格闘訓練
そこは、どこかの古ぼけたアパート。
近隣のビルのせいで晴れの日でも太陽の光がろくに届かないような薄暗い住まいで、相当な年季も入っており、お世辞にもここに住んでみたい等とは言えないような佇まいである。苦学生が「お金がないから、仕方なく」と言いつつ住んでいそうな部屋。
「じゃあ、仕事と、その帰りに買い物も行ってくるから。いい? リル、ちゃんとおとなしく留守番しててね」
狭く古びた玄関で少々くたびれたパンプスを穿きながら、黒髪の女性が部屋の中に向かって声をかける。すると玄関からそう遠くは無いリビングで、ぼんやりと寛いでいる少女は振り向いて
「うん、わかってる、ジィ。毎回毎回言わなくても大丈夫」
少々うんざりしたような口調で応答する。
「あんたねー、わかってるって言うけどね、こないだ言いつけを守らずに勝手に公園に出かけてたのは、他ならぬあなたよ? すごく焦ったわ。本当に心配したんだから。そのへんおわかり?」
ジィ、と呼ばれた女性はびしっと人差し指で少女を指し示した。それに少しむっとしたのか、不機嫌そうな表情でリルはアヒル口を作って見せる。
「私だって外に出かけて遊びたい時もあるの」
「私は別に遊びに外に出かけているわけじゃないっつうの。それに、あなたが独りで外に出ると、色々と危ないの」
「わかってるけど……」
「気持ちはわかるけど、我慢してよね。それじゃあ、今度こそ行ってくる」
玄関のドアノブを右手でまわし肩にかばんをかけなおして、ジィと呼ばれる女性は外に出て行った。施錠する音と、コッコッコッという足音が廊下に響き、やがてそれも聞こえなくなる。そして、完全に物音が聞こえなくなったのを確認すると、部屋で留守番を頼まれた筈の少女は、ふらふらと玄関に向かう。静かに玄関扉を少しだけ開け、頭だけ出すとそこから外の様子をきょろきょろと窺う。通路を吹き抜ける風が、濃紺色でボブカットの髪の毛をサラサラと揺らす。これからすることに何の問題もないことが確認できたようで、そのままゆっくりと扉を閉め直すと、いそいそと箪笥を開けてお気に入りの洋服を着て、肩掛けポーチを持ち、外出の準備をして、メモ用紙にさらさらと短文を書きあげテーブルに置いた。
「もしも、ちょっと帰るのが遅くなっても、メモを残しておけば大丈夫だよね」
そしてそっと玄関に向かい、靴を履く。決して綺麗な靴でもないし、おしゃれな服でもないけれど、精一杯のおめかしを決め込んで玄関の扉を大きく開くと、外の光が僅かに玄関に差し込んだ。けれども、数秒経つと再度薄暗い部屋へ元通り。
『ショッピングモールに行ってきます。夕方までには戻ります。 リルより』
部屋の留守番に残ったのは、そんな短い書置きだけだった。
*
広大な敷地面積を誇るア―セナルベースには隊員達が日々を心身健やかに過ごせるように様々な施設が用意され整えられている。
その中でも多くを占めるのがトレーニングに使用される類の部屋で、生方宗助は今日、全体特訓でかなりの量の汗を流した後、さらに武術を学ぶために格技室へやってきていた。柔道・柔術・剣道・空手・槍術・ボクシング・マーシャルアーツ、エトセトラエトセトラ、なんでも来いだ。
そして立派な畳が敷き詰められた部屋で、柔道着に袖を通した宗助の眼の前に立塞がるのは。
「近接戦闘格闘術の訓練をしてあげる一文字千咲だ! 今から私の事は千咲先生と呼べ!」
「これはなんですか、不破さん」
目の前にはこれまた柔道着を身にまとった一文字千咲がいた。自分の着なれていないソレと違って、ずいぶんと様になっている。
「なにって、千咲がお前の訓練につきあってくれるって言ってるんだ。ありがたくブン投げて締め上げてもらえよ。こんなもん羨ましがる奴だっているぞ」
何言ってんだこの人、と不破に向かって若干軽蔑の意味を込めて視線を送るが 彼はベンチに座って涼しい顔でこちらを傍観している。もう一度正面の千咲に目をやる。
「あのねぇ、別に私だってそこまで鬼畜じゃないし、いきなりブン投げるなんてことしないって。まずは基本かつ一番大事な受身から順を追ってやるからね。よろしく」
やる気に満ち溢れた千咲は、身振り手振りでトレードマークのポニーテールを揺らしながら説明する。
宗助は、千咲について、出会い方が出会い方だったため今まで男だとか女だとかそういった目で見る事は無かったのだが……、こうして近くで見ると節々は鍛えられておりがっちりしてはいるが、その分スタイルは引き締まっており、顔も間違いなく整った部類である。彼女の存在が明るみに出れば「美人すぎる特殊部隊隊員」なんてコピーライティングがついて、テレビ局のクルーが押し寄せそうだと思った。
そんな訓練とは関係のない事を考えつつ目の前の彼女をじっと見ていると、いきなり足元に強烈な痛みが走った。
「しっかり返事せんかーい!」
原因は千咲によるローキックだ。府抜けた顔でぼけっと突っ立っている宗助に我慢ならなかったらしい。
「痛ってぇっ!」
宗助は足をさすりながら恨めしそうに千咲を見上げる。
「なにすんだよ一文字っ! 柔道でいきなりローキックかよ!」
「千・咲・先・生! あのね、挨拶や返事もできないようじゃ隊員、いいえ社会人失格ッ。あんたが挨拶もできずに隊内で嫌われたら可哀そうだから、親心で言ってんの! ほら、挨拶。よろしくお願いします」
「……よろしく、お願いします」
「よろしい」
怒り顔から、ようやく千咲は満足げな表情になった。傍観者の不破は相変わらず一人でニヤついている。何がおかしいんだと、宗助はじんじん痛む足をさすりつつジト目を向けた。
「そんじゃ、さっき言った通り受身からはじめるよ」
こうして千咲先生による柔道訓練が始まったのである。かれこれ受身の練習する事四十分。宗助の首の筋肉やら手の平が悲鳴を上げ始めたころだった。こういう時に、どこの筋肉が普段使えていないかが顕著となる。
「ほんじゃあ、そろそろ実際に組んでみよっか。立って立って」
「そろそろって、まだ受身しかやってないけど」
宗助が不思議そうな顔で千咲を見上げた。
「いいからいいから。ほら、学校の授業とかで多少やった事あるでしょ?」
「あるけどさ……」
宗助は立ち上がって千咲と向かい合わせになる。やはり少し気恥ずかしいと感じて宗助が千咲の道着を掴むのを僅かにためらっていると。
「なにためらってんの。私の事を女だと思って遠慮してるなら、今はそういうの捨ててかかってきなさい。じゃないと――」
千咲は素早く宗助の襟と袖をそれぞれ掴み、足を払って、あっという間に組み敷いてしまった。目にも留まらぬ早業であり、宗助は自分が投げられた事を一拍置いてから理解した。
「こうなる。おわかり?」
「う……」
「私は女だけど、ドライブを使わなくても絶対その辺の男には負けないよ。私に負けるのが嫌なら真面目に特訓しなさい」
額と額がくっつきそうなほどの至近距離で囁かれた言葉は、妙に重々しくて、力が籠っていた。
「あ、ああ……。努力する」
宗助はそんな情けない返事しかすることが出来なかった。監督役の不破は相変わらずニヤニヤと笑いながらその一連の様子を見ていたのだが。
それから暫く、組み手と称して、ただひたすらに千咲に投げられ続けるという地獄の時間が続いた。その結果、生方宗助は、全身痣だらけで医務室に駆けこむこととなった。
「いやぁ~ゴメンゴメン、ついつい投げすぎちゃった。メンゴ!」
千咲は医務室に置いてある椅子のうちの一つの上で胡坐をかいて、からからとくったくのない笑顔を見せながら謝罪の言葉を述べる。謝り方がおじさんくさいのはご愛嬌である。
「ついついじゃないよ、もう! 何回投げたらこんなに全身痣だらけになるの!」
医務室の職員である岬は、背中やら腕を中心に内出血だらけの宗助の手当をしながら、怒りの形相で千咲に苦言を呈す。
「そもそも! 不破さんも見ていたんなら途中で止めてください!」
岬の説教は不破にまで飛び火した。普段は気弱な性格の彼女も、こういった身体の大事に関わる場面では強気になる。隊員の体調を想ってこそである。ちなみに平山先生はその光景を見ながら笑っている。
「いや……打たれ強さは大事だなって思ってたらついつい……」
「二人揃ってついついついついって!」
岬が更に目を吊り上げると、不破と千咲も苦笑いを浮かべながらたじろいだ。普段優しい人が怒ると余計に恐い。
「あー、その、……もういいんじゃない。そもそも俺が一文字に手も足も出なかったのが原因だし……それ以上言われると逆に俺が悲しいというか、うん……」
これまで大人しく治療を受けていた宗助が口をはさむ。彼からすれば、同年齢の女子に投げ飛ばされまくり、その上これまた年齢の近い女子にいじめっ子から守ってもらっているような形になってしまい、男としてなんとも情けない構図である。
岬はそんな宗助の気持ちに気づくこともなく、「大丈夫、任せて、言うときはちゃんと言わないとっ」なんて言っている。何を任せればいいのだろうか、と頭の中で思いつつも、力なく相槌を打つのだった。
岬の説教は治療と並行して行われており、彼女の指先が優しく宗助の頬にできた赤い腫れに触れると、部分的に淡く光って温かくなり、徐々に痛みがひいていく。
その後目立つ傷は全て治療し、岬に礼を、平山先生にも一礼して医務室を後にして、トレーニングルームにて訓練が再開された。
武術訓練は終わり、今度はドライブ能力に磨きをかける時間。
宗助が初めて自らの力の意味を知ってからはや三週間が経ち、彼の能力は順調に成長していた。と言ってもまだ不破に課された風船は割れないし、風に乗って空を飛ぶなんてもってのほか、鉄を切断する事もできない。だが風船の膨らみ方は着実に大きくなっているし、幅跳びをすれば滞空時間や跳躍距離が長くなって、鉛筆くらいなら触れずとも綺麗に斬る事ができるようになっていた。宗助自身からすれば成長速度を比べる対象がおらずいまいち実感も湧かないのだが、周囲はそれを驚異の成長速度だと感じていた。
その日の訓練は終了し、日が暮れるのと同時に夕食にありつき、だんだんと自分の匂いや雰囲気がついて愛着が湧き始めた寮の自室で休息をとった。
「それ」は、そんな日々が少し続いていた、五月の上旬のとある日に起こった。




