オブジェクトダイバー 2
「ふぅ、ちょっと遅くなっちゃった。さっさと帰らないと……お腹すかせてるだろうな……」
人通りが全くない暗い路地を、ジィーナ・ノイマンは一人歩いていた。確認だが、ジィーナとリルは二人暮らしである。そして、どんなに美人だろうが可愛かろうが性格が良かろうがそれらは金を貰える理由にも手段にもならない(多少の例外はあるが)。金を手に入れるには働くしかない。
金が無ければヒトの世界では生きていけないのだ。
――この二人の場合。
リルは働ける状態ではない為ジィーナが働きに出る他無いのだが、彼女は今まで特にどこかの会社や団体に正式に雇い入れてもらうという事はせず、現在は家から歩いて十五分ほどの場所にあるこじんまりとした酒屋でひっそりと働いていた。
その日彼女は、日中は近隣の料理店を回り酒瓶回収やビール配達なんかに精を出し、夕方から倉庫の在庫整理や伝票整理等に勤しんだ。腕や腰にだるさを感じつつも、仕事が終わった事への解放感の方が勝りさほど気にもならず、少しばかり上機嫌で帰路に就いていた。
時刻は午後九時二十七分。
後は帰って風呂に入って、夕食を摂るだけである。
街灯は点々と申し訳程度に建てられているが、いまいち視界の頼りにならないため、表通りとは不気味さが段違い。たし、たし、とスニーカーと地面が擦れる音が夜道に響く、たった一つだけの足音。だがそこに一つ、それ以外の音が加わった。
トン、トントン。
どこかで聞き覚えのある音が、ジィーナの背後で数度響く。彼女が音につられてつい振り向くと、野球の軟式ボールが、暗闇の中から跳ねながら転がって来た。音の正体は、ボールと地面がぶつかる音。ボールは、ジィーナの足元数メートル手前でゆっくりと転がり、ついには運動を止めた。
ジィーナは少しの間その地面の上にぽつんと佇むボールを見て、そして目を細めて暗闇の先に視線を向ける。視界は不良であるが、見る限りは暗闇の中に人影は確認できなかった。そこで、この転がって来たボールの意味を考える。こんな時間帯にこんな暗闇で、「すいません、キャッチボールをしていました」などと言う人間はいないだろう、と。
ジィーナは、わざわざ暗闇の中へ身を進めて、そのボールの持ち主を探すような事はしない。もし万が一、普通の人がキャッチボールをしていて逸らしてしまったと言うのなら、そろそろ取りに来てもおかしくない筈だ。だが、それも来ない。
少しでも不審な出来事が起これば、そのままリルの待つ家に帰るわけにもいかない。今までもずっとそうしてきた。彼女に降りかかる危険は最小限にしたいのだ。
ジィーナはボールから距離を取るために、少しだけ駆け足でその場を離脱した。
三分ほど走り、立ち止まる。少しだけ息を切らしながら背後を振り返る。特に何者かが追いかけてきたりする気配はない。しかし、彼女が安心しかけたその時。
トン、トントン。
またしても同じ音が彼女の後方から響く。
「――っ!」
今度は先程よりも勢いよく振り向くと、そこにはやはり、恐らく先程と同じボールが地面をゆっくりと転がっているところだった。
(……一体、なんなの?)
たったの二度だが、この光景に対して「異常だ」という感想をジィーナが持つ事に関してはその二度で充分であった。そして次に、こんなことに一体何の意図があると言うのだろう、と彼女は考える。若い女の怖がる姿を見て悦に浸る妙な性癖を持った馬鹿の悪戯だろうか?
いいや違う。
ジィーナ・ノイマンが様々な経験を礎に培ってきたその勘は、それを安易に楽な方へと片づける事を良しとしない。こういった妙な現象が複数回起こる様なら、十中八、九は厄介な事件への入り口に誘い込まれてしまったことを示すサインであると、彼女は嫌と言う程知っているのである。
(もしただの偶然ならそれでいい。いいや、それが一番良い。でも警戒するに越したことは無い)
そのボールにどういった目的が込められているのかは全くわからないが、それはともかく、ジィーナは、この『追跡してくるボール』が、本当に追跡してくるのかをもう一度試してみる事は、特に悪い手であるとは思わなかった。再び同じように、そのボールから距離を置くだけだ。
もちろん、ボールに意識を集中させ過ぎぬよう、周囲にも気を配る。『案外単純な囮作戦だったりするのかもしれない』と辺りに不審な気配が無いかも警戒する。そして、ジィーナは一歩、二歩と後ずさり、そして振り返って、再度暗闇の道を疾走する。
*
千咲はリルの家で、二人でのんびりと夜のバラエティ番組を見ていた。にぎやかな声がテレビのスピーカーから溢れ出す。
そんな中。千咲は「そろそろ帰った方がいいかな」と思いつつも、言葉にはされずとも伝わってくるリルの、『もう少しゆっくりしていって』オーラに甘えて、ずるずるとそのまま居座り続けていた。『監視者』としてこれ以上やりやすい事はないのだが、しかし千咲はちょっとした不安も感じていた。原因は、監視するべき対象の一人・ジィーナ・ノイマンが帰ってこない事にある。
その事に関してはリルも異変を感じているようで、チラチラと時計を見ながら、玄関の方の物音に対して随分と敏感になっていた。
ジィーナが帰ってこない事も手伝って、リルは千咲に対して図らずともその『もっとゆっくりしていって』オーラを出してしまっているのだろう。ここ数日で判った事は、彼女はなかなかの寂しがり屋だという事だ。
もしかしたら、ジィーナになにかあったのかもしれないと考えるが、保安部隊から特に異常を知らせる連絡は来ていない為、千咲は動くに動けない。
「ジィーナさん、遅いなぁ。そんなにキツイ仕事やってるのかな」
「ごめんなさい、いつもなら、だいたいこの時間帯には殆ど帰って来てるんですけどね。たまに、ちょっと遅くなったりするけれど……」
「……せっかくリルが、晩御飯作って待ってるっていうのにねぇ……」
千咲は、ダイニングに並べられた三人分の料理を見て、小さく息を吐く。そんな千咲に対してリルは少し困ったように笑う。
「いえ、残り物ばっかりだから……わたし、そこまで料理は得意じゃないんです」
「うそ、でも前のオムライスおいしかったよ? あれで得意じゃないって、どれだけ高いレベルを目指してんの!?」
「えー、本当ですか? ……まぁ、半分はジィに手伝ってもらったんですけど」
そう言って嬉しそうな表情をしながらもどこか複雑な気持ちらしく、両手のひとさし指の指先をもじもじと絡ませる。
「本当本当! 宗助もおいしいって言ってたし、もっと自信もちなよ! 手伝ってもらったって、ちゃんと作った事には変わりないんだから!」
「宗助が? ……へへへ」
頬を少し赤く染めてだらしがない笑顔を見せる彼女を見て、千咲は複雑な気分になりながらも、再びジィーナへと思いを馳せる。するとその時、千咲の携帯電話がちかちかと光り、震えた。
*
ジィーナが川沿いの道をひたすら走り続けて、五分か十分は経過しただろうか。彼女は漸く立ち止まる。タダの一般人の馬鹿による悪戯なら、こんな数分間の全力疾走にはついてはこれまいと踏んでの事だ。もしこれで付いて来るようなら、そんな執念を感じさせるというのなら。
――今度こそ覚悟を決めなければならない。
ジィーナは辺りを見回す。さらさらと川の水が流れる音だけが彼女の耳に届く。この日一日中雨が降ったりやんだりだったため、少しだけ川の水位が上がっていた。
しばしの間音を立てずに、その場に立つ。
(…………………)
水の流れる音と、残りは自らの呼吸音。とても静かな世界で、ジィーナは『見』に入る。
一秒。
五秒。
十秒。
……一分。
…………三分。
……………………。
(奇妙な偶然だった、か。とても奇妙で、……不気味過ぎたけれど)
その場で息を潜め続けていたジィーナは、三分以上待って何も起こらなかったことに半分安心して、しかし半分はどこか肩すかしを喰らったような妙な気持ちを覚えながら、やれやれといった様子で警戒態勢を解く。走った事と緊張感を持続したことによる汗が額を流れ落ちる。ジィーナは面倒くさそうにカバンからハンドタオルを出して汗をふき取ると、元来た道へ回れ右。
それにしても、と少し前の記憶を頭に浮かべる。
(人っ子一人いない暗闇の通りに、ひとりでに弾む野球ボール。…………もしかして……。あの通りには、事故で命を落とした野球少年の霊がいて、夜な夜なキャッチボールの相手を探しているだとか、そんな感じの心霊現象にでも出会ってしまったとか……!?)
そんな微妙かつありがちな想像を頭に巡らせて、そして自分で想像したにも関わらずジィーナは背筋を駆けぬける寒気に身体を震わせながら、腹に力を込めてそれを振り払いゆっくりと歩き出した。人間の敵は、時に己の想像力が生み出した幻覚であったりする。
空腹と疲労が重なったところに、全力疾走が加わったため、ジィーナは草臥れた様子を隠さずに、とぼとぼと歩を進める。それでも、『家に帰ったら、早速この出来事に脚色を加えてリルに話して、怖がらせてやろう』などと、いけずな計画を立ててにやりと笑い、ジィーナは歩く。そしてちょうど大きな橋の下をくぐろうとしたその時。
――トン、トン、トン。
背後から、『あの』ボールが飛んできた。
ボールは彼女のすぐ右側を通過して、勢いそのままに転がっていき、橋げたと川の間の、ジィーナからは死角となる部分へと消えた。
「――え……?」
思わず声が出た。
慌てて振り向くが、誰もいない。街灯が明るい分、それはハッキリとわかる。彼女の背後には、向こう五○メートルには誰も存在していなかった。その漠然とした光景が余計に彼女の警戒心と恐怖心を揺り動かす。
「……」
ボールが転がっていった橋げたの方へと再度視線を戻す。橋げたと地面の境目辺りには雑草が生い茂っており、ボールの行方はわからない。
あのボールは何なのか。先程から目的がわからない。原因も不明なのだが、ともかくこんな妙に手の混んだ事を仕掛けてきておいて、その上十分以上追いかけて来て、『ただ若い女を怖がらせたかった』だなどと言うとも思えない。
(場合によっては、破壊しておく必要がある……)
彼女はそう考えて、そして行動に移した。目をきっと細めて、橋げたへとゆっくり近づいていく。
「逃げても無駄だ、ジィーナ・ノイマン」
突然名前を呼ばれた。呼ばれた方向へと目を向ける。声が聞こえてきた場所は、橋げたのボールが転がった方の裏側だった。そこには、男が橋げたに身体をもたれさせており、静かな目でジィーナを見つめている。
その男は彫が深く、地毛なのかわからないが海藻類のようなモジャモジャの髪の毛、顎から頬にかけて髭を生やしていて、身長はジィーナより頭一つ分高いといった所だろうか、体型は随分と細身だった。
名を呼ばれたジィーナは返事をせずに、その男をじっと見つめる。男はそれ以上何も喋らない。さっきからのボールはきっとこの男の仕業なのだろうと予測し、ジィーナは「はぁー」と大袈裟に息を吐いてこめかみを押さえる。
「私に、何か用? 生憎だけど、私はあなたに何の用もないし、うざいし面倒くさいし正直どうしようもなく気持ち悪いからどっかに消えて欲しいんだけど。ボール遊びがしたいなら昼間に公園でやりな」
ジィーナは男を睨みつけて憎まれ口を叩きながらも、その目の前にいる男の目的について九割九分予想がついていた。そしてこれから、目の前の男がどういった行動に出るかも。次にこの男が言うセリフは――。
「リル・ノイマンは何処にいる」
(……やっぱりね)
ジィーナは予想が当たったにも関わらずうんざりした表情でもう一度ため息を吐く。この男の目的は、やはりリル。そして恐らく『ついで』に自分も。ジィーナはそう悟った。この言葉を聞いてしまったが最後。闘って、勝って、生き残るしかリルの元へ帰る方法はないのだ。
「あのさぁ……聞かれて答えると思った?」
「……今喋るなら、お前は見逃してやる」
男は感情を動かさず、ただ抑揚なくそう言った。
「なんか、会話にならないみたいだしさぁ……」
ジィーナは半笑いで言って、足の幅を少し広げる。
「さっさと消えてくれる?」




