わたしのなまえ
生方宗助が次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。体中のあちこちに包帯を巻かれており、動きにくそうに体をよじる。
どうにかといった様子で上半身を起こすと、開け放しの窓から五月の心地よい風が吹き込んで、宗助の短めの前髪を揺らした。外は快晴、太陽の光がまぶしくて思わず目を細める。
目覚めてしばらくは、まるで他人事のように自分の状況を傍観するような気分であったが、頭の整理がつき始めるとようやく、自分に起きた出来事を理解し始めた。
「……あー」
だが、出てきたのは、言葉にすらなっていない声だけ。
(頭がごちゃごちゃするし、身体は気だるいし……)
更には猛烈な腹の空き具合といい身体の気だるさといい、一体どれくらいの間寝ていたのだろうと途方に暮れる。
病室には自分以外誰もおらず、……誰かが座っていたのだろうか、椅子が一つだけベッドの横に置かれている。
病室の中を見回すと、壁掛け式のアナログ時計が午後一時過ぎを示していた。とりあえずナースコールを押した方が良いのかなと考え、ベッドのすぐ近くにぶら下げられているボタンに手を伸ばした。
ナースコールで目が覚めた旨を伝えてしばらくすると、背が高く若い女性看護士が宗助の病室に入ってきた。看護士はそのままベッドに歩み寄る。
「目、覚めたんですねー。お気分はどうですかー?」
「えっと、気分は良いです。お腹が空いてるくらいで」
にこやかにのんびりとした口調で話しかけてくれる看護士に、自分の今の状態を感じるままに素直に答える。
「体調は良好でー……お腹が空きましたかー。でももうちょっと我慢してくださいねー」
「あ、はい。それよりもあの、……今日は何月何日ですか?」
「今日は五月の一四日ですよー。生方さんが搬送されてから一日しか経っていませんからー。ご心配なくー」
つまり、宗助はレスターとの戦いを終えて、まる一日眠っていた事になる。そこで宗助はとても大切な事を思い出す。
「そうだ、その、他にも俺と同じタイミングで運ばれた女の子、いませんでしたか!? 友達が大怪我で、それで……!」
宗助の剣幕に少し圧された看護士だったが、彼女のゆったりとしたペースが崩れる事もはなく。
「瀬間さんですかー? あの子なら、怪我の具合は割とひどいものでしたけど、命に別状はありませんし、すこぶる快方に向かっていますから、安心してくださいねー」
やはりのんびりとした口調で、慌てる宗助を落ち着かせる様に言った。それを聞いた宗助は、ほぅっと息を吐いて肩を撫で下ろす。
「後で彼女のお見舞いに行きたいんですが、大丈夫ですかね?」
「生方さんは他の人の事よりまず自分の状態を気にしてくださいねー。下手に動くと傷口が広がったりしますからー」
そう言って看護士は、宗助を優しくベッドに押し戻すと、捲れた布団を宗助の肩にかけ直した。
「それじゃあ、午後の回診まで、大人しく、安静にしていてくださいねー」
看護士はそう言うと出入り口に戻りカーテンを閉め、続いて引き戸式のドアを閉めた。
「……。大人しく、か。……それにしても……無事でよかった、まったく」
宗助がそんな独り言を呟いたのと殆ど同時に、ドアがノックされた。
「はーい」
宗助が返事をすると、カラカラと音をたててスライド式の扉が開き、数人分の気配が病室内へ入ってくる。
宗助からは扉が直接見えない間取りなので、その人間が数歩部屋の内側に入ってきてようやくその正体を確認する事ができた。
「隊長、不破さん、白神さんも」
「おーう、目ぇ覚めたか、宗助」
病室を訪れたのは、稲葉、不破、白神という、あまり見ない組み合わせの三人だった。挨拶をするために起き上がろうとした宗助だったが
「痛たた……」
「あぁ、お前は重傷の入院患者なんだ。気を遣わないでくれ。長居するつもりもないしな」
ようやく傷が痛み始めたのか、しかめ面で起き上がろうとする宗助を、稲葉が手で軽く制する。
「それにしても……千咲は特に怪我もなく、岬もお前も怪我はしたが大事には至らず、犯人も無事捕縛。不明な点は沢山あるんだが、今は正直ほっとしてる部分が大きいよ」
そして心底安心したような顔を宗助に見せた。宗助は宗助で、この人はこんなやわらかい表情もできるんだな、と少し会話とは違う事を考えていると、そこへ不破が宗助に話を振る。
「まぁ、お前も入院は岬が治るまでの辛抱だ。ここんところ根詰めまくってたし、ちょっとした休養だと思えばいいさ」
「ええ。そうします」
「あとな、……あの紺色の髪の、お前が一緒に居た、リルって女の子。覚えてるよな?」
「ええ、あの日たまたま偶然知り合ったんですけど。あの子がどうかしたんですか?」
「どうかした、って言うとだな……。今回あの子が狙われていたっていうのは聞いたんだが、その理由がどうもはっきりしてなくてよ。彼女にもいろいろ聞いてみたんだが、知らないって言い張るし、あんまり一般人を拘束し過ぎるのも問題なんで家まで送ったんだが……」
不破はなにやら言いにくそうに視線をあちこちにうろうろさせている。そんな「言いにくいことがありますよ」というのがありありとわかる態度に、宗助は訝しげな目を向ける。
「それで、どうしたんですか?」
「今回の件はドライブが絡んでる。当然と言えば当然だが、そのまま世間に報道って訳にはいかない。そのうえで、あの子は唯一、一部始終を知っている一般人で、周りに言いふらされても困るって訳で……、うん、その、つまりだな」
徐々に歯切れが悪くなってきたその話を黙って聞いていた宗助だが、徐々に不破が何を言いたいかという事が解り始めてきた。
「あの子の記憶を、消したんですね」
不破が言い終える前に、宗助がほとんど確信に近い予想を先に言ってみせた。
「ん、……あぁ。正解。お前に助けて貰ったって事はもう覚えてない筈だ。お前と出会った事すら、忘れてる。そういう道具を使ったからな」
観念しましたという顔と声で、不破はようやく事実をありのまま告げた。さんざん不破が気を使っていた割には、それを聞いた宗助はというと……。
「そうですか」
と、一言だけのリアクション。
「……あんまり、残念じゃなさそうだな。仲良くなってたみたいだし、俺はてっきりもっと凹むかと思ってたが」
「充分、残念がってますよ」
そう言って宗助は少し寂しそうに微笑んだ。
「そうか? ……だがまぁ、謝っておくよ。悪い事をした。お前にも、あの子にも。仕方ないっちゃあ仕方ない話なんだが。それでもさ、あの子、すっっっっっげぇ、お前の事心配してたんだ。ちゃんとお礼が言いたいって」
「ちょっと、やめてくださいよ。なんか余計残念になるじゃないですか」
少々大げさにセリフを強調する不破に、宗助の顔は寂しそうな笑顔から困った顔に変化し、それ以上は結構ですと言わんばかりに両手の平を広げて付き出し、不破を制する。そんな宗助を見て、不破や白神、稲葉までもが笑う。
「でもな、宗助。俺たちの任務ってさ、本来お礼なんて貰う事は無いんだよ。仲間内で感謝し合う事はあっても、助けた人間に感謝の気持ちを貰うって事はまず無い。というか、貰っちゃいけないんだよ、俺たちは」
「……それは、わかってます。解ってはいるんですけど……。それでも、少し寂しいって思って」
宗助はふと、そんな言葉をこぼした。今度は、それを聞いた稲葉が諭すように語りかける。
「寂しい、か。……確かに、寂しいと感じる時もある。だが、誰かを助けたと言う事実はどこにも消えない確かなものだ。お前があの少女を助けた事も、決して消えはしない。それを心に留めておくと良い。あの少女が今も元気で居るという事実は、お前にとっても俺達にとっても、見事で、大事な一歩で、誇りなんだからな」
そこまで言うと一旦言葉を切り、稲葉は控えめにニッと笑う。
「やるじゃないか。宗助」
そう言って、右の拳を宗助の顔の前にゆっくりと差しだした。
宗助は目の前に差し出されたそれをぽかんと見つめていたが、すぐにその意味を理解すると、自分の右拳を出して、こつんと稲葉のそれにぶつけた。
「――ありがとうございます」
宗助のはにかむ顔から、寂しさは少しだけ薄れた。
*
「さて、俺達はそろそろ基地に戻ろう。宗助、早く治してまた元気な姿を見せてくれ」
稲葉は会話もそこそこに切り上げて、不破と白神を視線で外に促すと、その二人も了解したようで帰る準備を始める。と言っても特に荷物などがあるわけではないのだが。
「はい。今日は、わざわざありがとうございました。不破さん、白神さんも」
「なーに、かわいい後輩の初手柄だ。治ったら軽く宴会でもするか! なぁ白神」
「本当に宴会好きですね」
「普段からきつい事ばっかりだし、空いた時間に楽しい事やって何が悪いんだよ」
「やだなぁ、誰も悪いなんて言ってないじゃないですか」
「おい、帰るぞ」
出口付近にいた稲葉に再度促され、不破も出口へ向かう。ところが白神は、その場所を動こうとしなかった。宗助が不思議に思い声をかける。
「白神さん? どうかしたんですか?」
「一つだけ聞きたい事があるんです。……千咲さん、事件以来ずっと元気が無いんですが、……昨日、彼女に何があったんですか?」
その声は普段聞く彼ののほほんとした声と違い重厚な雰囲気を纏っていて、宗助は何か悪い事をした訳では無いにも関わらず、胸の奥が圧迫されるような威圧感をひしひしと感じていた。
「昨日……」
言いかけたその時。コン、コン、コン、と律儀に三回、ノックの音が響き、扉が開いた。
「おお、千咲か」
「隊長、不破さん。来てたんですね」
「中に白神もいるぞ」
「へぇ、白神さんも」
宗助の耳にも、出入り口で交わされている会話が届いた。ノックの主は、今まさに話題に出ている一文字千咲だった。本人の前で今の会話をするべきではないと判断したのか、白神は何事もなかったように普段のニコニコスマイル顔に戻り、「この話は、また今度。それじゃあ、お大事に」と言い出口へと歩いて行った。
稲葉、不破、白神は部屋から去り、入れ違いに一文字千咲が部屋の中へと足を踏み入れる。宗助がその姿を確認した時、一瞬誰が来たのか本気で判らなかった。と言うのも、病室を訪れた千咲は、いつものように後ろで一つにまとめている髪形ではなく、その赤みがかった長い髪をそのまま下ろしており、たったそれだけの違いなのに雰囲気がガラリと変わっていた為だ。
下げた髪は彼女の腰の高さまで達している。それは、誰もが彼女の事を特殊部隊の戦士だとは思わないだろう程艶やかでまとまりを持っており、そして周囲を虜にするのに充分な代物で、宗助も違わず一瞬見惚れてしまっていた。もしその佇まいに難点を挙げるとするなら、左の頬には大きめの絆創膏が貼られている事だろうか。
「よ」
一文字千咲は一文字だけで挨拶し、右手を小さく挙げる。宗助はというと、「一文字なのは名前だけにしておけ」というかなり下らないダジャレを思いついたのだが、それを口にしでもすれば結果傷が開くことになる予感がしたので、心の中に留めて置いた。
「お、おお。見舞いに来てくれたんだな、ありがとう」
「朝も来たんだけどな。起きる気配無かったけど」
「そりゃ悪かった」
「あぁ、いいって、アンタは半分命の恩人だしね」
「半分?」
「最後に敵を仕留めたのは自分だもん」
「あぁ、そーいうことね」
「そーいうこと」
千咲は澄まし顔でそう言うと、椅子には座らず窓側へ回り込んでベッドの端に腰かけた。
「まぁ、なんにしろ、生きてて良かったよ。自分を含めてさ」
宗助は彼女の横顔に向かって話しかける。千咲は窓の外の景色を見ているのか、それともまた別の何かを見ているのか、まなざしは動かない。
「そうね……命があってなによりって感じ。ほんと、冗談抜きで」
「あー、そうだ。一人犠牲者いただろ? そいつも、どうやら敵だったみたいだ。透明の奴が言ってただけだから一◯◯%信じる訳じゃないけど、そんな嘘ついたって仕方ないし、きっとそうなんだろ」
「新事実発覚だ。そういうの、ちゃんと報告しなよ」
「今言いそびれたから、帰ったら隊長に言っておいてくれよ」
「はいはい」
仕方なさそうに千咲が返事したところで、会話が止まる。少しだけ沈黙した後、千咲は相変わらず宗助とは目を合わさずに、景色を見ながらぽつりぽつりと語り始めた。
「私さ。……今だから言うけど、結構びびってた。多分、アンタが思っているよりも何百倍はびびってたわ。ほんと」
「そりゃあ、誰だって死ぬのは怖いだろうよ。俺も今だから言うけど、呪われたのが自分じゃなくてよかったってちょっと思ったし」
「……あんたも言うねぇ。ま、それでもさ。自分の命がかわいくて、重傷の岬を置いて戦いに行こうとしたのは、許せる事じゃないよね……。実際に自分がまだ許せないもん」
彼女の視線は、窓の外へ向けられたまま動かない。きっと白神が言う「千咲に元気が無かった」というのは、そんな事をずっと考えていたからだろう。
相変わらず窓から吹き込んでくる風で千咲の髪がふわりと持ち上がり、広がる。
千咲は髪を手で抑えながら言葉を続ける。
「あの時はさ……。あんたの、『お前が傍に居てやらなきゃダメだ』って一言が、なんて言うのかな。効いたわ、ホントに」
「……そんなこと言ったっけか」
「言った。忘れんなよ、ばか」
芝居じみた口調で言う彼女の横顔は笑っていた。とても寂しそうな笑顔だった。
彼女は、相変わらず窓の外を見ていて、そして病室にまた沈黙がやってきた。宗助からすれば特に嫌いな沈黙ではなかったが、何かを話さなければいけないような気もしていた。
なんとなく宗助も千咲が視線を向けている先へ目を向けるが、特に面白そうな物は見つからなかった。薄いカーテンが小刻みにふわふわと風に乗っている。
「外になにかあるのか?」宗助がそう問いかけると、
「んーん。景色が良いなって、思っただけ」と返ってきた。
「岬の見舞にはいったのか?」次にこんな質問をすると、
「うん」とだけ返ってきた。
彼女の口数が減った事を変に思った宗助は、次にこんな質問をぶつけてみた。
「どうしたんだよ、元気ないな」
千咲はやはり、窓の外を見つめたまま。少しして彼女は静かに口を開く。
「……私たちさ。ちゃんと昨日より、……前に進んでるのかな」
千咲は突然、そんなことを尋ねた。彼女は窓の外を見続ける。答えを待って、外を見ている。
宗助は、彼女がどんな気持ちであるかを知ってか知らずか、
「うーん……。進んでるかもしれないし、ちょっと足踏みしている時もあるかもしれないな」
などと、答えになっていない答えを述べた。しかしそれに対して何の反応もなかったため、宗助はバカな返事をしてしまったかなと勝手に焦り、慌てて付け足した。
「いや、あれだって。ほら。人間って、三歩進んで二歩下がるって言うし、調子悪い時の方が成長するチャンスで、……そう、それだよ! 夢中でやってて気付いたら知らない間にすごい進んでたりするんだよ、うん、多分振り向いたら欠片も見えないくらい、……前に進んだ事がわかる筈……。…………入院中の身なので痛いのはやめてくださいっ……」
マシンガンの如くベラベラと自分の発言への解説から、観念して容赦願いを行っていたが、宗助の心配を余所にベッドの縁に座る彼女は「……ふふっ」と小さく笑みをこぼしていた。
「……何か笑うところあったか? いまの会話で」
小さく笑う千咲に、心外そうに尋ねる。
「ゴメンゴメン、あんたの答えに笑った訳じゃなくて……。なんか、自然とこう、笑っちゃって」
「……??」
「うん、気にしないで」
「なんだよ、気になるな」
笑顔のままの千咲につられて、宗助も半笑い。
「いいから、いいから。あ。そういえば、さ」
「うん」
「宗助さ、あの時ね」
「あの時?」
「呪いが透明の男の仕業じゃないって判った時。……初めて千咲って、名前で呼んでくれたよね」
そうだっけ、いや、絶叫したなと、思い出して少し照れくさくなった宗助は、いつものクセである頭をぽりぽりと掻く仕草と、わざと作った仏頂面でそれを誤魔化した。
「あんな状況だったのにさ」
千咲は、言葉を一瞬ためる。視線を窓から天井に向けて、息を吸った。
「……結構ね、ドキッとしちゃった」
「……。……ふぇ?」
目の前の彼女の意味ありげな発言に対して宗助は口を半開きにして変な声しか出せず。千咲はここで今日初めて、宗助と視線を合わせた。そして――。
「なんてね」
まるで小さないたずらが成功した子供のような笑顔を浮かべるとベッドから降りて、両手指を組み合わせ天井に向けてぐっと持ち上げて背伸びをする。手を解いて落とし、満足そうにはー、と大きく息を吐いた。
「そんじゃ。あんたも元気そうだし、戻るわ、私。お大事にー」
彼女は赤く輝く髪を翻し、依然固まったままの宗助に「早く治しなよ」と言い残して、病室を出て行った。
それから宗助はしばらくの間、ただ呆然と、彼女が去っていった方向をじっと見つめているだけだった。




