恋人だったひと
明朝――五月十九日午前六時過ぎ。宗助はあてがわれた個室にて、慣れないベッドで眠った事による独特の気怠さと格闘しながら、昨日の事を思い返す。
ただ、気怠さの原因はベッドのせいだけではない。昨日夕方のまさかの再会がまさにそれだった。
運命的かどうかというのならば、それはかなり運命的な再会であったのだろう。それでも、彼女と別れた後にどっと疲れが押し寄せてきて、それからはあまりハッキリとした記憶が無いのだった。
「確か、夕方五時過ぎに帰所して……」
そう、宗助と白神は昨日夕方五時に帰所して、そのまま間髪入れずに翌日へ向けての打ち合わせに参加した。しかし、打ち合わせ中にも関わらず、宗助は心ここにあらずといった様子で、そんな様子に気づいた不破に窘められるまでその状態は続き……、見かねた不破は彼の部屋までおしかけ、「何があったんだ」と問い詰め始めた。それを受け、宗助はその日起きたことを不破に正直に白状していた。
「ほうほう。それで、そっからどうなったんだ?」
不破は室内に備え付けられた椅子に逆さ座りで背もたれに顎を乗せ、宗助に問いかける。
最初は真面目そのものだったそれも、宗助の口から「昔の恋人」なんて単語が飛び出してから、「お前、正直あの子のこと好きなんだろ?」なんて会話が飛び交う高校生の修学旅行の夜のソレに近くなっていた。宗助もやけになって洗いざらい語るものだから不破も悪ノリして、かなり突っ込んだところまで踏み込む始末。
白神の千咲への想いは、さすがに言わなかったが。
「……それで。チケットをね、渡されたんですよ。明日近くでライブだから見に来てって。そりゃあダメですよね。わかってますよ。任務中ですし」
宗助は自嘲気味に息を大きく吐き、すぐさま可能性を自分で否定する。それに対して、不破が出した答えはというと。
「いや、ダメじゃねぇだろ」
「え」
「明日は結構行程進めるみたいだが、スケジュールが乱れなきゃ充分いける。五時開場なら、始まるのは五時半か六時だろ? いけるって」
不破は「何を言っているんだこいつ」とでも言いたげな顔で宗助に言った。「せっかく貰ったんだし、行かないと失礼だろ」というのが不破の考え方だそうだ。
「……でもね、不破さん。俺は、行きたいって気持ちもあるし、なんだか、行きたくないって言う気持ちもあるんですよ」
「ほう。と言うと?」
不破はどこか楽しげな様子で続きを促す。
「なんていうか。別れた彼女が活躍して、世間に認められている姿を見るのが、怖いっていうか、悔しいっていうのかな。あー……子供っぽい事言ってるのはわかっていますけど……。素直に彼女の事を、応援できそうになくて」
宗助はそう言ってから項垂れる。
「……まぁ、わからんでもないな。その気持ちも。未練って奴。あるいは妬み。若い頃にみんなそういうのを残して年取っていくんだよな……。俺だっていくらでもある」
「……不破さんだってまだ若いでしょ……」
「だがまぁ、部屋でもやもやしてるよりは、そうだな……。宗助、これは上官命令だ。明日、俺も一緒に見に行くぞ」
「……は!?」
「俺もちょっと興味あるんだよ、篠崎あかね。無料なんだろ? 見張りはひとまず白神に任せれば大丈夫。よし行こう、絶対行こう」
有無を言わせぬその声色で、明日の夕方のスケジュールを二人分、簡単に埋めてしまった。そして白神に了解をとっている訳もなかった。唖然とする宗助に対して、不破は「明日も早いから、さっさと寝とけよ!」と言い放つと立ち上がり、すたすたと部屋から去って行く。その姿を眺めながら、宗助は思った。「絶対あの人、自分が行ってみたいだけだろ」と。
*
そんな昨晩のことを思い返しつつ、何はともあれ、宗助の一日は始まった。もぞもぞと布団から抜け出して、顔を洗い歯を磨いてから制服に着替え始めた。
昨日とは違う棟での解析になる為、カレイドスコープをそこへ移送する。そのまま解析が始まればその様子を眺め続ける。これが非常に退屈で、不破と白神は至ってまじめな面持ちで任務にあたっているのだが、夕方の事も有ってか宗助にとっては時間が経つのがやたらと遅かった。何度も腕時計を確認して、ついには不破に「集中しろ」と 怖い顔で怒られるのであった。
肝心のコアの解析については、不破がその形状を必要以上にぐちゃぐちゃにしたため少し手間取っているようだった。
だが午前のその解析で判明したことは、コアと地上に居たカレイドスコープそのものは、材質が違うもののようである、という事だ。すぐにすべてがわかるという訳でもないので、全ての情報の後に『ようである』とか『らしい』が付けられるのだが、それでも、確かに今回の解析が前に進んでいる事を確信させるには充分の物だった。
五月十九日午後四時五分。第三研究棟にて。
その日は信じられない程の順調さで解析作業が進行した。
研究員の一人が言うには、このまま順調ならば明日の午前中には全行程は終了する。だが、宗助にとっては、明日の事よりもまず今日、これからちょっとした用事があるのだ。宗助は周囲から不審な目で見られない程度の急ぎ足で自室に戻る。
着替えを済まして部屋を出て、急ぎ足で出口へ急ぐ。廊下ですれ違った亜矢子に「生方君、なに急いでんですか? 用事?」と話しかけられたがやんわり躱しつつ不破と合流し、研究所所有の車で二人、会場へと向かう。車の私用については目を瞑ってもらうしかない。
道路は特に渋滞もしておらず、会場から少し離れた場所にある有料駐車場に駐車して車を降りると、沢山の人が同じ方向へとぞろぞろ歩いているのが見えた。特に若い女性が多く見える。皆、一様に笑顔である。中には過去の篠崎あかねのライブ記念Tシャツなんかを着用している集団もいて、彼女の人気が根強い物なのだと認識させられた。
「さ、行くか。人通りが随分多いな。全部コンサートの客かこれ」
往来を眺めて立ち止まっている宗助に向かって、不破が声をかける。その声を合図に宗助は再起動して、道行く人々の作る流れに合流していった。しばらく歩いたのちコンサート会場に辿り着くと、開場を待つ人々で長蛇の列が出来上がっていた。いつもおおらかな不破でさえ「ひぇー」だとか「うわぁー」だなんていう感嘆詞を並べて、その列を眺めている。
「宗助、チケット見せてくれ」
「あ、はい」
宗助は財布から二枚のチケットを取り出す。そのチケットで確保されている座席は、ステージ横の最前列。オペラグラスなど一切無縁の場所である。
「新鋭の人気歌手のコンサートだ、関係者だからってこんな良い席とれねぇだろ……。俺もそういった話には疎いけどよ、これはお前、彼女が前もって自分で金出して確保したんじゃねぇの、多分」
「やっぱり、そうですかね……」
「絶対そうだよ。やっぱり、このチケットを無効にしなかったのは正解だな」
そんな会話を交わしているうちに開場の時刻になったらしく、係員の案内する大きな声があちこちで飛び交っている。
「うし、行こうぜ。なんかテンションあがってきたな!」
会場の熱気に当てられたのか、少し高めのテンションで先へ先へと進んでいく不破を見て、宗助は今更ながら思った。なんでこの人と、昔の恋人が歌うコンサートに来ているんだろう、と。
瞬く間に会場は満員に膨れ上がった。
一体何人の人間が、彼女の歌声を聴こうと集まって来たのだろうか。
このコンサートに来ていない人間でも、きっと彼女という人間に、彼女の歌声と才能に惚れている人間は日本中に山ほどいるのだろう。
そう思うと、宗助の心はますますもって複雑な気分へと迷い込む。しかし、そんな宗助の思惑は置き去りにされたまま、定刻通りコンサートは始まった。
賑やかなポップチューン。体ほどのギターを抱えた、ラフな服装の彼女が登場すると、会場の盛り上がりはいきなり最高潮に達する。
それから、片想いを歌った曲であったり、青春や友情を歌う曲であったり、今の社会を風刺するような歌まで、さまざまな曲が彼女の喉から飛び出した。歌っている彼女は、宗助がどの角度から見ても掛け値なしに綺麗で、可愛くて、とても楽しそうだった。
曲と曲の間のMCも軽快で、彼女が場馴れしていることも見て取れる。
あの細い体のどこにそんなエネルギーがあるのかと思わせる彼女の力強く芯の通ったその歌声は、宗助の心を大きく揺さぶる。ステージまでほんの十歩程歩けば辿り着けそうな程近い場所にいるのに、宗助には彼女との距離がとても離れているように感じられた。そして、あかねがとても眩しかった。その堂々たる姿に圧倒されていた。
「あぁ、そうか」
ぽつりと呟く。宗助は理解した。昨日から感じていた、もやもやとした気持ちの正体についてだ。不破には未練だとか妬みと言われたし、それもあると思うが、それだけでは表せないものがあった。それはなんてことない、不安と劣等感だった。
確固とした自分持っているあかねが眩しくて、直視することができなかったのだ。
『俺は、この道で良いのか? 良かったのか?』
そんな不安な気持ちを自分で気づかないフリをして誤魔化して、がむしゃらに走ってきた。「今日はまだ大丈夫だったけれど、明日には死ぬかもしれないぞ」、なんて声が聞こえてきても聞こえないふりをして、ただがむしゃらに走って振り切った……つもりでいた。
だけど、本当はまだ、ずっとこの道を進んでいく覚悟が出来ていなかった。太陽のように眩しく照らしてくる彼女の存在が、それをくっきりと浮き彫りにしてくれたのだ。「そこまでわかったなら、話は簡単だろう」、と宗助の頭の中で、内なる自分が大声で叫ぶ。「振り返ってみろ」と、も一つ叫ぶ。
自分の意志でスワロウに入隊すると決めて、毎日訓練に明け暮れて、時には出会ったばかりの少女を何の見返りも求めずに命がけで守ったりもした。
そんな風に……彼女も、彼女の歌う場所や、彼女を慕う人も、彼女が好きな人達も、きっと守ろう。もちろん彼女が知らない場所で。
そして彼女が活躍したその時には、「俺は、この道で良かったんだ」と思えるはず。宗助はようやくあかねを、一人の人間として見ることが出来た。もう眩しさは感じない。不安も拭い去る事ができた。
「がんばれ、あかね」
『ありがとう。がんばるよ、私』
小さく呟いたエールに、不思議とそんな応答が耳に届いた気がした。




