白神弥太郎について
時間は少し前。場所はアーセナル隊員居住スペースの一室。一文字千咲は自室のベッドで目を覚ました。開ききらない眼、ボサボサの頭。眉と眉の間にシワがぐいぐい寄っている。手の中にある大きい文字のデジタル目覚まし時計に表示される数字を、呆然と眺めていた。
しっかりと彼らの出発見送りに間に合う時間にアラームが鳴るように設定したはずなのに、彼女の目に映る時計は、既に出発してゆうに三○分は経過した時刻を示していた。
「やっちゃった…………はは……」
彼女の部屋に、乾いた笑い声が響く。暴れている髪を手櫛で押さえつけつつ布団から抜け出す。と、同時にコンコンコンとノック音が響いて、そして玄関の扉が開いた。
「千咲ちゃん、起きてるの?」
扉を開けて部屋に入ってきたのは岬だった。朝っぱらから気軽に千咲の部屋にずかずかと入って来られる人間は、隊内でもかなり限られている。
「うーん。おはよ、岬」
「おはよう。……もしかして今起きた?」
「……違う。違うの。ほんとに。今起きたのは違うくないけど、でも違うの」
質問に対して、千咲は全く内容のない自己弁護を始める。
「…………あの、えっと。とりあえず、顔洗ったら?」
「……うん」
岬は苦笑いしつつもそう促すと、千咲は大人しく洗面所に向かうのだった。
*
「不破さん。ここの人達、なんであんなにカレイドスコープの事を警戒してるんですかね。もう壊れていて動かないんでしょ?」
現在不破たち三人は、研究所第一食堂で少し遅目の昼食を摂っていた。定食の味噌汁を片手に、不破は沢庵をぼりぼりと噛み砕く。
「噂だけが先行してるんだろう。『自由に姿かたちを変えて、人間の体を丸ごと取り込む』っていう奴の特性が誇大誇張を孕んでな。今回のアレは特殊なケースだから、『コアが潰れているからなんだ、急に動き出さないという保証なんてどこにもないだろう』って疑心暗鬼になってんだ。俺らは対抗する手段があるが、一般的な生身の人間は怖いだろうよ、そりゃあ」
「なるほど……確かに」
宗助は定食の一口チキンカツをひょいと口に運び咀嚼する。ちなみに、現在は第一行程・カレイドスコープ内部の簡易検査内容物の結果待ちの状態で、待ち時間を利用して昼食を摂っている訳である。
「第二行程も、今日済ませるんですよね」
白神が珍しく会話に参加して不破に確認をする。
「それがな、それぞれの行程の結果次第で臨機応変に進めるって言ってたけど、なにぶん職員の緊張状態が普段の何倍も強いから、なるべくゆっくり無理せずにやっていきたいってよ。だから、何とも言えないな。こっちとしても、せかせかと進められるよりは対応しやすいが」
「そうでしたか。それにしても……」
「ん?」
「よく食べますね、お二方とも」
白神は、とっくに食べ終わった自分の食器と、二人の前に広がる料理とを見比べてから、少し楽しそうにそう言った。
「……? そうか?」
不破はにんじんをひとかけら、口に放り込んだ。
・・・
「結局、午後は待機だ。こりゃ思っていたより少し長引きそうだ。予想していなかった訳じゃあないんだが……」
そんな、不破の少し気怠そうな報告を聞いた宗助は、携帯電話をカバンに戻すために、一旦宿泊部屋に戻っていた。
「待機か……。そういや……誕生日はこっちで過ごすんだろうな」
財布を荷物の中へ仕舞い込みながら、小さく独り言を呟いた。
宗助は家を飛び出してきたようなものなので家族とも友人とも距離を置いているし、結局帰れたとしても、祝ってもらうアテは特に無いのだが。財布をしまい終えて立ち上がり、不破と白神のもとへ戻るために出口へ振り返った、その時だった。
「そういえば、明後日は生方さんの誕生日でしたね」
「うおおおあッ!」
いつのまにか部屋の出入り口に立っていた何者かが、宗助に声をかけた。独り言を聞かれた気恥ずかしさと突然の何者かの出現に驚かされて、悲鳴にも近い声をあげる。落ち着いてその声の主の顔を見ると、そこには白神弥太郎がいつものニコニコ笑顔をたたえて立っていた。
宗助は未だにこの人物の事は名前と性別くらいしか知らない。小春の言っていた通り、謎の人だ。一見女性と見間違えてしまうようなやわらかい中性的な顔立ちで、いつもニコニコしていて表情も読めないし、基地内で会う回数も心なしか他の隊員達と比べて少ない気がする。声は少し高めで、聞こえやすいよく通る声。
この白神弥太郎、会話はちゃんと通じるし優しい人なのだが、宗助は白神の事をどこか、『とっつきにくい人だ』と感じていた。宗助の驚く声も顔も特に気にする様子もなく、白神は言葉を続ける。
「生方さん、僕、今から外へ見回りパトロールに行くんですけど、一緒に行きませんか?」
「へ? 見回りっ?」
突然のお誘いに、これまた間抜けな声を出してしまう宗助。
「やだなぁ、そんな顔しないで下さいよ。パトロールですよ。パトロール」
白神はそう言って、眼を細くしてにこっと笑った。
「えっと、待機じゃなかったんですか?」
「あぁ、外出の許可なら貰いましたよ。不破さんがここに残ってくれるみたいなので、そう遠くなければ大丈夫」
「えっと、そのパトロールって、任務の一つでやっているんですか?」
「いいえ、自主的にやっているだけです。気分転換の散歩も兼ねてね」
「へぇ……」
「どうですか? 待機しているだけだと暇でしょう。楽しいですよ、パトロール」
相変わらず白神は、ニコニコとしたまま、宗助に提案する。宗助にとっては少し苦手なイメージはあるのだが、もっと話してみれば本当はすごく気の合う人かもしれないと、前向きに考えた結果。
「わかりました。お供しますよ、パトロール。準備するんで少し待っていて下さい」
「そうこなくちゃ。あぁ、急がなくて良いですよ、まだまだ時間はありますから」
こうして、午後の昼下がり、宗助と白神は二人でパトロールに出る事になった。
*
二人は近くの町に到着すると目に付いた駐車場に研究所の所有車を停め、適当に歩き始める。
「パトロールって、どういうルートで回るか決めてるんですか?」
「そうだなぁ。風任せなのが殆ど」
「え」
言葉を失う宗助に構わず、白神はわが道を行くと言わんばかりにすたすたと前に進んでおり、動作をストップさせている宗助に振り返って
「今日は温かいから、北の方にでも行ってみるのもいいかもしれませんね」
なんてことを言っている。これじゃあサボリと変わらないのではないかと不安を覚えた宗助だったが、ここはもう乗りかかった船である。改めて意を決してついて行こうとしたその時、白神がふと立ち止まる。じっと、一点を見つめている。宗助は訝しげな眼で白神を見ていたのだが、目の前のその男は突然こんなことを言い出した。
「しばらくしたら雨が降るな。そこらで傘を買いましょう」
雲ひとつない快晴なのに、突然こんな事を言い出した。宗助は思った。この人はやはり謎だ、ワケがわからない。とてもじゃないが仲良く出来そうもないと。
「生方さん、あなたも買っておいた方が良いと思いますよ。風邪はひかないに越した事はありませんから。近頃は気温も温かいですけど、雨に濡れて体温が下がれば当然、体調を崩す可能性は高くなりますから。あとは、規則正しい生活……と言っても、スワロウに居たらそれはある程度仕方ないかな」
白神は一通り言い終わると、ちょうど目の前の通りの一角に雑貨屋を見つけ、そこに向かって進んで行く。
「ここ、入りましょう」
「あの、今日は見ての通り快晴ですし、今朝の天気予報も降水確率は一◯%で、洗濯日和って言ってましたけど……」
宗助が「何を言ってるんだこの人」という態度をほとんど隠さずに、白神の発言と行動に対して反論する。しかし白神は気を悪くするでもなく、笑顔のまま雑貨店に入っていった。宗助も、不審な眼差しを白神の背中に向けつつも後に続く。カランカランと、ドアにつけられたベルが、客の入店を店内に伝えた。
「いらっしゃいませー」
エプロンを着けた妙齢の女性店員が笑顔でもてなしの挨拶をするのを横目に、白神と宗助は店内の奥へと歩いて行った。
「ここですよ、傘コーナー。生方さんは背が大きいし、結構大きめな傘じゃないと意味が無いかもしれませんね。あぁ、僕が連れてきたんだから、傘の御代くらいは任せてください」
「いや、だから、外は晴れてるから傘なんて――」
要りません、と宗助が言おうとした、その時だった。ふと窓を見ると、水滴が幾つかついていて、空はどんよりと曇り空になっている。そしてついには。
ザアアアアアアアアア―――
雨が激しく地面を穿つ音。バケツをひっくり返したような雨が街を襲う。濡れ鼠になった人が、何人か雑貨屋に滑り込んできた。
「……あーあ、この調子だと巡回は少し大変そうだなぁ」
白神はいつもの笑顔から少しだけ物憂げな表情に変えて、そうぽつりと呟いて外を見つめる。宗助は驚きで固まった表情で、窓から見える外の景色を眺め続けていた。そんな宗助の様子に気づいた彼は、やはりニコニコと笑顔を振りまいて……
「あぁ、生方さん。で、傘はどれにするか決めましたか?」
その光景に。今体験している出来事に。白神の変わらぬ笑顔に。宗助は呆気にとられたままだった。
大外れな天気予報に、町をずぶ濡れ覚悟で走り抜ける人や、雨宿りする人、すっかり雨の日の景色がその町に広がっていた。雑貨屋で買った傘を差して、二人は通りを歩いて行く。白神は名前と同じ白の傘、宗助はオレンジの傘。
「白神さん」
雨音が煩く、宗助は少し大きめの声で白神に話しかける。
「なんですか?」
「……なんで雨が降るって判ったんですか?」
宗助からすれば、至極当然の疑問である。まるで天候を操っているかのようなタイミングで雨が降り始めた。操るというよりは、まるで未来人のように、雨が降るのを『知っていた』という方がしっくりくるかもしれない。
「今から雨が降るって、声が聞こえたんですよ」
「聞こえたって……何も聞こえませんでしたが……」
日本語自体はとても簡単なのに、言っていることは全くの意味不明で、宗助は更なる困惑の渦へと巻きこまれてしまう。声がしたというなら、その声は誰が発したものなのだろうか。その声を発したものは何者なのだろうか。何にしろ、ただ事ではない。
「生方さん、そこ、ちょっとだけ危ないですよ。もうちょっと道路から離れた方が良い」
「へ?」
あまり納得のいっていない表情のまま、しかし忠告通り道路から離れた、その瞬間。エンジンの重低音を響かせて大型トラックがすごい速さで通り過ぎて、道路に溜まっていた泥水を大量に跳ね飛ばした。そしてその泥水は、先程宗助が居た場所に大量に降りかかる。
水音が地面で跳ねる音が短く響いて、そのままそれは、雨音に吸い込まれていった。
「…………なん……で……?」
またしても、白神の言う通りになった。そのアドバイスは非常に抽象的な物ではあったけれども、『危なかった』のは確かである。
「ね。言ったとおりでしょ?」
白神の感情の奥が見えない笑顔は相変わらずで、宗助はなんと返せばいいのかわからない。
「……今のも、声が聞こえたんですか?」
「はい。聞こえたものは言わない訳にもいかないでしょう。チームですからね」
「その声って……誰の声なんですか?」
宗助がたまらず尋ねる。さすがにここまで来ると、味方とはいえ不気味すぎた。もしや幽霊だとか神のお告げだとか、そういう類のオカルト的な事を言い出すのではないかと不安になってきたところだった。いい加減正体を教えてくれたっていい筈だと思い、尋ねる。
「誰の……という言い方は、少し間違いがあるかもしれません。どれ、というべきなのかな」
宗助は思った。やっぱりこの人は少し変だ。いいや、少しどころではなく、かなり変だ。桜庭さんの言う通り、謎だらけなんだ。だから、理解できると思う方が間違いなんだ、と。
柳のような彼に、これ以上色々と尋ねるのは時間と労力と精神力の無駄だと悟った宗助は、話もそこそこに受け流して、先へと進もうとする。白神については後で不破にでも尋ねればいいかと思った。するとそこへ。
「――ッ!」
突如宗助の耳に、雨音の隙間から子供の泣き声のようなものが入り込んできた。白神の言う声がどのようなものなのかは宗助の想像が追いつかないが、自分の耳に聞こえるその感覚だけは確かな物だった。宗助は、泣き声のする方へ足を向ける。
「どうかされましたか、生方さん」
「……子供の泣き声みたいなのが聞こえたんです。迷子とかかも」
「あぁ、そういえば生方さんは、耳が良く聞こえるんでしたね。雨でも関係ないんですね」
「多少鈍りますけど、でも。しっかり聞こえたんです。怪我でもしているのかも」
宗助は少し大きめの歩調で、次第に小走りで、泣き声の発生源へと進み、白神もそれに付いて行く。雨足は少しずつ弱まり、ついには止んだが、泣き声は止むことはなく。
「こっちか!」
曲がりくねった細道をなんども潜り抜けて、そして進んだ先に、泣き声の主は居た。
「うええええええっ、おがぁ~ざぁ~ん!」
耳を塞ぎたくなる程の大きな声で、小さな女の子が泣き叫んでいた。
先程の突然の通り雨に襲われたのだろう、髪は濡れ頬に張り付いており、しかしそんなことはお構いなしで、引き続き少女は、自らの涙で頬を絶えず濡らし続けていた。宗助は膝をついて、その少女の目線に自分の目線の高さを合わせる。
「……どうしたの? お母さんとはぐれたりした?」
少女は少し警戒したような様子だったが、独りでいることの心細さが勝ったようで、宗助の質問に対してコクンと一度、頭を縦に振った。宗助は引き続き質問する。
「そっか。えぇっと、お名前は?」
「……ちさき」
意外な名前が出てきた事に驚き、白神と宗助は眼を見合わせる。ある意味、宗助が見た白神の一番人間らしい表情だったかもしれない。少しして二人は「ちさき」へと視線を戻す。
「えっと、ち、ちさきちゃん。お母さんとは、どのへんではぐれたのかな」
宗助が少したどたどしい様子で尋ねると、彼女は母を思い出したのか、またしても泣き出してしまう。宗助と白神も困り顔で必死に「ちさき」を宥めつつ、そのまま放っておくわけにもいかないので、自然と彼女の母親探しを手伝う事になった。
それからというものの、宗助の背中におぶられた彼女は、その子供独特の感性で二人をこれでもかと言うほど困らせた。
一体どこで彼女と母親がはぐれてしまったのかをトレースするために、彼女が最後に母親と一緒に居た場所を教えてほしいと言うと、目印となる建物の名前ではなく色や形を告げ(みどりとしろがひかってるしかくいおみせ! とか)、そこにたまたま居合わせた動物を言ってみたり(しろいねこがいた! とか)、果ては泣き疲れたのか宗助の背中で眠ってしまう始末。そして……
「いやぁ。やっぱり、そう簡単には見つかりませんね」
白神が涼しげに言うが、額には若干の汗が浮かんでいる。雨上がりの湿気も手伝って、三○分以上あてもなく歩けば汗も吹き出る。
「ええ……。というか、初めから大人しくこうしておけば良かったです……」
三人は結局……最寄りの交番へと向かっていた。母親だって探しているであろうから、そう遠くにはいかないという考えに基づいて、きっとすぐに会えると踏んでいたのだが……しかしこの町は細い道がいくつも分かれてはつながり、何度も十字路が立ちはだかるあみだくじ迷路のような町なのだ。しっかりと計画性を持って歩かなければ、ほんの数分間で歩いて来た道を見失ってしまうような場所が幾つもあり、ものの見事に彼らはそれにはまってしまっていた。
それからなんとかかんとか、ちょっとした大通りに出る事に成功した三人は、そのまま通りに沿って歩いて行く。そしてこの散歩に転機が訪れたのは、それからすぐだった。
「おかあさんだ!」
宗助の背中で眠っているとばかり思っていたちさきが、何時の間に目を覚ましたのか大きな声でそう叫んだ。
「おろしてー!」
弾むような声で宗助に自分を大地に降ろす事を要求し、ぱんぱんと肩を叩く。
「はいはい」
宗助が膝をかがめてちさきが降りられる高さに腰を持っていくと、「ちさき」はいそいそと背中を蹴って大地へ降り立ち、母親の元へ走っていく。
「おかあさーん!」
必死に自分の存在を自己主張しながらまっすぐ懸命に母親の元へ走っていく。母親も娘の存在に気付き、安どの表情で娘を迎え入れようとしていた。そんな様子を微笑ましげに眺めていた宗助であったが――少し後ろに居た白神は違った。
「いけない!」
「え――」
「生方さんっ、今すぐあの子を止めてください!」
いつもののほほんと笑っている彼からは想像できないほどの剣幕な雰囲気と声で、宗助に指示を叫ぶ。
「止めるって、なんで―」
「いいから早く!」
「は、はい!」
宗助は良く分からないまま、言われた通りに走り出し、数メートル程後方に居た白神も宗助を追うようにして走り出す。子供の脚力と大人の、それも軍人の脚力の差は歴然で、宗助はすぐに追いついた。……追い付いたのは良かったのだが、しかしその瞬間。
ガシャァン!
頭上で、ガラスの砕ける派手な音が鳴る。
宗助が顔を上げると、目の前にあるビル三階の窓ガラスが砕け割れて、宗助とちさきの頭上に、無数のガラスの雨が降り注ごうとしていた。




