下手な絵
そんなわけで僕は今、上月聡から荒川明利という人物になっている。
「皆さま。長らくのフライト大変お疲れ様でした。当機は間も無くドクトリーヌ・テータ国際空港に到着致します。現地時間は午前2時、天候は晴れ、気温は……」
耳元でアナウンサの声が聞こえる。機内は高解像度の指向性スピーカーが使われている。かなり好ましい発音と声だ。
しばらくして、ゆっくり高度が落ちるのを感じた。そろそろ到着の時間だ。
フライトアテンダントの彼女が近くを通ったので、声をかけた。
「ありがとう。話せてよかった」
彼女は屈託のない微笑みを浮かべ、いたずらっぽく言う。
「God speed」
◯
空港に併設されてる駅からメトロに乗って街を抜ける。
ヨーロッパの歴史が深い場所のはずなのに、割合新しい街だった。舗装された道路は広く沢山のシェアカーが走っている。僕が乗っているメトロは街中の線路と合流して、路面電車のようになった。新しい街並みに路面電車。そのギャップが可笑しかった。
◯
ホテルに着いた僕はまずデバイスのセットアップをする。しばらくはここで作業をするから、一応それなりに設備を整える必要があるのだ。とはいえ、ネットは完備されているし、必要な物資のほとんどは現地で調達できる。
入出力のデバイスに関してはすでにあるもので十分対応可能だった。必要最低限の光量で網膜に直接像を描くことができるので、大きなサイズのインターフェイスはいらない。入力は昔ながらのキーボードを使うことにした。視線入力、脳内音声入力のデバイスは進化しているし、ほとんどそれが主流だが、視覚も意識も入力にリソースを向けたくないので、キーボードが最適だと思っている。
まあ、不便なところは沢山あるけれど。
◯
僕が愛を引き取ったのは、彼女が2歳の頃だった。養子縁組の申請は思っていたより簡単で審査の大半は僕の今までの活動記録によるものだった。僕にとっては幸運なことに、僕の研究は一部の学術領域で評価されていたので、社会的な信用があると判断された。
初めて顔を合わせた時のことを覚えている。愛は生まれてから僕に引き取られるまで施設にいた。初めて会った時、愛はずっと絵を描いていた。僕と目を合わさないで、目の前の画用紙とクレヨンに夢中だった。
僕は自分が何をしているのだろう、と感じた。養子が欲しかったのは、人間を育てることが人生にどんな意味があるのか知りたかったから……いや、違う。とても正直に言えばただの好奇心だった。生物として任意の学習がどのような人格を作るのか、それを知りたかった。
愛はずっと絵を描いている。
そんな姿を見ていると、今からこの子を育てる、という現実が途方も無いものに感じた。今までの人生では一人でなんでも決めればよかった。一人だけの幸せを目指していた。だけど、愛を育てるためには二人の幸せを考える必要があった。
ほんの思いつき、ただの好奇心でそんな決定をしてよかったのだろうか。
僕は愛の絵を覗き込んだ。赤い線が渦を巻いていたが、途中であらぬ方に行って紙からはみ出そうになっている。青色の点が渦巻きの上に沢山打たれていた。渦巻き模様とブチ模様の不思議な物体が描かれていた。
すごく下手な絵だった。
僕は愛の顔を覗き込んだ。愛はブスッとした表情をしていたが、心なしか自分の絵に満足気だった。
僕は可笑しくなって、吹き出してしまった。そして同時にこの子に沢山の愛情を注いであげよう、と思った。なんでそう思ったかは説明できないけれど、この子を育てたいという、ほとんど確信に近い思いだった。




