消えた記憶
テレビをつけると、ヘリコプターが真っ逆さまに海に落下していく映像が映っていた。シンガポール国営放送のニュースだ。乗っていた四人は全員死亡したらしい。原因は不明とのことだった。
本当は、録画してある日本のドラマを見たかったのだが、僕はそれに釘付けになった。なぜだか分からないが、身の毛がよだつような恐ろしいことが自分の身に起こっている感覚があった。
そのヘリコプターに乗っていた人物が僕の関係者であるわけがない。墜ちたのは、シンガポール軍のヘリだ。ただ、説明は出来ないが、この墜落事件に自分の何かが関係していることは明らかなのだ。証拠もない、何らかの関連性も見出すことが出来ないだろうがこういう風に感じることは、よくある。その度に死にたくなる。一体何が起きてるっていうんだ。
墜ちた時刻は、今日の朝、9時頃だ。すでに1時限目の授業を受けていたはずだが、あまり覚えていない。教室に入る前はよく覚えている。変な女の集団がいて、その中の1人が声をかけてきたのだ。中々、美人だった。声をかけられて、悪い気はしない。さらに同じクラスの皆が見ていたことも僕のプライドをくすぐった。これで僕の凄さをわかってもらえたという満足感があった。
問題はその後だ。男子生徒に声をかけられて肩を叩かれて、激しい憎悪を覚えた。殺してやろうかと思った。この後の記憶が消えている。
気がついたら、授業が終わり、昼飯の時間になっていた。
シンガポールに来てからこんな風に記憶が飛ぶことが時々ある。
最初は小6の時だ。ある日の掃除中、明日、転校する女子に話があるからついて来てほしいと言われた。僕は他の奴らの手前、恥ずかしいのもあって「ここでいいよ、ここで話してよ。」と言うと彼女は執拗に、「ここでは無理だから来て。」と言う。
何かおかしいように感じた。彼女はそんなに積極的な子でもなかったし、それほど親しくもなかった。そして、僕が来ないことを訝しんでいる様子だった。
結局、僕が断り続け、諦めた彼女は「もう、いいよ。」とふてくされたように怒っていってしまった。
そして、翌日、彼女は転校していった。転校なんて、日本人学校では、日常茶飯事だ。親の都合で、生徒は転入出を繰り返している。
このことも忘れかけていた頃、1人の女子にこう聞かれた。「ねえ、あの子にラブレター書いたの?」と。
あの子とは、転校した女子た。僕は心底驚いて、「えっ書いてないよ。何で?」と聞いた。
「そうなの。じゃああの子の作り話だったのかな。」
どうやら、転校した女子に、僕からラブレターをもらったので返事をしたいが、話をしてくれなかったと相談されたらしい。
僕はなぜそんな話になっているのか、分からず、混乱したが、次の瞬間にすべてを思い出した。
僕は確かにラブレターを書いた。何かに突き動かされるように好きだという気持ちを書いた。そして、彼女の机にその手紙を入れたのだ。そして、その事を聞かれるまですっかり忘れていたのだ。もちろん、彼女を好きだと思ったことはない。なぜあの時、ラブレターを書いたのか、全く分からない。
昔の記憶を思い出していると、急に激しい頭痛が起きた。小6の頃はこの原因不明の頭痛に悩まされ、よく入院していた。
痛みが激しくなり、僕は自分の部屋のベッドに頭を抑えて倒れ込んだ。母親は買い物に行っていてしばらく戻らない。
「いてぇー」と思わず声をあげた。この痛みが続くと本当に死にたくなる。
悶え苦しんでいると、突然痛みが治まった。そして、部屋中が黄金色の光に覆われ、気がつくと目の前には、白い衣を来た金髪の長い髪の女がいた。とても、美しく神々しい光を放っている。腰が抜けそうになったが、すぐに穏やかな気持ちになっていった。
もしかしたら、僕の死にたいという願いを叶えに来てくれた神様なのかもしれない。マリア様のようにも見えた。
「まだ、あなたは死ねないわ」その女神は、柔らかな微笑をたたえて、美しい声を発した。
「とても辛いのね。あなたを少し楽にするわ」
女神がそう言うと、次の瞬間、僕の体は、宙に浮いた。
不思議な感覚だった。下を見ると、僕の体がベッドに横たわっている。僕は死んだのか?
「違うわ。ただ、こうしてしばらくの間休むのよ。肉体から離れて本来の自分に戻ることが出来るから。あなたの魂をこれから癒します。」
女神が話し終わると、聞いたことのない音楽が聞こえてきた。
僕は、自分の体が溶けてなくなっていくような感覚を味わった。
確かに、僕の肉体は、ベッドにあり、今、宙に浮いている僕には肉体がなく意識だけがある。正確にいえば体らしきものはあるのだが、透けていて、非常に流動的な何かだ。オーラのようなものか。
美しい音楽に身を委ねていると、懐かしさを覚えた。遠い昔に感じた愛おしさ、切なさで体が埋め尽くされた。深い感動が起こった。
長い長い時間が経ったような気がする。
コンコンと、ドアをノックする音が聞こえた。
「入るわよ」母親の声だ。
その時には僕はベッドで横になっていて、目覚めると目の前に母親がいた。
深い眠りから覚めた感覚で、何かすごいことが起きたような気がするが何も覚えていなかった。
「寝てたの?」母親が聞く
「頭が痛くて」
「薬飲む?」
「いや、だいぶよくなったからもういいや。」もうどこも痛くなかった。何があったか思い出したかったが、何も思い出せなかった。