということに他ならない。
通常であればこの状態は致死的だ。国家の重大な機密を他国のジャーナリストに漏らし、祖国の追手に確保される寸前というこの状態は。
だが、僕は別の印象をもっていた。多分、この場合の一番の問題は僕の生死じゃなさそうだ。まだ、なにかある。
ノック。
僕は黙ってドアをみた。外から生真面目な声が聞こえる。
「上月さん。開けてもらえませんか?我々は国防省の者です」
日本語が聞こえた。
僕は言う。
「悪いんだけど、武器を確認させて」
ハンドメイドのデバイスを取り出す。
僕はドアに向けて装置をかざした。モニタに3人のスーツ姿。見たところ掌より大きな高密度の塊りはない。
「どうぞ入って」
僕は電気をつけた。
そこには僕が仕掛けた黒塗りのワイヤートラップと、僕が入れたコーヒーが5つあった。
ドアを開けると、やはりスーツの男が3人いた。
「こんにちは。我が祖国の優秀なお役人さん。コーヒーを人数分入れたつもりだけど、僕を含めてここには4人しかいないね?」
がたいの良い一人が僕に距離を詰める。
僕は言った。
「そこ、ワイヤーがあるから気をつけてね」
ワイヤーの少し手前で、男が止まった。彼は僕の顔を真っ直ぐにみた。
「上月さん。我々はあなたの敵ではありません。私は荒川と言います。そしてこちらが宮下と山口です」
後ろの二人は直立不動だった。なんとまあ、ピシッとしていること。
「敵じゃない、ね。そんなことあり得る?さすがに君たちが今までしたことを考えれば僕を地中海の底に沈めるくらいはやりそうだ」
「我々は国防省の人間です。しかしながら、あなた方が作った行動予測装置を、犯罪者を使って奪取しようとした者は別の組織です」
「"対網"じゃないんだね」
僕は事前にこの部屋に侵入した人数と『お前を見てる』カートについていた指紋の合計人数を思い出す。
追手と思しき指紋は計4つ。
だからこそ僕はワイヤーと一緒に5人分のコーヒーを入れて待ってた。だけれど、これは悪くないシナリオだ。
「この余った5つ目のコーヒーは宇佐美正一のもの、と言うことになるね。そして君たち国防省の主流とは別行動をとってる。僕らは敵じゃないのなら、宇佐美が敵ということになるのかな?」
彼らはしばらく逡巡した。
もしも彼が軍歴と犯罪歴がある宇佐美と共に行動していたなら僕は絶望的だった。味方はおらず、そして相手は十中八九僕を殺すだろう。
だが宇佐美正一が別の組織ならば話は違う。荒川達と共に協力して、この危機を逃れることは可能だろう。問題は取り引きの条件だけれど。
荒川が口を開く。
「すでに上月さんはジャーナリストに接触して情報をリークしています。ならば我々はこれ以上傷を大きくしたくない。これが国の方針です。無理に行動予測装置を手に入れる必要は無いのです。それよりも他国の軋轢が怖い」
僕はコーヒーに口をつける。
「ですが対網はちがいます。彼らはあなたの行動予測装置を社会実装することで、我が国が世界の覇権を取れると考えているのです」
「となると」
僕は口に出さず続けた。
カールも危ない、か。




