ダブルドライブ 6
およそ十五分後には死んでしまう呪い。
なんてめちゃくちゃな能力だ、と宗助は舌打ちをする。そしてそれもあの男の能力であるなら、「透明化」と「死の呪い」、二つ能力を持っている事になる。
本当に、ドライブの能力を二つ持っているのか?
それともドライブではない、また別の未知なる何かなのか?
その疑問への答えは宗助には見当もつかない事であったし、どちらであろうと彼がやるべき事は今、ただ一つ。追ってくる透明の男を叩く、それだけだ。
「リル、汚れたくなかったら少し離れてて」
宗助はリルに注意を促すと、商品棚に置いてある、売り物のペンキの蓋を次々とあけ、派手に床に撒き散らし始めた。
「これで、少しはなんとかなるかな」
そしてあっという間に、床という床が、様々な色のペンキでカラフルに塗りたぐられていく。いくら透明だろうが、床にばらまかれた乾いていないペンキを踏めばその時足跡が残るだろうという算段だ。このまま何もせず待ち構えるよりは、少しだけ対等に近づいた。
一通りペンキを床に撒き終えた宗助は、ドカッと音を立ててペンキのついていない床に座り、棚に背を預けて一息つく。それに合わせるようにリルも宗助のそばに屈み込んで、宗助の顔を伺っていた。
宗助は口からふうぅ、と長い息を吐いて強張る体をリラックスさせる。
千咲に啖呵を切ったが、かなりの危機的状況だ。失敗は即ち自分と千咲の死、そしてリルと岬はどうなるかわからない。心の底から無限に湧き上がる不安と恐怖があるのに、それでもやけに静まり落ち着いている自分の心に宗助自身驚きながらも、通話状態のままの携帯電話を再度右耳に当てる。
「一文字、聞こえてるか。何カウント残ってる? というか無事か?」
『ええ、無事。えっと、……764。だいたい十三分弱ってところ』
「……怖がったりしないんだな」
『嫌よそんなの、恥ずかしい』
「恥ずかしがってる場合かよ。岬は?」
『呼吸はしてるけど、顔色がさっきより悪くなってる……。あと十分そこらで救急部隊が来るから、それまでなんとか踏ん張ってもらわないと……』
「そっか……。そろそろ奴が追い付いてくる頃だ、電話は繋いだままにして、一緒にいる……リルって名前なんだけど、持たせておくよ。何かあったらこの子に言ってくれ。ほら、俺の友達」
宗助はそう言ってリルに携帯電話をずいっと差し出す。リルは一瞬どうしていいかわからず携帯電話をただ見つめておどおどしていたが、もう一度宗助に促されてから携帯電話を受け取る。
「あ、あの……もしもし」
リルは、まるで猛獣に餌をやるような、恐々《きょうきょう》とした様子で電話に向けて言葉を放つ。
『もしもし。えっと、あなたが、リル、さん?』
「あ、はいっ、リルっていいます! よ、よろしくおねがいします!」
『そんなに固くならないでいいよ、私は一文字千咲。よろしくね』
「は、はいっ」
ぐっとこぶしを握りながら力を込めて返事をするリルを横目に見ながら、宗助は少しだけ過去の事を思い出していた。
病院、病室、窓からいきなり飛び込んできた赤い髪の彼女。
宗助は思う。出会って一ヶ月しか経っていないけれど、一文字千咲という人間は良い奴だ。会話も自然に出来るし、少し暴力的で強引なところもあるけど面倒見も良くて知識も広い。宗助がこんなにもすんなりと新しい生活に入っていけたのは、一文字千咲という存在が多大に影響している。
今一度思う。彼女は良い奴だ。だから、こんなところで死なせてはいけない、と。
*
透明になる、というのは言うまでも無く単純かつ非常に厄介な能力である。
たとえば、宗助から動き、透明の男に攻撃した場合。単純に、攻撃が当たればそれで良いのだが、外せば相手の思うつぼ。そして透明という特性上、外す、もしくは一発で決めきれない可能性が非常に高い。攻撃後にできた隙を確実に突かれ、手痛い反撃を受けるだろう。
先程宗助が凌いだ場面ように、その相手の位置が曖昧な場合では、相手から攻撃させるのがベターであると言える。それでも後手へ後手へと回ってしまう為、どちらにせよ苦しい戦いになることは間違いないのだが。
あれこれ考えたが、何をどうするにしてもギリギリの駆け引きで戦いを進めていくしかない。相手が拳銃などを殺傷能力の高い武器を持っていない事が不幸中の幸いである。
宗助は再び空気の流れを読み取ることに集中し、相手の位置を探る。
(今の感覚が正しければ既に同じフロアに来ているし、位置的にもそう遠くない……か?)
切りつけられた左腕と背中のぱっくりと裂かれた傷口から血が滲み、それをリルが心配そうに見つめていた。彼女としてはなんとか痛みを和らげてあげたいと思っているのだが、無暗に触れてもどうにもならない事はわかっているので、傷の前に手を出したりひっこめたりしている。
そんな彼女を宗助は、妹がもう一人できたようでかわいらしく思い、張りつめた心はそれだけで少し和んだ。
「この傷なら大丈夫。見た目程ひどくないと思う。……ちょっとは痛いけどさ」
「ど、どう見ても、大丈夫じゃなさそうなんだけど……」
「……。それよりも……もう奴もその辺まで来てる。俺たちにとっても奴にとっても、残り時間は少ない。必ず十分、いや、五分以内に決着を付ける。絶対に、勝つ」
「う、うん!」
そして、宗助は自分自身の事で強く実感している事があった。それはエアロドライブの特性。一連のやりとりの中で、同じフロアにいる人間の気配や、至近距離でのわずかな物音・動きを察知できるのは、エアロドライブによる空気の振動を感じ取る力が鋭敏になっているからだ、という事。
宗助は以前に不破に、そのような事を教えられたのをおぼろげながら覚えていた。空気を弾丸のように圧縮してはじいたり、空気圧で物を切ったりだとか、あとは――
「……あの、さ。……宗助」
「……ん?」
リルに名前を呼ばれて、宗助は思考を中断した。
彼女を見ると、とても浮かない顔で俯いていた。やはり不安はぬぐえないのだろうと、宗助が元気づけようとしたとき、リルが先に口を開く。
「ごめんなさい」
「……? どうしたんだよ、急に謝って。何か悪い事したのか?」
えらく唐突なその謝罪に、宗助がまったく理解できませんという顔で尋ねた。リルはぽつりぽつりと、独り言のように地面に向かって呟き始める。
「私が外に出たから……。言いつけを守らずに外に出たから、こんな事になったの。家で大人しくしていれば、こんな事には……宗助にそんな痛い思いさせなくて済んだのに……!」
そう言った彼女の顔は、今にも泣きだしそうな、それでいて心の底から悔やむような表情だった。リルが「外に行かなければ」と言っている意味や理由を宗助は全く知らない。人間は生活するためには外に出るものだ。そんなのは当たり前の事なのに。だから、こう思った。
(この状況で、この子が謝る必要が、どこにある?)
その疑問への答えは決まっていた。どこにも無い。そんなもの、襲ってきた人間が悪いに決まっているのだと。
「なぁ、リル。その言い方だと、今日、俺とお前は友達にならない方が良かった、って事なのか?」
「っ! 違うっ、違うよ!」
よほど勘違いされたくないようで、頬を赤く染め、紺色の髪を振り乱して、必死の形相でその言葉を否定する。
「宗助と友達になれて、私、クレープも、ぬいぐるみだって、すっごく嬉しくてっ……あれ、ぬいぐるみ……」
お店の手提げ袋に入れていた例のくまのぬいぐるみを、激しく動き回った弾みで、どこかに落としてしまったらしい。
「ん、どうした?」
彼女の赤らんだ頬は一瞬で蒼白になり、一層深刻な表情になってしまった。
「せっかく買ってもらったぬいぐるみ、どこかで……落とした……」
「ぬいぐるみ? あぁ、あの熊の奴か。後でゆっくり探せばいいさ。この事件が収まってからな」
まるでこの世の終わりだと言わんばかりの彼女の様子に何事かと少し焦ったが、なんだそんなこと、と軽く流す。「そんな事」ではないと反論しようとするリルの口の前に手を持っていきそれを制すると、優しい口調で語りかける。
「俺は、リルが何であいつに狙われているのかとか、外に出たらいけない理由とか、生まれの事も家の事も、年齢だとか好きな音楽だとか、ほとんど知らない。クレープと、熊のキャラクターがお気に入りなのはさっき知った。でも、まだまだ全然知らない」
「……うん」
「だけどさ、なんて言うか。うん……仲良くできそうだって思ったよ。良い友達同士になれるって。一緒に歩いて回って喋って、素直に楽しかった」
「……うん、うんっ」
「いいかリル。本当の友達っていうのは、どんなに困っている時だろうと、その人の為を思って、味方になれる奴の事を言う」
宗助は突然顔つきをきりっとさせて、右手で握りこぶしを作る。
「……本当の、友達……」
「そう。俺は、そんな奴でありたいって、今、すごく思う。リルとも、今日一緒に来た奴とも。だから、謝らなくていい」
力強く言い放ったものの、自分の言葉が少し照れくさくなった宗助は顔を俯かせて床を見て、リルは相変わらず宗助の顔を見つめていた。
そんな事を言っている宗助とて、やはり本音のところではまだ怖い。怖くて仕方がなくて、こうして穏やかに語る今でも指先が、膝が、小さく震えている。
きっと、単に自分が襲われているだけなら、フラウアの時のように逃げ出していたかもしれない。
彼が静かに前だけを見つめていられるのは、彼の背を頼ってくれている人達が、無意識のうちに与えている強さのおかげだった。
今、彼女達に降りかかった危機が、結果的に宗助を急速に成長させている。
リルの顔は先程までのような罪悪感と恐怖で蒼白に染まった顔ではなく、あたたかい信頼にみちあふれていた。二人の間に、沈黙が流れる。五秒、十秒と……。それはほんの短い間だった。だがそれは、下手に言葉を交わすよりも互いの信頼を強くするための無言の時となった。
「……さぁ。奴はもう、すぐそこまで来てる……」
空気の流れを、震えを、より正確に隅々まで感じ取る。宗助の耳に、自分とリルと、そして三人目の「ヒトの音」が、はっきりと届いた。
「来た……」
物陰から様子を伺う。足音以外にも、何やらがちゃがちゃと物と物がぶつかりあうような妙な音がする。
(……これは何の音だ?)
店先には、血の付着したナイフを持ったコートの男が、立ち止まり周囲を見回していた。その男――レスターは、血痕を追ってここまで来たまでは良かったのだが、そこらじゅうにばらまかれたペンキで血の痕跡を失ってしまっていた。めんどくさそうに舌打ちをして、周囲を見回している。
だが、そんなことよりも宗助は内心驚いていた事があった。
(なんで透明じゃないんだ?)
そう、普通に姿が見えるのだ。男が手に持つ血が付着したナイフを見る限り、彼と「透明の男」は同一人物であるというのは強い確信を持っているのだが、なぜか透明化を解除している。
(……透明化に時間制限でもあるのか)
宗助のそんな疑問や予測を他所に、コートの男は周囲に向かって大きな声で喋り始めた。
「おうい、この辺りに居るんだろう? 出て来い! ここは一つ、穏便に話し合おうじゃないか。そのために、わざわざ透明化を解いてこうして姿をみせてるんだ! 少しくらい良いだろう!?」
(話し合いだと……?)
宗助とリルは、その宣言を受けてしばらく黙ってから、どちらからともなく目を合わせた。五秒、十秒と黙って、見つめあい続ける。
「宗助……どうするの?」
「まぁ……九割方罠だと思って間違いない。だけど、こっちも時間が無い。……リル、危ないと思ったら隙を見てすぐに逃げろ。いいな?」
小声でそう言って、宗助はリルの頭にぽんと手を置き、震える手を誤魔化すためにその頭を撫でる。リルは黙って撫でられるまま、こくんと頭を一度下げた。
「行ってくる」
三人の運命を背負い込んだ青年は、ゆっくりと立ち上がり、決着の場へと歩を進める。
リルの居場所をばらさないよう、棚から棚、物陰から物陰へ、リルのいる場所から離れた場所へ移動する。
「こっちだ」
リルからもレスターからも充分に距離がとれる物陰から、一歩、二歩、三歩進めた。その三歩で、お互いを隠す障害物は何もなくなり、視線と視線が交錯する。
「そこに居たか」
レスターは宗助の姿を確認するとニッと笑った。
「聞きたい事がある」
「……ふん、言ってみろ」
宗助は最大限敵意を込めた視線をぶつける。
「一文字に妙な呪いをかけたのは、お前か……?」
レスターは答えない。しばし無言での睨み合いが続く。沈黙がどれくらい続いただろう、ようやくレスターは口を開く。
「……ふふ、いかにも。そうか、そうか。名は一文字と言うのか。友達か何かだったのか? 面白い偶然だ。気の毒にな、残り時間はどれくらいだ。三分か? それとも五分くらいか?」
レスターの表情は、これは愉快だ、というソレで、からかうような苛立たせるような厭らしい口調だった。
「テメェがやっといてなんだその言い草は!」
その態度とセリフに宗助は激高し、射殺さんばかりの目つきと激しい言葉で怒りを露わにする。
「なんであいつを狙ったッ!!」
「……気分。標的がお前の仲間だったのは本当に偶然だ。こりゃあ良い事を教えてもらったぜ」
「このッ……!!」
「おいおい、落ち着けって。俺はそんな話をするために姿を見せたわけじゃない。……いや、そうだな。そのお前の友達にかかった呪い、今すぐにでも解いてやってもいい」
「……!?」
「まぁ、お前の態度次第、って奴だ」
レスターは憎たらしい笑顔を崩さない。スキンヘッドに刺青も相まって、もともと人相の悪い顔であるのだが、笑うとより一層危険な人相になる。
「まどろっこしい、時間が無い、要点を早く言え!」
宗助は苛立ちを隠さず言う。
「お前は信じないだろうが、俺はそれなりに平和主義者なんだ。戦わずに済むならそれで良いと思っているのさ。そこで、だ。なぁに、簡単な話さ」
そう言ってナイフをクルクルと器用に回してから、ぱしっと柄を掴み宗助に突きつけた。
「いいか、これは取引きだ。なぁに、すごくシンプルな話……」
「だから、早く要点を言え!」
「 黙 っ て 娘 を よ こ せ 。そうすれば、呪いは解除してやる」
「――っ!」
そうきたか。と、宗助は思った。言うなれば、一文字千咲は今、人質の様な物なのだ。相手が手を下そうが下すまいが、時間になれば一文字千咲という人間はこの世からいなくなる。それが嫌なら、大人しく要求を飲めと、そういう事だ。
「いいか、良く聞け。悪い話じゃねぇ。しょうがねぇから、言えるところまで教えてやるよ。あのリルって娘を狙っている奴は他にも大勢いるんだ。さっきおっ死んだ野郎もその一人さ」
「……なんだって?」
突然明かされた、意外かつ重要な事実に宗助は驚きを隠せなかった。
「だがな、俺も含め、娘を狙っている連中は全員、娘とは直接関係の無い野郎ばっかりだ。そういう奴らはただ、娘を生まれの故郷に送り届ければ、それだけで莫大な報酬が貰えるって言うからやっているだけ……」
宗助は、レスターの言葉をじっくりと咀嚼して飲み込もうとするが、不明な点が多すぎて喉につっかえて飲み込むどころの話ではない。
彼女の故郷とはどこか?
彼女を狙っている連中とその目的は?
莫大な報酬とは?
様々な疑問が、答えを知ることができぬまま頭の中をぐるぐる巡るが、レスターはさらに続ける。
「俺はまだ優しい方だと思うぜ? 娘を送り届けて報酬を手に入れたらそれで終わりにするつもりだからな。それ以外何もしない。…………だが! 他の奴はどうか知らない。殺さなければなんでも良いって話で全員動いている。捕まれば、女としても人間としても、二度と立ち上がれなくなるようなえげつない事をする下衆い奴も当然いるだろう。その点俺はそんな事は絶対にしねぇ。ガキは趣味じゃねぇからな。そして俺の能力なら、何の問題も危険もなく彼女を故郷へ送ってやれる。娘も無事に故郷に帰る。お前の友達も無事で済む。万々歳じゃねぇか!」
レスターは、すごく魅力的な提案だろうと言わんばかりに、身振り手振りを使って宗助にまくしたてる。宗助は少しの間目を瞑り、考えるそぶりを見せ、そして息を吐き、ゆっくりと目を開く。
「そうだな。俺がどうするべきか……わかった」
「わかってくれたか。いや、人間、しっかり話してみるもんだ―」
「やっぱりお前をぶちのめす事にする」
「ぜ……、は?」
宗助は思い切り男の方へ踏み込むと、右の拳で思い切り顔面を殴りぬいた。




