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わかりきった結末  作者: 早雲
第二部
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スタバと娘

 4進法のコンピュータ。何ともわかりづらいし嫌みな表現だが、つまりは生物の遺伝情報=DNAのことを言っている。4種類のアルファベット。それが三つ集まると一つのタンパク質の情報。そして、その情報を持った機械が生物であるという考え方。


 彼は他人にものを伝える能力が異常に低い。長い付き合いの私ですら、彼が何を言いたいかが全く分からないことがある。そしてそれは彼の知識量が受け手のそれをはるかに凌駕しているからであり、我々が彼から情報を受け取る能力が低いとも言い換えられる。


 例えば、中学の先生が二次方程式を生徒に教えようとしているとしよう。もしも生徒がかけ算を覚えていなかったとしたら、きっと先生が教えようとしている二次方程式は毛先ほどもわからないだろう。だから、もし生徒が、先生のいうことを理解できなくても、それは先生の所為じゃなかろう。中学に進学するまでに算数のたし算、ひき算、かけ算、わり算は勉強しないといけないことだからだ。


 でも、もしもこの世のほとんどの人が四則演算を覚えていなかったら?


 たとえ先生がいかに有益で理論だった二次方程式を教えても誰も理解できないし、悪くすればその先生の教え方が悪いと非難されるかもしれない。


 そして、彼にとって、この国のほとんどの人間がたし算とひき算までしか覚えていない中学生みたいなものだ。ちなみに私はこの国でも知性面ではエリートの部類に入るが、それでも彼にとってはかけ算を知っているくらいのものだ。彼自身は高校も卒業していないのだが。


「それにしてもクラッカー呼ばわりは心外だ。せめてハッカーがいい。」


 彼は無邪気にそういった。口では不満そうに言っているが、彼は自分自身の定義などどうでもよいのだろう。


「どう考えてもクラッカーだ。」

「社会正義のためだと、僕は思っているけれどね。」

「君の理念には賛同する。でも、やってることは法を犯している。だからクラッカーだ。」


 彼は私のほうを楽しげに眺めつつ、言った。


「君と話すのは正直楽しいよ。なんて言うかな、君の思考は相当アカウンタビリティが高い。基準がしっかり言語で構成されているね。だから僕なんかは君に議論して勝てるとは到底思えないよ。どこにもかしこにも明瞭なボーダーがあって。思考様式は大体4次元くらいだ」


 この友人は話題の切り替えが早い。私は褒められたのかけなされたのか判断できなかった。なんだったら後半何を言っていたかわからない。多分、私に美点があるとすれば、わからないことを素直に訊ける、ということだろう。私は訊いた。


「言語以外に思考や基準は何で構成されているんだ?それに思考の次元って?」

「そうだな、例えば僕が具体的なことを考えるときは絵画と音とにおいがごちゃ混ぜになっているのを感じる。抽象的なことを考えるときは数式が多い。あと、思考様式の次元だけれど、まあ変数が多いと主成分分析をしてからでないと、自分が何を考えているかわからない。僕は多分12次元くらいだ。もし変数が少なければまあ取り出しやすいだろう。だから思考様式の変数が少ない君のほうが簡単に思考を説明できる。だからアカウンタビリティが高いといったんだ」


 私のもう一つの美点。わからないときは諦めることができる。


「わからん」

「君は神経経済学で博士号をとっていただろう?それなのに、わからないとはどういう了見だい?」

「君の言っている内容は解る。思考の次元ってのは、定量的に判断できる判断基準の数だろう?」


 私はゆっくり答えた。


「ただ実感としては、そういう感覚を全く経験したことないし、これからもなさそうだ。そういう意味で、君の思考がわからない」


 彼はとぼけた顔で言う。


「ふうん。まあいいや」


 そして少し破顔して言った。


「何年か前に君が博士号をとったときは、この社会はとんだ間違いを犯したと思ったものだけれど」


 彼は冗談を言った。


「そして今でも間違いだと思っているけれど」


 おそらく、冗談のはずだ。


 彼は私から目を背けて、なんでもないような口調で言った。


「でも君ほど科学に対して真摯な人には、会ったことがない。たいていの人間は僕の話を訊こうとしないか、訊いたふりをして話を合わせようとするかのどちらかだからね。わからないことと、わかることを分けること。わからないことを認めること。そのボーダーをごまかさないこと。そのどれも、難しいみたいだ。多分学者にとって一番の才能だと思う」


 私は彼が他人を貶すところを見たことがなかったが、手放しでほめるところもあまり見たことがなかった。そんな人間に正面切って褒められると、少し気恥ずかしかった。


「まあ、なに、ほめても何も出んぞ」

「そうかな。折り菓子ぐらいは出そうだ。そういえば僕は5歳になる娘がいるんだけど」

「いや待て」

「何?」


 友人はきょとんとした顔をした。何?ではない。


「娘がいるだって?初めて聞いた」

「そうだね、初めて言った」

「この前スタバ行ったんだけど、みたいな言い方だったぞ」


 確かに謎が多い友人ではあるが、それなりに付き合いが長いにも関わらず、そんなことも知らなかった自分に愕然とする。そもそも結婚していたのか、この男。


「誰との子供だ?」

「僕以外の男と僕以外の女の人」

「ん?ってことは…」

「そう、養子だ。2年前から一緒に暮らしている」


 養子。彼が養子をとるとは思わなかった。正直に言えば、かなり動揺したが、同時に彼ならそのような行動を急にとっても不思議ではないように思える。


 それにしても、私は今日みたいに、この友人の自宅に来て話をすることが多かった。それなのにその娘とやらに一度もあったことはない。


 そんな私の疑問を先読みしたかのように彼は言った。


「人見知りだからね。それに君は見た目が少し怖いし。だから君が来るときは僕のラボに隠れてもらうことにしていたんだ」


 失礼な奴だ。とはいえこの友人に家族がいるというのはなかなか嬉しいニュースである。少し興味がわいてくる。


「それで、どんな子なんだ?」

「そうだな、かなり優しい子で、言葉遣いが丁寧だね。頭はまあ、普通くらいかな」


 この友人に比べればどんな神童でも普通だろう。むしろこの友人に普通と称されるのだから、知能はかなり高いのかもしれない。


「まあ、それと、聞き分けが良い。良すぎるくらいだ。もう少しわがままでもいいと思っているんだけれどね」

「そうか」

「ああ、それと身体的には男の子だけど、かわいらしい顔をしているから、女の子の服がよく似合う」

「トランスジェンダーか?」


 友人が肯首する。


 私達が子供の頃はこの手の議論が好きな野次馬根性強かな者が多くいたが、今の時代、そういうのに口やかましい人間は社会からどんどん減っている。


「一度会ってみたいが、今日はいないのか」

「ラボにいるよ。まあ、あとで呼んでみよう。気が向いたらこっちに来てくれるだろう」


 友人は続けていった。


「さて、君となら世間話も楽しいけれど、そろそろ仕事の話をしようか。今日、君が来た理由は何かな」


 やはり、この友人は話題の切り替えが早い。

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