わすれずの山(卅と一夜の短篇第15回)
宮城県南部の児捨川の伝承の一つから。児童虐待の場面があります。
――山は
山は 小倉山。鹿背山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。末の松山。かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ。……(以下略)
『枕草子』より
今は昔の物語り。
みちのくの大きく連なる山々のふもとにその土地を治める長者がいた。長者にはタマヨ姫という名の娘がいた。美しく、優しい、機織りの巧みな姫であった。長者は手中の珠と慈しみ、まるで主人にかしずくように大事に育ててきた。
そろそろ婿取りを考えようかという年頃となってきた。長者の婿に、そして美しく姫を我が妻とできるのなら、我が息子を、自らをと、売り込んでくるおのこは数多い。長者は悩んだ。誰を選んでも、角が立ちそうだ。だからといってタマヨ姫をいつまで独りにしておくのも寂しいものだ。
タマヨ姫は父の長者の気持ちを知ってか知らずか、自分が誰かを夫として迎えるとはまるで頭になく、側の者たちと機織りや裁縫に打ち込んでいた。
多くの求婚者の中でも、隣の村の長者の甥のミツルがタマヨ姫を妻にしたいと熱心であった。
「我の申し出は受け入れられないのだろうか」
「ミツルどの、申し訳ないが姫はまだ夫を迎える気構えができておらぬ。まだ返事ができぬ」
ミツルは長者の言葉に我慢ができず、タマヨ姫に直接問おうと、機織り小屋に行った。一番良い身なりをして、巧みに杼を動かすおなごがタマヨ姫とすぐ判った。ミツルは大きな声で呼び掛けた。
「我は隣の村のミツルと申す者。タマヨ姫、我の妻となってくれ」
突然の大声と、見知らぬおのこの姿にタマヨ姫は驚いて、側にいた機織り女に抱き付き、父への助けを呼んだ。
長者や村の者たちが集まってきた。長者は姫が攫われるのではないかと、棒や刀を皆に持たせてきていて、囲まれたミツルは恥ずかしさで真っ赤になった。おまけにタマヨ姫はそのまま機織り女と一緒に奥に隠れて、もう姿を見せようとしなかった。
「ミツルどの、このような振る舞いは二度となさらないでくれまいか。それに、姫の幼い様子もお判りだろう。まず村に戻って欲しい」
ミツルはこれで婿がねから外されてしまうだろうと落胆しながら、村に帰った。噂が伝わり、伯父から小言を言われた。
長者は長者でタマヨ姫の周りを警戒するようになり、婿取りはまだ早いと公言した。
西の国から東へと、討伐の軍が来ると商いをたつきとする者から話が伝わってきた。西に住まう神の血を引く尊いミコトが息子を遣わして国を広げようとしている。御子は直にこちらへやって来ようとしている。ミコは訪れた土地々々で、恭順の意を示す者は家来とし、反抗する者は容赦なく斬ってきたという。
大きく連なる山々のふもとの村々の長者たちは集まり、ミコが来たらどうするかと相談した。今までミコを退散させようと戦ってきた族たちは敗れている、家来になってもいいのではないか、どうせ遠くの西の国だから、この国の気候もしきたりも何も知るまい、すぐにいなくなるだろう、と言い合い、誰も迎え撃とうとは言わなかった。
やがて、西の国のミコがやって来た。長者たちはミコの勇猛さを聞いています、と迎え入れた。ミコは戦う労がなくて済むと喜び、家来として厚遇すると言った。
ミコは長者の娘のタマヨ姫が見目麗しいと聞き、妻にしたいと申し出た。長者は断れなかった。
タマヨ姫は他国から来たミコの妻にされると恐れ慄いた。だったらミツルという同じ国のおのこの方がましだったのではないかと、口に出すくらいだった。
だが、それもミコと顔を合わせるまでであった。ミコはこれまで多くの戦いを切り抜けてきた豪傑とは思えぬほど、やさしく清らな姿をしていた。
「ヲウスである」
と、大事な諱を教えてくれ、タマヨ姫に優しかった。タマヨ姫はたちまちヲウスノミコに恋をした。朝から晩までミコ様、ヲウス様と夫と一緒にいたがった。
しかし、ミコは更に北の国が父の命にまつろわぬと、討伐に出掛けていった。
タマヨ姫は、夫の不在が身を切られるように辛いものかと我が身を嘆き、そしてヲウスノミコの無事を祈った。
程無くして、ヲウスノミコは戦に勝って、村に戻ってきた。戦に勝ち、特に負傷した様子はなかったが、ミコは戦いで身も心も疲れ切っていた。山の近くの湯が湧く泉に案内し、タマヨ姫は夫の回復の為に甲斐々々しく努めた。タマヨ姫のお陰か、ミコは力を取り戻した。やがてタマヨ姫はミコの子を宿した。
タマヨ姫は仕合せで一杯であった。これほど嬉しく、充たされた思いはないと、何も考えられないくらいだった。
しかし、良いことばかりではなかった。ミコの元へ父のミコトから使いが来た。これまでの戦の様子や、平らげた国々について報告しに帰国せよとの仰せであった。ミコは旅立ちを決めた。
「急いでお帰りならなくても、せめて子が生まれるまでいらしてください」
「そうしたいのだが、父上が早く戻って来よとお命じでは従わなくてはならない。姫の子が這い出す前に、必ずまたここに来るから、待っていてくれ」
ヲウスノミコは去った。寂しさに耐えながら、タマヨ姫は父の長者の庇護の許、月満ちて、男児を出産した。タマヨ姫はミコと呼んで、夫の代わりのように可愛がった。長者や周囲の者たちにとっても、神の血を引く子ども、そして西の国の主の孫なのだからと、疎かにできぬ子どもと、頭にいただくように大事に育てた。
ミコがハイハイを始めても、立って歩けるようになり、やがて片言ながら言葉を喋るようになっても、ヲウスノミコはこの村に帰ってこなかった。
タマヨ姫はもはや機織りをしなかった。機にかかる糸が乱れ、緩んでも、直そうとしない。見もしなかった。夫の為にと織り上げた布で仕立てた着物を広げたり、畳んだりしながら、ぼんやりと過すようになった。
隣の村のミツルがそんなタマヨ姫の消息を聞いて、心配してやって来た。そして長者に申し出た。
「タマヨ姫はミコに焦がれて、魂の抜けたような姿と聞きました。西の国には、ミコの身分に釣り合う位の高い妻がいるのでしょう。帰ってきたとしても、平らげた国の一つから捧げられた女の一人と扱われる。生まれた子を育てて、次の長者になってもらうにしても、タマヨ姫をこのままにしていていいのですか」
遠国に帰った夫は諦め、別の婿を迎えてもいいのではとミツルは言い、長者もそれはタマヨ姫次第だと思いはじめた。あまりにもタマヨ姫の姿が痛々しかったのだ。
長者は遂に、タマヨ姫と話をする程度ならと、ミツルを姫と会せることとした。
「麗しき白玉の如きタマヨ姫よ。西のヤマトの国のミコとやらは姫を迎えに来ぬかも知れぬし、迎えに来たとて、多くのおみなごがミコに侍っているやも知れぬ。
その童を我が子として育てるから、我が妻となってくれまいか」
タマヨ姫はかぶりを振った。
「いいえ、我はミコ様一人を夫と決めました。幾年月でもお待ちします」
「タマヨ姫は、ミコと会われる前は、他国の者を恐れて我の妻となった方が良かったと側の者に漏らしていたと聞いたぞ。我を嫌うてはいないであろう」
「嫌うてはおりませぬ。ただ汝に悪いとは思うておりますが、妹背となる方と思えぬのです。
それにミコ様は、過ちで死なせてしまった兄君への償いの為に、父のミコト様に一生懸命尽くしていらっしゃるのです。争い事を好まぬのに、多くの戦を経てきて、傷付いているミコ様をお慰めしたいのです。その気持ちは変えられませぬ」
こうまで言われて、ミツルは一旦引き下がった。
タマヨ姫はミコを想い、日々男の子に言い聞かせた。
「汝の父は神の血を引くミコ様です。あの山の向こうから、我と汝を迎えに来てくれます。
汝の父はあの山の向こうから来たのです。忘れないで、汝は神の子なのです。
ミコ様が我らをお忘れになるはずがない」
季節は巡り、ふたとせが過ぎた。冬の寒さが近付く中、タマヨ姫は病となり、床から起き上がれなくなった。
噂を聞いてミツルは見舞いに行った。相変わらず、タマヨ姫はミコ様をお待ちしていると言うのだった。
これほどまで純粋で一途な心を持つタマヨ姫がやつれて果て、瞳ばかりが輝かしているのに、ミツルは悲しみ、そして怒りが堪えられなくなってきた。
「何故迎えに来ない。酷いおのこではないか!」
母の側で遊ぶ男児をミツルは乱暴に抱き上げた。
「神の子に何をする」
常に神の子と呼ばれている男児はミツルに驚いて、手足をバタバタさせた。
「神の子なれば、母が病で苦しんでいるのを治してみせよ。さもなくば父を呼んでまいれ」
「はなせ、はなせ」
暴れる男児をそのまま抱きかかえ、ミツルは外へ駆け出した。周りの者も突然の出来事に、呆気に取られた。ミツルが川に向かって走っていくと気付いて、慌てて追い掛けた。
「神の子ならば、父を呼んでみよ」
ミツルは冷たい川へと男児を投げ込んだ。長者の家の者たちや、人に支えられながらのタマヨ姫がやっと追い付いた。
「ミコ!」
タマヨ姫は男児が川に流されそうになっているのを見て、川に飛び込んだ。止める間もなかった。
皆が続いて川辺に降りて、姫と男児を助け出した。しかし、この寒い中、水に入った二人は既に命を失っていた。
「なんということか」
ミツルは頭を抱えてうずくまった。
すると、二羽の白鳥が二人の亡骸から舞い上がった。仰天する人々を気にする様子もなく、二羽の白鳥は羽ばたき、大きく連なる山々を越えていった。
「ミコにやっと会えるのか……」
ミツルはそう呟くと、後は黙して、罪人として裁かれた。
そして、長者は西のヤマトの国へ、タマヨ姫と男児が病死したとだけ伝えようと使いを出した。
やがて、使いが返事を持って帰ってきた。ヲウスノミコも西のヤマトの国へ帰る途上で、病に倒れ、既に亡くなっていたこと、故郷を偲び、魂が白鳥と化して飛び立って行ったこと。それは、タマヨ姫が子を産む前の話であった。
「もっと早くにお知らせくだされば、こんなことにはならなかったであろうに。やはり我々は遠国の者と捨てておかれていたのだ」
長者は大きく嘆息した。もう愛しい娘もミコトの血を引く孫も、気が短いが、娘を妻にと熱心に望んでくれた青年も幽世に移ってしまった。長者には何が残ったのだろう。
みちのくに住まう者たちは、いつしか大きく連なる山々の峰の一つを「わすれずの山」と呼び、タマヨ姫を偲んで、母子を祀る社を建てた。ミツルが男児を投げ込んだ川は「児捨川」と呼ばれるようになったと伝えられている。
引用は小学館新編日本古典文学全集『枕草子』より