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わかりきった結末  作者: 早雲
第二部
20/90

とある警察官

 俺には理由があった。


 権利があったとは言わない。そんな権利は俺には、いや、おそらく誰にも与えられていない。だが、少なくとも俺には理由があったのだ。その一線を越えるに足る理由が。



 哲学なんてものには、とんと縁がない俺であったが、力なき正義は無力である、という言葉には、妙に納得した覚えがある。パスカルなんて読んだこともなかったが、この言葉は俺が思っていた自分の職務に対するあり方に、不思議なほどに合っていた。きっと俺は、悪よりも、無力を憎んでいたのだろう。


 昔、俺は人死を見たことがある。


 登校中の朝8時。大道路。10歳くらいの女の子だった。彼女は車にはねられて死んだ。車を運転していたやつは逃げた。

 

 高校生だった俺はすぐ近くで聞こえた衝撃音に驚いた。車道の方を見ると女の子が倒れていた。助けようとして、車道に倒れていたその子に駆け寄った。意識がなかった。俺は歩道まで彼女の体を運び、救急車を呼んだ。


周りには沢山の人がいたが、俺が助けを求めても誰も反応してくれなかった。いや、その人達を責める気はない。いずれにせよ彼女は助からなかったのだから。それに、報いを受けるべき人間は車を運転していたやつだった。


 救急隊員がきて、女の子を救急車にのせた。俺にできることはなかったが、そうは思いたくなくて、救急車に一緒に乗り込んだ。救急隊員たちは必至に蘇生処置を試みていたが、その子が意識を戻す様子は見せなかった。


 病院に着いて、女の子は手術室らしい部屋に運ばれた。俺は、本当は授業を受けなければならなかったが、まだその頃は今みたいに学校へ行かずに授業を受ける、ということができなかった。俺は学校に行く気がしなくて、その手術室の前のベンチに座っていた。


1時間くらいたったのだろうか。その女の子の両親らしき人物がやってきた。彼らは俺に見向きもしなかったが、俺は当然だと思った。娘が車にひかれて病院にいるというのに、他の人間に構う余裕がどこにあるというのだろうか。


女の子の父親と思しき人に肩を支えられ、母親らしき人が歩く。髪の毛を茶色に染めている女だった。思ったより若い人たちだな、と俺は思った。彼らは手術室に入っていった。


 そして、部屋の外にいる俺にも聞こえる大きさの喚き声が聞こえてきた。扉越しでくぐもった音になっていたが、女の声と分かった。どれだけ耳を塞ごうとしても、離れそうにない声だった。


 人は感情がいっぱいになったら、それを音にして外に出さなければならない。そして音にして出したら、今度は感情が空っぽになってしまう。そんな想像をした。


 その子が救急車の中ですでに事切れていたことは後から知った。医師が判断するまで、死亡確認はなされない。だから救急隊員は蘇生処置を続けていたらしいが、それでもすでに手遅れの人間というのは医師でなくても解るらしい。それでも彼らは必死だった。


 ひき逃げ犯は捕まらなかった。俺は車のナンバープレートをおぼえていなかった。ただ白い車で、スポーツカーみたいな形だった、というだけしか言えなかった。ナンバープレートをおぼえていれば。俺の母親は俺のせいではないと言ってくれたが、どう考えても俺のせいではないか、と思った。


 この出来事の中にあって、俺はどこまでも部外者だった。それはどうでもよかった。でも、自分が無力だったことは、許されないことだと思った。


別に正義面をしようというのではない。だが、救急隊員が必至で心臓マッサージや電気ショックをしているのを横目に見ていて、手術室から聞こえてくる悲痛をただ聞いているだけ。そして犯人の車のたった4桁の数字をおぼえることができない。それがどうして許されるというのだろうか。


 勉強はあまりできなかった。特に高校のカリキュラムの中に基礎医学があったが、お世辞にもよい成績ではなかった。その代わりに社会学や法律学の成績は悪くなかった。社会学と法律学は警察学校の試験で重要な科目だった。俺は警察官になることを決めた。


 力なき正義は無力である。その事件のずっと後に知った言葉だ。俺は、今も無力は許されるべきでないと思っている。少なくとも、俺自身の無力は、決して許されるべきものではない。



 十数年後、俺は警察官になっていた。


ある日俺は職場とは別の警察の施設にいた。その日はいつもとは違う仕事があったからだ。ある男がこの施設に来て簡易な取り調べと、みょうちくりんな機械をその男に埋め込む。それがその日の俺の仕事だった。


 その日この施設に来る男のことは事前に聞いていた。子供を3人殺して、親の七光りで不起訴になった男。曲がりなりにも法治国家であるこの国でここまで無法が働くとは、俺は想像もしていなかった。この国には、正義がなくて力だけがある。


 取り調べ室には一人の刑事と俺、そしてチェックのシャツを着た男だけだった。マジックミラーで隣室からこちらの様子を見ることができるが、俺は誰が見ているのか知らない。


 チェックのシャツの男はあくびをしたり手遊びをしたりして落ち着きがなかった。俺がにらむ。すると男はおびえたように目を伏せた。こうしてみると、殺人犯には見えない。いや。子供だけを狙って、3人も殺した奴だ。弱者に対してだけ横暴で残虐な人間なのだろう。言いようのない苛立ちを感じたが、ここで怒りをぶつけて職務をないがしろにするわけにはいかなかった。


取り調べは淡々と行われた。形式だけの任意の取り調べだ。妙な機械を埋め込むことがこの場の意義だった。


 話が一通り終わり、俺は渡されていた銃みたいな注射器を箱から取り出した。俺は男に、今から裁判所の令状に基づき、位置情報を取得するための装置を埋め込む旨を説明し、男が同意するのを確認した。本当は位置情報だけではなく、新しい装置もこの注射器に入っているらしいが、それは伝えないことになっていた。


 首筋に注射器を当てる。存外重たい引き金にかけた指に力を入れる。


 どしゅ、どしゅっと鈍い音がする。俺は男に今日の取り調べが終わったことを伝えた。


 男はおどおどしながら立ち上がる。本当にこの男が殺人を犯したのだろうか、と疑いたくなる。いや、大量の証拠が間違いなくあって、それをもみ消すために多くの権力と労力が割かれていた。なにより、調書は非公開になってしまったが一度この男は自分の犯罪を自白していたのだ。この男が人殺しをしたのは事実だ。3人の子供を監禁して、いたぶり殺したのだ。


 男は部屋を出ようとする際に、俺に媚びるような笑顔を見せた。据えた匂いのする笑顔だった。


 職務のことを考えて、俺は怒りを抑えていた。だが、その笑顔を見た瞬間、俺はその男を蹴り飛ばそうと決めた。


肩口をつかんで、ひとまず腹に向けて足刀を飛ばす。大きな音がした。男は壁に激突して、床に倒れこんだ。うつぶせになっていたので、足で男の体をひっくり返す。そのままつま先を男の腹にめり込ませた。げぇ、と間抜けな声がする。


「おっと」


 言い訳するのもばかばかしかったので、そのまま男の髪をつかんで言った。


「俺の顔をよく覚えておけよ。もし外で会ったら、理由もなく同じことをしてやる」


 それからそのまま男の顔を壁にぶつけた。5,6回やったところで、同じ部屋にいた刑事に止められた。


 この男は3人の子供を慰み者にして、殺した。そのくせ、警察である俺にはへつらって、腐った笑みを見せやがる。こんな男に弄ばれ、殺された子供たちはどれだけ恐怖を感じたろうか。彼らの両親は。


 昔、病院で聞いたくぐもった声が、今も耳から離れない。


 警察官になって何年か経った。力なき正義は無力だ。考えは変わらない。すでに殺された子供たちの命を救えないが、せめて、同じ目にあう子供をなくして、無念を晴らそうと思った。誰かに力がないのは、罪じゃない。だが、俺に力がないのは、罪だ。


そして力を持ったら、力がないものを守るべきだ。そのために俺は警察官になった。


 俺はその男の耳元でささやいた。


「俺の顔をよく覚えておけよ。もし外で会って、理由があれば、お前を撃ち殺してやるからな」


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